2004年 5月

 
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2004年 5月の幻想断片です。

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  5月31日− 


[大航海と外交界(2)]

(前回)

 レイナが仕事帰りに声を掛けられた時から遡ること数日――ミザリア国の王宮の奥まった一室から、この物語は幕を開ける。
 立派な部屋の中は異様にがらんとして広い印象を与えた。開放的なミザリア様式の建築のため風通しは良く快適だが、その日の空は曇っており、屋内はどうしても薄暗い印象を免れぬ。
 壁際の床には、大きくて重い長方形のもの――例えば洋服箪笥(たんす)――が置かれていた形跡が残っているが、別の場所に移動されたようで見当たらない。壁には立派な絵が掛かっているわけでもなく、剥き出しの石の壁や床の味気なさを誤魔化すためだろう、せいぜい織物の布や絨毯があるくらいだ。
 良く言えば質素、悪く言えば殺風景な部屋には、ちょっとやそっとでは壊れない頑丈な机と椅子が目に付く。しかも机の表面は微妙に歪曲していたり、拳の形にへこんだ箇所が見られる。
 壊れやすいものは何一つとして置かれていなかった。部屋の主人の趣味を反映したというより、何かの拍子に壊されないため避難させられたような、特異な雰囲気の漂っている居室だ。
 奥には黄土色に塗られた重厚な木の扉が見える。寝室に繋がっているのであろうが、中途半端に開け放しになっている。

「あーっ、もう!」
 顔中に不満の色を浮かべ、さも悔しそうに歯ぎしりし、眉をつり上げて瞳を互い違いに大きく開き、彼女は腕組みしながら円を描いて歩いている。顔にはまだあどけなさを残しており、少女といっても間違いのない年頃であるが、本来は美しく澄んでいるはずの青い瞳は、今や怒りと反抗の炎に燃えさかっている。
「ほんと嫌になっちゃうわ、ずっと晩餐会、晩餐会、晩餐会ばっかりで! だからあんなに太るのよ。ちょっとは他の過ごし方もあるんじゃないの? 馬鹿の一つ覚えみたいに、飽きもせず同じ事ばっかりやってるなんて、狂ってるとしか思えないわよ!」
 踵のやや高い靴で床を叩きつけるように彼女が大きな音を出して歩いていると、部屋へ入ろうとした新米の侍女はドアをノックしようとしてたじろいでしまう。気分屋の若き主人のわがままとおてんばと癇癪とには、ほとほと困り果ててきたのだから。

「中途半端にダンスなんてするなら、走り回った方が遙かに運動になるじゃない。知らない人と、あんなに長く話する必要なんて、全然無いじゃないの。話題だって噛み合わないし、面白くも何ともないわ! ねえ、おまえもそう思うでしょ、マリージュ?」
 がさつな言葉や行動とは裏腹に、最高級の透き通った青い絹で編まれた宝石や飾り付きの麗しいドレスを着て、丁寧にくしけずられた長い髪を少女は掻きむしった。すると銀の髪飾りがずれて、豊かな黄金の髪に引っかかり、落ちそうになってしまう。


  5月30日△ 


[空の井戸]

 雲をまァるく、くりぬいて、
 光の井戸が空に開いたよ。

 しばらく、明かりが洩れていたけれど、
 すぐに閉じられてしまったよ。

 ――何の魂が、吸い込まれていったのかなァ。
 



(休載)
 
5/24 紫陽花の季節へ



  5月22日△ 


[笑顔の種(13)]

(前回)

 真冬の透き通った青さが薄らぎ、白っぽくなった明るい空から降り注ぐ光は強まって、晴れた昼間は汗ばむくらいの陽気となる。弱い雨の日が増えて森はしっとりと湿り、秋に降り積もった落ち葉を濡らし、土の中に染み込んで種を育てる。野原で早咲きの小さな紅い花が咲いたかと思えば、落葉樹のつぼみは少しずつ夢を膨らませていた。春の幕は開くのを待つばかりだ。
 純白の蝶が戯れ、鳥たちは暗くなるまで賛歌を唄い続ける。それほど寒さの厳しくないシャムル島であっても、水は確実に温み、山の雪解け水を集めた河で下流の市街は潤っていた。
「もう数えきれないな」
 森の中では、テッテが改良に使った草は次々と芽吹きの頃を迎えていた。しかし彼の区画にはなかなか変化が訪れない。
 毎日、たとえ用事がなくても通い詰めて様子を確かめ、そのたびに落胆していた二十四歳の弟子に、待ち望んでいた変化がもたらされたのは芽月(三月)ももう半ばを過ぎた頃だった。

 テッテは度重なる失望の結果、あまり強い期待を抱かないように自分を戒めていたので、横目でちらりと〈区画〉を眺めた。
「……ん?」
 目の錯覚だろうか――彼は何かに気づき、怪訝そうな顔をした。眼鏡をかけ直して両目をしばたたくが、それは消えない。


  5月21日− 


[台風一過に寄せて]

 強い風と雨を運んできた厚い灰色の雲は、まるで魔法が解けるかのように、急ごしらえのステージを取り壊すかのように割れていった。さっきまでの雨は止み、名残のように留まっていた微弱な天気雨も粉砂糖が紅茶に溶けるように消えて、空のつぼみが右へ左へと開いてゆく。あまりに強烈でまぶしい光が降ってきて、思わず上着を脱ぎ、閉じた傘と一緒に持つのである。

 そう。今こそ空の〈階層構造〉が見える刻がやって来たのだ。
 細切れの白い雲の仔たちが、低いところを駆け抜けてゆく。それは本当に、巨きな綿飴が飛ばされている姿を彷彿とさせる。
 そして二階、三階、五階、十階――おっと、中二階にも雲が流れてきた。地上の都会より遙かに流動的で重層的、独創的で夢想的、先進的でかつ伝統的、前衛的なのに保守的、しかも形而上学的な雲の廃墟の未来都市の姿が浮かび上がる。
 ある雲は遠くをゆっくりと、そして別の雲は近くを素早く駈けてゆき、彼らが目指す先は当然異なる。普段よりも遠近感がはっきりと感じられる雲の劇場は、地上の出来事を映している。くっついたり離れたり、隠れたり隠されたりする往来の様子は見ていて飽きないが、それは幾分の侘びしさをも思わせるものだ。

 その間も雲は割れ続け、分裂を繰り返し、台風によって汚れが掃除され尽くした青い蒼い天の絨毯が心機一転、お目見えするのである。冬の澄んだ純真さを思い出したような彩りで。
 冬場は寒くて、雲も外出を手控えるので空の大路は汚れず、晴れの日が続く。他方、春以降は雲が空気が汚れ出す。特に夏の入道雲などは、空に住む雲が熱くてプールに一斉に入るので、大変な混雑となっている状態だ。宴の後にプールの栓を抜くので雨が土砂降りに降ることを、貴方も知っておられよう。

