2005年 2月

 
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2005年 2月の幻想断片です。

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  2月28日△ 


[雪の積もりし朝(4)]

(前回)

 木造の民家の庇を伝い、湯治客向けのひなびた宿の雨樋を駈け抜け、溶けた雪は透明な水の一粒となってこぼれる。一定の間隔で、まるで唄を口ずさむかのように落ちてくるものもあれば、忘れた頃を見計らって一気に続いて降ってくるものもある。
 しばらくの間、姉妹は民家の屋根の下で、こぼれ落ちてくる雫の軌跡を眺めていた。見る方向によっては朝日がまぶしく、瞬きが終わらぬうちにごく速やかに空へ羽ばたく水の珠は、明るい光の七色にも――あるいはそれ以上にもきらめくのだった。
 飛翔は短いが、それは一粒ごとに必ず異なった旅程であり、落ち方や光の具合、風の状況によって輝きは無限に異なる。

 向こうの蒼空は冴え渡っていた。いくつもの方向に掛かっている透き通った薄雲は、あたかも南国原産の紅みがかったメフマ茶に羊の乳を注いだ時に描かれた不思議な模様を思わせる。
 再び見晴るかす畑は、一面に白い花が咲いているかのように、ほぼ一色に染まっている。昨日、村を訪れた際には溶けかかっていた部分も、北風が新たに筆を下ろして塗り直され、一晩にして違う世界に来たかのようだ。こうして白に染まると、すべてが神秘的で不浄で、少女のように聖(きよ)らかであった。

 雪の雫は、雨と違って少しずつ溶けながら落ちる分、その音楽は長続きする。きびきびと冷え込んだ男性的な朝の空気は、しっとりして柔らかい女性的な面も確かに持ち合わせている。
「きれい……」
 妹のリンローナはその風景に見とれていた。どこかの民家の庇の下にいて、通りの反対側の一段下がったところにある畑や山裾の街道、遠い山並みを眺めていると、その間を軒先から落ちてきた雫がたまに通り過ぎる。遠近感や動静が見事だった。
 短い氷柱(つらら)は子供の歯のようだ。想像力を逞しくすれば、ここは雪と氷の口の中――外の世界への憧れを強く抱けば、それは最後には春を待ち焦がれる気持ちへと昇華する。

「モニモニじゃあ、あんまり降らなかったわよね」
 シェリアが答えた。髪はだいぶ乾き、身体の湯気もずいぶん収まってきていたが、耳たぶや頬は血色が良いままだった。
 モニモニ町は姉妹の故郷で、ずっと離れた南西の国にある。その海に面した岬の町では、年中を通して温暖であり、雪は滅多に降らなかった。その地名を言葉として洩らす時、二人の横顔には別れてきた人々への熱い想いや、良く似た種類の温かな懐かしさが漂い――と同時に、深い郷愁が翳ろうのだった。

 少し重みを帯びた雰囲気を転換させたのは、姉の機転だ。
「まあ、美容には良さそうよね。この湿った空気は」


  2月27日− 


[雪の積もりし朝(3)]

(前回)

「ほら、お姉ちゃん。聞こえるよ」
 温泉から出たばかりで頬をほんのりと紅に染めたリンローナは、若草色の瞳を見開いて嬉しそうに声を弾ませ、耳に手を当てて斜め上の音を聴く仕草をして、四つ年上の姉を見上げた。
 二人は肩や腰回りの楽な服を着ているが、湯冷めしないように上着をしっかりと着込んでいて、体を拭いた手ぬぐいや着替えを詰めた大き目の革袋をそれぞれ右手にぶら下げている。
「何が?」
 首をかしげて訊ねた姉のシェリアは――その直後に叫ぶ。
「ひっ!」

