2005年 1月

 
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2005年 1月の幻想断片です。

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  1月31日× 


[凍えた時の彼方で(3)]

(前回)

 考えていても頭が痛むだけだ。幸い、岩場の険しさも少しずつ落ち着いてきていたので、私は行ける所まで歩き続けようと考えた――この先に何かあるのではないかと期待して。今はまだ特に危険を感じることもないが、日が暮れれば状況が変わってくるかもしれない。もっとも、この場所でも普通に日が暮れるのかということは、全く当てにならないような気がするのだけど。
 這って進んだり、よじ登ったりしていた河の最上流の岩場が、しだいに再び低く緩やかになってきていたのは確かだった。私は立って岩の上を歩き、しだいにその歩みを速めてゆく。藁が巻きつけてある靴は滑りにくく、本当に良かったと改めて思う。
 突然岩が尽きて、私は兎か猫かのように軽々と飛び降りた。

 今度は緩やかな上り坂になっていて、灰色の砂や小さな小石が堆積している、岩場と比べれば格段に歩きやすい道だ。狭い川原を、湧き水とそれほど大差のない新鮮な水のせせらぎが、右へ左へと折れ曲がりながら細やかに流れ、滑り降りている。
 ふいにしゃがんで、私はその流れにおそるおそる右手を浸してみた。冷たさも、あるいは暖かさも、何も感じない。水が流れていて、手にぶつかっているという感覚だけがある。掬いとってみた小川の水を改めて見ると、少し銀色がかっているようだ。
 この場所の秘密には近づくことができず、私は足の裏と膝に力を込めて、身体を慣らすかのように少しずつ立ち上がった。小川が遠ざかり、私の身長は伸びて、白い服の袖がはためく。

 足を動かして前に進み始めた私を挟み込もうとしている巨大な口であるかのように、左右の崖は相当に近づいてきた。見上げた先の、そのまた先の先に、ようやく青い空が覗いている。
 どこか体の芯のほうに深い疲れやだるさ、根本的な熱っぽさをかかえているけれど、それは今の私には肉体的な疲れとなって現れては来ないので、歩き続けることができる。感覚という感覚が、まるで深い霧に隠されたかのように鈍っているようだ。
 時折、幾重にも重なって流れる谷間の風が、恐ろしいほどの甲高い唸り声をあげる。空気は明らかにどんどん冷え冷えとしてきているが、私は相変わらず寒さを感じない。寒さというものがこの世にあることを忘れてしまったかのようだ。だけど私は、寒さというものがあったのを辛うじて記憶に留めていて――どうしても分からないのは〈寒さという感覚がどういうものだったのか〉ということだ。どうやら今の私にとって、寒さは無縁らしい。

 岩場を速やかに流れる源流はますます細くなり、崖は鋭く直角に切り立ってゆく。その崖に、白いものが貼り付いていた。
 近づいて目を凝らすと、それは水が凍りついたものだった。
 ふと見下ろせば、私が一本の綱をたぐり寄せるかのように頼りにしてきた上流の早瀬も、清らな半透明に凍りついていた。
 思わずしゃがんで触れてみると、薄い氷の膜はもろくも崩れた。どうやら表面だけが凍っているようで、内側は動いている。
 水だけではない。高すぎる崖に挟まれ、昼でも薄暗い日陰を強い風の通り過ぎるこの地は、一面の霜柱に覆われている。
 微かに覗ける空は真っ青に晴れているのに、気温はさらに下がってきた――ようだ。霜柱の間から、残骸のように痩せ細った草が生えていて、あとは石と砂だらけの峡谷の最奥部だ。
 私は谷の先端を目指し、落ち着いて歩いていった。いつしか早瀬は内側まで凍りつき、踏んだら軽い音を立てて壊れた。

 そして、もうこれ以上進めないという、三方を崖に囲まれたどん詰まりの行き止まりに、洞穴(ほらあな)の入口が現れた。


 幻想断片五周年 

 2000. 1.31.〜2005. 1.30. 

  掲載 :332日 + 1298日= 1630日(89.2%)
  休載 : 34日 + 163日= 197日

 期間計:366日 + 1461日= 1827日


  1月30日− 


[麗しの芸術(後編)]

(前回)

 土手を降りて、丈の長い草の刈り込まれた所を進み、小石が敷き詰められた河原に着くと、二人は並んでしゃがみこんだ。
 凍りつくような冷たさのラーヌ河に木の桶を浸して、新鮮な水を汲みあげる――タックは二つ、リンローナは一つだ。桶の横側には、この地区で名高い葡萄酒醸造所の文字がつつましく、それでいてどこか誇らしげに書かれていた。リンローナは呟く。
「この澄んだ水が、美味しいお酒を造るんだね」
 ルデリア世界の中で最も高い文化水準を誇る都市の一つに数えられるメラロール市では、地下の下水道がかなり整備されている。無闇に河へ生活排水を流すことは禁じられており、河は澄んでいて、下流のため水量は豊かだ。石の間を逃げるようにして泳ぐ銀の鱗の小さな川魚たちの姿を見ることもできる。

 重荷をかかえて再び歩き出す前に一息ついていたリンローナは、ずっと動き続けながらもそこに留まっている長い鏡――青空色に染まっているラーヌ河を眺め、川の向こう岸の土手の向こうに連なっている家々の屋根や煙突を眺め、その向こうに果てしなく広がっている空を見つめて、やがて大きく伸びをした。
「うーん……まだ眠いなぁ」
「きっとケレンスたちも、別の手伝いでしごかれていることでしょう。給料は申し分ありませんが、やはり仕事はきついですね」
 タック少年が茶色の瞳をまばたきさせ、隣の少女の言葉に穏やかな口調で応じた。まぶしい陽の輝きを受けても、彼の眼鏡は光らない。レンズが落ちた、いわゆる〈伊達眼鏡〉だからだ。
「うん。腰とか腕とか、おかしくなりそう」
 少女はそう語ると、口元を押さえて清楚に、楽しげに笑った。
「ふふふっ」

 そして限りない空に心を馳せる。
 見ると吸い込まれてしまいそうなほど、空全体が磨かれた宝石になったような、薄い麗しの蒼色だ。頭に雪を戴いた遠くの山並みもはっきりと見えるし、白い月が西の空にかかっている。
「いろんなところに、芸術家がいたんだね」
 感性の受け取ったままの不定形の気持ちを、一つ一つ丁寧に似ている言葉に置き換えながら、リンローナは話し始めた。
「さっき土手で見た氷のお花とか、あの空にうっすらと描いた、白い雲とか。夕焼けの染め物屋さん、森の木々のしなやかな枝を作った……彫刻家さん。季節に咲くお花も、草も。自然だけじゃないよね、古い歴史が作ってきた、あの街並みも……」
 タックは話の邪魔にならぬよう、何も言わずにうなずいた。
 顔を寒さと感動で紅潮させたリンローナは、まさに彼女自身が冬空に花開く若いつぼみのように生命のきらめきを宿していて、その横顔はまだ見ぬ未来への期待と希望で朝の光よりもまぶしかった。少女は遠くの空にまなざしを送り、言葉を紡ぐ。

「あの氷のお花、本当にきれいだったなぁ。蟻さんのために作られた架け橋みたいに繊細で、不思議な模様が入ってて……」
 言葉が途切れ、リンローナはきつく目を閉じる。陽射しは優しいが、川辺を吹き抜ける朝風は頬に突き刺さるほど冷たい。
「素敵な芸術家になるには大変だけど……」
 少し蔭のある笑顔で言いながら、リンローナはタックの方を向いた。十七歳の少年にしては背の低いタックだが、リンローナもかなり小柄なので、彼女はタックを少し見上げる角度になる。
「でもあたしたち、観客なら、なろうと思えばいつでもなれるはずだよね? 氷の観客、森の観客、空の観客に……きっと!」
 少女の新鮮な捉え方と、素直で切なる願いを聞いたタックは驚いた様子で一瞬息を止めたが、彼らしく落ち着いて応える。
「ええ、そうだと思います。芸術に気づくことさえ忘れなければ」
 真っ直ぐな草色の瞳のリンローナは、深くうなずくのだった。
「うん!」

 だが、そこで少女は急にいたずらっぽい微笑みを浮かべる。
「……あたしって、変かなぁ?」
 さっきまでの真面目さとの落差に、タックは思わず吹き出しそうになったが、彼は軽く手を振り、紳士的に返事するのだった。
「そんなことはありませんよ、素敵な考え方だと思います」
「そう? ありがとう!」
 まだ恋も知らない十五歳のリンローナは、歓びをいっぱいに膨らませ、隣に立っている旅の仲間のタックに礼を言うのだった。

 話の収束を見計らって、タックは休憩の終わりを切り出した。
「では、そろそろ行きましょうか」
「うん。親方さんに怒られちゃうよね」
 二人はおもむろに、河の水を汲んだ桶を持ち上げる。そして霜に白く染まった冬枯れの草を踏み、北国の鋭い風を切って、短期の仕事で世話になっている醸造所へと歩き始めるのだった。

(おわり)
 


  1月29日△ 


[麗しの芸術(前編)]

 北の都メラロール市の郊外、ラーヌ河の土手を二人は歩いていた。吐く息は白く、土には粉雪を思わせる霜がおりていた。
 タックは両手に空っぽの木桶をぶら下げている。リンローナは少し小さな水汲み用の桶を一つだけ、左手にかかえていた。
 どうやら二人は仕事の都合か何かで――おそらく仲間内の当番だったのだろう――河の水を汲みに行く途中のようだ。土手の左下には澄みきった青空を映したラーヌ河が、斜めに降り注ぐ朝陽を浴びて輝く。鳥たちは冬枯れの木々に留まったり、川面に浮かんで不思議に緩やかな水の筋を描いたりしていた。

「あ、待って!」
 とっさに鋭い声で呼びかけて、リンローナは相手を止める。
「どうしましたか?」
 その場でいぶかしそうに振り向いたのは、タックであった。
「ほら、これ!」
 リンローナが足元を指さすと、タックも視線を下ろしてゆく。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

朝の氷に咲いた花(2005/01/27)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ベレー帽に似た形をし、細く白い毛糸で丹念に編み込まれた帽子から、リンローナは草色の後ろ髪を少しだけ出している。
「ほら、氷のお花が咲いてるよ」
 寒さに頬をほんのりと紅に染めた彼女は、息を弾ませて地面を見つめた。上着も手袋も、防寒具はもちろん完備している。
「本当だ……花に見えますね」
 タックは感心して応え、しばし氷の芸術に見とれるのだった。
 それは轍の間の小さな穴に張った、ささやかな氷であった。


  1月28日△ 


[霧のお届け物(20)]

(前回) (初回)

「えっ?」
「何なのだっ?」
 シルキアはぱっと顔を上げ、ファルナも椅子から身を乗り出すようにしてオーヴェルの次なる言葉に耳を傾ける。その時を境に、一軒家の中を再び爽やかで楽しげな空気が回り始めた。
「霧のおみやげ、ありがとう。確かに届きましたよ」
 オーヴェルは改めて言い直し、品のある清らかな笑顔を浮かべ、そばに立っているシルキアに向かって軽く会釈をした。夏の面影を残した、東の窓から射し込む初秋の朝のまぶしい光を受けて描かれた賢者の影も、床の上で軽く頭を下げるのだった。
「教えて、オーヴェルさん!」
 しっかり者ながら甘えん坊でもある次女シルキアは賢者のそばに近づき、答えをねだった。さっきとは立場が逆転している。

「私は気づいたんです」
 オーヴェルはファルナにも忘れずに目配せし、二人が口を挟まず目を輝かせて待っているのを確かめてから、先を続けた。
「霧の匂い……しっとり濡れた森の、朝の香りがしましたよ」

