2005年 8月

 
前月 幻想断片 次月

2005年 8月の幻想断片です。

曜日

気分

 

×



  8月31日△ 


(休載)
 


  8月30日− 


[夜の雨に]

 あの雨の一粒ずつが
 落ちた時間のひとしずく

 どうか、少しでも豊かに
 大地を濡らせますように
 


  8月29日△ 


[朝の詩]

 霧が晴れてゆく森の空は、
 いよいよ青く――
 朝の光を届けるために
 澄んだ雫をちりばめよう

 束の間のおしゃれと
 爽やかな始まりの空気の中で
 きっと誰もが生まれ変われる
 再生のひととき

 ほら、木の葉や枝先のあちこちに
 光を浴びてきらめく
 七色の宝石が見えるよ

 涼やかな〈始まりの風〉を背に受けて
 瞳に光を、胸に炎を
 そして、歩き出す大地に恵みを
 


  8月28日− 


(休載)

総武流山電鉄・流山駅(2005/08/28)
 


  8月27日− 


(休載)
 


  8月26日− 


(休載)

つくばエクスプレス開業・「みらい平」駅(2005/08/24)
 


  8月25日− 


[喪失と獲得(1)]

 夜の中を降り続く雨が、静かに木々の壁を、年月を経た太い幹を、枝先の木の葉を打っている。それは時折強まったり、弱まったりを繰り返しながら、不思議に長い間、奏じられている。
(屋根って、こんなに素晴らしいものだったんですね)
 消えかかったランプの明かりでは、建物の天井はぼんやりとしか照らし出せない。ベットに仰向けに横たわって、まるで今宵の夜空に繋がっているかのようなその闇の深淵を見つめ、オーヴェルはぼんやりと考えていた。すでに今日の研究も、質素な山の食事も、眠る支度をも終えて、彼女は毛布をかけている。
 雨が降る前、溜めた雨水を薪で温め、それを冷まして湯浴みをしたので、身体の奥にはまだほのかな温もりが残っている。

(続く?)
 


  8月24日− 


[新しい道]

 切り開いた森の中に、水路が掘られている。
 ついに最後の土が取り払われて……。
 大河の水の一部は、新しい水路へと吸い込まれていった。
 歓声があがり、鋤や桑を持ち上げた人々が完成を祝う。
 彼らの日焼けした顔、精悍な瞳は、喜びに輝いている。

 川は水の道だ。
 飲み水、農業用水、そして水路にもなるだろう。

 そして新しい風の経路が生まれる。
 風の精霊たちも、ためしに通ってみることだろう。

 冷たく澄んだ水は飛び跳ね、その底は碧みを帯びて深い。
 雫は勢いよく飛び跳ね、素早い魚影が見えるだろう。

 その前に立つとき、光の道に我等は出合う。
 水の流れに光が映って、細く長く伸びるからだ。

 水路は町を通り過ぎ、長い旅を経て、いつしか海に注いで。
 いっぱい風を受けて、帆船は今日も、潮の道をゆくだろう。
 


  8月23日− 


[夏の架け橋(2)]

(前回)

「まぶしいっ」
 額に手を当て、一人つぶやいたリュアは、いくつも降り注ぐ夕陽の道筋に導かれるように歩いていった。彼女が踏みしめた土は、わずかに湿り気を帯びていて、草はかすかに音を立てた。
 テッテはほっと胸をなでおろし、少女の少し後ろから落ち着いた様子でついてゆく。まなざしを先に送って、ジーナを探した。

 その頃、先に向かったジーナは、森の梢、木々の幹や枝の中へにわかに〈空〉が染み渡って、拡がってくるのを感じていた。
 空は全体的には青かったが、西の方へ向かって赤く染まる。斜めに漏れ出してくる光も朱い部分を多く含んでいて、夏の野が早くも秋を思い、紅葉を始めたかのようにも見えたのだった。
 ついに、今まで垣間見えていた空は、傘を広げるかのように、また花が咲くときを思わせて翼を広げていった。開けた所に出て、ジーナは弾む息も激しい鼓動も忘れて、感嘆の息をつく。
「うわーっ」
 少女の蒼い瞳は素直な喜びに満ち溢れ、感銘に彩られる。

(続く?)
 