 庇の先端の下に立っていた彼女の脳天を、軒先からこぼれた雫が直撃したからだ。雪解け水は冷たく、肌に刺激を与えた。
 シェリアは思わず退き、後ろを振り返って、妹を見下ろした。
「あんたも、雫には気をつけた方がいいわよ……」
「うん。お姉ちゃん、大丈夫?」
 リンローナが不思議そうに訊ねると、シェリアは頭の頂を指先でさっと払い、一瞬うつむいてからすぐ顔を上げ、誤魔化した。
「で、何よ?」
 シェリアは恥ずかしそうにそっぽを向いて、やや厳しく問う。
 するとリンローナは軽く瞳を閉じて耳を澄まし、言うのだった。
「聞こえてくるよ……雫の唄が!」


  2月26日− 


[雪の積もりし朝(2)]

(前回)

 メラロール市から北東に向かい、主な街道を外れた山の中の温泉街に、朝陽はまぶしく降り注いでいる。新しい雪は、その一粒一粒が宝石であるかのように光の加減で色とりどりにきらめく。農具や井戸に積もった分を眺めると、ゆうべ降ったのは大した量ではないようだが、そもそも根雪の深い山野辺の村だ。

 入浴後は適当に髪留めで結んだだけなので、透き通るかのように美しく若い薄紫色の前髪は、時折落ちてくる。それをしきりに掻き上げながら、姉のシェリアは感心したように洩らした。
「筋肉痛には効くわね」
「うん!」
 背が高く早足の姉に遅れないようについていくのがやっとの、小柄なリンローナは、白い吐息混じりの返事とともにうなずく。

 姉妹は他の仲間とともに冒険者ギルド(組合)の仕事の斡旋を受け、王都メラロールを出て、冬場の短期の小遣い稼ぎに来ていた。山間部の温泉街の雪かきと雪運び、雪捨てである。
 メラロール市からそれほど遠くないため、湯治客が多く訪れ、中には貴族もやってくるこの村では、雪かきの人員が不足している。あまり数の多くない村人たちは湯治客の料理などに追われて忙しいからだ。二人が作業に入ったのは昨日だが、それは姉妹の予想以上の重労働だった。指示された場所によってはかなりの積雪があり、根雪は硬く凍りついて重かったからだ。

 かろうじて除雪されている狭い通りは曲がりくねって続いていたが、ついに家々が途切れ、左手には雪に埋もれた畑が現れる。そこまで来てシェリアは立ち止まった。妹がすぐ追いつく。
 視界が、景色が広がってくる。なだらかな畑は遙か下の方まで続き、山肌を縫う街道が見える。畑は、途中からは牧草地になっているのかも知れないが、その境界線は分からなかった。
 雪雲が色々なものを一緒に運んでいったので、空は信じられないほど青々と澄みきって、限りなく薄い雲のヴェールを気持ちよく流し、どこまでも続いている。雪をかぶった緑と白の交錯する針葉樹の森が見え、河がある。その向こうは雪原で、脇街道をたどれば王都に行き着く。寒いけれども心惹かれる景色だ。


  2月25日− 


[雪の積もりし朝(1)]

 雪あがりの朝は、
 雪明かりの朝は、
 しずくの珠が唄ってる。

 後から考えれば――。
 それはこの冬での最良の朝の一つに挙げられる日だった。

 二人の若い女性が、まだ乾ききっていない髪や首のうなじの辺りから温かな湯気を上げながら、ゆうべの雪でうっすら白く化粧した湯治町の細い裏通りをやや足早に歩いていた。年月を経て黒ずんではいるが、立派なたたずまいの木造の家々の庇に沿っていけば、雪を踏むこともなく進んでゆける。軒先からは長い鼻を思わせる氷柱(つらら)が垂れ下がり、雫がこぼれる。
 空気は、雪の朝独特の、しっとりした湿り気を帯びている。