 一瞬の間があった。
 草に置いた透明に澄む朝露が青空を映してこぼれ落ちる。
 あるいは翼をはためかせた小鳥が、枝先を離れる――。
 そういう類(たぐい)の、些細だが充実感に満ちた時だ。

「やった、届いた!」
 次の刹那、シルキアは飛び上がらんばかりに歓び、手にしていた携帯用の細長い陶器の瓶(かめ)を思わず上に掲げた。
「よかったですよん……」
 他方、姉のファルナはというと、春の日だまりのように暖かな優しい微笑みをふりまいて、ほっと胸をなで下ろすのだった。
 良く似た茶色の瞳と髪を持つ仲良し姉妹は、心を弾ませ、頬を緩ませて視線を交錯させる。その傍でオーヴェルは何故か懐かしそうに目を細めた。ここからラーヌ河をずっと下った中流、セラーヌ町に住む両親のことを思い出していたのかも知れない。

 別れ際、玄関の扉の前でシルキアは単刀直入に訊ねた。
「いつ、村に帰ってくるの?」
 オーヴェルは軽く唸ってから
「そうね……来月くらいでしょうか。深まる秋と相談して」
「そう。はぁ〜」
 シルキアは待ち遠しそうに言い、溜め息をついた。オーヴェルは夏場だけ森の一軒家で暮らし、秋になると村に戻ってくる。
「葡萄酒、楽しんで欲しいのだっ」
 ここに来た本来の目的を忘れていなかったファルナは、自分より四つ年上で、背丈はさほど変わらない賢者に語りかけた。
 さて、続いて口を開き、礼を述べたのはシルキアであった。
「シチュー、とってもおいしかったよ!」
 それを聞くや否や即座に反応したのは、当然ながらシチュー崇拝者の姉だ。彼女は恨めしげに、妹に詰め寄るのだった。
「それはファルナの言う台詞なのだ〜っ」
「やっぱり……?」
 シルキアは半歩退きつつ、顔を引きつらせて返事をした。
「ありがとう」
 落ち着いた声に感謝の念を重ねて、オーヴェルが呟いた。

 外は暖かな初秋の陽射しに満ちあふれている。夏のように命の燃えるような午前ではなく、豊かさを帯びた輝きであった。
 見送りのオーヴェルは仲良し姉妹に言い聞かせ、約束する。
「霜が降り、雪が降る前には、また、必ず戻りますから」
「その時は、ケン坊とか連れてくるよ。荷物運びに、ね」
 シルキアは友の少年の名を挙げて、泣き笑い――と言っては大げさだが、まだずっと先に思える再会の日の待ち遠しさに、一時的な別れの哀しみをほんの少しだけ混ぜ合わせたような表情を浮かべた。
 翻って姉のファルナはというと、事態をもっと単純で楽観的なものと捉えているようで、和やかな雰囲気を醸し出していた。
「オーヴェルさん、元気でね〜」
「ええ、ありがとう。お二人とも帰り道、気を付けて下さい」
 澄んだ泉のように穏やかな蒼い瞳で、賢者は呼びかけた。

 名残は尽きぬが、ついに姉妹は歩き始める。
 土がへこんでいる場所を軽々とまたぎ、秋草を踏みしめて。
「またねー!」
 時折、シルキアは顔を後ろに向けて、瓶を高く持ち上げた。
「元気でねー!」
 家の前で、若き賢者も右手をゆっくりと大きく振って応えた。
 そのたびごとに、オーヴェルはあの朝霧の艶やかで爽やかな香りの幻が、再び鼻先をかすめるように感じられるのだった。

 空は蒼く澄み、白の薄い雲がたなびく。今日は晴れそうだ。
 姉妹が完全に見えなくなり、賢者は後ろ手にドアを閉めた。

(おわり)
 


  1月27日− 


[霧のお届け物(19)]

(前回)

「えーっ?」
 シルキアはすぐに驚きの声を発し、手にしている細長い瓶(かめ)を見下ろす。朝の森を乳白色に染めていた深い霧をたっぷり汲んだはずなのに、瓶の中からは何も出てこなかったのだ。
 彼女は思わずひっくり返してみたが、やはり何も現れない。
「どうして……?」
 力余って振り落とさないように注意しながら、宿屋の娘の妹は躍起になって瓶の口の辺りを両手でつかみ、軽く上下に振ってみた。もとより重さのない、つかみ所のない霧だったので、何の音もしない。椅子に腰掛けた姉のファルナは不安そうに手を組んで、素直な瞳を曇らせ、妹の作業を見つめていた。困惑気味の表情で立ち尽くすオーヴェルは、何か言わなければと唇の先を少し開きかけたのだが、そのまま口をつぐんでしまう。どんな風に姉妹を慰めたらいいのか、言葉が見つからなかったのだ。
 外の鳥の高らかな歌も三人にはもう聞こえてはいなかった。

「えいっ、えいっ」
 シルキアは諦めきれない様子で、瓶を縦に振り続ける。彼女の努力も虚しく、やっとのことで出てきたものといえば――透き通った雫がたった一粒、真っ直ぐにこぼれ落ちただけだった。
 ファルナは身を乗り出してその宝石に目を凝らし、オーヴェルも瞳を見開き、シルキアも思わず手を休めて眺めたのだった。
 それは明け方の空に還ってゆく最後の星、いつかの夜に頬を流れ伝うことができなかった涙、忘れ霜、あるいは暖かな春の光に舞い飛ぶなごり雪の最後のひとかけらを思い出させる。純粋さと儚さ、浄化された清らかさ、そして切なさに満ちていた。
「シルキア。霧は逃げちゃったのだっ、しょうがないですよん」
 姉は残念そうに言い、三つ年下の負けず嫌いの妹を諭した。

 ――と、その時である。
「ん?」
 嗅覚に何かを感じたのだろうか、オーヴェルは一瞬、鼻の穴をほんの少しだけ動かした。鼻から深く息を吸い込み、胸を膨らませていった賢者の表情は、しだいに元のように和らいでゆく。
 シルキアは急激に動かす速度を緩めて、疲れた腕を休め、ついに瓶を振るのをやめた。少女は呆然とした口調でつぶやく。
「消えちゃった」
 たったひとしずく、小さくてきれいな水滴だけを残して――。
 木々を覆い、姉妹の視界を狭めた早朝の濃霧のヴェールは、時が進み、朝が成熟するにつれて森だけでなく瓶の中でも失われたのだろう。瓶から取り外した小さなふたの内側には幾つもの水滴がついており、密封のために重ねた葉は湿っていた。
 オーヴェルはこのことを分かっていたんだ――賢者の様子に合点がいったシルキアは、ようやく落ち着きを取り戻し始める。
「あの……オーヴェルさん。ごめんね」
 他方、賢者は目を輝かせ、晴れ晴れとした顔で呼びかけた。
「いいえ。二人の霧のお届け物……ちゃんと受け取りました」


  1月26日− 


[大航海と外交界(21)]

(前回)

「あ、サンゴーン」
 レフキルは思わず何気なく声をかけたが、知らない者ばかりの船の上で見た昔なじみの友の姿は、一瞬のうちに数えきれない想い出が積み重なった心の〈拠り所〉となった。大地の温もりが足先から伝わってくるかのような、ふいにやってきた深い安堵を覚えつつ、慌てていた気持ちが少し落ち着くのを感じる。今さらながら鼓動が早かったことに気づき、他の人よりも長いリィメル族の耳を伸ばし、深呼吸しながら胸の辺りを手で押さえた。
「すごい、ほんとにレフキルの言った通りだ……」
 その隣で目を丸くしていたのは、背が低く愛嬌のある同年代のウピである。大いなる力を秘めた〈草木の神者(しんじゃ)〉であるサンゴーンが登場した時に、レフキルが予想した通りの台詞をつぶやいたので、ウピは驚きもしたし感心もしたのだった。
 他方、ゆったりした自分のペースを滅多に崩さないサンゴーンは、後ろで結んだ銀の髪を南西からの光に鈍く光らせ、前髪を海上の潮風になびかせて、穏やかな口調で訊ねるのだった。
「騒がしいですけど、いったい、どうしたんですの〜?」

 見張り台にいる周囲の監視役は、凛とした声を張り上げる。
「何があったー? ララシャ様はどうしたんだー?」
「コルドンは、そこで待機してろー!」
 三十歳を過ぎ、背が高く肩のがっしりした手練れの見張り役のコルドンは、四の五の言わずに返事を大洋の風に乗せた。
「りょうかーい! 俺ぁ、見張りの仕事に戻るぞー」

「……というわけなんだ」
 船員たちと語らっていたおてんば王女が対抗心を燃やしてしまった。レフキルは甲板での出来事をかいつまんで説明した。
「お姫様が、登っちゃったんですの?」
 だいぶ上の方に上がった白い船員服の人影を仰いで、サンゴーンは耳を疑ったが、さすがに周囲の状況は納得したようだ。
「それで、こんなに慌ただしいんですのね」
 ララシャ王女の命令――または脅し――を真に受けて、救出に向かうはずだった船員たちは身動きが取れなくなっていた。邪魔をしたら、容赦なくぶっ飛ばす。その言葉は王女の思惑通り、いや思惑以上に彼らの情熱を萎えさせる役目を果たした。
「とにかく綱だ、綱を待ってからだ」
「そうだな」
 船員の間には、救出作戦は先送りの気配が出始めている。

 船の舳先がかき分ける水音が、やけに重々しく響いていた。
「どうしたもんかなぁ」
 ウピは腕組みし、何かひらめかないかと知恵を絞った。するとサンゴーンも可愛らしい唸り声をあげて、宙に頬杖をついた。
「困りましたわ〜」
「守りと、攻め……万が一の備えと、説得」
 具体的で効果的な対策がないか、レフキルは考えていた。


  1月25日− 


[霧のお届け物(18)]

(前回)

 もともとは森の湧き水を汲んで帰ろうと思って持ってきた、水筒代わりに飲み水を運ぶのが目的の、この地域では割と一般的な携帯しやすい簡素な瓶(かめ)である。その細長い陶器の瓶の狭まった口に、本体と同じ材質で作られた取っ手付きの小さなふたを乗せ、上から水を弾きやすい種類の濃緑の葉を何枚も重ねて、その全体を革紐で軽く結わえていた。また出し入れするつもりだったので、紐は敢えてきつくは縛らないでおいた。
 さて現在、瓶のふたを適当に結わえていた紐をあっという間にほどいたシルキアは、重ねた葉を手早く一気に取り除き出す。
「あ、待って! 開けなくても……」
 相手を止めようとして、オーヴェルは彼女としては珍しく慌てた様子で右手を差し出し、形の良い指をしなやかに伸ばした。

 が、時すでに遅し――。
「え?」
 突然、予想外の制止を受けたシルキアは驚いて顔を上げ、オーヴェルの方を見つめて手を休めた。が、それは陶器の触れ合う軽い音が響き、ふたが持ち上げられたのとほぼ同時だった。
 そのとたんオーヴェルは表情を曇らせて、うつむき加減になり、行き場の無くなった手を力なく下ろしていった。座ったままのファルナは何も言わず、大きく瞳を見開いて何度か瞬きを繰り返す。呆然とたたずむシルキアは、胸の鼓動が数回打つ間、焦点の合わない遠いまなざしで目の前の賢者を眺めていた。