  8月22日− 


[今宵]

 雲が強い風に流されている、今宵の夜空に、
 右側の欠けた十八日の月を沈める。

 夏の終わり、月は夜の粒子に熔けて。
 淡く、心持ち苦く、思い出深いカクテルとなる。
 まるで、落ちる前に消えてしまった線香花火のように。

「赤いのね」
「そのうち少しずつ浮かんできて、明るくなるさ」
 コップの中に沈めるかのように――。

 月は地平線の近くで、夕暮れの名残を映して。
 昏い紅の彩りに染まっている。

 高く登った月は明るく、
 模様がはっきりと見えるようになることだろう。
 青くなった月は、空気の澄み具合が分かるだろう。

 だが。
 今はまだ、夜のほんの始まりなのだ――。
 


  8月21日− 


(休載)

上越線・土合駅の階段(2005/08/20)
 


  8月20日○ 


(休載)

羽越本線・府屋駅(2005/08/20)
 


  8月19日− 


[?(前編)]

「もうちょいだ」
 弾む息でジーナは言う。汗でシャツの背中は湿り、額には幾筋も濡れているが、その目はしっかりと前に向けられていた。
 立ち並ぶ木々はしだいにまばらとなり、橙色の輝きがあふれ出していた。複雑な根は減り、下草の雰囲気も変わっている。
「は・や・く〜!」
 ジーナは振り向きざまに口に手を当て、思い切り甲高い声を張り上げた。明るく元気な響きが森の入口の辺りに響き渡る。

「きゃっ」
 樹の幹につっかかって、前のめりになったのはリュアだ。
「大丈夫ですかっ?」
 太陽の光で編んだかのような金の髪のジーナが先行し、月を思わせる銀の髪のリュアがあとから追う。その二人の少女たちのほぼ中間を、なるべく両方に気を配りながら、二十四歳のテッテ青年が大股の早足で歩いていた。リュアの小さな悲鳴にすぐ気づいたテッテは、森の細い道で、慌てて後ろを振り返る。

 さて倒れこんだリュアは、ちょうど目の前にあった木の幹に両手でしがみつき、何とか転ばずにすんだ。また幸いなことに、木の幹に頭やひじをぶつけたり、足首をひねったりすることもなかった。彼女の声と音に驚いたのか、樹の幹を下りてきたリスの親は警戒して逃げ帰り、可愛らしい真ん丸の目をしばたたく。

「ゆっくり、行きませんか?」
 テッテは駆け足で戻ってくると、息を整えながら、眼鏡の奥の瞳に優しい光を宿し、落ち着いた声で呼びかけた。デリシ町の郊外に広がる森の中には、夏の終わりのはにかんだ紅の頬のような夕暮れが描く、思いのほか優雅で柔らかな斜めの線――木々の影が、まるで神殿の柱のようにいくつも走っていた。
「うん」
 リュアはテッテに向かってうなずき、すぐに振り向いてジーナの後ろ姿を捜した。リュアの親友、ジーナの八歳の小柄な後ろ姿は、森の出口、橙の光の中に吸い込まれてゆくのだった。


  8月18日− 


[夜の音楽(中編)]

(前回)

「えっ?」
 すでにベッドで仰向けに横たわり、薄緑の目をぼんやりと開いたまま休んでいた妹のリンローナは、思わず姉に聞き返した。
 シェリアはゆっくりと遠い夜空を見上げた。それを〈一つの答え〉と受け止めたリンローナは、静かに聴覚を研ぎ澄ませる。

 しばらく、見えない不思議な探索の時間が経過して――。
「ほんとだ」
 大きく瞬きをした後、小柄な十五歳の少女は呟いた。リンローナが身体にかけた薄手の毛布をそのままに、速やかに上半身を起こすと、優しい草を思わせる碧の髪の毛が肩のあたりでさらりと揺れる。 つい先ほどまで、夢の世界の淵でまどろんでいた彼女の瞳は、今や驚きと感動、深い慕わしさに満ちていた。
「すごい、お姉ちゃん……」
「たまたまよ。なんか静かだったから」
 シェリアは謙遜するわけでも、逆に誇るわけでもなく、ベッドに腰掛けて窓の外の夜空にまなざしを送り、ごく自然と言った。

 会話が途切れると、二人はまた、耳を澄ます――。

(続く?)
 