「おはようございます!」
「ん? ……おぉ、おはようさん」
 老婆と挨拶を交わし、すれ違ってから、リンローナは言う。
「朝から温泉に入れるなんて、ほんと極楽だよね〜!」
「ほんとよねぇ」
 その前を歩いていた姉のシェリアは、首を左側に九十度ほど動かして妹に視線を送り、機嫌が良さそうに相づちを打った。
 早起きの妹に肩を揺り動かされてもベッドからなかなか出ようとしなかったシェリアは、何とか這いだしてやたら眠そうな眼(まなこ)のまま準備をした。温泉に行く途中も、寒さと眠気でほとんど目が開いておらず、やや荒れた唇は不機嫌そうに結ばれていたが――それと今の軽い足取りで歩いてゆく十九歳の女性とは、とても同一人物とは思えないほどの変貌ぶりだった。
 辺りには鼻をつく独特の硫黄の匂いが、時に弱まり時に強まりながらも常に流れている。夏は日よけ、今は雪よけとして役立っている民家や商店の庇の下を伝い、暖かい上着を羽織った姉妹は歩き続けている。トンネルをくぐり抜けるかのように。


雪の積もりし朝(2005/02/25)


  2月24日− 


[心をこめて(3)]

(前回)

「でさぁ、そん時にティグが避けちゃってサ」
 歩きながら、サホは身振り手振りを交えつつ家のことを語る。彼女には、やんちゃな盛りの弟や妹が何人かいるのだった。
「走ってきたディミがクレザにぶつかったもんだから、もう大変」
「うん」
 リュナンは興味深そうに相づちを打ち、サホは話を続けた。
「クレザはビービー泣くわ、ディミは逆に怒るわで。あたいがディミを引っぱたいたら、今度はディミが泣くしさあ。クレザは痛いって言い出すし。ティグとシンは口笛拭いて知らんぷりしてるし、収拾つかなくて……そのうち、ぶち切れたおっかぁが登場!」
「いいなぁ。楽しそうで」
 リュナンは遠い目をして羨ましそうに呟いた。サホは驚いて目を広げ、紅っぽい髪を振り乱して、親友に説明するのだった。
「そんなんじゃないって! あれって戦場だよ、ほんとにさァ」
 するとリュナンは顔を上げて、少し寂しそうに笑うのだった。
「だってねむちゃん、一人っ子だから、ね」
「うーん……」
 言葉に詰まったサホは真面目な顔になって唸り、軽く頭を掻いてから黙り込んでしまう。リュナンは溜め息混じりに言った。
「いつか、弟か妹が欲しいなぁ」

 入り組んだ通りを馴れた動作で歩き、店と店に挟まれた日陰に入ると、リュナンの眠気は少し落ち着いたようだった。辺りは商店が立ち並んでいる通りで、石畳の道は曲がりながら急な上り坂になって続いてゆく。春風もまた、器用に曲がりながら迷路の終点を目指し、足元を流れてズボンやスカートを揺らした。
 人通りはそれなりにあるが、この辺りは生鮮品よりも雑貨屋などが多く、庶民の町ながらもどこか落ち着いている雰囲気があった。店主も、威勢が良く手当たり次第に声をかけてくる髪の短い中年男性や爺やというタイプは少なく――白髪の頭に帽子をかぶった老婆や、あまり売る気がないのではないかと思えるほど、店の奥でゆったり構えた紳士的な人物などを見かける。

 この辺りは、ズィートオーブ市の旧市街の中では商いを営む庶民が住んでいる街区で、それぞれの家で伝統的に続けている店を出し、軒を連ねている。一つ一つの建物の敷地は狭く、奥に向かって細長いが、高さは三階建てで揃えてあり、歴史と文化と街の調和を感じることが出来る。レンガを木組みで補強し、耐久性と見栄えを良くした北国風の店が多いが、中には南国風に白い石をふんだんに用いた建物ばかり集めた〈南風通り〉もある。一階が店、二階・三階が住居で、屋根裏部屋があるのが一般的である。また、広場には露店の並ぶ朝市が立つ。