 カーテンの裾が微かに揺れ動き、光がちらちらと遊んだ。
 足踏みしていたそれぞれの時が再び緩やかに流れ始める。
「ん? どうして? 開けたらまずかった……?」
 右手に引っぺがした葉とふたを握りしめ、左手で瓶の本体を持っていたシルキアは、ふと我に返った。オーヴェルが制止した理由は何だろう、という好奇心が膨らんでいたのかも知れない――茶色の瞳の妹は少しだけ首をかしげて、やや上目遣いで相手を見据え、率直な疑問をひるまずにぶつけたのだった。
 訊ねられた方のオーヴェル当人はというと、何故か申し訳なさそうにシルキアの持っている瓶を横目で見つめて、言い淀む。
「それは……」

「あれっ?」
 と、すっとんきょうな声をあげたのは、少し離れた椅子に腰掛けて事態を見守っていた、シルキアの姉のファルナである。彼女は瓶を指さし、不思議そうに目をこすりながら言うのだった。
「何も出てこないのだっ……?」


  1月24日− 


[凍えた時の彼方で(2)]

(前回)

 雲に隠れた銀の星たち、裏返った占いのカード、散り散りになった心の断片。集めようとしてもなかなかすぐには集まらない。
 長い時間をかけてここまで歩いてきたような気もするし、確かに最初はそう思い始めたが――私はしだいに違和感と不安感を覚えた。実際には長い旅程というわけではなく、さっき急に歩き始めたようにも思えてくるのだ。足元の早瀬は相変わらず爽やかな音を立てて流れる。ふと見下ろした、一足ごとに持ち上げる私の白い革靴は、どうしても覚えのない光り輝く新品だ。
 しかもその革靴には藁が巻き付けて結んであった。どうやら滑り止めのようだが、苔の生えた岩場を歩く時には重宝する。

 私は歩きながら腕を曲げたり伸ばしたりし、後ろ髪を撫でたり、前髪を自分の身体を見直してみた。そうすることによって、自分が雪のように白っぽい絹で編まれた長袖の服を着て、黒い長ズボンを穿いていることに、初めて気がついた。どちらもやはり見覚えがない。そして私は手ぶらで、何も持っていない。
 私は立ち止まった。後ろに流した髪を前に持ってくると、それは良く知っている私の黒い髪だった。私は間違いなく本物だ。
 髪を撫でていると、自分が確認できるようで心が落ち着いた。狭い谷間を吹き抜ける風は、独特の甲高い声を発して、私の横を冷ややかに通り過ぎる。だが決し私は現実的な寒さというものを感じなかった。そのことについて愕然とし、むしろ内側から寒気を覚えて身震いした。腕や背中には鳥肌が立ったようだ。

 決して記憶を失ったわけではない、と思う。
 何かがどこかに引っかかっている。私を取り巻く状況、時間、単語。どれもぼんやりしてはっきりしないし、無理に思い出そうとすると頭が痛くなる。今の私が、ある程度の自信を持って言えるものがあるとすれば――おそらくそれは私の名前だけだ。

「私は、シーラ」
 声に出して言ってみた。そのかすれ気味の声にはあまり力が無く、耳もやや聞き取りにくかったが、私の喉も聴力も壊れてはいないことは分かった。私はシーラ、それだけは間違いない。
 私はその場に立ったまま、ゆっくりと瞳を閉じた。足は特に疲れていないけれど、体の奥の方に熱っぽさ、重いだるさが残っているような気がして、目眩(めまい)がし、身体がふらつく。
 私はとっさに眼を見開いて、あまりしっかりと焦点の合わない視線を遠いところから近いところへ、上から下へ、またその逆に進ませた。そうして慣らしていると、さっきの目眩は時折感じるだけの幻覚に過ぎないのかも知れない、などと思えてくる。辺りはやはり、何千年もかけて上流の早瀬が深くえぐってきた鋭い峡谷で、薄暗い日陰の、岩や石ばかりの荒涼とした風景だ。

 癖なのだろうか、何となく右手で左手の指を一本ずつ触ってみる。――とその時突然、何か固い感触を得ることができた。
 左手を掲げ持ち、両眼の焦点を思いきり近場に合わせると、小指に淡い青色の宝石が光っているのが見えた。それは魔法の力でも秘めていそうな、何故か不思議と暖かさと安らぎを感じさせる指輪だった。その他にネックレスや腕輪や飾りのようなものはしておらず、私が一体ここで何をしていたのか、何をしに歩いていたのか、手がかりになるような品物は見つからない。
 結局、指輪にしたところで正確な〈いわく〉やエピソードは何一つ思い出せないし、振り返ってみても無人の渓谷が続いているだけで、訊ねる相手など存在しない。相当の辺境なのだろう。
 見上げれば、谷に切り取られた青空は細く長く続いている。
 私は軽く溜め息をついて、正面の谷の奥の奥を見据えた。


  1月23日△ 


[弔いの契り(40)]

(前回)

「うおぉ!」
 カツーン――。
 普段の紳士的な物腰とはかけ離れた〈獣の咆吼〉をあげて駈けていったルーグと、赤い目を輝かせて構えていた男爵の剣が打ち合わされ、雷を思わせる鋭い火花が散った。彼らは素早く二度、三度打ち合い、ルーグの剣が男爵のそれをはたいた。
 次の瞬間にはルーグが思いきり間合いを詰めた。男爵は剣をはたかれて隙が出来たが、剣自体を手放したわけではなく、何とかそれを引き寄せて身を守る。隼のごとく無情にも振り下ろされたルーグの天誅は、既に男爵が頭上に構えていた剣に完全に防がれて、互いの刃の間から再び暗い空間にまばゆい光がきらめく。男爵はやや後ろに反り返る体勢であり、ルーグは剣を男爵に押しつけるようにし、斜め上から猛烈に圧力をかけた。
 かなり剣の腕があると見た若い男爵は、必死に体重を前にかけて両脚を踏ん張り、歯を食いしばって少しずつ押し返していく。二人はものすごい形相で眼を見開き、互いを睨め付けながら、刃先を合わせて力ずくで押し合い、低いうめき声をあげる。
「ぐおぅ……」
「くうっ」

 ルーグに続いて走った俺だったが、二人の戦いにどう絡もうかと考え、いつでも参戦できそうな距離まで近づいてから、剣を構えたまま状況を見つつ立ち止まった。向こうに味方が現れず、二対一で戦えば、やり方によっては有利になるかも知れねえ。
 が、シェリアの〈照明魔法〉から絶えず送られる輝きは何とか届くくらいだし、薄暗い中で呼吸を合わせたりとっさに判断するのは難しい。何しろまともな防具を身につけてないから、一振り、一突きがお互いに致命傷になる。失敗は許されねえんだ。
 そして可能なら人殺しはしたくない――たとえ相手があんな最低の奴でもだ。それはルーグも同じ考えだろう。確かに最悪の場合は、という覚悟は決めたけどさ、できれば剣を奪うかして相手の戦闘能力を無くしたいところだ。だからと言って集中力が散漫になれば俺らの方が危うい。どうやらあの若い男爵のルーグとの戦いぶりを見た限り、そんな余裕は全然なさそうだぜ。

 死に物狂いで押し返し、両者とも立ち上がって、剣を合わせたまま押し合っている。今度は男爵がふっと力を抜くと、ルーグが前につんのめりそうになるが、辛うじて足を出して身体を保ち、男爵の剣を思いきり自分の剣で上から叩きつけることで相手の突きを事前に防いだ。そのまま数度、剣で打ち合った彼らは、いったん引いて間合いを計った。両者とも、肩で息をしている。
「ホウ、ホウ……」
「フー、んっ、フー」
 俺は歯を食いしばり、手をこまぬいて見ているしかなかった。
 彼らの激しい戦いが一時的に休符の状態になると、その合間を縫って祭壇の裏からは低い声の呪文のつぶやきが聞こえてくる。いったい何者なんだ? 頭の大きさほどある妖しい蒼い珠は薄ぼんやりと不気味に淡い輝きを放ち、人気のない呪術の地下神殿に香草の匂いが漂い、三つの目を持つ立像が佇む。

「ケレンス!」
 突如、俺の名を呼んだのはシェリアの甲高く厳しい声だ。
 その時になってやっと、俺は彼女が言ったことを思い出した。
 タックの後ろで、今となっては俺たちの守り神となって必死に〈照明魔法〉の灯火を守っている魔術師のシェリアは、俺が飛び出す寸前に確かにこう言ったんだ――蒼い球を狙って、と。
 あんなに頭をめぐらして状況を仮定して、幾つか作戦を練ったつもりなのに、ルーグと男爵の戦いに引き込まれちまってた。
 ルーグと男爵はまだ見合ったまま、お互いに飛び込む機会を見計らっている。俺にはきっと、俺にしかできねえ役割がある。

 さっと右を向き、あまりに幅は広いけれど段の数は少ない、謎めいた階段の一部を凝視する。シェリアの魔法の光と、階段の最上段の台座に載っているらしい蒼白い瞬きの範囲内だけがぼんやりと浮かんで見える。俺が相手するのはこいつなんだ。
 試すように一歩を踏み出すと、右手に剣を構え、左手で闇を掻き分けつつ、俺はその階段に向かって猛然と走り始めた。
「行くぞ!」
「邪魔立てはさせん!」
 怒りを込めた男爵の声が響いたが、俺は構わず、この時とばかりに足の速さを発揮して全力で闇の濃い方へと駆ける。すぐに階段にたどり着き、固い石で作られた立派な階段をパーティー用の黒い革靴の裏で鳴らし、一段抜かしで駆け上がった。
 蒼い光はなるべくぎりぎりまで見ないようにだけ注意して、足元を見つつ一心に進んでゆくと――登るべき段がなくなった。
 俺はあっけなく、最上段に上がりつめていたんだ。俺の足元は、遠くからずっと見えていた、胸くその悪い透明な青だった。
「粉々にしてやる……」
 俺は呟き、ゆっくり顔をもたげて、台座に視線を向ける――。

「許すまじ……許さんぞ!」
 男爵の声と走り出した足音が聞こえ、次にルーグが叫んだ。
「待て、私が相手だ!」
 俺は後ろを振り返りもせず、目の前の台座から、今となっては諸悪の根元とも思える蒼い珠を引っこ抜こうと考えていた。じっと見ていると気分がおかしくなり、引き込まれそうになるので、俺はわざと目を閉じて手を伸ばし、呪術の珠に指先で触れた。
「……」
 何だこれは――。
 次の刹那、一瞬にしてこれまで感じたことのない寒気が俺の頭、身体、そして魂の根元を駆けめぐった。世界が歪み、足元がぐらつき、指先が痺れる。胸が凍てつくように苦しく、生きた心地がしなかった俺は、悲鳴をあげることすら出来なかった。
 周りの声も遠くなっていた。引っ込めた指先には氷のような冷たさが残っていたが、俺はほとんど無意識のうちに、まるで乱暴に苺をもぎ取るかのように手を伸ばし、剣を落としたこともその時はあまり気にならず――両手を出して下側から蒼い珠をかかえ持っていた。台座から外れる音が、耳元で大きく響いた。
 蒼い光の中で、何もかもがが歪んでいる。俺の手も、台座も、立像も、光さえも、階段も、この地下神殿も、空間も、時間も。

 だが、俺の頭の奥底にはシェリアが吹き込んでくれた言葉が、何とか生き残っていたようだ。だが、その時の俺はほとんど自分の意志がなかった。後から気づいたことだが、俺はその時、どうやらその珠を持ち上げ、叩きつけようとしたらしいんだ。
 するといつの間にか、不吉な呪文の詠唱は止まっていた。

 突如、俺は現実に返り、はっと我を取り戻した。
 俺の両手の中には、少し輝きの弱まった蒼い珠がある。
 だが、それを床に叩きつけることは叶わなかったのだ。
 俺の右手を、濃い灰色の靄(もや)がつつんでいた――。

(続く)
 


  1月22日△ 


[伝書風 〜受信(2)〜]

