洗練と優美の午後

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(一)

 それはとても天井の高い、開放的な一室であった。部屋と言っても庶民の家全体より確実に広いくらいだが、それでいて無闇やたらと広すぎない。焦げ茶の木で作られた食器棚や暖炉などの調度品は部屋の雰囲気に合っていたし、人の背丈ほどもある観葉植物の緑は優しく、幾つもの立派な焼き物の花瓶には赤や桃色、紫や黄色、白や水色――様々の新鮮な花が活けられ、しつこくない程度の微かな甘い香りを漂わせていた。
 奥に続く長方形の部屋の正面には品の良い彫刻を施された大きな出窓が見える。向かって左側、高価で頑丈な石造りの壁には、細やかな刺繍入りの布が石の冷たさを隠すかのように天井近くから吊されていた。その中央には、メラロール王国を表すラディアベルク家の紋章が金糸で縫われ、誇らしげに光る。
 右側は瀟洒なテラスが続いており、横滑りのドアは全て開け放たれていたので、部屋は非常に明るかった。強度を保つための円柱は重厚で、歴史と文化の重みを感じさせるが、決して部屋の景観の邪魔にならぬよう的確に配置されている。夏の午後、北国といえども陽射しは強いが、風が通り抜けるので涼しく快適だ。白い清潔なレースのカーテンは西海の波のごとく揺れて、爽やかな音を立てる。カーテンは陽射しも和らげてくれた。

 時間さえもその歩みを緩めるような、洗練された優美な午後のひとときである。陶器の可憐なティーポットは冷たい水出し茶のほのかな匂いを辺りに振りまき、注がれるのを待っていた。
 ここはメラロール市の丘にそびえる白王宮の建物の一つ、希望を司るアルミス宮殿の二階にある〈木洩れ日の間〉である。

「うふふ」
「まあ……」
 若い女性たちは気品のある微笑みを交わした。選りすぐりの職人による刺繍入りの麻のテーブルクロス――それを掛けた大きめの丸い食事机を囲んで、彼女たちはそれぞれの椅子に腰掛けている。その数は十人ほどで、みな美しく着飾っていた。
 その瞬間に話が途切れると、参加者の中で最も外見の幼い十四歳ほどの少女が、おどおどしながら隣の女性に訊ねた。
「あの、レリザ様。お茶のお代わりはいかがでしょうか?」
「あ、うん、ありがと! よろしくぅ〜」
 いくぶん肩の辺りがゆったりとしている、私的な時間用の青く染めた絹のドレスを着こなしているのは、両側のえくぼが特徴的な、愛嬌のある顔つきのレリザ公女である。正直なところ高い知性はあまり感じられぬが、ガルア公国の第一公女で、人当たりが良く庶民的だ。言葉遣いや態度物腰が砕けており、位の高い貴族や貴婦人には〈ラディアベルク家に相応しからぬ田舎者〉と陰口をたたかれている。他方、侍女や小姓、護衛の騎士といった者からすれば親しみやすく、評判はすこぶる良い。
 もともと貴族社会の暗い部分には鈍感な面があったレリザ公女は、従姉妹であるシルリナ王女の周到な根回しもあり、この白王宮に留学してから特に性格を矯正されることもなく、伸びやかに健やかに成長してきた。今日のレリザ公女は明るい茶色の髪を簡素に後ろで結わえ、唇にはうっすらと紅を塗っている。
 
 
(二)