 学院に通っているサホとリュナンは、業種や収入はだいぶ違うがそれぞれ商人の娘であり、この街区の者はたいがい顔見知りであった。たいがいは、この割と大人しい道筋では挨拶をしたり目配せしたり、あるいは手を振ったり会釈したりする場面が多いが、さすが〈世界の商都〉、中には商魂豊かな男もいる。
「おう、サホ、そいからリュナン嬢ちゃん。いま帰りか?」
「よーっ、おやっさん。儲かってる?」
「こんにちはー」
 足を止め、サホとリュナンは八百屋の親爺に相槌を打った。すると親爺は脈有りと見込んで、一気呵成に攻勢をかけてきた。
「今日は月光実(レモン)が安いぜ。見てみろよ、この色艶!」
 だが店の前で横に手を振り、サホは再び歩き出すのだった。
「ごめん、また今度ね。今日は寄りたいとこがあるんサ」
「何だよ。つれねぇなぁ」
 わざと大げさにふてくされた店主に、サホは明るく手を振る。
「また来るよー」
「失礼しまーす」
 リュナンもサホの後を追い、小走りしつつ軽く左手を上げた。

(続く?)
 


  2月23日− 


[大航海と外交界(25)]

(前回)

「やっぱり、降りるつもりはないんだね。強情なんだから」
 レフキルはややうつむき、ぽつりと洩らした。王女の回答は予想の範囲内だったのだろう、レフキルは特に困惑した様子も無く、とりあえず一つ一つ手順を踏んでいるだけのように見えた。
「どうしましょうの……」
 斜め後ろに立っていたサンゴーンはやや不安そうに訊ねる。
 ウピはというと相変わらず無駄口は叩かず、少しだけ緊張した面持ちでじっと待機し、冷静に事態の推移を見守っている。きちんと立場をわきまえており、自分から取り仕切るような出すぎた真似はしないが、何か指示があればいつでも動けるように神経を研ぎ澄ませて、甲板長らしき人望のある壮年の船員とレフキルとを見つめている。それは他の優秀な船員たちも同じだ。
 突如、レフキルは思いきり息を吸い込み始めると、やや長い両耳を立てて腰を低くし、上半身を仰け反らせて両手を口に当てた。ほんの一瞬だけ、辺りの空気の流れが止まって――。

 それから彼女は顔をゆがめて、地の底から響く大声を張り上げる。驚いたトビウオが、船の横で跳ね上がったほどだった。
「お・て・ん・ば〜っ!」
 甲板にいた者らは、あっけにとられて目が点になっている。
 少し間があり――天から王女の強烈な回答が降ってきた。
「不敬罪で〜っ、ぶっ飛ばすわよ〜っ!」
 これぞララシャ王女の名言、決め台詞である。ただ王女自身は友人のレフキルとのやりとりを楽しんでいるような節があり、怒っているようには聞こえなかった。他方、これまで破天荒な格闘姫とほとんど交流がなかった船員たちは、噂にはかねがね聞いていたけれども、こうして初めて王女本人から振り落とされた雷に、大半の者は度肝を抜かれていた。もちろん、さっきレフキルとやり合ったあの若い少年船員も、そのうちの一人だ。
「うへぇ」

 その間も帆船は順風を孕み、ルデリア大陸の最初の寄港地であるモニモニ町、そして今宵に向かって、快速に水を滑る。
 心配したり驚いたりで目を白黒させていたサンゴーンは、やがて呆けたような表情となり、マストの高みを仰ぎ見ていた。
「不敬罪、怖いですの……」
 彼女の銀色の髪が、海上の風にさらさら音を立てて揺れる。
 そしてウピはというと、全く別の事柄に感心していた。彼女が驚き、頬を紅潮させて見守っていたのはレフキルの方だった。
「すごい、王女とやりあってるよ」
「ウピ……」
 その呟きにレフキル本人が気づいて、軽く苦笑しつつも、出逢ったばかりの新しい友人の名前を呼んだ。ウピはうなずいた。
「必ず無事に下ろそうね、王女を。ゼッタイ協力するから!」
 ウピは状況を的確に判断し、周りとの輪を大切にする謙虚さも兼ね備えていた。彼女はレフキルよりも二つ年上であり、こういう火急の際のパートナーとして、また頼りになる相談相手としてふさわしい存在だ。レフキルは安堵した様子で語るのだった。
「うん、やってみよう。ほんと心強いよ」


