吐息は雪の面影 〜
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秋月 涼 |
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生まれたての橙色の光が、家々の壁を照らしていた。 切妻屋根の間から垣間見える冴えた蒼穹に雲は少なく、しんと静まり返ったメラロール市はこの冬一番の冷え込みだった。 整然と、しかもそれぞれに歴史と個性を感じさせる三階建て、あるいは屋根裏部屋を含む四階建ての民家や商店が、石畳の通りの左右に建ち並んでいる。レンガや石で作られた建物は、縦横斜めに整然とはめこまれた茶色の木骨組で適切に補強され、美しい調和を誇る模様を織りなし、家を一つの芸術作品に仕上げている。南向きに出窓があったり、聖守護神ユニラーダの彫刻が施されていたり――幅も壁の色もそれぞれに異なり、一つ一つを見ていても文化の薫りがぎっしり詰まっているが、それらが集まって、より壮大で荘厳な市街地を形成している。実は屋根の高さが揃えてあり、景観は充分に配慮されている。 商店ごとに掲げられる看板は可愛らしく、趣味の良さを感じる。横と斜め下から伸びて看板を支える細い鉄の棒は、まるで蔦(つた)のように渦を巻いたり、花や樹や動物や人々のマークが出ていたりして、面白い。魚の形のように、すぐに見て分かるものもあれば、字だけのもの、何だか分からない看板もある。 今朝の石畳はしっとりと白い霜に覆われていた。魚屋の前では、石畳の隙間に入り込んだ水がほとんど凍りかけている。 並木道をゆっくりと進む二頭立ての小さな幌馬車は、どこへ向かうのだろうか。ガタガタと揺れる車輪の音が遠ざかってゆく。 通りの角に、やや幅の広いどっしりと構えた建物があった。やはり色褪せた橙色の切妻屋根で、壁は黄土色をしており、いくつも並ぶカーテンの掛かった東向きの窓にはやはり真新しい陽の光が注がれている。窓辺は見るも鮮やかな小さな紅い花が咲いた横長の鉢植えで飾られている。看板は宿屋であった。 五段の石の階段の上にある二枚の扉のうち、片方が遠慮がちに開き――中から薄緑色の髪を持つ素朴な少女が現れた。 マフラーと上着と長ズボンという出で立ちの少女は、十代半ばにしては背が低めで、服装は割と地味であった。だが、その若くて艶やかな白い肌と、飾り気のない笑顔は人の好さを醸し出していた。彼女はあまり音を立てないように注意して扉を閉め、それから正面の斜め上方をあおいで深く息を吐き出した。 「はぁ〜」 木々の枝先には、どんな宝珠よりも綺麗で、見る位置によって七色にも変化する光の石――水滴の透明な実が垂れ下がっている。小鳥たちは静けさにつつまれた町を優しく目覚めさせる高らかな歌を唄い出し、陽光はじっくりと繊細な影絵を描いた。 空の上の方は目に染みるような青で、低いところに移りゆくに従って自然と漂白され、限りなく薄い空色になる。少女は白い煙のような吐息を洩らしながら、空の美しさと新しい一日の始まりの喜びに草色の瞳を見開いて、無意識のうちに歩き出す。 「ひゃっ」 すると待っていたのは五段の階段で、危うく転びそうになった。それでも少女は後ろ手に手を組み、一段ずつ降りてゆく。 「すごいなぁ……」 一言洩らすたびに、口から吹雪のかけらのような煙が舞い上がる。それはしかし、とても暖かい人間の体温の気流だった。 そして革靴の靴裏を軽く響かせ、最後の段を降りた少女に、下で待っていた背が高く肩幅の広い銀髪の男が挨拶をした。 「おはよう。大丈夫か」 「おはよう、ルーグ。平気だよ」 リンローナは少し恥ずかしそうに苦笑し、ルーグの呼びかけに応じた。すると今度は右の方から別の男性の声が聞こえた。 「おはようございます、リンローナさん。いい朝ですね」 「タック、おはよー。寒いけど、気持ちいいね」 少女は足元から迫る冷え切った空気を感じつつ、その場でつま先立ちし、手袋を口に当てた。そのまま息を吐き出すと、顔の周りに一瞬だけ温もりがまとわりつき、指の間から洩れる。 「ふぁ〜っ」 「今日は特別さみぃぞ」 それぞれの手で耳を押さえ、せわしなく身体を上下に揺らしているのは、タックと幼なじみの男性、剣士のケレンスだ。その手を時々温めるため、ズボンのポケットに突っこんだりしている。 「おっはよー、ケレンス。ほんと寒いね」 リンローナは相づちを打ち、再び水色の空をあおぐのだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 秋でさえ滅多に見かけられないほど空は冴え渡り、透き通っていた。高みは深い青で、低いところはごく薄い水色に塗られている。