洗濯日和 〜
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秋月 涼 |
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幾本かの棒を組み合わせて地面に突き刺し、その間に紐を張っただけの簡素な物干し場には、使い古した男物のシャツや下着が無造作に干され、乾いた爽快な夏の風に揺れていた。 てんでに飛び交い、季節を唄う虫たちの声で、野山はざわめく。ささやかな甘い香りの花が咲き、草いきれが立ちのぼる。 「できたぞい!」 初老のカーダ博士が豪快に叫ぶと、それほど広くはない木造の〈七力研究所〉の中に響き渡った。日差しはなかなかに強く、遮るもののない丘の中腹に位置する〈七力研究所〉の気温は幾分上昇していたが、開け放たれた窓から窓へ通り抜ける涼風の通り道を確保していたので、それほど暑く感じなかった。 「これは貴族に売れるじゃろう」 窓の外の澄んだ青空を見上げた博士は、夏に全くそぐわない厚手の黒い手袋をはめて、発明の〈試作品〉をつかんでいる。 その時、丁寧なノックの音とともに、弟子のテッテが現れた。 「あの、失礼します」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「師匠、今度こそは本当に大丈夫でしょうね……?」 古びたテーブルが置いてある研究所の部屋で、二十代の弟子のテッテはやや胡散臭そうに博士の発明品を眺めている。 「何を言うとるか。わしを信用せんとは、このたわけ者めが!」 カーダ氏は眉間に皺を寄せ、怒りの声を放ちつつも、テッテを最初の実験台にすべく〈試作品〉を強制的に手渡すのだった。 それは薄い水色の、ほとんど向こう側が透けてしまいそうな――それでいて曇りガラスのように霞んでいる、ゆったりとした部屋着(ガウン)であった。氷が溶ける時と同じ冷えきった水蒸気が、高い山を滑る濃い霧のように絶えず湧き起こっている。 カーダ氏は顎を上げ、胸を張って自慢げに説明する。自らの頭脳に酔いしれ、気分はあっという間に持ち直したようだった。 「水を固めて作った上着じゃ。海竜に恵まれたこの島国では、暑すぎる日は滅多にないが、対岸のテアラットでは寝苦しい夜が多いと聞いておる。これは貴族の間で流行るじゃろうて!」 「この服は、氷で作られているのですか?」 冷気が煙のように上がり、受け取ったテッテの眼鏡にはあっという間に水滴が付着した。彼は薄手の長袖の服の中に右腕を引き込み、服の生地を媒介として〈試作品〉の部屋着をつかんだものの、しだいに冷気は布地を通して強く伝わってきた。 「扱いに気を付けないと、いつかのように低温火傷してしまいますよ。すみませんが、師匠の手袋を貸してもらえませんか?」 「ほれ」 カーダ博士は冬の手袋を脱いで渡しながら、説明を続ける。 「水を水のまま固めるのが難しかったので、高価な氷の素を必要なだけ混ぜて固めたのがミソじゃな。新発明の誕生じゃ!」 白髪交じりのカーダ博士は、厳粛な面もちで勝利宣言した。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 しかしながら〈七力研究所〉の所長の自信とは裏腹に――。 「本末転倒だと思いますよ。ちっとも涼しくないですよ……」 弟子のテッテは情けない声を出し、首を振った。凍傷にならないよう、夏物の服を引っ張り出して何枚も重ね着し、その上に水の部屋着を羽織っていた。着膨れするくらいに防寒しないと、冷気が服の繊維の隙間を縫って肌に達し、体温を奪うのだ。 男の裁縫なのでサイズもデザインも大雑把で適当な〈水と氷のガウン〉の試作品は、どこか世間ずれしているテッテには何故か似合っていたが、その一方で彼の表情は冴えなかった。 「あまり着心地が良いとは思えません」 「うーむ……」 弟子の正直な感想を受けて、カーダ氏は神妙に考えている。あまり実用的でないことに賢くも気づき始めているようだった。 それでも博士は前向きに考え、弟子に新たな指示を出した。 「とにかく、部屋の中を歩いてみい」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「どうでしょうか……?」 あまり乗り気ではないテッテは、出来たての〈氷水の上着〉を羽織ったまま、首をひねって背中の方を眺めた。実験台になった若き弟子は両腕を水平に上げ、狭い部屋の壁にぶつからないように気をつけながら、その場でくるりと一回りして見せた。 