月の光の糸電話 〜
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秋月 涼 |
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――そうだリュア、ゆうべのお月さま、見た? 「ううん。きれいだったの?」 ――寝る前だけど、カーテンの隙間がすっごく明るくて。 「いいな、ジーナちゃんのおうちは丘の途中にあって」 ――んー。でも、確かリュアの部屋からも見えるんだよね? 「うん。だけど、わたしの部屋からだと、だいぶ上の方に上がってこないと、お月さまは見えないの。ゆうべは寒かったし……」 ――気がつかなかったんだ。ちょっと、もったいないかも? 「夕方は雲がかかっていたから、諦めちゃった。どうだった?」 ――真ん丸で明るくて大きかった。布団にくるまって見たよ。 「いいなぁ〜」 ――リュアはほんと、お月さまが好きなんだね。 「うん。冬の夜は空気が澄んで、特にきれいだから……」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 『し、師匠……聞こえますか?』 砂浜に寄せる波を思い出させる〈ザー〉という雑音が重なっており、多少聞き取りにくくはあるのだが、それは確かに弟子のテッテの声だった。本やら薬品の瓶やらが詰め込まれた部屋の片隅の、薄暗いランプの下で、師匠のカーダ氏は胸を張る。 「よし、またもや発明は大成功じゃな!」 『ちょっと高くて、怖いです』 テッテはカーダ師匠の発言を承けるわけではなく、一方的に報告をした。部屋に彼の姿は見えず、口調は不安げであった。 「しばらく、そのままで、何か話してみい」 黒い皮で織られた分厚い上着に身をつつみ、歪みのある年季の入った眼鏡をかけている白髪のカーダ氏は掌に載せた白に近い淡い黄色の石に語りかけた。その艶やかな宝石は、膨らみ方や合わさり方、緩やかな曲線まで、まさに人間の唇の形をしている。小さいことと色が違っていることを除けば、それは人間の唇そのものであると断言できるほど精巧で似通っていた。 「……そうか、これは唇じゃったな」 気難しそうなしかめっ面のまま、カーダ博士は窓辺に歩いてゆく。彼はその〈薄い黄色の唇の石〉を、軽く夜空にかざした。 「唇は喋り、耳は聞く。月の光の細く美しい糸が、両者を結ぶ」 壮年からそろそろ老境に差しかかろうとしている師匠は、淡々とした口調ではあったが、その独り言の端々には甘い恋物語をでも語るかのようなうっとりした夢と浪漫と、発明の成功のひそかな自信と喜びを含んでいた。美味しいワインが無くとも、今夜のカーダ博士は、すでにだいぶ自分に酔っているようだった。 と、その時である――。 冬の夜の静寂(しじま)につつまれていた、人里からやや離れた丘の上の一軒家に、突如情けない叫び声が響くのだった。 『おっ、ああっ! 師匠、ぎゃぁー!』 それは例の小さな唇から発せられた、弟子の悲鳴であった。 「ん? 馬鹿者、どうしたんじゃ? 何があ……」 相手に聞こえないと分かってはいても、ついつい話し続けてしまったカーダ博士であったが、その言葉は突然に寸断される。 バリバリバリッ――。 奇妙な唇の形をした石から、何本もの木の枝が折れるような音が飛び出した。博士は反射的に腕を伸ばし、石を遠ざけた。 それはあっという間に鎮まって、再び妙な静けさが訪れる。 「……何じゃ?」 カーダ博士はまず丸く見開いた瞳をゆっくりと瞬きさせ、次の刹那には右手の掌に載せた唇の石を自分の耳元に近づけた。 だが今や淡い黄金色の唇から洩れてくるのは、真っ暗闇の野原から森を駈け抜ける、外の冷え切った風の音だけであった。 「月が隠れたか?」 師匠は窓に目を向けた。鬱蒼と生い茂る向こうの森の遙か上空に、今宵の冴えた十六夜(いざよい)の月が浮かんでいる。 「よもや失敗ではあるまいな……」 何事もなく漂っている少し黄色がかった白銀の月を仰ぎ、カーダ博士は顔を曇らせた。