彩りの麗しい春、光あふれる夏、実りの秋を経て、青と水色と白の入り混じる季節が木枯らしとともに始まりを告げたのだ。冷たく厳しいけれども、飾り気がなく全てはあるがままとなり、また燃えはぜる炎や家族のぬくもりや心の暖かさがひときわ大切に感じられる、冬の神シオネスのしろしめす季節が。 朝が強いはずのタックだが、旅の疲れが蓄積しているのだろうか、瞳の下にはうっすらと隈ができていて幾分眠たそうだった。レンズが抜け落ちたお気に入りの伊達眼鏡を外して茶色の両眼を手の甲でこすった後――艶やかな白い頬に赤みがさしていてその場にたたずんでいるリンローナの方に向き直った。 「この寒さは……もしかすると堪えるんじゃないですか?」 タックは自分の考えを押し付けないよう、気を遣って言葉を選びつつ少女に訊ねた。彼とケレンスはここメラロール王国の出身だが、リンローナと彼女の姉のシェリア、そしてルーグはもっと温暖な地域にある南ルデリア共和国の出身だったからだ。 「うーん、まだ大丈夫だよ、ありがとう。鼻が染みるね、耳も」 一瞬迷った後、リンローナは穏やかに応えた。彼女が唇を動かして喉を鳴らし、言葉を声に乗せて発音する度に、白い吐息がまるで魔法のように生まれて舞い上がり、儚くも消えてゆく。それには粉雪の面影があり、遠くない純白の宴を連想させた。 北国出身の者にも今朝の冷え込みは厳しいようで、ケレンスはマフラーの中に首だけでなく顎や口まで隠し、両手をコートのポケットに埋めて言った。短めに刈った金の髪も寒そうである。 「姉貴はどーした? まだかよ?」 お調子者のケレンスも今朝はだいぶ口数が減っていた。眠気はそれほどでも無いようだが、二つの目の視点は絡まらず呆然としている。身体を温めるためにせわしなく上下にかかとを動かし続けているのも、いつしか無意識に近い状態になっていた。 「そもそも、起きてらっしゃるんでしょうかね」 タックは呆れたように、冷酷に言った。普段の穏和なポーカーフェイスとは違った一面を垣間見て、リンローナははっとした。 その時、宿屋の二階の窓辺に設えられている小さな花壇に生えた紅い冬の花が風になびいた――家々の間を縫って降り注ぐ橙色の光を浴びていた花壇だ。ルーグの銀色の前髪はたなびき、皆のコートの裾を揺らした。北風の行列のお出ましだ。 「見て来ようか?」 リンローナが申し訳なさそうに言い、きびすを返して黄土色の壁の宿屋に舞い戻ろうとした。すかさずその彼女を呼び止めたのは、リーダーで戦士、旅の仲間内では最年長のルーグだ。 「いや、もう少し待とう。起きてはいるんだろう?」 難しい顔のルーグは腕組みをして唸り声を上げた。恋人であるシェリアの言動に時折手を焼いている彼は、他の仲間がいる時にはシェリアを甘やかしすぎることも、かといって叱りすぎることもしないよう努めているが――なかなか微妙な立場である。 「うん。お姉ちゃん、起きてはいたんだけど……」 女性同士、一部屋に泊まっていたリンローナは口ごもった。 その点、シェリアと利害関係のないケレンスは容赦しない。 「待たせんなよなァ、あの姉御。寒いのによォ」 ケレンスの愚痴に対しどういう反応をすべきか困惑気味に立ち尽くしているルーグの代わりに――少しウエスタル方言の残る共通語で迅速に謝ったのは、草色の瞳のリンローナだった。 「ごめんね。やっぱり見てくるよ」 「まあ待てよ。リンが謝る必要はねえんだよ、リンは」 ルーグの意向を反映し、ケレンスもリンローナを引き留める。するとルーグは少し考えが纏まったのか、毅然と語りかける。 「すまんな。もう少しだけ待ってみよう」 「あいよ」 ルーグをリーダーとして――それだけでなく剣を扱う者としても買っているケレンスは、二つ返事で了承した。性格のかなり異なる二人は、互いに相手を立てようとする意識が働くらしい。 「わかった」 リンローナもすぐに足を休め、再び朝の空をあおぐのだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 空気が凍りつくように張り詰めている朝、天に光は満ちているが、陽は昇ったばかりで地平線にほど近い場所にいるため、その姿は町中ではまだ見えない。やすりで磨かれたかのような真新しい空は澄み、細かな淡い雲がちらほらと浮かんでいる。 「あれ……」 リンローナはゆっくりと腕を掲げ、手袋の右手で指さした。すると革靴の爪先で通りの石畳を打っていたケレンスや、珍しくも気持ちここにあらずといった感じで正面を呆然と眺めているタック、宿屋の扉を見つめてシェリアが来るのを待っていたルーグの男三人は、何となく彼女につられ、視線を高く持ち上げていった。 