「あまり気を遣わないでね。今日は貴女の歓迎会なのだから」
 レリザ公女のため急いでお茶を用意しようと立ち上がった幼さの残る少女に、優しく声をかけたのはシルリナ王女であった。
 メラロ国王とシザミル王妃の、目下のところ一人娘として大切に育てられたのがシルリナ・ラディアベルク王女である。子供のころから可愛らしく利発そうな容貌で臣民の忠誠を受けてきたが、少女から大人の女性へと成長を遂げていく中で本来の美しさは深みと彩りを増し、十八歳の今となっては匂い立つ華麗な花のように咲き誇っている。期待された以上の成熟であった。
 ノーン族に特徴的な茶色の眼と、細く滑らかな御髪(おぐし)は、同い年の従姉妹のレリザ公女と似ていなくもないが――瞳の輝きは全く異なっていた。清楚さと知的さ、そして厳しい決断の際に顕れる酷薄と言えるほどの冷徹さのため、年齢よりも上に見られることが多い。血の気の通って柔らかそうな唇は艶めかしいというよりも清純な印象を与え、今日はやはりレリザ公女と同様に薄い色の口紅をつけていた。頬は淡雪のごとく白い。
 体つきは華奢で、激しい運動は不得手だが、至って健康である。知の国と評されるメラロールの王女らしく勉強熱心で、昨年には国際の外交の舞台でデビューを飾った。古株の外交官をも唸らせる粘り強くしたたかな交渉で、王女の名声は高まった。

 周りの者よりも少しだけ豪華な椅子に腰掛け、王女としては限りなく庶民的な白と薄茶色を基調としたチェックのロングドレスを身にまとって、周りから浮き出さないように気をつけている。出来るだけ簡素な銀のネックレスを掛けており、服の胸元には魔除けの水晶が光っていた。細い腕輪は金だった。髪はお気に入りの三つ編みに結わえさせ、黄玉の髪飾りをつけている。
 今日は新入りの侍女を歓迎するため、多忙なシルリナ王女自身が企画し、予定を空けて実現に漕ぎ着けた会である。着替えの際、可能な限り目立たないようにと侍女に命じたのだが、本来の高貴さを拭うことは出来ぬ。結局、美しい女性の特権として何を着ても似合うのだし、自然と会の中心になるのだった。

「え、あの、シルリナ王女様……」
 今回増員されることとなった若い侍女は、かつて雲の上の人と思っていた王女の心遣いにいたく感激し、頬を紅潮させた。
「エレーヌはまだ、シルリナ様を理解しきれていないのですわ。戸惑うのも当然だと思います……私も最初はそうでしたもの」
 王女付きの長い侍女の一人が淑やかな王宮言葉で語ると、周りの数人の侍女たちはほぼ一斉に深くうなずいたのである。
「まあ、わたくし、どんな風に思われていたのかしら……?」
 シルリナ王女は少し首をかしげ、天使の微笑みを浮かべる。
 すると今度は別の侍女が、身を乗り出して喋るのだった。
「姫様の素晴らしいお噂の数々は、恐れながらかねがね耳にしておりましたルヴァでございますが……まさかここまでお心の広いお方とは、誠に失礼ながら仰天いたしましたことを、まるで昨日のように思い出します次第でございますわ。本当に……」
 ルヴァは少し興奮し、勢いは止まらなかった。新入りのエレーヌもいつしか思わず手を休めて、先輩の話に聴き入っている。
 彼女は想いのたけを熱い尊敬の念として言葉に乗せた。
「わたくしどものような位の低い者にも、姫様は高貴なお心を傾けて下さって。主だった侍女の入れ替わりがある度に、可能な限り歓迎会や送別会を開いて下さるなんて……わたくしどもはルデリア広しと言えども、確実に、一番幸せな侍女ですわ!」

 涼しい風が吹き抜け、白いカーテンを揺らして流れ去る。
 王女は愛おしそうに眼を細め、果てしなく穏やかに応える。
「まあ。私を買いかぶりすぎだけど……お世辞でも嬉しいわ」
「本当のことですわ。あゝメラロール、いつまでも永遠に」
 ルヴァは国歌の一節を語った。遅れて、皆の唱和が重なる。
「あゝメラロール、いつまでも永遠に!」
 
 
(三)

「わたくしこそ、世界で最も幸せな王女だと思います」
 深窓の姫君は決然と――だが、あくまでも落ち着いて言う。
「けれど一つだけ皆に念を押したいことがあります。その人の身分と、その人の心の価値とは何の関わりもないと思うの。どんなに身分が高くても、お金を持っていても……精神が貧しい者とは、わたくしは決して交流を持ちたいとは思わないでしょう」
 いつもの地味な仕事から解放され、今だけはシルリナ王女とレリザ公女の賓客となった侍女たちは、主人の言葉を一言も洩らすまいと身体の全てを耳にするつもりで真剣に聞いていた。
 午後の光は何の翳りもなく〈木洩れ日の間〉に注ぎ込んでいる。テーブルの上にある手作りのリンゴパイが微かに揺れる。