 台風一過の空には、ついに誰もいなくなった。快晴の天はどこまでも広がってゆく。あの空には果てがあると、現実の感覚として意識できるのは、宇宙飛行士か静止衛星くらいであろう。
 閉じ込められていた光は呪縛から解き放たれて地上に届き、あふれんばかりの運動量で互いに競演する。空にあるのは理想的とも神々しくも思える輝きだが、地上には影も生まれる。
 雲はずっと光のみに生き、神聖な姿を保ってきた。他方、地上の成長は光と影のはざまで培われてきた。どちらが良い、悪いと言う議論には意味がない。それぞれの良さがあるのだから。

 夕刻、羊飼いはたくさんの羊を連れて赤く染まった道を歩き、家路をたどるだろう。今日ならば、それは地上の山だけでなく、空でも見られるはずだ。ほらご覧、羊雲が集まってきている。

 さあ、我々も家に帰ろう。闇に沈みゆく天の牧場を見上げて。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

2003.09.13.
 


  5月20日− 


[雲のかなた、波のはるか(24)]

(前回)

「わっ!」
「きゃっ」
 レフキルとサンゴーンは思わず瞳を閉じ、繋いでいた手に力を込めた。反対の手は〈こうもり傘〉の芯をしっかりと握りしめる。
 ずいぶん酷使した黒い傘の小舟だが、十六歳の二人の少女を乗せたまま激しい水を浴びても皮は破れていないし、骨も曲がっていない。もともと、サンゴーンの祖母のサンローンが使っていた傘であり、未だに魔力が残っているためだと思われた。

 雲の大陸を貫通して流れる水のトンネルに入ると、視界は灰色になる。内部には〈悦び〉という感情を想起させる不思議で根元的な明るさが充ちて、次々と弾け、あふれ出そうとしている。
 真っ直ぐ掘られた斜坑なので出口のぼんやりした光も見えている。つい先頃まではどこまでも遠く広がっていた視界が急に細長くなったので、かなりのスピード感を味わう――雲の壁に衝突して大空に投げ出されるかのような錯覚さえ感じた。斜面の角度は緩やかだが、いつか見た滝壺をなぜか連想させる。
「ぶつかるよ!」
 レフキルは身を屈めて叫んだ。頬や耳は風圧を受け続け、小舟は時々不安定に横揺れする。サンゴーンも瞳を開けたままにしておくのは怖かったが、閉じたら閉じたで気分が悪くなりそうだったため、薄目のまま傘の柄にしっかりしがみついていた。
「早く……ひゃあ! 早く、抜けて欲しいですの!」

 雲の大陸はそれほど厚くなかった。実際にはあっという間に出口が大きくなり始め、懐かしい〈下界〉が間近に迫ってくる。
 あと少し、もう少し、ほんのちょっと――距離が待ち遠しい。
 その間も黒い傘の小舟は空の大河を留まることなく走り続けて、あっけなく出口にたどり着き、勢い良く通過したのだった。

 刹那ののち、レフキルは眼下の景色に釘付けになっていた。
「海! ねえ、サンゴーン、海だよ!」
 他方、サンゴーンは下を見るのが恐ろしかったので、出来るだけ遠くに視線を送る。雲の大陸に光を遮られ、薄暗い空の下、遙かに緩やかな弧を描く水平線が見えて胸が熱くなった。
 彼女は掠れ声で、万感の思いを言葉に託して呟くのだった。
「ええ、海ですのね……」


  5月19日− 


[大航海と外交界(1)]

 ララシャ王女のご出立が決定――。
 十六歳のお誕生日を前に、鮮烈な外交デビュー。
 リース公国にて行われる四ヶ国会議にご臨席。

 この報は瞬く間にして、噂話好きであっけらかんとしたミザリア国民に拡がった。最初は不信の念が強かったが、そのうち苦笑に変わり、最終的には好奇心が膨らんでゆく。幾つもの井戸端会議は、仕事そっちのけで、いつにも増して白熱していた。
「どういう風の吹き回しだろうか?」
「何かのご冗談のつもりだろうさ」
「わがまま、おてんばで有名な姫様が……」
「我が国の恥にならなければ良いのですが」
「王女様には申し訳ないが、失敗するのがオチだろうよ」
「早く失敗する話が聞きたいわね。すごそうだしー」
「とにかく、なんか面白いことはやってくれそうだよな」
「いや、王女とて王家の一員、自覚が芽生えたのだ」
「それはないだろ。俺らの期待に応え、外交界に殴り込みだ」
「格闘好きで、道場破りをしたほどの王女様だからなあ」
「重要な会議にどう対応されるのか、見てみたいな」
「ねーねー、おかーさん、ララシャ王女ってだあれ?」

 もともと明るく朗らか、くよくよしない国民性の彼らにとって、本来はこれほど面白い笑い話もそうそう無いのだが、敬愛する王家に関わるので腹の底から笑うことが出来ないでいる。それでも口の端は誰もがにやけていたし、ララシャ王女には外交とは別の面での活躍を期待していた。そう、面白い話の種として。

「どうしたのでしょう、ララシャ様は」
 町で買った読み売りから目を離し、十八歳になったばかりのレイナは顔をもたげて斜め上へまなざしを送る。夕焼け空に眼鏡がきらりと光り、頬や銀の髪は紅に染まっている。白を基調とした長袖のワンピースには伝統的な刺繍がふんだんに用いられ、決して派手さはなかったが華やいだ雰囲気が漂っている。
 レイナが本を小脇に挟んで出てきたのは、高価で丈夫な大理石に似た石で作られた〈王立研究所〉である。簡素な見栄えだが、南国の歴史と文化と商業の豊かさを感じられる建物だ。学院魔術科を優秀な成績で卒業した彼女の今の職場でもある。
「上手く行くといいのですが」
 読み売りの紙を丁寧に畳んで再び歩き出しながら、レイナは小首を傾げてつぶやく。実はレイナには秘められた過去がある――居城から脱走した王女と行動をともにした日があるのだ。
 いつものように門を出ようとしたレイナは、思わずはっとして立ち尽くした。ミザリア王家の紋章が入った三人の背の高い騎士が、槍を立てて物々しく出口の近くに立っていたからである。その後ろには白い毛並みの美しい三頭の馬がつながれている。
(近衛騎士団……でも、私は何も悪いことをしていません)
 内心ビクビクしながら〈王立研究所〉の門を出ようとすると、突然、騎士の一人が呼び止めた。その質問を聞いたレイナは、体中の血が止まってしまうが如き多大な緊張を味わうのだった。
「恐れ入りますが、あなたは研究所員のレイナ嬢ですか?」