(前回)

「えっ?」
 あまりに予想外の訪問者に驚いたシルキアは、目を丸くし、続く言葉が出てこなかった――腰を浮かせたまま、白っぽい鳥を凝視する。他方、彼女に見つめられた鳥の方は、まるでそのことに疑問を感じたかのように一瞬だけ首を軽く横に動かす。
「鳥さん?」
 遅ればせながら気づいたファルナは、思わず大きな声で訊ねた。するとオーヴェルが振り向いて、唇に人差し指を当てる。
「ご、ごめんなさいなのだっ」
 ファルナは慌てて普通の声量で謝り、相手から伝わってくる〈希望に充ちた緊張感〉に、拳を握りしめて膝の上に置いた。窓から射し込んでくる曇りの日の夕暮れの僅かな光を背にして立ち、黒いシルエットになっているオーヴェルは何も言わず重々しくうなずいた。その表情は薄暗くて読みとりにくいが、固くなった仕草とは裏腹に、どうやら抑えた歓びにあふれているようだ。

 なるべく音を立てず椅子に腰掛け直したシルキアは、不思議な鳥がその細い片足を持ち上げ、何かを示したことに気づく。
「足? 怪我してるの?」
 初めて鳥の足に注目したシルキアとファルナの姉妹は、目を凝らし、良く分からないものが引っかかっていることを知った。
 オーヴェルは姉妹を安心させるように一度だけ小さく首を振ると、出窓にたたずむ雪像のように純白な鳥の方に向き直る。窓の隙間からは、時折、身も凍りつくような冬の冷たい風が吹き込んできていた。屋根の雪から雫が垂れる音も聞こえてくる。

 姉妹からは死角になって見えなかったが、若き賢者は鳥をつつみ込むようにして両手を広げ、瞳を閉じて優しくつぶやいた。
「μζДэωδ……さあ、元の姿に戻りなさい」
 魔源界の扉を開く深い集中力とともに、オーヴェルが〈天空魔術〉の短い呪文を詠唱し終わった、まさにその直後のことだ。

 刹那の出来事であった。
 過ぎ去ってみれば、夢のようにも思える――。

 意志を持ったかのように強い風が、部屋を横切ったのだ。
 それは真っ直ぐに吹き抜けて、行き止まりに当たると、まるで鏡に跳ね返った鏡のように反対の方へ快速に飛んでいった。
 テーブルの上に置いてあったハーブのお茶のカップは何とか持ちこたえたが、カタカタと音を立てて揺れ、中身が波立った。シルキアとファルナの茶色の前髪、そしてオーヴェルの金の髪が最初は部屋の内側の方に揺れ、次に外の方へなびいた。

「あっ」
 シルキアが鋭く叫んだ。気がついてみると、鳥の姿は消え失せていた。一気に持ち上げられ、ふわりと床に舞い降りた鉢植えの観葉植物の落ち葉が、新しい風の最後の名残であった。
 オーヴェルは紙片を手に、再び姉妹の方へと回れ右する。
「これです。手紙です、手紙が来ました」
 村はずれの一軒家で暮らしている若き賢者は上擦った声で言い、少し皺の寄った小さな紙片を胸元に大切そうに掲げた。
「ええーっ?」
「さっきの小鳥さんは、どこに行ったのだっ?」
 シルキアとファルナは、オーヴェルの他にはこの村では誰も使うことができず、そのオーヴェルも村人を怖がらせないため滅多に使わない〈魔法〉の不思議さに翻弄され、魅了されていた。
「あれは風が小鳥の姿に寄り集まっていただけですよ」
 心優しきファルナの心配をよそに、事も無げに説明したオーヴェルは、いったん壁の方を振り向いて腕を伸ばした。西からやって来た風の出入口となった出窓をしっかりと閉じると、軽い足取りで、姉妹が待っているテーブルの方を目指して歩き出した。

 まだ開かずに紙片をテーブルに置き、オーヴェルは言った。
「ファルナさん、さっきはごめんなさいね」
「えっ?」
 心当たりがないファルナが驚いて聞き返すと、賢者は語る。
「静かにして欲しいと、唇に人差し指を当ててしまって……。魔法を解く集中力を高めるために、やむを得なかったのですよ」
「別に、ぜんぜん気にしてないのだっ」
 あっけらかんとファルナは応え、妹のシルキアが補足する。
「お姉ちゃん、本当に気にしてないと思うよ。私もだけど」
「ありがとう」
 オーヴェルはほっと息をつき、次に視線を紙片に落とした。
「不思議ね。父の話をしていたら、両親から便りが届くなんて」
「ええっ! すごいのだっ、そんな遠くから……」
 素直なファルナは奇跡的な事態に感嘆し、絶句してしまう。
「なんて書いてあるの? もしよかったら、読んで欲しいな」
 シルキアが混じりけのない気持ちで言うと、相手はうなずく。
「ええ、ファルナさんやシルキアちゃんに隠す必要があるような文面ではありませんから、きっと。では、読み上げてみますね」
 オーヴェルは手を伸ばして、手紙をごく丁寧に開いていった。

 さっきまでは暗く思えていたランプも、闇の深まりとともに明るさを増しているように感じられた。緩やかに腕を伸ばしてくる夕闇は暗がりだけでなく鋭い冷気をも運んでくるが、ファルナたちは暖炉とランプの輝きと温もりに守られていて、安全であった。薪が燃える煤の匂いも、お茶の残り香も安らぎと郷愁を誘う。
 時折、外の木枯らしは強まり、吹き荒れた。硬く凍りついた根雪の表面にゆうべ降り積もった粉雪は、姉妹が知らない遠い南国の浜辺に広がる白砂のごとくに吹き飛んでいることだろう。
 淡々としたオーヴェルの声が一軒家の中に響き渡った。その合間に、暖炉の中で炎の子が燃えはぜ、弾ける音が混じる。
「遅くなったが、新年おめでとう。サミス村は深い雪に覆われている時分だろう。オーヴェル、元気に暮らしていますか……」
 字を読むのが不得手な姉妹は、賢者の音読に聴き入った。

 朝から重く垂れ込めた灰色の雲に覆われていて、ようやく夕方近くになって淡い光が現れ出した。何もかもを収縮させるような芯から冷え込んでいた薄暗い冬の一日もようやく静かに暮れかかろうとしている。今宵は雲間に星が覗けるだろうか――。
 泊まるための着替えを入れた背負い袋が二つ、部屋の隅に並んでいる。今日は時間を気にすることなく、姉妹はオーヴェルの〈伝書風〉の話に耳を傾ける――それらの不思議な経験が、暖炉よりも何よりも、二人の心を奥底から温めてゆくのだった。

(おわり)
 


  1月21日− 


[霧のお届け物(17)]

(前回)

「それは……」
 オーヴェルは最後の質問を言いかけたが、その先を続けずに口を閉じてほんの少しうつむき、いったん躊躇した様子だった。
 だがそれほど悩むことでもないと思い直したのか、彼女はこの初秋の朝にふさわしい晴れ晴れとした爽やかな表情で顔を上げ、軽く腰を浮かせて椅子を引き、足の裏とそれぞれの指に力を込めた。ついで膝を伸ばし、腰を伸ばし、背中を伸ばしてゆき、最後には完全に立ち上がる。座っていたファルナから見ると、オーヴェルは急に大きくなったかのように見えるのだった。
 淡い金の前髪をさらりと揺らし、オーヴェルは一息に言った。
「それは〈朝もや〉でしょうか?」

「おー!」
 ファルナの歓声があがる。シルキアはほっと頬を緩めた。
「……オーヴェルさんにはかなわないよ。当たり!」
 その響きが部屋の隅々にまで広がり、染み渡ってゆく。朝という澄んだ水たまりに溶けた、ささやかな花の香りのごとくに。
 外では木々の梢を揺らして、透き通った秋風の令嬢が森の一軒家のドアや窓をノックして、ずっと遠くに流れ去っていった。
「本当ですか」
 オーヴェルは最後の質問――あるいは〈回答〉にはそれほど自信があったわけではなかったらしく、彼女なりの驚きを持ってシルキアの返事を聞いたようだったが、そのあとには静かに歓びがやって来たようだった。その若い賢者が両手を後ろ手に組み、シルキアの方にゆっくりと一足ずつ歩いてゆく間、東の窓から射し込んできた光はオーヴェルの手や横顔の肌色を照らし、戯れて――移ろいゆく幾つもの細かな影を描き出すのだった。
 一方、シルキアは十四歳の瑞々しい肌をした右手で、再び瓶を持ち上げて、樹の幹を思わせる茶色の瞳をまばたきさせる。
「この中に、朝の霧がいっぱい詰まってるんだよ」
「霧の湖から汲んできたのだっ」
 ファルナが後ろから補足する。山奥のサミス村で生まれ育ち、村を出たことのない姉妹は、何かがいっぱいに充たされた広い場所を思い浮かべる時は、海ではなく湖を頭に描くのだった。

 さて、次の刹那であった。
 オーヴェルが着かないうちに、持ち運びの利く細長い瓶のふたを、シルキアが片目をつぶって覗き込んだかと思うと――。
「じゃあ、開けてみるね」
 しっかり者の宿屋の妹は、瓶のふたに手をかけたのだった。


  1月20日○ 


[伝書風 〜受信(1)〜]

(前回)

「誰なのだっ? こんな夕暮れ時に」
「しかも、窓から? 風じゃないよね?」
 顔を見合わせたファルナとシルキアの姉妹は、やや抑えた声で疑問をぶつけ合った。二人の顔には、今この家には女性だけしかいないというほんの少しの恐怖感と、どんな新しい物語の幕が開くのだろう――という多くの期待感にあふれ、そのまなざしは若き賢者オーヴェルへと吸い寄せられていくのだった。
 辺りにひっそりとしみこんできた〈黄昏の闇の粒子〉は、時が過ぎゆくとともにいつしか濃さを増していた。昼から夜へ架けられた幅の狭い秀麗な橋を渡る間、目はすぐには慣れず、物の色合いと輪郭はぼやけ、視界が狭まったような印象を受ける。
 だから二人は気づかなかったが、オーヴェルの頬は静かな喜びでうっすらと紅潮していた。彼女はおもむろに椅子を引いて立ち上がり、窓を見、それから年下の友人を見下ろして告げた。
「見てきましょう」
 村はずれの家に一人で暮らしている二十一歳の家主は靴の踵で木の床を律動的に鳴らし、ゆっくりと確実に窓との距離を縮めていった。他方、シルキアは落ち着かない様子で腰を浮かし相手の行き先を眺め、息を飲んで必死に目を凝らすのだった。

 コツ、コツ、コツ。
 三たび、窓を叩く音がした。
 それは〈伝えたい〉という強い意志と使命感に満ちていた。

「また」
 短くつぶやいたのはシルキアで、姉のファルナはうなずく。
「待ってね、今開けますから」
 暖炉の明るさと輝きの範疇を離れてオーヴェルは部屋を横切り、西向きの窓のそばにたどり着いた。彼女の話しぶりは良く見知った誰かに話すような口調だったので、姉妹は安堵する。
 若き賢者はしなやかな指でつまんだ光を通す薄手のカーテンを右側へ引き、奥行きのそれほどない簡素な出窓を押し開け、白い吐息混じりの声で外で待っていた者に挨拶するのだった。
「いらっしゃい。遠くから、どうもありがとうございます」
「誰?」
 シルキアはテーブルに手をついて、椅子から身を浮かせた中腰の姿勢のまま、思いきり首を伸ばして出窓の方を見やった。

 その時、甘えるように微かに返事をした訪問者は――。
「ピィーン……」
 足に手紙を結びつけた、鳩に似ている白い翼の鳥であった。


  1月19日○ 


[大航海と外交界(20)]