  8月17日− 


[白紙]

 物語のページを一枚めくれば
 目にもまぶしい白紙がある

 あるいは何の印もついていない
 まっさらな白地図がある

 それが明日のページだ

 今日が青でも黄色でも
 明日の色は分からない

 だから、どんな色にも染められる
 どんな色の可能性もある
 それが次のページだね

 分からないから恐いんだ
 分からないから進めるんだ

 思うようには塗れないけれど
 いろんな邪魔もあるけれど

 描きたい絵のイメージは
 心の中に残しておこう

 絵筆もきちんと用意して
 枕元に置いておこう

 そして

 日が昇ったら、新しい絵を描こう
 まだ誰も知らない色で塗ろう

 その古びた日記帳を小脇に抱え
 冷静に――時には興奮しながら
 光の糸をたぐり寄せて
 


  8月16日− 


[夜の音楽(前編)]

「あれ……」
 窓を閉めようとした手を止め、シェリアは低く呟いた。だが蛇の尻尾のように細く涼しい風が迷い込んでくると、我に返って宿屋の部屋の窓を閉めた。空気の流れは留まって、堆積を始める。
 夜の森の虫たちの声は遠ざかり、ほとんど聞こえなくなった。

 ベッドに腰掛けて、ふぅと息をつき、シェリアはぽつりと言う。
「音楽、変わったみたいね」


  8月14日△ 

  8月15日○ 


[風の演奏(1)]

「どうしたの」
「見違えるような演奏だわ」
 その晩、僕は酒場で喝采を受けた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 可愛らしい小さなもの、低い音色の大きなもの。
 大切に守られた古いもの、美しく磨かれた新しいもの。
 色とりどりのもの、意匠を凝らしたもの、素朴なもの。
 鉄、銅、銀――そして金の彩り。

 この辺りでは、夏になると家の軒先に鈴をつける。
 ポシミア連邦・沿海州あたりの、一つの文化だ。
 風が吹くと、それらは揺れ動いて、澄んだ音色を奏でる。
 一斉に鳴るのではなく、大海峡の波のように、重層的に。
 完全な同時よりも、それは時間軸を感じさせ、僕の心の奥底に響いた。不協和音の合わさった不思議な高次の協和音だ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 僕はその日、西風の吹く乾いた通りを重い足取りで歩いていた。砂利道の左右には、やや黒ずんだ古びた長屋が並んでいる。魚の匂いと糞尿の匂いが混じり合ったこの辺りは、古くからの漁業の町だ。二階の窓には下着が干してある。人々の姿は、遊ぶ子供たちの他には見られない。甲高い歓声が響き、時折母親の叱る声が聞こえる。夜中から早朝に漁に出た父親たちは眠っているのだろう。蒸し暑くけだるい、夏の日々だった。
 ついうつむきがちに歩くと、痩せた猫と目が合う。僕はふと足を止めた。彼の眼の中に自分の眼が映っている。澱んだ光は、この町の中でもさらに重く、海の底の砂のように沈んでいた。

 その時、僕は変化を感じた。
 急に、まるで夢へと誘われてゆくかのように。
 子供たちの歓声が――周りの音が遠くなってきたのだ。
 僕は楽器を手に、漁師町の街角で呆然と立ち尽くしていた。
 

[風の演奏(2)]

 遠くから聞こえてきたのは、深い所から幾重にも重なり合って響く、鐘の音色だった。町の神殿が時を知らせているのだ。
 一つ一つがゆっくりと深呼吸するかのように、僕の足元から身体の指の爪の隅々にまで染み渡り、心に届き、魂を揺さぶる。
 次の瞬間、何か軽やかなものが、僕の目の前を横切った。
「あっ……」
 思わず反射的に、僕は楽器を持っていない右腕を伸ばす。