  5月18日− 


[天音ヶ森の鳥籠(22)]

(前回)

 まもなくシェリアの捜索は再開された。心して取りかかった二周目だったが、なぜか妖しの薄紫の霧は晴れていた。すぐに周り終え、収穫は得られない。引き続き行われた三周目も駄目で、ケレンスの焦りとリンローナの不安は募るばかりであった。
「ここ、さっきの場所……」
 こうしてリンローナは、先ほどの言葉を愕然と洩らして絶句するのだった。顔は青ざめ、可愛らしい唇は微かに震えている。
 少女の気持ちを痛いほど感じていたケレンスは、こういう時にリーダーのルーグだったらどう行動するだろうか――ということを必死に思い浮かべ、責任感と後悔とで揺れ動く心をどうにか抑えつけて、年下のリンローナへ前向きに提案するのだった。
「これで三周か。もう一回、廻ってみようぜ。今度はもっと注意深くな。まだ、そんな遠くには行ってねえよ。大声で呼ぼうぜ」
「……うん」
「特に霧があった辺りを入念にな」
「そうだね」
 リンローナはかすれ声でうつむきがちに言ったが、その直後に自らを厳しく律して毅然とした表情を取り戻すと、再び率先して草の道を歩き出した。足の疲れとむくみ、両肩や膝や腰の重さを感じていたが、そんな些細なことに構っている余裕はない。他人のこと、特に家族や親しいものを一途に案じた時、彼女は自分の好不調をさておいて無理を重ねてしまう傾向があった。

 まさにその時であった――姉の言葉をふと思い出したのは。
(姿が見えるから平気でしょ? じゃあね)
「お姉ちゃん……お願い、どうか無事でいてね」
 つぶやいてから唇を結んだ幼さの残る少女は、今度こそ姉の行き先の手がかりを見つけなければと強く心に誓うのだった。
「お姉ちゃーん!」
 ケレンスの方は、そもそもの今回の旅の目的である山菜が池のほとりに生えていて一瞬だけ気にかかったが、すぐに気持ちを切り替えて声を張り上げ、紫の髪の魔術師の名前を呼んだ。
「シェリアー、どこにいるんだー?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

(このまま暗くなったら、お仕舞いよね。鳥に変えられて、あいつらのために唄わなきゃいけないなんて、まっぴら御免だわ)
 夕暮れの涼しい空気が迫りつつある池を左手に見ながらケレンスとリンローナが四周目に入ったのと同じ頃、天音が森の精霊たちによって魔力の網が張られている〈鳥籠〉に閉じこめられた魔術師シェリアも、決して現状に甘んじていたわけではなかった。すっかり精霊の術中に堕ちて捕まり、何十人もの姿を隠した相手に見下ろされているという明らかに分の悪い対峙であるが、彼女なりに現状を打破しようと考えを巡らしていたのだ。
「そうね。もう、抵抗しても無駄だわね」
 軽い溜め息のあとにシェリアがうなだれて、諦めたように緊張の解けた声で言うと、鳥の中の雰囲気は安堵につつまれた。
「やっと観念したんだね」
「いい心がけだよ」
 しばらく考えていたシェリアは、ひとまず従順なふりをして時間を稼ぎ、何とか作戦を立てようとしていた。連中は不思議な魔法の糸を伸ばし、頭の中を掻き回すことが出来るほどの力の持ち主なのだから、いずれ考えは伝わってしまうかも知れぬ。
(それでも諦めるのは――私の性には合わないのよね!)

「よっしょ……と」
 シェリアは小さく首を振ってから、足の裏から膝にかけて力を込め、その場に立ち上がろうとする。どこが天井なのか分からないような薄暗がりにいるとバランス感覚がおかしくなり、最初はふらついてしまう。むろん長旅や精神力消耗の疲れもある。
「何をするの?」
「謝ったって、出してあげないよ」
「こら、黙るんだ」
「そうだよ。鳥に注目しようじゃないか」
 遙か上の方で取り交わされるそれらのざわめきを手で制し、シェリアは可能な限りはっきりした声で皆に告げるのだった。
「静かにして。唄うわよ」


  5月17日− 


[時計]


 だれでも、時計をもっているとおもうの。

 かち、かち、かち、かち……。

 といっても、腕時計や懐中時計とは、ちがうの。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。

 もちろん、壁掛け時計でもないの。

 じりりりりり、りりりりりり……。

 ましてや、目覚まし時計でもないの。

 ぐるるーるるぅ。

 ……腹時計?

 ……。

 ちがうの!

 ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぽーん!

 それは、時間のながさじゃなくて。

 きーん、こーん、かーん、こーん。

 おもさを、はかるの。

 ……。

 こころのなかの、おもいでが。

 時間を、はかるの?

 おもいでの、あざやかさが。

 おもさを、はかるの?

 時間の、おもさをはかるの。

 おもさを、はかるのね。

 それが、わたしのもっている時計なの。

 かち、かち、かち、かち……。

 


  5月16日△ 


[笑顔の種(12)]

(前回)

 峠は、下る途中で振り返った時に〈あそこが頂上だったのだ〉と気づく。それは季節と季節をつなぐ時の山道でも同じである。
 冷えるだろうと身構えていても、晴れた時に雲間から降り注ぐ見えない光の綿は、少しずつではあるが日を追うごとに温かくなる。良く研がれた鋭角の切れ味が錆び付き始めて、風は軟らかくなり、厚い上着を着て動けばうっすら汗をかく。背伸びしていた凛々しく透明な霜柱が午前中に溶けて、ぬかるんだ土になるのが、この季節を象徴している。むろん、まだ季節の山道は最も険しい段階を通り過ぎたばかりで、一般的には〈寒の戻り〉と呼ばれる急な上り坂もあれば、危険な箇所もあるが――。
 とにかく、長く厳しい冬の峠はいつの間にか越えたのである。寒い日が続いても、予想より寒い日は、きっとやって来ない。

 春に花開く木々には、まだつぼみさえ付いていない雪月(二月)の末頃、テッテは木洩れ日の中で少女たちに語っていた。
「来月になれば色々な花が咲き始めますよ。実は、森が見えないところで一番活発に動く時期は、今なのかも知れませんね」
 花屋の店員をしたこともあるテッテは、珍しく流ちょうに語る。
「ふーん。食べ物やさんのお料理中、みたいなものだよね?」
 八歳のジーナの問いに、お兄さんことテッテ青年は応えた。
「ええ、そうです」
 冬の終わりの〈カーダ研究農園〉は良く耕されており、種がきちんと植えられ、次の季節の準備で忙しい。表に出ない場所ほど強い希望に身を焦がしており、その不思議な妖気と生まれ出ようとする精気が蒸発している。楽しいものは、まだお預けだ。
「ここにいても仕方ありませんから、湧き水へ行きませんか?」
「行こう行こう。リュア、早く!」
「うん!」