後ろ髪を肩の辺りで切り揃えた聖術師のリンローナは、この朝にふさわしい爽やかで厳かな声の出し方と音量で、誰に言う訳でもなく見たままの感想を素直な言葉で表現するのだった。 「低いところの青空が、薄い水色になってるね……」 そう言い終えた彼女の頬は若く瑞々しかった。横顔に柔らかで優しげな微笑を浮かべ、前髪を冷たい風になびかせ、空を映して瞬きをした薄緑色の瞳は二つの麗しい宝石を思わせる。 「あの雲、すげえな」 ケレンスは東の低い方向を指差した。リンローナはすぐに、タックは少し遅れて、最後にルーグがやや慎重に視線を送った。 「おお」 そのルーグでさえ、シェリアのことを一時忘れ、同じものは二度と見られない〈天のいたずら〉に引き込まれてゆくのだった。 「雲の船が……穴が開いてる?」 リンローナはそう言って、歴史の深い通りの左右に建ち並ぶ切妻屋根の、その間から覗く東の空をあおいで額に手袋の右手をかざし、まぶしそうに目を細めた。眠気と疲れで明らかに気を抜いていたタックの目つきにも、普段の鋭さが戻り始める。 「これはこれは。んー」 軽く伸びをし、暖かく濡れる瞳を感じつつ、彼は頬を緩めた。 「大した、絵になる風景ですね」 東の空の低いところに横たわる白い雲の船には、リンローナが語ったごとく、あちこちに穴が開いているようだ。そこから洩れいずるのは、海の潮水ではなく、まばゆい光の筋道だった。 見えない坂道を昇り始めたばかりの太陽が薄雲の船の後ろに入り、あまたの細い光の糸を垂らしている。それは蜘蛛の糸よりも長く、錦糸よりも光沢があるどころか自ら輝き渡り、木綿よりも強度があるように感じられた。しかも非常に幻想的な代物で、天から下ろされた段のない梯子(はしご)のように思えた。 「いいぞ、つかまれ〜って、攻める側は光の糸をつかんでさ」 ケレンスがどこか得意げに一つの物語の断片を喋ると、その相手役を買って出たのは幼なじみで腐れ縁の相棒、タックだ。 「守る側は《ふさげ、ふさげ》と大声を張り上げ、そこいら中の雲をかき集めて、船の光の穴を埋めるのですが……分が悪い」 「うん」 リンローナは話の続きに興味を示し、うなずく。だが、その結末はケレンスでもタックでもなく、空の風が語ってくれたのだ。 白に近い水色の、まるで氷のような空に光が射し染めて――崩れた雲の船の幻想的な彫刻を照らし出す。風は容赦せず船を解体して霧散させ、光の道は確実なものへと成長を遂げる。 強烈な輝きが広がってきたかと思うと――。 ついに今日の朝陽が、その全貌を現した。 長い夜を越えて現れた陽の暖かさと明るさに四人はしばし見とれて、そのまぶしさに目を限りなく細め、それぞれに満ち足りた表情で降り止まぬ光の雨を浴びていた。今日も昨日に引き続き、北の町は晴れそうだ。一昨日の短い雪は消え去った。 「ふぁ〜」 リンローナが深く吐息を洩らせば、淡い煙が生まれる。そこには、儚く天に還った今年最初の微かな粉雪の面影があった。 「そういや、シェリアはまだかよ? 遅ぇな」 ケレンスがはっと気がついて言うと、皆は一気に醒めた。 「様子、見てくるよ」 リンローナはそう言って、ルーグに確認の視線を送る。背の高いリーダーは、今度はまっすぐにうなずいて、判断を下した。 「頼む。リンローナ」 「仕事は仕事だからな。遅刻はやべぇしな」 ケレンスが軽い口調で言えば、ルーグは重々しく応えた。 「ああ、全くその通りだ」 さて小走りに駆けていったリンローナが宿の扉を開けようと取っ手を握りかけた瞬間、何故かドアは勝手に遠ざかってゆく。 そしてそこには――。 毛糸の帽子を目深にかぶって、長い薄紫の髪に寝癖が残り、あまり目の開いていないシェリアが不機嫌そうに立っていた。 「お姉ちゃん、おはよー!」 リンローナが元気に声をかけると、姉は呆れたように呟いた。 「なんで、朝からそんなにやる気満々なわけ?」 シェリアは合流してもややうつむきがちで、五人の間にはぎくしゃくした空気が流れた。早起きの不愉快さを拭い去るのにはもう少しばかり刻を要するだろう。彼女はマフラーやらコートやらズボンやらと厳重装備をしているが、頬だけは仕方なく、手袋の両手を当てた。そして肩を僅かに震わせて低い声で言った。 「寒っ……」 「寒さで目が醒めるだろ? よぉし、行こうぜ〜!」 北国の民の血が騒ぐのか、ケレンスはやけに陽気になり、足取りも軽く歩き始める。その影は西に落ち、細く、とても長い。 ルーグは腕を伸ばし、他の三人に呼びかけて先を促した。 「さあ、行こう」 少しずつ活気が出始めている道を五人は進んでいった。そして五つの白い吐息の煙も、朝もやの彼方へ遠ざかっていった。 | ||
(了) | ||
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