(前回)

「万が一、王女が落ちちゃったりしたら、私達みんな大変なことになるよ! なんか考えなきゃ……みんな登れるんでしょう?」
 レフキルは物怖じせず、身振り手振りを交えつつやや早口で熱弁をふるい、彼女の周りにいる船員の顔を次々と見回した。
 彼らはもともとミザリア国に仕える鍛えられた精鋭の船員たちであるため、最初の動揺は収まっていたし、顔を緊張で引き締めていた。彼らは荒れた海を乗り越える術を持っていたし、時と場合によっては海賊との戦いをすることも厭わず、心構えも充分な訓練もできていたが――要するに貴族の令嬢のわがままやおてんば、という類のものには馴れておらず、とっさに行動に移れなかっただけのことであった。それは南国の精悍な海の男に限らず、メラロール王国の騎士たちでも同じ結果だったろう。
 ある意味において、ララシャ王女の行動力は海の嵐や海賊よりも突拍子が無く、予想しづらく、扱いにくいものであったのだ。南国独特の天候、突然に激しい雨の降るスコールのごとくに。

 さて、船員のうち何人かが、とっさに判断して手を挙げた。
「俺が行く」
「俺も行く」
「じゃあ、俺が後から追いついて、綱を渡そう」
 素早く役割分担がなされ、それは速やかに実行に移される。マストに登るための縄ばしごに数人の男たちが駆けつけた。
「この人たちなら、きっと王女に追いついて、説得できるはず」
 レフキルは自分に言い聞かせるように言い、一度は安堵の表情を浮かべかけたが――すぐに厳しく口を結び、緑がかった銀色の前髪と長めの耳の先を軽く撫でて、祈るようにつぶやく。
「どうか無事でいてね……ララシャ」

「ララシャ王女ぉー、やめといたほうがいいんじゃなーい?」
 いつの間にかレフキルの脇に着いていたウピが、両手を口に当てて真上を向き、小柄な体を響かせて大声を張り上げた。その呼びかけは、船に張られた白い帆の他には遮るものとて存在しない広々とした空に吸い込まれ――食べられて消えた。あまりに果てしない空に拡散した声のかけらが、椰子の実のようにいくつか落ちてきて、海に落っこちる錯覚さえ感じてしまう。
「平気よー!」
 周囲の心配をよそに、楽しそうな王女のいらえが遙か上の方から聞こえた。太陽を思わせる美しい黄金の髪が輝いている。
 白い船員服に身をつつみ、縄ばしごに手と足をかけたまま首だけを動かして振り向いた王女の背中には、天使の翼が見えそうなほどに自由で活発で、無垢で、そして魅力的であった。
「きゃあ!」
 風が吹いて縄ばしごが揺れると、甲板のウピは思わず目を押さえて悲鳴をあげたが、翻って王女張本人はご満悦であった。
「あははっ、サイコーッ!」
 しかし楽しむだけでなく、王女は釘を刺すことを忘れてはいなかった。甲高い声の〈脅し〉が、天の方角から降り注いでくる。
「私の邪魔をするやつがいたら、容赦なくぶっ飛ばすわよ!」
 ――ララシャ王女の方が、一枚上手だったのだ。

 陽はかなり西に傾き、マストの長い影が船の板に横たわる。
 白い帆は風を孕み、その間も船は波を掻いて進んでいった。
「へえ〜っ?」
 レフキルは耳を疑って立ちつくし、相手から発せられた予想外の言葉に、珍しくすっとんきょうな声をあげた。その横で驚きに目を丸くしていたウピは、感嘆とも呆れとも受け取れるような、力は抜けているけれども妙に実感のこもった口調でつぶやく。
「あの人なら、本当にやりかねない気がするなー」
 ウピのその言葉は声量こそ小さかったけれど、辺りが静まり返った一瞬に発せられたため、思ったよりも多くの人間が聞いた。それを耳にして気持ちがぐらついたのは、今まさに縄ばしごに手をかけてマストに登ろうとしていた屈強の船乗りたちだ。
「何だって」
「王女が、ぶっ飛ばす……だって?」
「あそこから落とされたら……」
 ウピの素朴な感想が大きな影響を与え、彼らは躊躇してしまった。そもそも格闘修行に燃えている王女の噂は有名なのだ。

 その時、船室に繋がる扉が開いて、一人のほっそりした少女が現れる。緊迫した状況を感知せず、両腕を広げてバランスを取りながらふらつき気味にやってきたのはレフキルの親友のサンゴーンで、彼女はこの混乱した場面をさらにややこしくする。
「本を読んでいたら、目が回ってきましたわ〜」


  1月18日− 


[凍えた時の彼方で(1)]

 私は歩いていた。
 それも、ずいぶん長いこと歩いていた。
 身体は火照って、額や背中、脇の下に汗をかいていた。
 それもそのはず――緩やかとはいえ、ここは登り坂だった。

 足元には一面に、灰色や黒、白っぽいのや模様入りのや横線入りのや、また尖ったの、四角いの、丸いの、色も形も異なる石が敷き詰められている。私の脇を早瀬が流れていて、その勢いはどうやらだいぶ上流に来て細くなってはいるようだが、力強く活き活きと進んでいる。透き通った河は私の方に向かって爽やかに流れ、私はこの河の源の方に向かって歩いている。
 さらさら、さらさらと、こぼれ落ちる砂を彷彿とさせる軽やかな音を響かせ、水は休むことなく下ってゆく。私は後ろを振り向かず、前と足元を交互に見つつ、左右の足で小石を踏みしめる。

 しだいに霧が晴れてきた。辺りの空気は冷え冷えとしているようなのだけれど、どうも寒さを感じない。そもそも〈寒さ〉というものがどういうものだったのか、知識としては何となく覚えているのだけれど、実感として思い出せない。感覚と状況が乖離しているような、どこかぎこちない印象を受け、それは気にかかったけれど――私はそれを〈深く気にする〉ことが出来なかった。
 だから私は足元の石を軽く鳴らしながら、速くも遅くもない足の進め方で、相変わらず歩いていた。そのうち谷間を覆っていた乳白色の濃い霧はほとんど溶けて、隠されていた峡谷の景色が露わになってゆき、目にも鮮やかな狭い青空が見えた。

 わずかな水が勢い良く流れる早瀬に沿って進み、源流に近づくほどいくつもの大きな岩が転がっている道ともいえぬ道を、私は歩いていた。河が蛇行する部分では、流れの外側は急峻になり、場所によっては峡谷の横幅いっぱいが岩に覆われていて、その隙間を水が流れている。そうなると岩をよじ登らねばならず、頼りの河の流れを見失いかけることもあった。それでも、そういう場所を苦労して越えた先には透明なせせらぎが待っている。河に沿って進めばいい――という考えがどうやら私の中に刻まれているようで、それは信頼に足るものであるようだ。

 見上げてみれば、崖と崖の間には、蒼く澄んだ冬空が細く長く、まるで伝説の竜であるかのように身をよじって続いている。私が歩いてゆくと、その雄大で、どこか狭苦しそうな姿も変化を遂げていった。ここでは私が進まないと何も変わらないようだ。
 切り立った険しい谷はいよいよ幅が狭まり、崖の高さは増してゆく。その間を風が吹き抜けると、女性が叫ぶかのような高い音が響いた。私の自慢の長い黒髪が風に煽られて揺れる。

 私は、こんな場所を歩いていただろうか――。
 最初から独りだったろうか、それとも独りになってしまったのだろうか。誰かが一緒だったような気もするが、思い出せない。
 記憶がゆらいでいる――頭が働かないので、すぐに諦める。
 深く考えることが出来ないので、何とも言えないが、どうやら〈深く考えること〉ということがやりにくい――ような、気がする。
 私の口から洩れた粉雪のような吐息は、あたかも今の私自身であるかのように不定形のまま広がり、そして消えていった。

 わからない。
 何がわからないのかも、わからない。
 わかるのは、私がここにいる、ということだけ。

 でも私はここにいるけど、この私は今、どこにいるんだろう?


  1月17日− 


[霧のお届け物(16)]

(前回)

「うーん……色か」
 シルキアは小声で悔しそうに呟いたが、その後はわざと耳に右手を当てて聞き返すような仕草をし、声を裏返して訊ねた。
「いろぉ?」
「ええ、色よ」
 オーヴェルは全く動じず、口元を緩めて清楚な微笑みを浮かべる。他方、シルキアは末っ子らしく甘えた表情になり、大きく瞳を見開いて相手を仰ぎ、今度は低い声で繰り返すのだった。
「い〜ろ〜?」
「何色かしらぁ〜?」
 この遊びを楽しんでいたオーヴェルは、普段の真面目さも何のその、かつての子供時代の茶目っ気をほんの少しだけ垣間見させてシルキアに調子を合わせ、テーブルに頬杖をついた。
「いつものオーヴェルさんじゃないのだっ……」
 思わず唖然としたのは、端で聞いていたファルナであった。
 窓から射し込む豊かで緩やかな光の波はちらちらと舞い、それは可愛らしい小妖精たちの踊りを思わせる。窓辺の棚に置いてある鉢植えの、秋の野に咲く白い花は微かに揺れていた。

「ほんと、オーヴェルさん、いい質問だよ」
 シルキアはようやく普通の物腰と口調を取り戻し、感心したように何度もうなずきながら言った。椅子に腰掛けている姉のファルナは時折眠たそうに瞳を瞬きさせつつも、無理に話に割り込むことなく落ち着いて二人のやり取りを聞いている。オーヴェルは優しく頬を緩ませ、その眼差しは知的な輝きを帯びている。
「答えは……白かな」
 もったいぶったシルキアも、ついに素直に、幾分恥ずかしそうに答えた。自分の行動が大人げなかったと反省したのか、やや紅潮した顔は、悔しさを通り越したのか晴れ晴れとした雰囲気も混じっている。ここまで核心に迫ってきたら、ぜひオーヴェルに当てて欲しい――という期待さえ含まれているようだった。
 だからだろうか、今度はファルナが、
「羊のお乳の色にも似てますよん」
 と補足説明をした時、シルキアは手放しで喜んだのだった。
「お姉ちゃん、いいね!」
「では、そろそろ最後の質問、いいでしょうか?」
 オーヴェルが姉妹を交互に見つめながら訊ねると、立ったままのシルキアはテーブルに手を伸ばして、真っ白の霧をたっぷりと詰め込んだ瓶(かめ)を再び持ち上げ、胸の辺りに掲げた。


  1月16日△ 


[弔いの契り(39)]

(前回)

「ふざけんなァっ、早くリンを返しやがれ!」
 無意識のうちに両手で剣を構え、俺は吠えていた。声が、背中が、剣を握る右手が、もう抑えきれない怒りで震えていた。
 触れたとたんに破裂する泡、叩きつける寸前の氷、油を目の前にした炎、獲物に飛びかかる瞬間の獣、町に近づいた竜巻。後から考えてみれば、そういう類のものがその時の俺だった。
 俺の語尾がだだっ広い地下の呪術神殿に響き渡り、吸い込まれて消えていった。コウモリがどこかで翼を広げる音がした。
 ルーグはすぐに歩み寄り、俺の肩に軽く手を乗せた。何も言わなくても、相手の考えは伝わってくる――お前の気持ちは理解できるが、あと少しだけ冷静になってくれ、ケレンス――と。