 ジーナとリュアは、テッテに与えられた秘密の区画のことは敢えて聞かなかった。二人は遊びに来る途中、事前に打ち合わせて、テッテの方から言い出すまでは知りたくても我慢しようと決めていたから、聞くに聞けなかったのだ。あまりしつこく聞いて彼が嫌がり、結果的に教えてもらえなくなるのが怖かった。
(きっと忘れてしまったのでしょうね)
 少女たちがどれほど好奇心を抑えるのに苦労していたか――それには気づいていないテッテは、驚かせるのが楽しみだと思っていた。年齢は倍以上違うし、そのうち離れて行くことが分かっていても、今は〈友達〉である。普通の花のように短い期間で散らず、葉っぱのように長く咲いている花を見つけた時に弾けるであろう彼女たちの笑顔を、テッテは見たかった。カーダ博士に言われた通りに作った〈空切り鋏〉などとは違い、自分で研究した不思議な品物で少女たちに喜んでもらいたいと願っていた。
 新しい季節を呼ぶ鳥の甲高い歌声が響く中、三人は木の根が浮き出している細い獣道を通り、森の奥へと進んでいった。


  5月15日− 


[雲のかなた、波のはるか(23)]

(前回)

「おばあ……様?」
 レフキルは一瞬、サンゴーンの言葉が記憶と結びつかず、呆気にとられたような顔で訊ねたが、すぐに思い出して訊ねる。
「サンローンおばあさん?」
 イラッサ町の前代の町長だった故人のサンローンは、レフキルにとっては〈厳しくも優しいサンゴーンの祖母〉としての印象が強い。幾度となく顔を合わせ、喋り、ご馳走になったのだ。
「ええ。微かに聞こえた気がしましたわ」
 少しずつ和らいできているものの、まだ十分にまぶしい斜め上の光に蒼い目を細めて、サンゴーンは冷静につぶやいた。右手は傘の柄をつかみ、左手はレフキルの手を握りしめている。
 しばらくの間、空の河を一枚の葉のように流れる〈こうもり傘〉の舟が水を撥ねたり、突風が叫ぶ高い音だけが響いていた。

「きっと、天に近いからだね。天上界に」
 その〈声〉はレフキルには聞こえなかったので、簡単に肯定するわけにはいかなかったが――かといって親友の言葉を否定する気はさらさらなく、言葉を吟味し、そつのない応えを返す。
「おばあさん、なんて言ってたの?」
 何も響かせるもののない大空の懐で、レフキルの声はあまたの切れ端となり、四方八方の風に運ばれ、溶けて消えてゆく。
 空を走る海の河は、太陽の光を受けて表面はきらきらと輝いている。その下側は白い砂浜ではなく、珊瑚礁の南の海でもなく、小石が敷き詰められた河の床でもなく――灰色に塗られた雲の大陸であり、それを映しているので明るいような暗いような色をしている。少なくとも普通の海とも河とも色が違っている。

 まぶたを強く閉じて必死に思い出そうとしていたサンゴーンだったが、やがて瞳を開き、ややうつむいて素直につぶやいた。
「何をおっしゃっていたのかは、分かりませんの」
「そっか……」
 レフキルは言葉が見つからなくて、その代わり手に軽く力を込めた。するとサンゴーンの方も、同じように握り返すのだった。
「この傘が風に煽られて、河を離れた時に、聞こえましたわ」
 サンゴーンはもう泣いていなかった。波のように訪れた哀しみは再び過ぎ去って、ささやかで強い嬉しさの種から生まれた、金剛石のように透き通った温かな涙の名残を浮かべている。
 静かに混じり始めている涼しい夕風に身を浸して、レフキルは斜め上を見上げ、青空の遙か彼方にあると伝えられている死者たちの楽園――聖守護神の治める天上世界に想いを馳せた。
「きっとサンローンおばあさんが助けてくれたんだね」
「ええ、おそらく、きっと……そうだと思いますわ」
 しっかりと語ったサンゴーンは、身体の芯から無駄な力みが取れていくような感覚がし、それに加えて心までもが楽になっていた。胸の辺りに輝いている至宝の翠玉のペンダント――祖母から後継者として譲り受けた〈草木の神者〉の印がきらめく。
 黒い小舟が細切れの白い雲の影を通過すると、一瞬だけ陽の光が途切れる。それは空の木洩れ日のように感じられた。

「……」
 心地よい疲れが同い年の少女たちに降り立つ。しばらく会話は途切れたが、その間もずっと二人は汗ばんだ手をつないだままだった。逆さまにした〈こうもり傘〉の舟に腰掛けた不思議な空の航海は順調に進み、塩味の水があちこちで踊っていた。
 そして海竜の河は緩い勾配を滑って上流から中流に至り、灰色の雲の大陸が近づいてきていた。その雲を突き破って、下の方からまばゆい光が洩れている地点が明らかになってくる。
「あれ、何だろう?」
「明るいですの」
 レフキルとサンゴーンは最初、目の錯覚かと思ったが、きらびやかに溢れている輝きは間違いない。視線を集めると、どうやら天の河がついに灰色の雲の大陸を突き抜けている地点のようで、厚い雲を破って斜めに細い穴が開き、水路となっている。
 こうもり傘の快速艇は危ういバランスを保ちながら徐々に速度を上げ、距離は縮まり、まもなくその場所に吸い込まれてゆく。


  5月14日− 


[夢魔の言い分]

 悪夢に溺れるあいつらは、いつも途方に暮れている。
 今朝は、人なつこい二匹の三毛猫を次々と鋭利な刃物で刺し殺し、逃げまどう鼠を部屋の角に追いつめ、足で踏み潰した。
 多くの血が流れた後で、馬鹿なあいつらは後悔してやがる。
 重大事件を起こして、警察の留置場送りになった奴もいる。

 やった後でないと気づかねえ、奴らの浅はかさを笑おうぜ!