  2月22日− 


[鏡の向こう側(6)]

(前回)

『しってるくせに』
 いらえはすぐにあった。それは至極当然の流れであるかのように、気取ったところがなく絶妙のタイミングで発せられたため、最初の一瞬、若く品のある姫君は何の疑問も抱かなかった。
 だが、そのねっとり絡みついて相手を小馬鹿にするかのような言葉の響きは、シルリナ王女の背中に本能的な寒気を走らせたようだ。十八歳の生娘は僅かな間だけ腕を痙攣させた。

 壷の表面に映ったシルリナ王女そっくりの闇色の女性は、そう答えて唇をゆがませ、異様なほど艶やかにほくそ笑んだ。その眼が細められ、髪の毛の一本一本がイトミミズであるかのように自分勝手に揺れ動き、薄暗い中で唇だけがやけに紅っぽく浮かび上がって見えると――元がシルリナ王女の清楚で整った顔なので、とてつもなく邪悪な印象に変わる。壷の水面を、ほとんど消えかかった微かな波紋が通り過ぎるたびに顔の輪郭が崩れ、部分ごとに伸びたり縮んだりを繰り返すのだった。
 それを見下ろしていた王女本人は、眼を見開いて瞬きをし、頬を硬くして人並みに驚いた様子を見せた。だが、恐怖よりも好奇心が打ち克ったのだろう――その場から立ち去るわけでもなく、むしろ引き込まれた様子で、壷の中を覗き込むのだった。
 夕方に活けた冬の花がしなびてきた独特の倦怠した匂いが、高品質のランプのほのかな油の匂いを縫って、部屋の下の方から立ちのぼってくる。冷え切った空気は、暖炉から吐き出される温もりとせめぎ合い、やがて談合して妥協し、濁っていた。

『ふふふっ。何を怖れているの』
 壷の中の王女はひねくれた笑いを浮かべ、壷の外の姫君を見上げていた。鳥籠に閉じ込められた鳥に似た、怒りと反乱、哀れと絶望、媚びと期待、相手を馬鹿にする感情と勝ち目のない屈辱、解放されて自由をつかむためにここから飛び出して暴れ回りたい気持ち――そのように複雑に入り組んだ綯(な)い交ぜになった思いを、性悪に見える表情の各所に表しながら。
 嫌なものや過去の失敗、自分の醜いところから視線を背けるかのごとく、王女はゆっくりと目を伏せていった。ところが、突如として思い直したのか壷の水面を睨みつけるようにし、少し開いた唇を震わせつつも、厳しく毅然とした声で答えるのだった。
「怖れてなんか、いません」
 今度はありったけの悲哀を込め、半分泣いたような声で、壷の鏡の闇に閉じ込められた相手は深窓の姫君を問いつめた。
『嘘よ』
 それが胸に突き刺さって、王女ははっと息を飲んだ。それでも身じろぎ一つすることなく、若く有能で国民から慕われている乙女は、問題の核心に触れる一つの回答を用意した。言うもはばかるが、それでも言わなければいけないというような苦衷と、事態の打開に向かう決意を込めて、低く秘かに語るのであった。
「あなたは……私よ」


  2月21日− 


[凍えた時の彼方で(6)]

(前回)