 いつしか王女の言葉に引き込まれていた新入りのエレーヌは静かな感銘を受けていたが、次の瞬間にはっと気づいた。今さらながらレリザに紅茶の給仕すべきか、このまま姫の話を聞くべきか、戸惑いの視線を浮かべたのだった。下級貴族の娘であるエレーヌは、礼儀作法については徹底的に仕込まれたが、実践の経験は不足していた。まだ十四歳で、やむを得ない。
 シルリナ王女はすぐに気づいて、的確な指示を飛ばした。
「エレーヌ、まずはお座りなさい、貴女の歓迎会なのですからね。ワリエラ、悪いけれどレリザにお茶のおかわりをお願い」
「かしこまりました。気が利かなくて申し訳ございません」
 姫仕えの長いワリエラはテキパキと行動する。初々しいエレーヌは、これ以上王女の気を煩わせてはと、慌てて腰掛けた。
 氷の魔法を浮かべた最高級の冷たい紅茶をティーポットから注ぎ、二十二歳のやや大柄なワリエラはレリザ公女に深く礼をした。お茶の微かな香りが、若い女性たちの間を微かに漂う。
「ありがとうねぇ!」
 レリザ公女は指を伸ばし、彼女らしく朗らかに思いを述べた。
「どういたしまして、レリザ様。……姫様は?」
 ワリエラのにこやかな問いに、シルリナ王女も笑顔で返す。
「ありがとう、私はまだいいわ。さあ、貴女も席についてね」
「こちらこそ有り難うございます、姫様。ではお言葉に甘えて」

 おめかししたワリエラが椅子に座るのを確かめてから、皆の注目を感じつつ、シルリナ王女は従姉妹のレリザ公女を呼ぶ。
「ねえレリザ」
「ん、なによん?」
「私たちは友達だし、ここにいる皆も大切な友達ですよね?」
 そう言って、シルリナ王女は美しい瞳で全員の顔を見渡す。

 王宮の中にはシルリナ王女をねたみ、憎む者も確実にいただろうが、それは驚くほど一握りであった。賢明な王女は必要以上に出しゃばらず、なるべく無意味な反感を買わぬように気をつけていたからである。が、努力した上でも分かり合えぬ者がいることを、王女自身は否定しない。人の性格は千差万別で、合う合わないは仕方のないことだと割り切っていたからである。

「そうそう、友達だよねぇ!」
 ガルア公国生まれのレリザ公女は都会に擦れていない無邪気さで応える。すると即座に侍女たちの表情は緩むのだった。
 姫は右から左、左から右へと視線を移しながら全員に言う。
「皆さん、今は対等な友達だと思って下さいね。ここには他に誰もいませんし、私もレリザも皆さんと歳の近い若い娘であることには違いありませんから……もちろん、しかるべき所ではしかるべき態度を取ってもらわないと、周りの目もあるから困るのだけれど、わたくしは皆さんのことは友達として信用しています」
 シルリナ王女が言葉を句切ると、侍女のルヴァは待ってましたとばかり、ドレスの膝に置いたこぶしを握りしめるのだった。
「もちろんです! 決してご迷惑をかけぬよう、お務め致します。ご友人と呼んで頂けるなんて、本当にこの上ない幸せですわ」
「ありがとう。これからも身の回りのことをよろしくね、ルヴァ、ワリエラ、みんな。それからエレーヌ、早くなじめるといいですね」
「あ、あの、わたくし、頑張ります、シルリナ様のために!」
 新人のエレーヌも、すっかりシルリナ王女の虜となっていた。
 
 
(四)