 そこには、まるで絹のように麗しい生地で編まれ、空と似た色をした緩やかで優雅な長袖の上着を羽織った、ほっそりとした背中があった。彼の髪は明るい青と白で、海の波を思わせた。
「君は、どこかで会ったろうか?」
 その後ろ姿が気になり、僕は早口で声をかけた。その声は少しだけ震え、胸の鼓動は突然の焦燥と渇望に高鳴っている。

 すると、かれは、つと立ち止まった。
 それはむしろ、これまで流れていたものが、ふっと凪いだかのように――音楽で言えば休符のごとくに、極めて自然だった。
 僕の目に映る漁師町の通りは、もはや霞んでいて、意味をなさない。僕はかれの背中を見つめ、かれの返事を求めていた。

「ええ」
 澄んだ声が、何も聞こえない僕の耳に心地よく響いた。
 息を飲み、唖然とした様子で、僕は立ち尽くしている。

 その、刹那であった。
 不思議で安らぐ高い音色が一つ、どこか鳴った。
 ちりん、と響く、微かな音――だが決して、空耳ではない。
 それはまさに、このポシミア町の付近で長い文化を培い、夏の蒸し暑さを涼しげに彩ってきた〈風鈴〉の音に違いなかった。

 まもなく、かれは振り向いた。
 細い首を回し、身体を曲げ、衣から覗く足の位置を変えて。
 長い後ろ髪がさらりと揺れ、胸にかかっている意匠を凝らした大きな蒼いブローチが、まるで命そのものであるかのように、陽の光にきらりと輝く。上下が繋がった長い衣の裾が、蝶の羽根のごとく優雅に浮かんでは、ふわりと舞い降りる。微細な快い霧と雫とを散らし、かれはまっすぐに僕の方を向き、止まった。

 それとともに、時の流れが限りなく遅くなる。
 あとから思い出せば、それは川が湖に注ぎ込む感覚にどこか似ていた。全体的には朧で、ところどころの細部が鮮やかに印象的に残る記憶のかけらを集め、敢えて言葉で例えるならば。
 彼の透明に近い銀色の、大きな美しい瞳が、僕を見つめていた。僕の周りの景色も、さっきの僅かな風鈴の音の残響さえ、いつの間にか消えていた。ただ、その時はそんなことに気づかないほど、僕は対峙するかれの世界に引き込まれていた。
 こめかみでゆっくりと強く刻まれるのは、僕の鼓動だった。
 周囲の景色は霞み、人々の足取りも影も途絶えていた。

(続く?)
 


  8月13日− 


[蝉]

 ベランダで、
 蝉が鳴きわめき、
 転げ回っている音がしている

 彼の夢は何であったのだろう
 束の間の、地上の日々に
 何を託そうとしたのだろう

 その声は聞こえなくなった

 彼の夢の一つは
 地上に出ることだったろう

 夢とは
 綺麗なものだけど
 実現に近づけるには
 きっと、泥臭い努力が必要

 だけど夢へ向かう気持ちが
 最後には、生きてくるはず

 海のいずこへ
 空のかなたへ
 星に祈って
 歩き続けて

 最後の最後には
 自分との戦いに勝ちたいね

 ――別の蝉がやってきて
 網戸で、ゆっくりと横歩きをしていた
 

2005/08/13
 


  8月12日− 


 天と地が繋がる
 雷の橋
 あっという間に架けられて――

 猛烈な白い光と
 大地も震わす轟音ともに
 すべてのものを刺し貫く

 また、光った
 細い橋が延びて
 瞳の残像の中で輝く

 お願い
 連れていかないで
 その橋の向こう側へ
 


  8月11日− 


[ひと休み]

