雲隠れした望月について

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「あっ」
 宿の下窓を開けて、夜空を覗いていたリンローナは、小さく声を上げる。そして誰かに話したくて、薄暗い室内を振り返った。
 ランプのゆらめく光に照らし出された姉のシェリアは、背が高くて細身の黒い影法師になっている。宿で出してくれた、裾が長くて肩口と袖のゆったりとした厚手の麻の衣を羽織っている。
 シェリアは何も問いかけなかったが、代わりに小首を傾げる。
 それを一つの返事と受け取った妹のリンローナは、再び漆黒に塗られた遙かな〈夜〉へ視線を送り、軽い声でつぶやいた。
「満月が……灰色の雲が出てきて、隠れちゃった」
「涼しいから、あちらさんも一枚羽織ったのよ」
 シェリアはごく平然と言い放った。暗くて表情は分からない。

 リンローナが開けている窓から、森を越えてやって来た初秋の涼しい夜風が速やかに入り込んできて、頬の産毛を撫でる。見下ろせば、街道に沿って連なる湯治場の集落と、わずかに洩れている灯りが見える。それは昼間に残してきた夢のかけらが光の蝶となって、夜の波に浮きつ沈みつしているようにも感じられた。嗅覚に響く、独特の硫黄の匂いが微かに漂っている。
「汗が冷やされて、気持ちいいね」
 リンローナの額に浮かんでいた大粒の汗はもう消えて、背中や腋の下の辺りの熱気もだいぶ治まっていた。さっき時間をかけて浸かったお湯の温かさが染みこみ、眠気の素と溶け合う。
「湯冷めするわよ。そろそろ閉めましょ、私たちも」
 湯治場として小さな町を形成している集落は昼でも夜でも活気があるが、一日の終わりに収束の刻を迎えようとしていた。

「うん」
 リンローナは少しだけ名残惜しそうに、大きな深緑の眼を最大限に上に持ってゆき、雲隠れした望月を捜したが、やがて諦めて窓をぱたんと下ろした。どこかで子供がはしゃぐ声も急に遠ざかって、旅人は現実と切り離され、疲れとあくびが湧き出した。
「ふぁーあ」
 振り向いたリンローナに、シェリアは立ったまま呼びかける。
「さあ、満月みたいに」
 風の流れが止まり、まどろみと安らぎが満ち潮のように近づいてくる。肩の辺りで切りそろえたリンローナの髪はほとんど乾いていたが、シェリアの長い豊かな髪はまだほんの少しだけ湿っていた。温泉で火照った身体は乾いていたが、身体の奥の方には何とも言えない、気持ちの良いぬくもりが残っていた。

「お姉ちゃん、おやすみ……」
 ベッドに潜り込み、顔だけを出して、リンローナが言った。
「おやすみ」
 すでに横になっていたシェリアが、微かな声で返事をした。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】