晴れた天とは対照的な様子である。 が、博士は邪念を振り払うかのように首を左右に動かした。 「そんなはずはない。わしの発明はいつも完璧なんじゃ!」 ちょうどその時、再びテッテの声が例の唇から聞こえてきた。 『いててて……あ! 有った有った。良かった、見つかって』 去りゆく秋に降り積もった落ち葉を踏みしめる音を響かせ――あの不思議な唇から聞こえてきたのだ――おそらく森の中にいる弟子のテッテは、ついうっかりと余計なことを口走り始めた。 『それにしても、何度見ても妙な、耳の形の石だなぁ。成功か失敗か分からないけど、師匠はこれ、一体どうやって売るつもりだろう。とてもじゃないけど、研究費の足しにはならないと思うな』 「馬鹿者めが、筒抜けじゃ! 全く成長しとらんな……」 博士は思いきり顔をしかめ、口をへの字に曲げるのだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「それが、その時のひっかき傷?」 カールした黄金色の髪が可愛らしいジーナは、驚き呆れたような、すっとんきょうな声で問うた。短い冬の日はすでに傾きつつあり、その光は僅かに橙色を帯びている。森に落ちた木の陰は斜めで長く、その代わりに光も奥の方まで差し込んでいる。 「ええ」 長袖の服を腕まくりし、木の枝に引っかかれて赤くみみず腫れになった新しい傷を見せた青年は、恥ずかしそうに答えた。すぐに落ち着いた動作で服を伸ばし、薬を塗りつけた跡のある傷を隠した。眼鏡をかけ、やや痩せている彼こそがテッテだ。 そして、その様子を覗き込んでいたのは、十歳に達するか達しないかくらいの、二人の少女であった。さきほどテッテに訊ねたジーナは興味深そうに青年の傷を眺めていたが、彼女の親友で銀の髪のリュアは、痛々しいみみず腫れから目を背けた。 「テッテお兄さん、かわいそう……」 ぽつりと呟き、沈んでしまったリュアの心配を取り除こうとしたのだろう。テッテは切り株から立ち上がり、努めて明るく言う。 「大丈夫ですよ。師匠の実験での怪我は日常茶飯事ですから。それに、骨が折れたのならば大変ですが、傷くらいであればいい薬があるので、すぐに治りますし。落ちた僕も悪いんですよ」 そう言いながら、テッテは後ろ頭をかく。すると好奇心が旺盛そうな青い海の色の瞳を輝かせ、背はリュアより低いけれども活発そうなジーナは、十五歳ほど年の離れた青年に告げた。 「テッテお兄さん、あたしが木登り教えようか?」 「ふふっ」 夢みるように優しく澄んだ青い瞳を持つリュアは、少し気が楽になったのか清楚に微笑んだ。テッテはわざと飄々と語った。 「そうですねぇ、それがいいかも知れませんね〜」 暖かい陽射しは急激に弱まりだし、コートを着込んで前のボタンを止めていても風が頬に沁みる。厚手の長ズボンをはいているリュアは、切り株に腰掛けたまま、いつか森で出会ってからすぐに仲良くなった紳士的な青年を仰ぎ、話の続きをせがむ。 「テッテお兄さん。結局、その発明品はどうなったの?」 「ええ。残念ですが、窓辺で眠っていますよ。耳と唇の一対で」 カーダ博士の弟子であるテッテは、後ろ手に組んで軽くつま先立ちをし、冬の美味しい透明の空気を思いきり吸い込んだ。 その時――。 「あっ!」 にわかに叫び、見る見るうちに深い海の色の瞳をきらめかせたのはジーナだった。しばらくの間、彼女は友達の横の切り株に腰を据えて、珍しくじっと真剣な物思いにふけっていたのだ。 「えっ?」 「どうしましたか、ジーナさん?」 驚いたリュアと不思議そうなテッテに構わず、ジーナは目にも留まらぬ速さで立ち上がると、まずはリュアの方を見下ろす。 「あたしたち、そろそろ帰るんだけど……」 そこまで言ってから素早くテッテの方に向き直ったジーナは、軽く身を乗り出し、強い期待と願いを込めて頼むのであった。 「テッテお兄さん。もしよかったら、その発明品……お月さまの色をした耳と唇のセット、あたしとリュアに貸してくれない?」