 最も姫君らしい姫君、姫君の中の姫君とも呼ばれるシルリナ王女の美貌と、優しい性格に関する噂は、やや尾ひれを付けて世界中を駆けめぐる。美しいものの、可憐というよりは凛々しさの目立つクリス公女(シャムル公国)、地味な印象が否めぬリリア皇女(マホジール帝国)、それなりに可愛らしいのだが性格や趣味嗜好の独特さにかき消されているララシャ王女(ミザリア国)に比べて、清楚なシルリナ王女の名は天下に轟いている。
 確かにシルリナ王女は立派な人物であろうが、この世に完璧な人間がいようはずもなく、王女自身がしたたかに情報を良い方向に動かして理想の人物像を作り上げていた面も否定できない。シルリナ王女もやはり人の子、たまには機嫌の悪い日があったり、悩みを一人で溜め込んで体調を崩すことがあるのを側近の者のごく一部は知っていたが、王国上層部により硬く箝口令を敷かれていた。そういう人心掌握や情報操作の点で、やはりメラロール王国は〈知の国〉という異名に相応しいだろう。

「さあ、わたくしの話はおしまいです。おやつにしましょう」
 シルリナ王女は手を叩いた。ほっそりと指の長い、雪のように白い華奢な手だ。侍女たちは夢から醒めきらぬ微睡みの眼差しで、自らの仕える美しく麗しい主人をうっとりと見つめていた。
「さっき頂いたけど、そのリンゴパイ、ほんっと美味しいよ〜」
 朗らかな笑顔でレリザ公女がお菓子の話を展開すると、皆は急速に現実へと引き戻される。侍女の一人が深く頭を下げた。
「光栄ですわ、レリザ様。またお作りいたしますわ」
「ありがとう! ぜひ、作りに来てねぇ」
 軽く同意した公女は、言いながらテーブルに右手を伸ばす。
「また、もらっちゃうね。頂きまーす」
 一口サイズに切られたパイをフォークで口に運び、レリザ公女は幸せそうに頬張った。今日の歓迎会の参加者は、基本的にシルリナ王女仕えの侍女のうちの主要な者であるため、レリザ公女とは普段、直接に関わる機会はあまり多くないのである。

「そうだ、いいことを思いつきました。レリザ?」
 思慮深い瞳を、シルリナ王女は仲の良い従姉妹に向けた。
「ん?」
 公女はやや細い茶色の眼で不思議そうに相手を見上げる。
 いつもの給仕服を脱ぎ、個性を生かす形でそれぞれに違った色やデザインの社交用ドレスを着用し、飾り立てた侍女たちの視線も興味津々そうに、自然とシルリナ王女へ集約してゆく。
「今度は、私たちがリンゴパイを焼きませんか?」
「ええっ? 私とシルリナで?」
 寝耳に水のレリザ公女は驚いて問うた。そして、実はもう一人、シルリナ王女自身による〈料理宣言〉に驚いた者がいる。
「シルリナ様が?」
「そうよ、エレーヌ」
 耳を疑って聞き返した新人のエレーヌに、王女は説明する。
「例えば貴婦人の方々とお話しする時、お料理は良い話題になります。何でも経験した分、世界は拡がるのですよ。それに、たまには手や身体を使うことも、素敵な気分転換になるのです」
 歴史書や文学書、辞書が大好きなシルリナ王女は、忙しい社交の合間の空き時間、ついつい読みふけってしまう癖がある。
 エレーヌは新鮮な驚きに充たされ、青い瞳をまばたきした。
「まあ、まあ、まあ……」
「レリザ様。わたくしどもも必要とあらば喜んでお手伝い致しますわ。誠に僭越ながら申し上げますけれど、ご自分で愛情を込めてお作りになれば、お味はもっと美味しくなると思いますわ」
 そう言ったのはシルリナ王女びいきの筆頭、ルヴァだった。
 一方、レリザ公女は狼狽し、右手を顔の前で激しく動かす。
「えーと、あの、その。わたし、あんまり得意じゃないし、ちょっと、ほんのちょっと面倒かなって、思ってしまったりする……」
 その声が次第に小さくなり、終わりの方は消え入りそうになった。シルリナ王女と侍女たちは互いに顔を見合わせ、微笑む。
「せっかくですから予定を開けてやってみましょうよ、レリザ」
「まあ、シルリナが言うんなら、しょうがないよね……」
 王女が優しく促すと、うなだれていた従姉妹は肩を落とした。
 だが立ち直りの早いレリザ公女は自分に都合良く解釈する。
「そうだ、じゃあ、その代わり勉強はお休みにしてもらおうね」
「ええ、わたしからも頼んでみますね」
 シルリナ王女は快く請け負った。そして今度は侍女に語る。
「それでは近々、都合をつけましょう。今週は難しいけれど、来週の初めなら、どうにか大丈夫だと思います。その時はぜひ秘伝を教えてね。テレミザ先生、ルヴァ先生……他のみんなも」
「まあ、姫様ったら。先生だなんて、恐縮ですわ」
 リンゴパイ作りの名人、侍女のテレミザは頬を赤らめる。