 どうしてこんなに安らぐんだろう――。

 遠い町まで、歩いてきて。
 あらかじめ予定を立てて、進むけど。
 それでも、夕暮れ前に着くと、ほっとするんだ。

 やっとここまでこれた。
 大げさかも知れないけど――生き延びたんだって、思う。
 あたしにとっては、本当に大変なことだったから。
 峠を越えて、細い道を分け入って、森を通り抜けて。

 夜はそんなに長くはなかったけれど、優しくつつんでくれた。
 うん。いつかのあの夜もよく似てた気がする。
 新しい町に来ても、夜空は昨日とつながっているから。

 あたしは、曇った夜空を見上げて、胸の息を吐き出した。
 ゆっくりと、出来るだけ長く時間をかけて、ね。

リンローナ・ラサラ



  8月10日− 


[時の足跡、風の道標(4)]

(前回)

「おーぅ」
 サホは手をあげる。
「〈レナやん〉だ」
 リュナンの影も、煉瓦の地面で可愛らしく自然体で手を振る。
 細い階段の踊り場から、一段飛ばしで軽やかに、メレナは早足で駆け下りてくる――短いしっぽのように後ろで束ねた髪を左右に振りながら。最後は躊躇無く飛び降り、両腕を前に伸ばしてバランスを取り、腰をかがめ、両足できれいに着地する。
 髪の毛のしっぽが、少し遅れて舞い降りた。まるで風に揺れていた柳の枝が、風が止まったことによって戻るかのように。

「よっ。二人揃って、何の帰り?」
 右手を上げ、独特の飄々とした口調でメレナは言った。
「見ての通り、図書館さァ」
 サホはそう言って胸を張った。メレナはふーんと相づちを打ったあと、あまり信用していないかのように思いきり首を傾げる。
「勉強帰り? めずらしーわねぇ」
「メレナ、そりゃあ失礼でしょ。そんな風に見える?」
 サホは腕を当て、少し怒ったように即座に問い返した。
「うーん、思いきり見えるけど。違和感たっぷりじゃん」
 勘のいいメレナは、サホとリュナンを交互に見てから言った。
「そんなことないサぁ。ねえ、ねむ?」
 サホは何食わぬ顔でリュナンに訊ねる。しかしリュナンは両手を口に当て、メレナに目配せしながら小声で言うのだった。
「レナやん、当たり、当たり」
「うん。やっぱね」
 メレナはやや早口で言い、軽くうなずく。他方、まんまと嘘を見抜かれたサホはぺろりと紅い舌を出し、リュナンに向き直る。
「ねむ〜、だめじゃん」
「だって〜。レナやんには通用しないもの」
 困った微笑みを浮かべるリュナンの弁明を聞いたサホとメレナは、どちらからと言うこともなく顔を見合わせて、吹き出した。
「ぷふぁっ」
「ふぃ、ひっ」
 すると戸惑っていたリュナンもつられて、口元を手の甲で抑える。少女たちは階段の下でしばし楽しげに笑い合うのだった。

(続く?)
 


  8月 9日△ 


[真夜中の種(1)]

「夜が、根を張っちまったんだよ」
 古びたランプの揺れ動く淡い黄金の灯火に、その彫りの深い顔を照らし出されたグッケン氏は、そう言うと唇を固く結んだ。

 さて、この村から少し離れた小さな盆地のふもとに、丸い形をした湖がある。周囲を歩けば半時間ほどで回れるくらいの、多き過ぎも小さすぎもしない湖だ。風が吹けば、湖面には波が立つ。湖は三方を山に囲まれ、そして残る一方からは川が流れ出し、細長い草原となっていた。
 村外れの水車小屋に独りで住む魔術師が、真夜中から抽出した《夜の種》を湖に蒔いたのが、この事件の元凶であった。

 最初は何の変化も現れなかったが、湖の中で少しずつ《夜の樹》は確実に育っていった。何日か経つうちに、湖面はまるで夕暮れの残照が溶けてゆくかのように、しだいに青くなり、紺色から藍色、そして漆黒へと変わっていった。日々、夜が深まるたびに、湖への闇の浸食は進んでゆく。魔術師はこれ以上、湖の中で夜が育つのを食い止めようとしたが、水底に深く根を張った《夜の樹》には手の打ちようがない。そして、ついに――。

(続く?)
 