 男爵は目を赤く輝かせているだけで、俺の怒号には応えなかった。俺は歯を食いしばり、左斜め後ろのルーグの方に、熱く燃える瞳で向き直った。彼は哀しそうな眼差しで重くうなずいた。
「例え貴方に守るべき契りがあったとしても、他の村の女性たちを巻き添えにすることは、決して許されることではない。一刻も早く皆を解放して欲しい。それが貴方に残された道だと思う」
 ルーグがあくまでも交渉しようとしていたので、俺はいったん激しい怒りを抑えつけねばならなかった。相手に選ぶチャンスを与えるルーグのやり方は紳士的で正しいのだが、その時の俺はまだるっこしくて腑(はらわた)が煮えくりかえる思いだった。

 シェリアも俺と同じ思いのはずだが、本来は割と短気な性格のはずの彼女は、交渉役のルーグを立てて今はじっと黙っていた。その時の俺は、何故シェリアが怒りをぶちまけないのか苛立ちさえ覚えたものだったが――もしかしたら、あの妖しい香草の匂いやら低い呪文やらから俺たちを守るために何か精神的な壁を作っていてくれたのかも知れねえし、彼女は頼りの綱である照明魔法も維持しなければならなかった。怒ることによって魔法への集中を途切れさせる訳にはいかなかったんだろうな。

 俺は剣を握る手にさらに力を加えつつも、戦闘の構えを解き、相手の回答を待った。非の打ち所の無いような美しい球形で、素晴らしいほど透明感のある蒼い光を放っている水晶玉は、なおかつ最も邪悪で、禁忌ともいえるほどの卑しい気配を放っている。その水晶玉の横に立つ赤い眼の男爵が再び口を開く。
「私は五年待ったのだ」
 何の回答にもなってねえ。その刹那、俺の頭に血が上る。
「てめえ、この野郎ッ!」
 俺の鋭い罵声を無視し、古びたタキシードに身をつつんでいて背が高く痩せている男は口元をゆがめ、薄ら笑いを浮かべた。
「間もなく儀式は完成し、アイラは完全に生き返るのだ」
「操られているのよ、あの人」
 耳元でシェリアが短く呟いた。彼女の顔を睨みつけるかのように見ると、彼女は苦しそうに唇を結び、額に大粒の汗をかいていた。シェリアはさっきから独りで戦っている――それが分かった時から間もなくして、俺の感情はにわかに収束していった。
 決して怒りが無くなったわけじゃねえが、俺が先走ったり冷静さを欠いたり、前後の見境がなくなってしまえば、結局は輪を乱してしまい、皆に迷惑をかけちまうことに気づかされたからだ。

 辺りを再び重い静寂が覆い尽くした。男爵とは異なる誰かの低い声の呪文は水晶玉の裏手の方から聞こえ、霧雨のように細く長く休まずに続いている。それに関心を向けるたびに不吉な気持ちが湧き起こり、胸騒ぎがし、それは徐々に大きくなる。秋の望月の夜更け、冷え込みは染み込むかのように強まる。
 ごくりと唾を飲み込んでから、ルーグは堂々と相手に告げる。
「やむを得ず、力ずくでも返して貰うことになるが」
 そう言って彼は初めてゆっくりと剣を構えた。鈍い蒼の光が切っ先に輝く。彼の動きを合図に、俺もタックも臨戦態勢に入る。
 すると、あいつは口を曲げ、胸を上下させて笑いやがった。
「クックッ……私を殺せるものか。貴族である私を殺せば、お前たちは国の重罪人となり、捕らえられて首を切られるまでだ」
 確かに身分は違うとは言え、人間として赦せない行為だし、なんて卑怯な言い分だ。俺は驚き、困惑し、最後には呆れた。

「重罪人を滅ぼす者が、必ずしも重罪人になるとは限らない。例え罪を犯しても、村人たちが我々の味方になってくれるだろう」
 だけどルーグも負けてはいなかった。無益な戦いを嫌い、残忍な殺戮を憎み、人を守るための強さを志向してきたルーグだったが、それは時にはきれい事では済まされねえ。なるべく最悪な事態にはならないように努力はするが、リンや村の女性を救うため、ルーグは――いや、俺たちは、結果として手が血に染まることがあっても厭わない――という覚悟を決めたんだ。

「話しても無駄なようだ……ケレンス、タック!」
 ルーグは顔半分だけ振り向き、既に臨戦態勢の整っている俺とタックに呼びかけた。俺たちは視線を交わし、うなずき合う。
「ああ!」
「はい、リーダー」
「馬鹿者め。ここで骸となり、永遠に救われぬ魂になるが良い。神聖な儀式と神聖な場所を汚す、低俗な下衆(げす)どもが」
 背が高く、金髪を短めに刈り揃えた三十歳前後の若い男爵は、水晶玉の台座の後ろへおもむろに手を伸ばした。鞘を床に投げ捨てる空虚な音が響き、やつは闇から創り出したかのような漆黒の剣を手にしていた。紅く染まって光を放つ不気味な二つの珠――〈かつては瞳と呼ばれていたもの〉で、やつはその刃をまじまじと見つめていたので、本当に闇を凝り固めて作った魔物の棲む剣なのかも知れない。厄介だが、やるしかねえ。
「蒼い球を狙って!」
 シェリアの鋭い囁き声が斜め後ろから聞こえ、俺の記憶に刻み込まれる。俺の頭の中に仮定と作戦ができあがっていった。
「言いたいことはそれだけか。行くぞ!」
 剣を掲げたルーグが飛び出し、一瞬遅れてやはり剣を構えた俺が駈けだした。タックはシェリアを守る位置に立ったようだ。
 結局、手勢が現れる気配はなく、ルーグは真っ直ぐに祭壇へ向かって駆けていった。俺も近づくにつれて、魂がゆらぎそうな香草の匂いと、微かな声で続いている呪文――少なくともこの奥には他に誰かいるということだ――、そして不吉な感覚は高まったが、勢いに乗って足を風のように動かした。男爵も剣を構えて、あの不気味に瞬く蒼い球を背にして立ったのが見えた。
 重い闇の中、こうして戦いの火蓋が切って落とされたんだ。


  1月15日− 


[握りしめて]

「もっと力いっぱい、握りしめてほしい……」
 私はやや上目遣いになり、潤んだ瞳を瞬きして頼み込んだ。
 口から洩れる暖かな吐息は、灰色の空に吸い込まれてゆく。

 私はもう一度、相手を真剣に仰いで、そして言うのだった。
「お願い。固く、力強く、握りしめてほしいの……」
 天気は湿ったみぞれが降る、とても寒い一日だった。
 もう少し冷えれば、私の大好きな雪に変わるかも知れない。
 空は重く垂れ込めて、窓ガラスをみぞれがかすめてゆく。

 ――冬の握力とは、すなわち気温の低さなのだ。
 私がさっきから頼み込んでいるのは、灰色の空だった。
「もっと力強く、握りしめて……雨粒を!」
 そうすれば、みぞれは雪に変わるから。
 


  1月14日− 


[闇鍋と目玉焼き(15)]

(前回)

「ふう」
 老人は小さなため息だけを洩らすと、もはや朝に対して愚痴を言うことさえ諦めたような様子で、何も言わずに杖をつき、彼としてはやや足早に歩き出した。夜の間は絶大なる威圧感を放っていたが、明るさの狭間の中では腰が曲がっていることばかりが目立ち、その動きはくたびれた蟻が這うようにさえ見えた。
 外では明るさと希望に満ちた朝を頌えて、小鳥たちの唄が高らかに爽やかに鳴り響いている。彼が戻ってくると、誰が用意したのか、テーブルには白く輝く真新しい皿とフライ返しと、銀色の鈍い光を秘めたフォークがきちんと並べて用意されていた。
 彼はその脇に置いてあった白い手袋を厳しく睨みつけた後、ふっとそのまなざしの力を弱めると、最初は左手に、次に右手にはめた。黒ずくめの彼の服装の中で、手袋だけが雪のように真っ白く浮かび上がる様は、何とも似合わず違和感があった。

 老人はヒビだらけの唇を固く閉ざし、曲がりくねった杖に身を任せ、靴音を鳴らして床を軋ませながら暖炉に向かう。彼が君臨していた漆黒の夜は消えてなくなり、森と野原の境目が光に満ち溢れている。それは彼が目を背けつつも覗き込まざるを得ない、かつての〈闇鍋〉の中身が証明している。油ならぬ光の子が飛び跳ねる鍋をじっと見下ろし、おもむろに取っ手を握る。
 朝の陽の目玉焼きは、見る者を眩ませて残像を焼き付けるほどのありったけの輝きをばらまきながら、鍋の底で生まれたての歓喜に激しく身を震わせていた――決して焦げ付くことなく。

 年老いた黒ずくめの男は左手で重たそうに鍋を持ち、曲がった膝に今こそ踏ん張りどころと力を込め、右手に杖をついて、短い距離ではあるがバランスを取りながらゆっくりと時間をかけて慎重に移動していった。直視しないようにしているが、大いなる規模の暖かさと輝きは、鍋底から広がって投げかけられ、部屋の中全体に満ち足りる。あまたの埃が消えゆく星の名残を思わせてきらめき、老人の顔に谷のように刻まれた皺の深さがより誇張される。その香りは食欲をそそるが、男は無表情だった。

 こぼさずに戻り、杖をテーブルに預け、両手で鍋を置く。手袋を脱いでテーブルの脇に置き、フライ返しをつかむ。未だに勢いが衰えず、油に似た光の子を飛び散らせる目玉焼きの下に射し込み、持ち上げて、それを横に用意された白い皿に移した。
 純白の皿に横たわると、光の〈目玉焼き〉はようやく落ち着き始めるのだが、煙か霧のように大量の蒸気を噴きだしている。不思議なことに、テーブルには気がつかぬうちにスープの充たされた深皿が用意されており、細い湯気が立ちのぼっていた。
 老人は椅子に腰掛けて、軽く瞳を閉じる。どうやら彼に課された役目は、残り僅かなようであった。彼は目を開け、重く言う。
「では、朝食を頂こう」

 熱くて男が舌打ちをする破裂音、フォークの鳴らす微かな調べ、歯の合わさるリズム、とろける目玉焼きを飲み込んで喉が鳴る音、スープをすする響き――それらがしばらくの間、交錯した。その音楽の土台では、鳥の歓びの唄が鳴り止まず続く。

 男が無表情のまま目玉焼きを食べ尽くし、スープの残りが僅かになった頃、いよいよこの妖しの森にも明かりがさしてきた。
 とてつもなく大きな木の長い陰が森の一軒家を覆うと――。
 次の瞬間である。いつの間にか古びた家は影の中に没し、そこに存在していた痕跡さえ何一つ残さず、姿が見えなくなった。煙突も、窓も、ランプも、ベッドも、戸棚も、テーブルも、椅子も、鍋も、皿も、フォークも、そしてひょうきんな〈影〉も、黒ずくめの老人の姿さえも。それとともに夜空の最後の星が消え失せた。

 こうして、真新しい〈今日〉が本格的に幕を開けたのである。

(おわり)
 


  1月13日− 


[闇鍋と目玉焼き(14)]

(前回)

 黒い長衣と帽子と靴とに身を固めた男は戸棚の前で立ち止まり、あまり自由の利かない痩せた右腕を出した。長い年月が刻み込まれた横顔は憮然とした感じでほとんど表情の変化に乏しかったが、光の瓶詰めを元あった場所に置くため腕を精一杯伸ばした一瞬だけ、眉間に皺が寄り、苦悶がよぎり、呻いた。
「う……っしょ」
 同じように歩き、同じような仕草をしているはずなのに、カーテンの隙間から生まれたてのまばゆい光が入り込んでくる朝の中で、黒ずくめの老人は年相応――あるいはそれ以上にくたびれ果てて見えた。光の筋道には微細な塵が浮かび上がり、黒で塗り固められて不思議さと不気味さを演出していた男の衣装は、今となっては時期外れも甚だしかった。清らかな静けさと厳かな残忍さという二面性を併せ持つ重厚な夜の魔法は溶けてしまったのか、一軒家の中にあるもの全てが色褪せて見えた。天井からの吊り提げランプ然り、暖炉や椅子然り、鍋然りだ。