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ある晩、家族との夕食と団欒を終えたリュアは、暖炉の温もりの届かない冷えた板の廊下を、小さなランプをかざして歩いていった。階段を登り、さらに登った三階に彼女の自室がある。 もうすぐ学舎は冬休みになる。家族で行った公衆浴場でじっくりと身体の芯まで温まり、肩の辺りで切り揃えた銀の髪を充分に乾かしてから帰宅したが、それでも湯冷めしそうなほど外気は冷たかった。空には雲が多く、その流れはとても速かった。 ドアの前で立ち止まると、ランプの明かりに浮かび上がる微かな吐息は白かった。リュアは部屋のドアを開け、中に入る。 窓はもちろん、冬用の厚い生地で作られたお気に入りの水色のカーテンもきちんと引いてある。淡い光で明日の勉強道具を確認してから、ランプの空気弁を調整して机に置いた。油の匂いを漂わせて炎は痩せ細り、リュアは闇の海を手探りで進む。 いつも通りにベッドを探し当て、羽織っていた上着と革靴を脱いだリュアは、そろりそろりと布団によじ登った。その冷たさに思わず手を引っ込めるが、無言のまま少女は膝で歩き、将来を見越したやや大きめのベッドを軋ませながら枕元に到達する。 上着を脱いだので、しんしんと冬の夜が肌に迫ってくる。リュアは布団の端を持ち上げ、その中に身体を滑り込ませて、しばらくは冬眠する芋虫のように膝を曲げて身体を丸めた姿勢のまま、じっと動かずにいた――だんだんと息が苦しくなってくる。 「ぷはぁ〜」 顔だけを布団から出したリュアは深呼吸をするのだが、空気の鋭さを改めて味わい、すぐに潜り込まざるを得ない状況だ。 それでもしだいに体温が布団に伝わり、布団は体温を保ってくれる。リュアは右足を伸ばし、左足を伸ばし、腰を伸ばした。 眠る体勢が出来つつあった、その頃に。 聞こえてきたのだった――微かな高らかな鈴の音が。 リュアは、能う限り素早く布団から顔を出し、耳を澄ませた。 今度は顔の冷たさも気にならず、神経を聴覚に集中させる。 「……来た!」 疑念と期待が確信に変わるまで、大した時間は要さない。 リュアは布団類のすべてを引き寄せ、それにくるまったまま、ベッドの窓側に寄ってカーテンをめくり上げ、はやる気持ちを抑えて下から顔を差し込んだ。その間にも、さざ波のごとき雑音が少し混じっている高い鈴の音色は、高貴に玲瓏に鳴っている。 今ごろ、リュアの家よりも若干、丘に近い方にあるジーナの家の誰もいないテラスでは、まるで天から零れる月の光そのものを思わせる淡い黄色の、不思議な耳の形をした艶やかな宝石が、右側の欠けた月の光を浴びてまたたいていることだろう。 そのすぐ横にぶら下げてあるジーナのお気に入りの鈴は、強まってきた木枯らしを受けて、盛んに揺れ動いているはずだ。 月の光の細くしなやかな糸を伝って、カーダ博士が作り上げた月光の力を秘めた発明品の、耳から唇へ音が伝わること。 音は高いところから低い場所に伝わるので、弟子のテッテは実験のために木に登り、枝が折れて落下し、怪我をしたこと。 月が好きなリュアのため、その道具を借りてくれたジーナ。 一瞬のうちに様々なことを思い出し、その一つ一つに感謝しながら、リュアはそのまなざしを高く遠い空のかなたに運んだ。 そこに待っていた雲から抜け出たばかりの月は、満月を過ぎて右側が少し欠けていたが、充分に明るく儚く花開き、見応えがあった。くすんだ窓ガラスの鼻の辺りにほど近い部分が息で曇るのも気にせず、リュアは大きな欠伸が出て視線が涙に霞むまで、大好きな冬の銀色の月の観察を堪能するのだった。 リュアがベッドに横たわると、敷布はまた冷えている。月が雲隠れしたのか、机の上の唇から洩れる鈴の音は鳴りやんだ。 外では木枯らしが吹きすさび、窓枠をカタカタ鳴らしている。 やがて少女は緩やかに、今宵の夢の中へと堕ちていった。 限りなく満足して安らいだ、天使の微笑みを浮かべて――。 | ||
(了) | ||
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