  8月 8日− 


[丘の海風]

「何これ。ウニだわ」
「緑色をしてるのね」
「丘にも、ウニはあったのね」
 故郷の海を離れ、少しとはいえ初めて陸を吹いてきた《海風の精》たちが顔を見合わせる。彼女らは潮風に乗って、岬の丘を一気に越え、その頂きまで、初めての遠出をしてきたのだ。
「イガイガに囲まれて、同じだわ」
「触ると痛いでしょうね」
 半透明のしなやかな身体と、深い蒼の瞳、そして長い青の髪を後ろに垂らし、彼女たちはいつも遠くから見ていた《樹》の一本――ウニのような実をつけた《栗の木》を不思議そうに仰ぐ。

「やっぱり、あの中には、黄色の実が入っているのかしら」
「風に乗って、動き回るのでしょうか?」
 うら若い《海風の乙女》たちは、長く細い指の麗しい両手を後ろ手に組み、まだ熟れていない真夏栗の実に顔を近づけたり、驚いて身軽に後ずさったりした。その度に、彼女たちから、ほとんど眼に見えないほどの微細な潮風のしぶきがあがるのだ。
 白いブラウスに合わせた紺色の深海のスカートの、その足先は、熱っぽさを秘めた夏の午後の空気に溶けて消えていた。

 さて、彼女たちがウニと思っている《緑の栗の実》の一つが、ゆっくりと首を傾げるかのように、妙に不安定に揺れ動いた。
「まあ、落ちそうだわ」
「ほんとね」
 五人の年頃の精霊たちは、その枝の周りに集まってきた。最後の一人は場所が取れず、ふわりと漂って宙から見下ろした。

 岬には、もう誰もいなくなった、背の低い白い小さな灯台が残されていた。岬の突端は崖で、緑の草のじゅうたんが優しく広がっている。栗の木はその古びた灯台のそばに生えていた。
「落ちる!」
「まだよ」
 彼女らが見守る緑の栗の実は、かすかな潮風を浴びて、ぐらぐらと揺れ出した。栗の実はまだ青かったが、旅立ちは必然だった。枝が支えきれなくなり、実は半周回り、ついに離れる。
「切れるわ」
「あっ」
 そして――。

 静かな岬の灯台の頂に、白いかもめが舞い降りた。
 高度を落とし、翼が幾度かはためき、器用に閉じられる。
 遙か崖下で蒼い波は広々とした空を映し、寄せては弾ける。

 真夏の強い日差しの下、風が凪いでも、時は留まることを知らぬ。しばし足踏みしていた海風も、やがて自然と動き出す。
 のちに夕日を形作る最初の赤い光が、静けき岬に投げかけられる。草の間に転がる栗の実は、ほんのり紅に染まっていた。
 すでに《海風の娘》たちの姿はなく、灯台はひっそりと佇む。
 岬をうずめる碧の草は、潮風の名残に、優しくなびいていた。

(おわり)

2005/08/08
 


  8月 7日− 


[時の足跡、風の道標(3)]

(前回)

「『あなた達、ここに何しに来ているのッ!?』」
 わざと口を尖らせて目を見開き、思い切り胸を張ったサホは、赤茶髪を風に揺らし、口うるさい図書館の司書の真似をした。
 二人して机につっぷして眠っていたら司書の老婆にしかられたのだ。
「ふふ。でも、サホっちの返事、最高だったよ」
 額にきらめく汗を再び布きれでぬぐい、リュナンが言った。
「『す、すいません。勉強しすぎで疲れちゃいまして……』」
 サホは調子良く、一瞬にして寝ぼけ眼を潤ませ、司書に懇願した。その時のことを思い返し、サホは笑いを堪えながら言う。
「あははっ。サホっち面白かったよ〜」
 リュナンは心底おかしそうにし、ほっそりした身体をくねらせた。汗の光る顔で二人は向かい合い、いたずらっぽく笑った。