 部屋の片隅の暖炉で温めていた鍋からは、赤々としたまばゆさを辺りに投げかけて、輝く謎の目玉焼きに火が通ってゆく。ジュウジュウという音が聞こえ、食欲をそそる香ばしさが広がる。
 それは暖炉の炎ではなく――朝の光に燃えていたのだ。
 いや、それこそが朝の卵、一日の赤子、新しい太陽である。


  1月12日− 


[霧のお届け物(15)]

(前回)

「動くもの……なるほど」
 テーブルに初秋の朝陽が注ぎ込む。オーヴェルは腕組みをしてほんの少し首をかしげ、ファルナの言葉を検討するために考えに耽ろうとしたが――その時、シルキアが場を仕切り直す。
「はい、あと二回だよ〜」
「ええ」
 促されたオーヴェルは相づちを打って頬を緩めたが、その目は本気だった。だが彼女は決して焦ることなく、テーブルに横たわった空っぽに見える瓶(かめ)をじっと見つめ、まずは現状で分かっている限りの情報を声に出して理論的に整理し始めた。
「シルキアちゃんの動きを見ていましたが、特徴的な物音はしなかったように記憶しています。となると転がる物ではなさそうですし、生き物でもない。おそらく液体でもない。動くもの、と」
「すごいのだっ」
 さっきまで相当眠そうだったファルナは、四つ年上のオーヴェルの理詰めに驚いて、茶色の瞳をしばたたく。ちょっとした遊びとはいえ、今度焦り始めるのは、むしろシルキアの方である。
「ねえ、オーヴェルさん、次の質問はまだ?」

「ええ。もう少しで決めます」
 はっきり答えた若き賢者は自分のリズムを保ちつつ、所感をさらに付け加えて、姉妹の様子と顔色の変化を伺うのだった。
「粉末のものかも知れない、とも考えましたが、自律的に動くわけではありませんし……それに、とても軽そうなものですね」
 鳥たちの唄声が外の森に響いている。問題を出した時、この瓶の中身はオーヴェルにも当てられないだろうと高をくくっていたようもに見受けられたシルキアだったが、迫りつつある真相に半ば感心し、半ば諦めた様子で肩の力を抜き、吐息を洩らす。
「ふぅー。さすがオーヴェルさん、いい線行ってるよ」
「うん、うん」
 ファルナは事の成り行きを心から楽しんでいるようで、口元に可愛らしいえくぼを浮かべ、二人の顔を交互に見ながらうなずいた。秋の〈おはよう〉の時間は爽やかさと静けさとともに熟れてゆき、主役から脇役へと転じ――しだいに森の空気の主軸は豊かな恵みに彩られた〈こんにちは〉の刻へと移ろってゆく。

 オーヴェルはシルキアの方に向き直り、こう訊ねるのだった。
「二つ目の質問を決めました。その中身は何色でしたか?」


  1月11日○ 


[伝書風 〜到着(2)〜]

(前回)

「そうだ。まず、ケン坊たちに手伝わせよう。若いんだから」
 村の友達の少年の名を挙げ、シルキアは名案とばかりに軽く手を打った。すると姉のファルナは寒気が走ったように一瞬肩を震わせて軽く身を引き、大きく目を見開いて、妹をまじまじと見つめた。過去に幾つも苦い思い出がある、とでも言いたげに。
「シルキアは人使いが荒いのだっ……」
「なーに、お姉ちゃん。人聞きが悪いよ〜」
 妹がわざと上目遣いになり、低い声で呟き、どこか魔女を思わせるおどろおどろしい雰囲気を演出すると、姉はたじろぐ。
「うーっ。シルキア〜」
「お姉ちゃん、怖がりすぎ!」
 そう言ってシルキアは笑った。他方、ここにいる三人の中では最も年上だが、まだ二十一歳の若さに過ぎないオーヴェルは、頬杖をついて心底楽しそうに姉妹のやりとりを見守っていた。
「ふふふっ……」
 その穏やかな表情が曇ったのは、シルキアの一言だった。
「あとオーヴェルさんの魔法で、雪を溶かしちゃうとか?」
 テーブルのランプの炎が微妙にゆらぎ、影が変化を遂げる。

 オーヴェルは慎重に言葉を選びつつ、優しく諭すのだった。
「ええ……でも、シルキアちゃん、ごめんなさいね。魔法は自然が秘めた力を引き出して、お願いして借り受けて使うのですよ。だから、あまり自然の摂理に逆らう使い方は出来ないのです」
「うーん、そうかー。じゃあ、しょうがないね」
 シルキアは気楽そうな言葉とは裏腹に、やや緊張した口調で言った。どうやらオーヴェルの気分を害してしまったのではないかと気にしているようだ。そこで姉のファルナが話題を変える。
「オーヴェルさんのお父さんって、どんな人なのだっ?」
 するとシルキアも気を取り直して、次の話に興味を抱いた。
「お父さんも、賢者さん……なんだよね?」

「そうですね。父は」
 山奥の村に住む若き賢者オーヴェルは、いったんそこで口をつぐんだ。空のように、また翠玉のように深く蒼い瞳から生まれた真面目な視線は遙か遠くを見つめ、懐かしい面影を思い描いているようだ。彼女はゆっくりとこの現実――長い冬のさなかにあるサミス村の外れにある一軒家と、だいぶ冷めてしまったお茶の残り香、暖炉の燃えはぜる音、そして実の妹であるかのように可愛がっているファルナとシルキアの元――に還ってゆく。
「とても尊敬できる人です。賢者の先達としても、父親としても」

 その時。
 妙な音が、雰囲気を寸断した。
 コツ、コツ、コツ。
 何かが窓を叩いたのだった。

 まずシルキアが敏捷に振り向き、次にオーヴェルが、遅れてファルナが窓の方を見た。風が窓を打つのに似ていながら、はっきりとした意志を持ち、風と趣を異にする響きだった。三人は黙って耳を傾け、音が再び鳴ることを期待し、息を飲んで声を潜めて待った。心臓が高鳴り、まばたきの速さで刻が刻まれる。

 コツ、コツ、コツ。
「聞こえた!」
 抑えた囁き声でシルキアが叫ぶ。ファルナは不思議な予感に胸をときめかせて身を乗り出し、オーヴェルは軽くうなずいた。


  1月10日△ 


[冬空によせて]

 あの大空のように

 蒼く澄んだ深い心持ちで

 無意味なつまらぬ怒りを抱かず

 些細なことを赦せたらいいのに――


 人の数だけ気持ちがあり

 全ての人は異なるのだから
 


  1月 9日− 


[祈り]

 横に立って見守っていたテッテは、森の神様に祈りを終えたジーナとリュアに、真面目な口調でこう呼びかけるのだった。

「祈りとは、誰もが一人になり、暗闇の澄んだ泉のそばで神様と向き合える……どんなにその前が慌ただしくても、たとえ周りに人がたくさんいても、不思議と静寂で神秘的な気持ちになれる、短くとも大切な時間なのではないかと僕は考えています」
 彼は森の木々を見上げ、とても穏やかな表情で話を続ける。
「一日に数度しかない、時の休符……僕の考えを押しつけるつもりは毛頭ありませんが、僕はそんな風に考えているのです」

「うん」
 ジーナとリュアは、少しまどろんだ瞳ででうなずくのだった。


熊野速玉大社(2005/01/09)
 


  1月 8日○ 


[いにしえの道]

シェリア、今夜はやけに静かじゃんか」
 夕食の席でケレンスが言い、私は清らかな気持ちで答える。
「古い道には、不思議な力があるのよ」

 ――古い道には、不思議な力があるの。
 それは、もうこの世にいない母の言葉だったろうか。
 いにしえから様々な物資や数々の人、諸々の想いを運んできた街道には、目には見えない精霊のようなものが宿っている。
 風のざわめきを感じながら誰もいない道を一人歩いて、木の枝の揺れる音を聞いていれば、気持ちが透き通って清明になってゆき、宇宙と繋がれそうな気がする。心が――魂が震える。
 森の精霊たち、神様たちは、確かに存在するのだと感じた。一人で行ってみた、最近はあまり使われることの無くなったこの町の外れにある古い道は、私にそんな感慨を起こさせた。

「そんなに言うなら、明日はみんなで行こうぜ」
 肉にフォークを突き刺し、少し赤い顔をしたケレンスが上目遣いに言った。古代の浪漫が分からない、がさつな男は最低。
 でも、あの神秘的な道を体験していないから、そう軽々と言えるんだろう。私は軽く目を閉じつつ、真面目に答えるのだった。
「静かに赤裸裸な自分自身と向き合わないと、この感動は得られないと思うわ……。森に宿る永い生命と、深い懐を感じて」
「あたしも行ってみたいなぁ」
 好奇心旺盛な妹のリンローナが興味を示した。妹の好奇心は幅広く、それでいて、いつでも何事にも真摯に向き合っている。
「リンローナにも勧めるわよ。幹の太い針葉樹にも、枝先を渡る風にも、何とも言えない畏怖すべき力が混じってるから。あれは本物だわ。ここで私が説明するより、行ってみた方が分かる」
 私はそう答えて、麦酒の入った小さな樽を傾けるのだった。
「うん。明日行ってみようかな」
 リンローナはまっすぐにうなずき、知的な瞳をまばたきさせて軽く微笑む。ルーグとタックも真面目に受け止めて、しばし物思いに耽っていたし、私をからかったケレンスも今は黙っていた。

「古い道には、不思議な力があるのよ」
 私はもう一度、噛みしめるように言った。
 そして雰囲気を元に戻すべく、わざと甲高い声を張り上げる。
「店員さーん、追加注文。同じお酒、おかわり頼むわねー!」
 場は一気に和み、私たちは再び世間話を始めるのだった。


熊野古道(2005/01/08)
 


  1月 7日− 


[伝書風 〜到着(1)〜]

(前回)

 ブルーベリーに似た野生の果実を乾燥させた深い紫色のお茶をすすり、盛んに燃える暖炉のそばのテーブルに座って、三人の若い女性たちが語り合っていた。いつしか外は暮れかかり、テーブルの中央付近にはやや暗めのランプが灯っている。
 熱いお茶の湯気から洩れる香ばしさが、辺りに漂っていた。
「毎年毎年、雪かきは、ほーんと大変だもんねー」
 そう言って可愛らしく溜め息をついたのは、三人の中では最も若い十四歳のシルキアだった。家主のオーヴェルはうなずく。
「方々のお年を召した方の雪かきを手伝うなんて、マスターらしいですけれど、腰を悪くされたのは本当にお気の毒です……」
「雪が虹みたいに色がいっぱいあれば、お花みたいに野原を塗ってくれれば楽しいですよん。きっと村のみんなも喜ぶのだっ」
 身を乗り出して無邪気に言ったのはシルキアの三つ年上の姉のファルナだ。二人は茶色の瞳と髪を持つ姉妹で、一見すると良く似ているが、姉の瞳がどこか夢みるように微睡んでいるのに対し、妹の目は比較的細く、現実を見据えている印象だ。
 その妹は落ち着いたしっかりした口調で姉に語るのだった。
「でもお姉ちゃん。それって根本的な解決にならないよ。サラお婆さんの負担を減らしてあげたいのがこの話の始まりだもん」
「うー。そうか……」
 ファルナは困惑気味に唸り、首を傾げ、目をぱちくりさせた。


  1月 6日− 


[大航海と外交界(19)]