 俺たち夢魔は、感謝状をもらってもいいくらいだろう。
 奴らが途方に暮れるような事態は、実際に起きずに済んだ。
 夢の中で後悔し、目醒めてみれば全ての罪は帳消しだ。
 やつらは、俺たちにもっと感謝すべきなのだ――。

 よほど残酷だぜ。現実の〈運命の女神〉とやらの方が。
 


  5月13日△ 


[泉]

 その森にある〈泉〉は、微笑みます。
 もちろん〈泉〉が微笑むわけではありません。
 あまりに透明で、鏡のようで、見る人の表情が和むのです。



 いつでも笑顔でいられたら、素敵なこと。
 素直に受け入れられたら、幸せなこと。
 けれど――それは、実際にはとても難しいことです。



 その〈泉〉はどこにだってあると、思うのです。
 ――何故、そう言えるのか……って?
 だって、私はその〈泉〉に棲む精なのですから。



 あなたが思いさえすれば、そこに〈泉〉は生まれます。
 だから今日も、わたしに笑顔をみせてください――。
 


  5月12日× 


(休載)
 


  5月11日× 


[宙(そら)の雨]

今日もまた、雨降りです。

たっぷり水を飲んで、こうべを垂らす木々の葉はうれしそう。

白っぽい流れ星となった雨の粒は、しましまの傘を打ちます。

銀の柄を手で挟んでこすったら、傘は軽やかに回ります。

傘を滑った雨の子は、水たまりの大海原に飛び込みます。

次々と降りてきた透き通る糸も、丸を描いて踊り散ります。

手の動きを休めれば、傘を叩く雨音の歌が賑やかです。

わたしの傘が回って、宙(そら)の星になった、小さな朝です。

この、しましまの星が止まっても――刻は動き続けます。



  5月10日− 


[天音ヶ森の鳥籠(21)]

(前回)

 謎めいた神秘の霧を遠くから眺めていると、寒い冬の日に暖炉を炊いている部屋の曇りガラスを彷彿とさせた。霧の中全体が一つの閉じられた空間となり、団子の薄皮のように何かを包み込んで捕らえてしまう――そんな想像が頭を駆けめぐった。
「おい、俺から離れるなよ」
 毅然とした口調でケレンスが呼びかけると、リンローナは戸惑いがちに相手のそばに寄り、再び不安げにつぶやくのだった。
「ケレンス……」
「行くぜ、リン」
 頬に古傷の残る若き剣士は長旅で荒れた手で、少女の華奢な左手を壊してはいけない宝物のようにしっかりと握りしめる。
 指の間から送り届けられる見えない力が、互いを励ました。

 しだいに深まりつつある白い霧はねっとりと生気があるかのように漂い、しかも限りなく薄い紫色に染まっている。明るいけれども全ての存在が消えかかっている森の奥に突き進むのは、闇を歩くのとは似て非なる勇気が要る。自分の靴さえおぼろに白く濁っていて、視力が役に立たない。しだいに深い微睡みへと誘われてゆくような、夢心地で身体が浮くような気分だった。
 それでも、よほど足下の起伏や木の幹に注意して歩かないとすぐに躓いて転ぶだろうし、最悪は池に落ちるかも知れない。
「ケレンス、気を付けて。意識をしっかり持たないと、危ないよ」
 ひっきりなしに不思議な魔力を感じて神経を張りつめていたリンローナが警告すると、ケレンスは立ち止まって首を振った。
「……いけねえ、いけねえ。なんか息苦しくてさ、眠かったぜ」

 森という巨大な〈空気の溜め池〉に、薄い白に染まった風の牛乳を注ぎ込んでいるかのように。シダ植物のギザギザの葉が、小さな虫の背中が、樹の幹に刻まれた深い皺が、何もかもが――しっとりと沈んでゆく。貴婦人のヴェール、あるいは実体を持たず冷たさのない幻の雪に隠されてゆく針葉樹の木立は限りなく美しく繊細だったが、どこか作り物の胡散臭さも混じる。

「お姉ちゃん? どこにいるの?」
 どこを見たら良いのか分からず途方に暮れながらも、リンローナは少し汗ばんできたケレンスの手をしっかりと握り返したまま声を発した。他方、感覚を研ぎ澄ませることを少女に任せたケレンスは、とにかく足元に気を付けて道を踏み外さないよう集中力を高め、その合間を縫って行方不明の魔術師の名を呼ぶ。
「シェリアー、どこにいるんだ? 早く出て来いよー」
 薄紫色の霧が、不吉にもシェリアの髪と瞳を思い出させる。

 それでも若い二人は、ほとんど躊躇せずに進んでゆく。起伏の激しい森の中と異なり、獣道が歩きやすいのは幸いだった。
 だが、ここで匂いを頼りに危険な動物が突発的に出てきたら逃げきれない。正しい道を確かめたくても、魔法だって役には立たない――仮に照明術〈ライポール〉が使えたところで、この霧では乱反射して拡散するだろう。ある意味、夜よりも厄介だ。
「辺りが見えないと、こんなに不安になるんだね」
 リンローナは心細そうに言う。ケレンスは指先に力を込めた。
「ああ」
 髪や肌はしっとりと湿っている。鳥の歌声は止まったままだ。
「お姉ちゃーん」
「シェリアー!」
 二人の呼びかけだけが、静閑な森に虚しくこだましていた。

 突然、辺りを埋め尽くしていた霧のからくり――微細な水滴の姿が露わになってきた。消えていた存在が一つ、また一つと輪郭を取り戻して、白い海から浮上する。霧が晴れてきたのだ。
 視界が広がって、ケレンスとリンローナはどちらからということもなく歩みを止めた。二人は目を見張り、立ち尽くしてしまう。
「あたし、この場所、見覚えがあるよ……」
「俺もだ。一周したんだ」
 彼らの顔は蒼く、瞳は呆然とし、その声は重く澱んでいた。

 破れてしまいそうなリンローナの心をひしひしと感じていたケレンスは、彼女を見下ろして、元気づけようと前向きに語った。
「脇道にでも入ったのかも知れねえよな?」
「そうだね。もう一周、回って見ようよ。手分けして」
 リンローナは何度もうなずいたが、ケレンスは逆に否定する。
「駄目だ。これで俺らまではぐれたら、ほんとにお終いだぜ」
「それなら、あたし、悪いけど一人で行くよ?」
 泣きそうな顔をして、丸腰のリンローナは珍しく強い口調で詰め寄る。ケレンスは相手の誤解を解くため、すぐに説明した。
「違う、そういう意味じゃねえ。もういっぺん、一緒に探そうぜ」
「うん……ありがとう」
 リンローナはうつむきがちに礼を言う。頬をこわばらせ、姉が心配で涙が出そうになるのをじっと堪えている様子であった。


  5月 9日△ 


[一番あったかい暖炉について(9)]

(前回)

「良かったよ、そう言ってくれてさぁ」
 サホはほっと胸をなで下ろした。こう言う時まで無理に自信たっぷりな様子を装ったりしない。そして彼女は素早く膝を曲げ、リュナンが足元に落とした鞄を拾い上げて、既に預かっていたマフラーと一緒に抱える――サホなりの責任の取り方なのだ。
「はい。……でもサホっち、いきなり無茶だよ」
 リュナンはというと、ボタンを外したばかりの分厚いコートからまずは細い右腕を抜き、次に左腕を抜いて適当に畳み、サホに手渡す。すっかりわがままなお姫様気分を味わい、サホをわざと侍女のように扱い、さっきの〈全力疾走〉の反撃をしている。
「ごめん。ちょっと強引に暖炉を焚き過ぎちゃった?」
 サホは首を傾げ、舌をぺろりと出して、いたずらっぽく笑った。