 家と家は近く、道は細い。それぞれの家は一階が商店になっており、特徴的な看板が出ている。窓辺には花壇があり、それほど色の種類は多くは無いけれど鮮やかな、夏の花が咲く。
 旧市街の裏道はしだいに曲がりくねり、そして潮の香りが少しずつ強まってくる。夜の切れ端を運んでくる夕暮れ時の風は、いくつもの道を器用に折れ曲がりながら、人々の間を通り抜ける。家路をたどる母と娘、恋人たち、駆け抜ける子供、年老いた夫婦、占い師、酒場の親父、八百屋、仕事を終えた漁師……何人もの庶民が道を行き交い、顔見知りならば挨拶を交わす。

「おーう、サホぉ、ねむぅ!」
 向こうで手を振ったのは、サホとリュナンの学友、メレナだ。


  8月 6日− 


[消えゆくものは]

 消えゆくものは
 結構、しぶといのだ

 例えば、あの
 新しいアパート群にはさまれた
 青々と茂っている稲田――

 生長した稲が
 梅雨も、夏の暑さにも耐えて
 幾つもの日々を越えて
 風になびいている

 暑い夏の日ざしの中で
 畦道を、雑草刈りの壮年の農夫が
 ゆっくりと歩いては背中を曲げている

 あのアパートたちは、かつて確かに稲田であった
 しかし、その昔は山だった
 そこを稲田にしたのも、また人の生業だ

 時はうつろう

 例えば、列車が走らなくなった路線の
 封鎖されたトンネル
 無意味になったものは
 無意味という新たな意味の名のもとで
 静かに朽ちてゆくのだ

 例えば、あの老人
 不治の病に冒されても
 最後まで、病と仲良くなろうとしている

 消えゆくものは
 やはり、結構、しぶといのだ
 


  8月 5日− 


[時の足跡、風の道標(2)]

(前回)

「だって、あんなに薄暗くて、涼しくて……」
 続けて語ったのはリュナンだ。やや顔を上げて、さっきのその場所を思い出して目を細めた。まるで心の故郷ででもあるかのように、彼女がとても懐かしそうに思い描いているのは――。
「ほーんと! 図書館ってサイコーさぁ」
 サホが言った。まだこの都市がずっと小さく、秩序だっていた頃に建てられた、旧市街の中心部にほど近い年月を経た石造りの重厚な図書館に、二人の学院生は行っていたのだった。
「それに静かだよね」
 リュナンが相づちを打った。図書館の地下の書庫は日差しが細く柔らかく差し込み、本の長期保存のために直射日光は入り込まないので、真夏でもひんやりと涼しい。空気がひどく淀んでいて、全体的に〈昔の匂い〉がし、埃っぽいのは玉に瑕だが。
 サホの鞄の中にある本の表紙が皺だらけなのは、それらが勉強道具ではなく〈枕〉であるからだった。図書館に行っていても、利用目的が通常とは異なっている学院生の二人だった。


  8月 4日− 


[時の足跡、風の道標(1)]

 少し日焼けして、いつもより血色の良く見えるリュナンは、ほっそりした腕を持ち上げて肩に掛けた布の袋から布きれを取りだし、反対の手で白い帽子を軽く持ち上げて額の汗をふいた。
「あついよ〜」
 どうやら、耐えられないと憤るより、半ば諦めているようだ。
「まァ、確かに今日は暑かった」
 汗でじっとり湿った赤い半袖シャツが背中に貼り付き、締まった体のラインが強調されているサホは、歩きながらうなずく。

 天からはすでに傾いた赤い光が降り注ぎ、漂う雲も少女の頬のような優しい紅にほてっていた。表通りを進めば、落葉樹の並木の陰は黒く伸び、枝は不思議な模様を描き出す。道沿いの家々の煙突からは早くも夕食の煙があがっていた。町は少しずつ、一日のうちで最も穏やかな刻に移ろいゆこうとしていた。
 やや乾燥した温帯にあたるズィートオーブ市は、今日は乾いていて暑かった。ここ何日か雨は降らず、強い風が吹けばたちまち砂ぼこりがあがる。西の海や東の草原から吹く風は涼しいが、今日は南東のかなたにある砂漠のほうから吹いている。
 それでも夕暮れが近づき、行き交う風の中にもだいぶ夜の涼しさが混じり始めるようになっていた。昼よりは過ごしやすい。