 針葉樹を軽く凌駕するだろう――全く手の届かない高みに連なっているだだっ広い天井は、やや下向きに楕円のような丸みを帯びてゆがみ、その全体がぼんやりと神秘的に輝いていた。輝きと氷が出会い、光の入り込む角度が微細に変化し、そこかしこで一瞬の宝石が生まれてはきらめくが、すぐに消えてゆく。
 目を凝らせば、どこか貝殻を彷彿とさせる半透明の白い筋が入っていることが分かる半透明の天井は、光を完全に通すわけでもなく、また完全に遮断するわけでもなく、質の悪い分厚い曇りガラスを思わせて淡く乱反射していた。春の満月のようにぼんやりとしていたが、それよりも意志を持った強い輝きを帯びている。夏の夕立のあと、雲間から光が現れて水たまりを蒸発させている情景も思い出したし、秋の霧の朝のようでもあったし、氷の粒が舞う天気雨――天気雪の、冬の午後をも想起した。
 数限りない斜めの細い輝きの線が降り注いでいる。それはまさに光の雨で、方向や色を刻々と変化させた。音もなく投げかけられる楽器の糸のようでもあり、それは魅惑の演奏だった。

 息をひそめて耳を澄ませば、少し硬質でくすんでいる微かな雫の音が、まれに不規則に響いた。高い場所から落ちてきた雫が純なる氷に弾ける命の調べ、生と死の入れ替わる時だ。
 そう、私は谷間を歩いていた頃よりも随分色々なことを思い出し始めていた。まだひどく絡まった状態だったけれど、頭の奥底でもつれていた糸の一本目はついに解れた――のだと思う。
 私が通ってきた穴から冷たい風が吹きつけて、私の背中をやや強引にぐいと押した。私はまだ風の冷たさが分からなかったが、闇色の後ろ髪と漆黒のズボンの裾、白い絹の服の袖を揺らしたのち、私を通り越して真っ直ぐ前方に向かって消えた。
 きっとここは、凍りついた湖の底にぽっかりと開いた広大な空洞のような場所なのだろう。どのような過程を経て出来上がったのかは分からないけれど、それは妙に私の心を魅了し、捉えて離さない景色だった。そう、まるで今の私のようだから――。

 風の後ろ姿を追い、私はおもむろに視線を前へずらしてゆく。
 まず視界に入ってきたのは、圧倒的な成長力と繊細さを併せ持ち、天井近くまで氷の枝を伸ばした無数の木々だった。その枝先には白っぽい氷の花が咲き、丸い氷の実がなっている。
 溶けかかった水滴が枝を僅かに枝を伸ばそうとし、またすぐに凍りつき――それを星の数ほど繰り返したのだろう。樹氷というより〈氷樹〉とでも表現するのが似つかわしく思えた。鋭角で、冷たくて、硬くて壊れやすいけれど、どこまでも澄んでいるつつましく気高い林だ。その間を、私は天を仰ぎつつ歩を進めた。

(続く?)
 


  2月20日− 


[消えゆくものへ]

 消えゆくもの
 時代錯誤なものが
 なぜ美しく見えるのだろう

 映画館
 公衆電話
 郵便ポスト
 壊される橋
 なくなる線路

 これは、単なる感傷?
 知識欲?
 自己満足?
 それとも……

 生きている時の姿が知りたい
 剥製になったあと、故人を偲ぶために

 だからまた
 消えゆくものを見つけに、旅に出る――


のと鉄道・矢波駅(2004/08/12)
 


  2月19日− 


[降るもの、昇るもの]

 午後になってから、外では細かな霧雨が降り続いている。
 町のほぼ中心部に建っている神殿の尖塔は霞んでいる。

 ぼんやりと窓の外を見つめて、私は考えていた。
 天は、いろんなものを送ってくれるなあ、って。
 光に、闇に、雨に、雪――。

 降ってくるものはたくさんあるけど。
 地上からは、何かお返しできるかな?

 希望や夢や未来を諦めずに、あの空を見上げたら。
 すてきな気持ちを送り届けたら。
 空も喜んでくれるかなぁ?