 ――と、その刹那であった。

 ゴォーン、オーォー。
  ゴォーン、オーォー。
   ゴォーン、オーォー、ォーォー、ォー……。

 塔の鐘が重々しく誇らしげに響いた。王女の顔が少し翳る。
「あら、もう午後の三刻ですか。楽しい時間はあっという間ね」
「まこと、おっしゃる通りですわ」
 大柄のワリエラはうなずくと、機敏に立ち上がり、王女の話の邪魔にならぬよう細心の注意を払いつつグラスの後片づけを始める。多忙なシルリナ王女は、今日も予定でいっぱいなのだ。
 部屋の空気は急に慌ただしくなった。ゆったり浅瀬に滞っていた時の流れが再び動き出す。いつの間にか光の射し込み方も変わっていたし、通り抜ける夏の風も若干、涼しくなっている。

「じゃあエレーヌ、これからもよろしくね。何か不明な点や不満な所があったら、どんな些細なことでも相談して下さい。残念なことに、わたしはいつも時間が取れるわけではないけれど……その分、侍女の仲間たちも親身に考えてくれると思いますよ」
 言いながら、シルリナ王女はスカートの裾を抑えつつ優雅な仕草で立ち上がった。エレーヌは感動の面もちで起立する。
「シルリナ様、本日は新入りの私めのためにこのような立派な会を開いてくださり、本当にありがとうございました! わたくしエレーヌ、つたなき田舎者ではございますが、今後は身を粉にして、精一杯、シルリナ王女様のお役に立つことを誓います」
「ありがとう。それではお開きにしましょう」
 王女は穏やかな口調で――だが非常な冷静さを保ちつつ会の幕引きを宣言した。その瞬間、侍女たちは束の間の休暇を終えて、いつものようにテキパキと有能に働き始めるのだった。
「姫様。次のご予定は、ミグリ町のロシ町長率いる陳情団とのご会談でございます。学院施設の援助金についての件です」
「ええ」
「シルリナ様、お召し替えを。隣の間に用意させてあります」
「ただ今、参ります。レリザ、それではお夕食の席で」
 王女はやや足早に歩き始める。レリザは手を振った。
「また後でね。がんばってね〜」

 残った侍女は、テーブルや椅子、部屋の片づけで忙しい。
 シルリナ王女が退出した後、今度はレリザの侍女が現れる。
「レリザ様、お迎えに上がりました。次のご予定は図書館で補習授業でございます。お召し物は、そのままで結構ですわ」
「うわぁ……最悪よぉん」
 レリザ公女は思いきり顔をしかめ、そばにいたエレーヌに目配せした。先輩の見よう見まねでテーブルを拭いたり、余ったお菓子を片づけていた十四歳の新入り侍女は、温かく声をかける。
「レリザ様、いってらっしゃいませ。ご健闘をお祈りしますわ!
 エレーヌは胸元でこぶしを握りしめ、年上の公女を元気に励ます。公女は侍女に背中を押されるようにして嫌々歩き出した。
「とほほ。じゃあ、行って来るよ……」

 レリザ公女を見送り、エレーヌはしばし胸を張る。良い職場、良い仲間たち、そして何よりも素晴らしい主人に巡り会えた幸せをかみしめながら。先輩に名を呼ばれて我に返るまで、少女はレリザ公女の背中にシルリナ王女の後ろ姿を重ねていた。
「エレーヌ! さあ、次は姫様の寝室のベッドを直しますよ」
「はい。只今!」
 彼女の王宮生活は、今まさに始まったばかりなのだ――。

(了)



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