「ぷっ……あははっ」
 裏道に入り、即興で口笛を吹いていたサホは、急に吹き出して〈思い出し笑い〉をした。持ち上げた手提げ袋には何冊かの薄い本が入っていたが、その表紙は妙に皺だらけであった。
「あの時のオバサン、ほんっと面白かったなァ」
「あそこは、寝るのには最高の場所だね」
 表通りでは日陰ばかりを求め、飛び跳ねたり壁に沿ったりと難儀しながら進んでいたリュナンだったが――今は屈託なく、十六らしく少しはにかんだ顔で相好を崩した。裏通りの路地は日陰ばかりで、そういう状況も余計に彼女を喜ばせたようだ。


  8月 3日− 


[光の粉(2)]

(前回)

 風が流れて、相手の掌の〈星の雫〉がこぼれ落ちる。
 向かい合って立つ相手は、軽く天を指差した。
 私は自然に、ごくゆっくりと顔を上げていった。

 振り仰いだ夜空のはるか遠くには、ぼんやりと明るく、不思議に艶めかしい乳白色の帯――あるいは幕――が流れている。
 すべては到底見えないし、だいたいは麗しく濁っているだけだが、幾千、幾億、きっと幾兆かそれ以上の星たちが、明るいものから暗いものまで連なって、静かに燃える銀の河に見える。
「……わあ」
 私の口からは思わず溜め息が漏れたが、それに気付いたのはずっと後だった。私は、目の前の相手の手の中で輝く光の粉のことも忘れて、今宵の天のまばゆさに引きつけられていた。
 これほど銀河がはっきり分かるのは初めてだったから――。

 星の河は、優しく穏やかに流れている。光輝く〈銀の河〉といっても、実際にはその一つずつは色とりどりの宝石に見える。
 赤や青、銀や金、白などのそれらの柔らかい光は、玲瓏で幻想的、瞑想的で、それでいて一つ一つが確固たる存在感を保ちつつ、漆黒に彩られた夜空に広く深く投げかけられていた。

(続く?)
 


  8月 2日− 


[光の粉(1)]

 驚きに満ちた私は、目を瞬かせながら相手の掌を覗き込む。
「これが……光の粉?」
 指の隙間から、既に豊かな白い光が、まるで泉の湧き水が溢れ出すかのようにこぼれていた。それは夜の浜辺で、ひときわ明るい。相手が握り締めていた拳をゆっくりと広げたことで、輝きはついに解き放たれた。そこは闇を切り取った昼間だった。
「こんなに昼間が明るいなんて、知らなかった」
 まさにその通りだった。いくぶん冷静さを取り戻した私は、そう言ってうなずく。数多の強すぎる光と、地に映る影とで構成される昼の明るさの中では、輝きの有り難みは判りにくいものだ。

 私は額に手を当てて、相手の掌を直視しないように気をつけながら、淡いきらめきを続け、湖の波紋、あるいは乾いた大地に染み込む雨水のように広がってゆく神々しい明るさを眺めた。星の光のように、輝かしい砂の光は私の前に立つ相手を照らしている。きっと私の顔をも白っぽく照らし出していることだろう。


  8月 1日− 


[折節の実り]

 冬の寒さに背中を向けて
 花のつぼみに思いを馳せて
 桜舞う道、通り過ぎて
 新緑の頃も
 長い梅雨も駆け抜け
 上から降り注ぐ強い日差しを受けて
 夏のただ中、歩いてきたけど

 いつの間にか
 真夏の真中を過ぎていて
 時は回り
 冬に向かって歩いていたんだ

 冬の種は夏の内に
 夏の種は冬の内に

 どんなに小さくとも
 折節の実った
 それが[真実]なのだから
 




前月 幻想断片 次月