「よいしょ」
 間もなくリュナンは、ほとんど手ぶらで――右手に握っていたのは汗拭き用の綿織物だけだ――少しふらつき気味に最初の一歩を踏み出した。爽快な北風に撫でられて蒸れた空気が解放され、汗はほとんど止まる。急速に寒さが舞い戻ってくるが、不安定な鼓動は収まっておらず、身体の芯はまだ熱かった。
 世話好きのサホは嫌がりもせずにリュナンのコートと鞄とマフラーを重ねて持ち、リュナンの横顔を覗いて嬉しそうに言った。
「ねむさぁ、いつもよりも元気そうだよ!」
 病弱で食欲が乏しく、普段は顔色が白っぽいリュナンだったが、今は上気して血の気が通っている。頬が紅くなって不健康さは消え失せ、本来の可愛らしさが前面に出ていた。額や頬は汗っぽく、色褪せた黄金の髪は乱れてはいたが、はにかんだ微笑みはいつもよりも遙かに〈十六歳の少女らしい〉顔つきだ。
「そうかな? 確かに、身体は温かくなったけど……」
 重装備から解き放たれたリュナンは明言を避けたが、言葉と裏腹に足取りは軽かった。家々の窓辺を飾る小さな鉢植えの、冬に咲く赤い花の彩りも、普段よりいくぶん濃いように思える。
「でもさ、ちょっとは楽しかったっしょ? 朝から体を動かして」
 サホが問うと、リュナンは額に皺を寄せてうなり声をあげる。
「うーん」
 するとサホはコート類を抱えたまま、リュナンに詰め寄った。
「ねぇ、ねむぅ?」
「……まあ、たまにだったら、いいかも」
 リュナンは苦笑し、ついでに華奢な肩をぶるっと震わせた。汗が乾く時に、せっかく上がった体温を次々と奪っていったのだ。
「くしゅん」
 ついに鼻を抑えてクシャミをしたリュナンは、親友に手を差し出した。預けていた上着を受け取り、前のボタンはかけずに羽織った。鞄も返してもらい、その中にマフラーを丸めて入れる。
 持ち物を渡して身軽になったサホは心配そうに助言をする。
「学院に着いたらさぁ、速攻で更衣室で汗を拭いて、替えの下着に着替えちゃいなよ。走ったぶん、多少は早く着きそうだし」
「うん。……あぁ、まだ鼓動が変だよ〜」
 すでに呼吸も落ち着き、いつもとほとんど変わらない速度で歩いていたリュナンは、胸のあたりに手を置いて明るくおどけた。

 低い場所に留まっていた太陽は徐々に天空の坂道を登り、池の氷は音もなく溶けていった。地面に落ちていた複雑な長い影は動き、形と彩りを新たにしてゆく。冷たい空気に身も心も冴え渡り、道行く人々は優雅に挨拶を交わす――それがズィートオーブ市の旧市街に暮らす商人(あきんど)たちの誇りなのだ。
「おはようございます」
「どうも、おはよう」

「ねむ、今度はもうちょっと薄着で来なよ。そしたら、もっと楽に暖炉を燃やせるからさぁ。最初はキツイと思うけど、運動して、食べて、肉が付いてくれば寒さも和らぐし、病気も吹っ飛ぶよ」
 サホはなかなか言い出せなかった心からの願いを、やや大げさに身振り手振りをつけながら、素直な言葉で親友に伝えた。
「うん。サホっち……ありがとう」
 リュナンは、今度は胃のあたりを手で抑えた。こんな朝早くから不思議なことだが、この感覚に間違いはない。ほんの微かな欲求の波――彼女は確かに、空腹感を覚えていたのだった。

「サホー、ねむー、おはよー! 今日は早いじゃん」
 近道の細い小路を出て書店や喫茶店の並ぶ〈学生通り〉に現れた二人は、馴染みの声を耳にして、すぐ後ろを振り返った。
「おーっす、ジェイカ」
「おはよー。ねむちゃんたち、今日は遅刻じゃないよ〜」
 リュナンは汗拭きのために借りっぱなしだった綿織物を高く掲げて振った。同じ学科の友達と合流し、通学は賑やかになる。
「あれー? ねむ、なんでタオルなんか持ってんのー?」
 彼女たちが通っている学院はもう、目と鼻の先である――。

(おわり)
 


  5月 8日− 


[笑顔の種(11)]

(前回)

 使い古して刃こぼれしている鉄製のシャベルで土を掬い上げ、そっと種の上にかけて、テッテは一息ついた。冬の真ん中だというのに、黒い上着はとっくに脱いで近くの木の枝――天然の洋服掛けに預けていたし、脇の下や腕、足や背中や腰の辺りはうっすら湿っていた。作業用の軍手の中も蒸している。
 眼鏡を外して額の汗を服の袖で拭い、弟子は独りごちる。
「これで良し、と」
 実験的に作り上げた冬蒔きの花の種を埋めたのは、とても風の冷たい日だった。空は良く晴れていて、他のどの季節よりも空気は澄み渡り、どこまでも深い蒼に染められていた。葉の落ちた木々の梢に垣間見えた近くて遠い天の大地は、まさに水色の彩りの濃淡だけで描いた神殿のステンドグラスであった。

 それからテッテは、晴れた日も雨の日も、曇りの日も風の日も、毎日のように自分の区画を見に行った――と言っても、広い〈カーダ研究農園〉の管理は、腰がだんだん悪くなってきている博士に代わって、元々テッテの仕事である。彼が与えられたのは研究農園の隅の一角だったので、負担にはならなかった。
 面積で言えば、テッテの畑の管理はおまけのようなものであったが、彼にとってはその小さな領域こそが最も大切だった。

「おわっ!」
 自由を求めた水の先兵がチャプンと飛び跳ね、情けない音を立てて森の土を黒く濡らし、無気力そうに斜面を流れ下った。
 木の根につまづいた拍子に、小さな陶器の瓶(かめ)の水はほとんどこぼれてしまう。テッテはしかめ顔で呻き声をあげた。
「うぅ……」
 冬場は乾燥するので、水路も枯れることが多く、その場合は溜め池から汲んだ水を何度も運んで念入りに撒く。カーダ師匠の研究農園は広いので、水撒きは一日がかりの重労働だ。
 カーダ博士の農園を管理するのは以前から任されている事務的な職務である。ところが自らに与えられた区画に撒く時だけは違った気持ちで、とても緊張した。心配で不安だが、大いに期待してしまうような――出産を待つ親心にどこか似ている。
「ああ、こんなに待ち遠しい春ははなかったですよ……」
 見た目には何の変化もない地面を見つめながら、誰に言うともなく自嘲気味に呟く日々が続いた。掘り起こして、根が伸びているか確かめたくて仕方がなかったが、魔法の力を受けた非常に神経質な草を育てるには、芽吹きまで我慢するしかない。