 私はそう思い、願うのだった。
 


  2月18日− 


[きら星のかけら、恒星の種]

「ほら」
 白い吐息とともに、その子はこぶしを開いてゆく。
 小さな掌に掬い取られた、たったひとひらの粉雪は――。
 今ではほのかに蒼白く、その内側に輝きを秘めていた。
「これは……?」
「きら星のかけら。大人たちは〈恒星の種〉って言うけど」
 淀みなく答えたその子供は、少し首を傾けて私を見上げた。

 その子に出会ったのは、その冬一番寒い晩のことだった。暖かい裏地を貼り付けた上着を羽織り、襟を立てていたのにも関わらず身体の芯から冷え、木枯らしが吹くと頭を下げて歩く。
 そこは遮るもののない吹きっさらしの風が容赦なく隼となって天翔ける、川沿いの堤防の上を続く闇の色濃い小道だった。

「きら星のかけら? 恒星の……種?」
 説明された言葉を繰り返すと、その子は両手を高く掲げた。
「夜空の野原に、星の種を蒔いたら」
「ワアッ」
 突如、重力がなくなる感覚を覚えて、思わず悲鳴をあげた。
 目を開けていることはできなかった。ジェットコースターやエレベーターに似た墜落の感じ、形のないものが渦巻いている混沌の雰囲気が魂を通じてひしひしと伝わってくる。少し遅れて、原初のものに対するおののきが心の根底から猛烈に浮上する。
 それでいて上着や髪の毛は全く動いていないことに気づくのは、そのあまりにも非日常的な感覚に馴れてきた頃だった。

 そこはいつか子供のころに図鑑で見た――あるいはSF小説の挿絵に描いてあったのを彷彿とさせる世界だった。数えきれないほどの星が、それが寄り集まって渦を巻く銀河が幾つもちりばめられ、見たことのない星座を形作っていた。落下する感覚を継続的に味わいながらも、当初の畏怖は、足の小指の先までもが震え、痺れるほどの感銘へと昇華してゆくのだった。

 そして少し横に視線を送れば、出会った時とほとんど同じ距離の場所にあの子が立っており、さっきと何一つ同じポーズを保ったまま両手を上に伸ばし、その眼は銀河を映していた。
「種は全部、芽になるわけじゃないから」
 こちらの視線に気づいたのか、その子ははっきりと呟いた。

 息を飲んで、見守る――何かが起こる予感がする。
 それは鼓動が一つ打ち、次が打つまでの出来事だった。
 その子の手から、元々は消えかかった雪の粉が変化したはずの、蒼白いきらめきを秘めた小さな〈恒星の種〉が浮上した。

 刹那、頭上で一斉に光が瞬いた。
 表現し尽くせないほど、すさまじい閃光だった。
 太陽をじっと睨んだ時や、間近でカメラのフラッシュを焚かれた時など比較にもならない、圧倒的に強い輝きが爆発した。
 まるで数億、数兆の花火を一気に点火したところを、目の前に突きつけられたかのような、それは想像を絶する煌めきだ。
 全てを見届けられるはずもなく、すぐに気を失った。

 ――と思ったが、はっと我に返る。
 針のような厳しい木枯らしが、背中を強く押してくる。
 さっきの爆発が夢ではなかったことを照明してくれる残像が消えて、しだいに目が慣れてくると、そこは見慣れた場所だということに気づく。暗闇の深い、河の堤防の上を縫って続く道だ。
「あれ……」

 あの子の姿は消えていた。
 痕跡を求めるかのように、空を仰いだ。
 都会の明かりに照らし出された重い曇り空からは、弱い粉雪が気まぐれに降ったりやんだりと、音もなくこぼれ落ちていた。

 あの子が蒔いた星の種は、上手く芽吹いたのだ。
 それを知ったのは、家に帰ってすぐに点けたテレビのニュースだった。巨大望遠鏡で撮影された画像に、眼が釘づけになる。その画像に映った星や銀河の配置に見覚えがあったからだ。
 ちょうど説明が終わったところだったようで、宇宙の画像は消え、代わりに見慣れたナレーターの顔が画面に映し出された。
「超新星が発見されたニュースでした。次は……」

 その後の言葉は全く耳に入らない。
 あっという間に、気持ちは何光年も先の銀河に飛んでいた。
 あれは、本当だったのだ――。
 背中の神経に感銘の震えが走り、身じろぎ一つできない。