カーダ氏は威厳のある表情を保ちつつも、口元の隅っこに笑みを浮かべ、深い皺が刻まれた両手を何度か叩くのだった。 「悪くないぞ。さあ、歩くんじゃ」 「はい」 テッテはやむを得ず雇い主の指示を受け容れ、発明品の上衣の裾を引きずりながら、書類や箱が積み重なって混沌としている研究室のわずかな通路を、恐る恐る慎重に進んでいった。 半透明のガウンの背中や肩口からは、夏空を丸く切り取ってひっくり返し、真冬と繋げたかのような冷たい空気が煙のように沸き起こっていた。うっすらとした霧状になって生まれ出た冷気は、短い抵抗の後、乾いた風に包囲されて滅びる。それでも部屋の温度はだいぶ下がって、清らかな秋の気配を感じさせた。 「着ている本人よりも、周りの方が涼しそうですね」 とは通路の突き当たりまで行って帰ってきたテッテの弁だ。 零れ落ちた雫と冷気が床を濡らし、木の板が黒っぽく変色している。それはまるで巨大なナメクジが這った後を思わせた。 「う〜む……」 しばらくの間、顎に拳を置いた姿勢のまま深い物思いに耽っていた博士は、床を見つめて難しい顔をし、低くうなっていた。 次の瞬間、初老の“迷”発明家は後ろ手で腰をかばいながら突然にしゃがみ込むと、木の床に染みついた水の軌跡を指先で撫で、その中に淡く輝く青い粒子を見つけて舌打ちをした。 「チッ。これはまずいのぅ」 「え?」 間の抜けた反応をしたのは、言わずもがなテッテである。 一方、カーダ博士は立て膝を着いた姿勢のまま、落ち着かない様子で古びた眼鏡を掛けたり外したりを繰り返し、何度も床の状態を調査してから、ふいに顔を上げた。目の前に立っている弟子と上着を見つめながら、老師は分析の結果を説明した。 「せっかく水を氷の膜でつつんだというのに、肝心要の凍った部分が溶けてきて、高価な氷の素がどんどん流れておるんじゃ」 嫌な予感がした弟子は、何枚もの防寒具を重ねて着膨れした上に羽織った、透き通る水色の部屋着をまじまじと見つめた。 「ということは……」 その時、テッテの〈氷水の上着〉に変化が起こり始めた。 大きく姿が崩れ、ゆがみ、原型をほとんど留めなくなった。 揺らした桶の水が左右に跳ねる状態を彷彿とさせ、軟体生物のように蠢き、午前の浜辺に寄せる軟らかい波のごとく――。 カーダ博士と弟子のテッテは大きく瞳を見開いたが、予想以上の速い崩壊劇に、最悪の事態を待つことしかできなかった。 まさに、その刹那である。 氷の素が流出し、形を整えきれなくなったテッテの上着は。 ゆっくりと、しかも急激に膨張したかと思うと――。 斜面でつっかかり、桶をこぼした際に奏でるのと同じ種類の、情けなくも爽やかな水音が手狭な研究室の中に響き渡った。 「ひゃあ!」 瞳を固く閉じて、身を縮めたテッテの悲鳴が響き渡る。何枚も着込んだ服は、あっという間に上から順序よく湿っていった。襟元からは幾筋かの冷水が胸に入り込み、心臓を凍えさせる。 カーダ博士は立て膝の姿勢のまま、頭から水を被り、薄くなりつつある白髪からは夕立のあとの軒先のように雫が垂れていた。服はもちろん、睫毛や眼鏡までもびしょ濡れの濡れ鼠だ。 博士は何も言わず憮然とした表情で目をしばたたく。発明品の上着は跡形もなく消え去り、研究室には似つかわしくない水たまりが現れた。無造作に置いた書類が濡れそぼっている。 テッテは両腕を広げ、雫を垂らしながら呆然と立ち尽くす。 カーダ博士の方は、床の微妙な傾斜に従い、細い筋となって流れてゆく埃まみれの水の流れを無感情な眼で追っていた。 だが、突然に恐ろしいほどの生気と、根っからの反骨心を燃やしたカーダ博士は、天井に向かって力強く吠えるのだった。 「わしは、これしきのことでは負けんぞォ!」 腰をかばいながらも、すっくと起立し、彼は弟子に命じる。 「こら、早く床を拭かんか。今すぐじゃ!」 「は、はい……はっ、はあっ、ハックション!」 うなずいたテッテは、そのまま大きなクシャミをしたのだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 研究所の外にある、棒と紐で作り上げた簡素な物干場には、その日の午後、いつもよりも多くの服が風にたなびいていた。 乾いた風が丘の中腹を撫でる、良く晴れた洗濯日和だった。 | ||
(了) | ||
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