「お兄さん、ここはいつになったら分かるの?」
「春になったら、生えてくるのかな……」
 冬になると日が短くなるため、なじみの少女たちはあまり遊びに来なかったが、ジーナもリュアも彼の区画を気にしていた。
 その度にテッテは穏やかな微笑みを浮かべ、首を振るのだ。
「ええ。まだですよ」


  5月 7日△ 


[雲のかなた、波のはるか(22)]

(前回)

 緑みを帯びた銀色の前髪と、やや長い耳が速やかな風にたなびく。髪がそよいで額の舞台が開かれ、空気の流れを直接的に浴びて、瞳は染みた。幾度も瞬きを繰り返し、前を見る。
「こんなことって、あるんだね……」
 だいぶ乾いてきた服を着て落ち着いた後、レフキルはつぶやいた。狭いこうもり傘に深く腰掛けて、軽く膝をかかえている。
 時折、傘の船は小さく跳ねながらも、真っ直ぐに続いている空の河を滑り降りてゆく。手すりも支えも何もない潮の道、あるいは海水の架け橋だが、不思議と落ちる気はしなかった。それは直感かも知れないし、山勘かも知れない。誰かが秘密の心の通路で教えてくれたのか、あるいは単に疲れ切って感覚が麻痺していただけなのかも知れない。恐怖はなかった――それでもやはり落ちる心配のないミザリア島の地面は懐かしかった。
 傘は軽やかに滑っていったが、河の傾斜と水流のブレーキの影響で速くなりすぎることも遅くなりすぎることもなく、それはまさに生き物の呼吸を思い出させた。障害物がないので、ぶつかる可能性もない。時たま、路面の真ん中に白いちぎれ雲が浮かんでいるが、それを突き抜けて黒い傘の小舟はひた走る。

 まだ終わってはいないが、十分に長くて深みのあった今日のこれまでの出来事を、レフキルは静かに振り返る。謎めいた潮の匂いと期待感の漂う町の空気、海神アゾマールの神殿、尖塔の螺旋階段――強い風とこうもり傘、海の魚を乗せて飛び交う空の河、それを隠すように拡がっている灰色の雲の大陸、夏の陽射し、飛び込んだ水しぶき、流されるサンゴーンの頭、手をつないだ時の感触、そして花びらのように風に煽られたこと。
「ほぉーっ……」
 しばらくレフキルが口を開けていると、頬の内側と喉が乾燥し、張り付くような妙な感覚を覚える。健脚の庶民なので乗り物に乗る機会が滅多にないレフキルには、新鮮な経験であった。
 強く注がれる光の仔と戯れ、こうもり傘の廻りでは軽やかに波の水滴が跳ねる。水に目を向ければ、海の魚の大きな銀の鱗や背びれが垣間見える。魚たちは塩味の河のトンネルをくぐって、翼の代わりにひれを動かし、天を翔(かけ)ているのだ。
「この道は、どこに向かってるんだろう」
 乾いた喉で喋ると苦しいので、すぐに唾を飲み込んで潤す。
「どこに続いているんだろう?」

 グズッ――。
 突如、後ろの方から鼻をすする声が聞こえてきた。
 急に醒めたレフキルは、首をひねって、驚いた声で訊ねる。
「えっ。サンゴーン、泣いてるの?」
 傘の柄を挟んで背中合わせに座っているので、相手の表情は見えない。向きを変えようにも傘がバランスを崩して転覆すると困るので、うかつに動けない。レフキルはとっさに右手を回り込ませて、膝の上に置いていたサンゴーンの左手に重ねた。

 しばらく呆けていたサンゴーンだったが、双つの澄んだ瞳は、いつの間にか溢れてきた生暖かい潤いをいっぱいにため込んでいた。落ちるがままに任せた涙は頬を伝ってこぼれ落ち、少し傾きかけた南国の夏の光を受けて夜空の星のごとくに一瞬だけきらめく。やはり海の味のする小さな雫は、轟音を立てて流れ去る汐の流れに飲み込まれて、あっという間に同化する。

 サンゴーンは顔を上げて、優しく差し伸べられた友の手を握り返した。面もちは恐怖でも不安でもなく、限りない穏やかさと染み込んでくるような歓び――それから一縷の諦めと淋しさとに彩られていたが、レフキルの側からは横顔しか見えなかった。
 十六歳の若き〈草木の神者〉は、震える涙声で問い返した。
「レフキルには、聞こえなかったですの?」
 訊かれたレフキルは、色々なことを思い返して、黙ったまま素早く考えを巡らせる。一呼吸置いてから彼女は慎重に応じた。
「……何を?」

 その刹那、あんなに高い音を奏でていた空の高みの風が収まった。前髪はこぼれ落ち、はためいていた服の袖は静まり返る。その間も水しぶきは立ち、サンゴーンの祖母の形見である黒いこうもり傘の船はたゆたうことなく真っ直ぐに進んでいる。
 息を飲んで止まる刻と、変わらず動き続ける刻が交錯する。
 再び耳が聞こえ始め、遠くまで旅に出ていた意識が戻り、堰き止められた時間が溢れ出す。夕凪にさざ波と微風が収まってゆくように泪は少しずつ乾き、サンゴーンははっきりと語った。
「おばあさまの、声ですの」


  5月 6日− 


「文化、なんてのは、俺にはよく分からねえけどさ」

夜空に舞い上がる炎に横顔を赤く照らされ、ケレンスが言う。

「こうやって、世界をあちこち旅して回ってみると、何となくだけどさ……昔よりも、ほんのちょっとは分かる気がするんだよな」

焚火の火の粉は飛び跳ね、パチパチと弾けて燃えはぜる。

「文化に上下はねえ。どんな都会だって、山奥の村だって」

涼しい風は迷わずに森から森へ通り抜け、広場の炎を焚いている。それを囲んで、人々は祈りを捧げる。豊作を願う祭りだ。

「いいやつも、悪いやつもいる。それは、どこだって同じだろ?」

どんな宝石箱よりも美しくきらびやかな夜空を、彼は仰いだ。

「北国には北国の、南国には南国の木が育つようにさ」

炎に揺らめく、幽霊のような薄い影が大地を彷徨っている。

「風も、空も、光も、森も。唄も、絵も、踊りも、祈りも。鍛冶屋も、漁師も、農家も、貴族も……。命の糸? で編んだ網に引っかかり、調和してるのが、それぞれの文化なんじゃねぇか?」