(前回)

 身体を鍛えていて無駄な肉が無く、敏捷なララシャ王女は、縄ばしご状に張られた綱を両手でつかんで跳躍すると、マスト(帆柱)の上の方にある監視台を目指して一途に登り始めていた。船員服の白いズボンの裾が風に煽られて、はためいた。
 縄ばしごは垂直というわけではなく、やや角度の急な斜面となって監視台まで続いており、実際はそれほど歩きづらいということはない。ただ縄ばしごの段と段の間は空いており、もしも足を踏み外したり、後ろに反り返って落ちたりしたら、甲板に叩きつけられて一巻の終わりだろう。何の支えもなく、段は予想以上に長い。しかもマストは進む船とともに大きく揺れる――。
「おおっ?」
「おおー!」
「おお」
 一瞬、王女が足場を固めきれなかった時、船乗りたちからほぼ一斉に洩れた感嘆の声は、ある者は不安そうな疑念を含めたり、またある者は単純な驚きからの叫びであり、唖然とした響きの者もいれば、事態を重く見て冷静に考え込む者もいた。
「驚いてる場合じゃないよ、誰か王女を止めなきゃ!」
 縄ばしごの下にたどり着いたレフキルが声を限りに叫ぶと、面白半分だった連中や、ただ驚いていた者もさすがに青ざめた。
「おい、どうかしてララシャ様に命綱を渡せないか?」
「駄目です、あとは監視台のコルドンさんに何とかして……」
「とにかく綱を用意しろ、綱を!」
 船員たちにも緊張が走る。他方、ララシャ王女は人のいない方に向かって無造作に硬い革靴を脱ぎ捨て、靴下を放り投げ、滑りにくい素足で登り始めていた。天候の変化に的確に対応したり、外敵や海賊を追い払う気概や技術を兼ね備えたミザリア国屈指の手練れの船乗りたちも、おてんば姫君の突飛な行動にはまごついてしまった。その間、ララシャ王女は一段ずつ地道に進んで、その輝く黄金の髪は順調に空へ近づいてゆく。
「どうしよう……」
 凛々しく立派にそびえるマストの高さを仰ぎ見てウピは戸惑っていたが、しだいに心細くなり、レフキルのそばにかけつける。


  1月 5日− 


[闇鍋と目玉焼き(13)]

(前回)

 それは溢れんばかりの光につつまれた目玉焼きであった。
 何の卵かは分からぬが、強い力を持った紅い目玉焼きは飛び跳ねるように弾けた。最後まで抵抗していた闇の志士たちを一気に溶解させ、名残となった黒っぽい油を燃やしながら、鍋底で踊る目玉焼きは良い香りを薄暗い部屋いっぱいに広げていった。カーテンの隙間から射し込んでくる朝陽は本物で、きっと家の外でも長い光の矢を射て、闇を駆逐していることだろう。
 ゆうべ暖炉にくべた薪はほとんど灰になり、弱火すら姿を消して今はくすぶる程度だ。森の一軒家にひっそりとたたずむ見えない空気の流れは冷え切っていたが、岩の間から清水が湧いてくるような新鮮な感覚は少しずつ止めどなく染み込んでくる。

 腰が曲がっていて不思議な杖に体重をもたせかけている老いた男からは、もはやかつての厳しい緊張感は感じられず、見たところ、もうどこにでもいるような一人の老人にすぎなかった。
 彼が持っていた小さな瓶から水飴のように零れ落ちていた光は急激に弱まり、雫状になって垂れ、ついにピタリと止まった。
 やや腰の曲がっている年老いた男は、左手でつかむ曲がりくねった杖にもたれかかりながらゆっくりと振り向き、部屋の中を歩き始めた。ランプの油は切れ、ひょうきん者の〈影〉ももういない。古びた床板をきしませつつ家主は歩き、戸棚に向かった。


  1月 4日− 


[伝書風 〜飛翔〜]

(前回)

 空を覆いつくしていた灰色の雲の大陸には幾本かの亀裂が入り、か細く淡い光が合間から降り注いでくるけれど、風に運ばれてきた新たな雲の層によってすぐに埋められてしまった。
 セラーヌ町の郊外の畑はいつしか途切れ、眼下には夏草が枯れて渋い茶色に変わっている無人の荒れ野原が広がっていた。そこを古びた煉瓦で舗装された唯一の頼みの綱である街道が東の方角に走っている。それは弱い流れではあったが、途切れることなく続いており、現役の道と言うことがうかがえる。
 ラーヌ河は幾つもの支流に分かれ、上流へ向かって分岐してゆく。そのたびに、水利を利用した農村や漁村、小さな集落が現れては、後ろの方へと遠ざかってゆく。東に向かう街道は澄んだ支流を木橋でまたぎ、その橋の前後には通過税を取る木造の建物が見える。道の左右には雪が残るようになってきた。

 空気は刺すように冷たく、霞がかったような地平線はしだいに見通しが利いてきて、頭に白い冠を戴いて長く連なっている中央山脈の山並みがくっきりと間近に見えてくる。草原はいつしか深い森となり、山がちになってきた。根雪が残り始めた〈唄の村〉アネッサや、ひっそりと木々の間にたたずみ林業で栄える〈森の町〉リーゼンはとうに通り過ぎた。町の中では辛うじて除雪されている煉瓦の街道であるが、夜から朝にかけては凍結するのは明らかに思えた。集落を過ぎると、谷や渓谷は切り立ち、道も深い雪に埋もれている。寂しくも厳しい冬の俯瞰図だ。
 ラーヌ河の最上流は谷を削って右へ左へと蛇行し、純白の雪に閉ざされた街道はそれに翻弄されて曲がりつつ、小さくとも勾配のきつい幾つもの峠を越える。そのうちに森の影は少しずつ長くなり、辺りの明度は下がり出して、太陽の姿の見えない夕暮れを迎える。行く先は再び見えづらくなってくるのだった。

 広げたままの翼をほとんど動かすことなく、鳩に似ているが一回りも二回りも大きな白い鳥は天翔る。鳥は男の手から放たれてから一度も地上に降りることなく、一路東へ向かい、疲れを知らぬようであった。ただしその鳥を見た者は誰もいなかったが。
 鳥は翼を広げてバランスを取りつつ西風に乗り、船が水上を走るかのごとく速やかに空を駈け抜けた。まれに方角を調整するため翼をはためかすと、ささやかな風が生まれては消えた。

 曇り空の下、森は途切れ、やや広い盆地が現れた。険しい中央山脈を控えて、ラーヌ河の源流に近づき、雪に埋もれた街道も果てた。緩やかな斜面を利用した牧草地も、角度の急な家々の屋根も白く染まっている、ほとんど陸の孤島の集落だった。
 辺りは薄暗くなっていた。白い翼の鳥はいつの間にか高度を下げており、集落の中心部にほど近い特徴的な赤い屋根の宿屋をかすめて、村外れに近い一軒家に舞い降りてゆく。立派な煙突からは細い煙がたなびき、窓ガラスは結露で曇っていた。
「ヒョオー」
 足に紙片を結びつけられた鳥は、木枯らしのように鳴いた。


  1月 3日− 


[正月に想う]


 ちょっと恥ずかしそうで、

 それでいて、ちょっと誇らしげ。



 1.雑誌の正月号で紹介されていた無名の写真家。

 2.正月の広告に入っていたデジタルカメラの写真。



 どちらも《撮る》プロだから――。

 


  1月 2日− 


[伝書風 〜発信〜]

 立派な口ひげをたたえ、白髪の混じり始めた壮年の男は、厚手のコートに身をつつんで、ラーヌ河の自然堤防の上で灰色の曇り空を見上げていた。風は西の方からやや強く吹いている。
「ほっ」
 男は厳しく眼を細めて眉間の皺を深め、細い糸のように張りつめた緊張感が周囲にも伝わってくるほど神経を研ぎ澄ませていた。手袋をはめていない右手を、彼はゆっくりと掲げていった。反対の手には几帳面に四つに畳んだ紙片を握りしめている。
 冷たい風は東へ流れ、遠くの山並みは霞んでいる。川幅の広いラーヌ河の中流を上り下りする帆船や漁船の数は普段よりもだいぶ少ない。枯れ草の中に混じる背の低い木々に、赤桃色の花が夢の名残のようにひっそりと咲き、見え隠れしている。

 頭のはるか上で、彼は指の短い右手を開いた。それはあらゆる方角に〈精神力で編んだ網〉をかけるかのように、不思議な雄大さを感じさせる動作であった。そのまま微動だにせず、瞬きだけを繰り返して、彼は何かをじっと待っているようだった。

 次の刹那である。
 男の瞳が鋭い眼光を放ち、左から右へ動いた。
 風の流れが微妙に変わったのだ――。

 男は稲光のような素早さで、右手を硬く握りしめ、空気をつかんだ。ただちに捉えられた風は、実体を持って長い尾となり、水が氷に変わるように白くなり、しだいに鳥の形を取っていった。
「ギー!」
 身をよじろうとし、鳴き声を上げる鳩に似た白い鳥の首の後ろ側を右手でしっかりと抑え、男は左手に握りしめていた紙片を人差し指と中指で挟み、コートのポケットから人差し指と親指を使って紐を取り出した。その紐を口にくわえ、巧みに左手と右手を交換し、今度は左手で鳥の首を抑えつける。そして空いた右手で、四つ折りの紙片を鳥の足首に素早く紐で結びつけた。

 成功を確かめると、彼は即座に〈伝書風〉を空高く放つ。幻のように大きく翼を羽ばたかせ、白い鳥はセラーヌ町を発って遠く旅立つ。冬の西風に混じり、鳥の姿は灰の空に消えていった。


  1月 1日○ 


[年初の祈り]

「今年が、良い一年になりますように……」
 澄みきった水色の空を仰いで願いを呟いたのは、コートとマフラーと手袋と帽子という完全防寒の姿で雪の野原を背景に立ち、黒い髪がますます艶やかに見える十三歳のレイベルだ。
「そうだね、レイっち! ナンナもそう思うよ〜♪」
 その隣で人なつこい笑顔を浮かべ、穏やかに語って大きくうなずいたのは同い年のナンナだった。雪深い北国のナルダ村で、深い赤のコートを羽織り、レイベルと同じようにマフラーや手袋という暖かい格好に身をつつんでいる。そしてナンナの右手に大切な魔女のほうきが握られていた。髪は朝陽のような鮮やかな金色で、今日は左右で可愛らしい三つ編みにしていた。

「あ、そうだ。その祈りをさぁ、村のみんなに伝えちゃおうよ☆」
 ナンナは新年に相応しい、爽やかで少し大人びた声で言う。
「えっ?」
 レイベルは驚いて聞き返した。その耳に、ナンナは唇を寄せてささやく。ナンナの真っ白な吐息が洩れて――レイベルの顔はみるみるうちに明るくなった。それから二人は年初の澄んだ青空を見上げ、ナンナは魔女のほうきを握りしめるのだった。

「今年が、良い、一年に、なります、ように……」
 言いながら、レイベルは書き慣れた仕草でペンを動かした。
 そのペンは普通のペンではなく、丸く固めた雪玉であった。それは書けば書くほど削り取られて、小さくなってゆく。手袋を通して、水っぽく溶けた冷たさがレイベルの指先に伝わってくる。
「できた!」
 魔女の孫娘のナンナは紅く染まった頬を気にせず、満面の笑みを浮かべた。彼女は魔法が上手くいった喜びを噛みしめる。

『今年が、良い一年になりますように! レイベル&ナンナ』
 広々と横たわっているナルダ村の空の便箋には、字のきれいなレイベルが白雪のインクで記した祈りの言葉が並んでいた。

(おわり)
 




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