言い終わると、恥ずかしそうにそっぽを向いていた彼であるが、最後は視線を斜めに向けて、鼻の頭をこすりながら呟く。

「文化の精神……人の心は、どこも変わらねえ、ってことさ」
 


  5月 5日△ 


[風薫る季節に(4/4)]

(前回)

 花びらは散り、緑のがくが露わになって、不思議な色の取り合わせが実現していた。さきほど花びらをくれた親切な男性に限らず、ザルカの刻を絵に描く人たちが数多く見受けられた。
「満開は過ぎたけど、散り際もいいよね」
「そうですね」
 広場を囲うように植えられて大きく育ったザルカの木々を一本ずつ丁寧に眺めながら、ウピとレイナはゆったりと歩いていた。人の性格が異なるように、ザルカの木もそれぞれ違っている。
「まぶしーい」
 陽射しは相変わらず強いが、肩の力が抜けて呼吸が楽に出来る――自然と心が穏やかになる夢曜日の昼下がりである。
 ほとんどまぶたの落ちている茶色の飼い猫は、ザルカの木の日陰に横たわって、さも眠たそうに大あくびを繰り返している。
「平和だねー」
 つぶやいたウピの瞳も、とろんとして夢見心地になっている。
「そうですね」
 返事をしたレイナは、靴の爪先を上げて思いきり伸びをする。
「んーっ」

 二人が広場を出ようとした時、頬を撫でて速やかに、気持ちの良い風が通り過ぎた。帽子が飛ばされるほど強くはないが、前髪はさらさら揺れる。それは風の挨拶のように感じられた。
「あっ」
 ウピが足元を指さす。
 白い花びらの列が、小さな竜巻のように円を描いて舞っている。跳ね上がり、時には足踏みし、波や光のごとく踊っている。
 花びらに染められて、透明な風の居場所が明らかになった。
「北国の〈雪〉って、こんな感じなのでしょうか」
 本で読んだだけの雪について、レイナは遠く想いを馳せる。

 人の集まる場所には必ずやってくる、魚や肉を焼く食べ物屋の香ばしい匂いも漂っている。魔法の氷を浮かべた高価な飲み物を、良い身なりをした貿易商の家族が誇らしげに買ってゆく。それを庶民の子供たちが遠巻きに、羨ましそうに眺めている。
 かすかな甘い香りを残して、白い石で作られた細い道や並木道の土に、ザルカの花は散っていた。春の香水となった風は、ミザリア市の古くて新しい街並みや、港町、鳥の翼を思わせる船の帆――その向こうに拡がっている澄んだ碧の海、全てをつつみこんでいる空のかなたまで、優雅に軽やかに吹いてゆく。
 風薫るこの季節は、まさに春の女神アルミスの香りなのだ。

(おわり)
 


  5月 4日△ 


(休載)
 


  5月 3日△ 


(休載)
 


  5月 2日△ 


[シル子とケン坊(前編)]

 赤いとんがり屋根の、村一番のおしゃれな建物の前に立ち、おいらは呼吸を整えた。軽くつま先立ちをして荷物を上げ下げし、食い込んでズレかかっていた背中のサックの肩紐を直す。
「ちわーっす」
 おいらは朝陽を浴びながら、鍵のかかっていない重い木の扉を押し開け、声を張り上げた。ドアの上に付いているカウベルがガランコガランコ鳴って、人が来たことを店の家族に知らせる。
 そこは酒場だった。夜の喧噪はなく、こざっぱりして明るい光に照らされている酒場は、何だかちょっと不思議な感じだ。片づけられたテーブルも椅子も、深い眠りを貪ってるように見えた。

 手持ち無沙汰に待っていると、聞き慣れた女の声がする。
「いらっしゃいませー」
「うっす」
 おいらは帽子を取って挨拶した。出てきたのは一つ年上の、十四歳のシル子だった。彼女の営業用の微笑みはあっという間に消え失せて、飾り気のない親しみを込めた様子に化ける。
「ん? なぁんだ、ケン坊か」
 シル子の本名は、シルキア・セレニア。おいらの故郷、山奥のサミス村で唯一の酒場・兼・宿屋の〈すずらん亭〉をやってるセレニアさんちには二人の娘がいるが、そのうち下の方の子だ。
 栗色の髪はあまり長く伸ばさず、姉のファルナさんと比べるとやや細い瞳は理知的な感じがして、ほんの少しだけ斜(はす)に構えてる。たまに飛び出すキツ〜い一言は癪に障ることもあるけど、おいらと年の近い村娘の中では一番可愛いと思うし、とにかく器用な女だ。次女なんてのは、そういうもんなのかなぁ。

「なんだとはなんだよ。うちの肉を届けに来たんだぜ?」
 宿屋の朝は早い。シル子はお気に入りらしい春めいた若草色のワンピースを着て、清潔な白いエプロンを身につけ、まだ寒いのに長袖を腕まくりをしていた。冬場は酒場しか営業しない〈すずらん亭〉だが、脇街道の雪が溶けて何とか馬でセラーヌ町まで行けるようになり、ぼちぼち宿のお客も来ているようだった。
「わかってるよ。ご苦労さんです、ドルケン・フォーノア卿」
 シル子は首をちょっとかしげつつ、スカートの裾を持って短く雑な礼をした。その間にぺろりと舌を出して、すぐに引っ込める。
 冗談か小馬鹿にする時しか、おませなシル子はおいらの本名を呼ばない。しかもわざとらしく貴族を表す〈卿〉付けと来たもんだ。チェッ、全く子供扱いだもんなぁ、一つしか違わないのに。
 だけど、つい乗せられてしまうおいらも、おいらなんだよなぁ。
「羊肉を売るサミスの貴族、ドルケン・フォーノア卿、只今参上」

 うちの父ちゃんは〈お前くらいの年齢だと、女の子の方が大人びてるんもんだ〉っていうけど、それはホントかも知れないなぁ。
 自分で話を振っておきながら、シル子の反応は冷たい――。
「……で?」


  5月 1日○ 


[新緑の精霊]

 花の季節が過ぎ去って、みんなは薄着になった。

 だけど、暑くなっただけ、なーんて、思ってなぁい?

 こんなに緑がきれいなのに――。

 冬の陽だまりの小道は、木の葉のアーチと影絵に変わる。

 ほらぁ、まぶしいなんて言ってないで!

 光と影の織りなす、真新しい物語を楽しんでね。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

桜坂(新緑Ver.)
 






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