 それはあまりにも天文学的に隔たった時空だが、関係ない。
 目を閉じて、あの光景を思い浮かべて、両手を合わせる。
 短い一生のうちの、短い時間を割き、永遠の祈りを捧げる。
 生まれたての星が、遠い未来、豊かに花開くことを願って。

(おわり)
 


  2月17日− 


[心をこめて(2)]

(前回)

 五叉路の別の道に入った二人の少女は、日の光を正面から受けて並んで歩いていった。サホに〈ねむ〉と呼びかけられたベレー帽の少女は、ほっそりした手を口に当てて立ち止まり、けだるそうに瞳を閉じたかと思うと、大きなあくびをつくのだった。
「ふぁ〜」
 彼女の本名はリュナンというが、学院で居眠りばかりしているうちに〈ねむ〉という愛称をつけられた。その瞬間の彼女も、まさに日差しの睡魔に襲われ、眠気と戦っている真っ最中だった。
 正面から降り注いでくる太陽は、湧き上がる希望に燃えているかのようにまぶしく、暖かい陽だまりは眠りの世界にいざなう。あくびの時に少しだけ涙が出たリュナンの瞳の中には、赤や青や紫など、いくつもの丸い鮮やかな色がきらめいていた。

 再び歩き始めたリュナンのまぶたは垂れ下がり、よろける。
「眠ぅ……」
「ねむ、大丈夫?」
 相手の反応が鈍ってきたことに気づいたサホが声をかける。赤みを帯びた茶色の地毛の髪が鮮やかな、目鼻立ちのくっきりしたサホは、リュナンの前に立ちはだかって進路をふさぐと――あっという間に持っていた鞄を投げ出し、素早く両手を伸ばして友の顔を左右から挟み込み、ゆっくり半回転させるのだった。
「ほらほら、起きて起きて!」
「う〜、う〜、う〜……」
 リュナンが苦しげに声を発すると、それは蜜蜂の羽音ででもあるかのごとく不思議に響き渡った。通りすがりの背の高い青年は、道の真ん中でじゃれ合う学院帰りの少女二人を避ける。
「ちょっと御免よ」
「おっと、失礼」
 サホはすぐに手を止めて青年を避け、リュナンに目配せしたが、相手の焦点は合っていない。その夢みるような瞳の少女はというと、さすがに眠気は吹き飛んだようだが今度は目が回っており、ずれてしまったベレー帽を直しつつ少し口を尖らせる。
「やりすぎだよ、サホっちぃ。首が取れちゃうよ〜」
「手加減したつもりけどさ……ごめーん」
 サホは右手を頭の後ろに当てて素直に謝ったかと思うと、ぺろりと舌を出す。ついで、さっき投げた鞄を身軽に拾い上げた。
「ちょっと気持ち悪くなりそう」
 元からあまり顔色の冴えないリュナンは、そう言って胸にこぶしを乗せた。さすがにサホも心配になり、相手を覗き込んだ。
「大丈夫、ねむ?」
「……うん。何とか」
 柔和な微笑みを浮かべ、リュナンは落ち着いてうなずく。伸ばした腕と指で道の先を示したサホは、調子良く言うのだった。
「じゃ、行こっ!」


  2月16日− 


[大航海と外交界(24)]

(前回)

「船員の皆さんは、お願いしますね」
 レフキルが言い、頭を下げた相手とは、甲板長かあるいはそれに準ずる地位に就いていると思われる、洗いざらしの船員服を着て太い立派な眉毛と厳しい目つきの壮年の船員だった。
「登って追っかけるのは、よした方がいいんだろう?」
 船員たちのまとめ役を十六歳のレフキルに依頼された男は、怒るわけでもなく落ち着いて訊ねた。鍛えた腹筋を使って出てきた少し嗄れた声は、不思議と辺りに響き渡る。するとレフキルは自然とやや丁寧な口調になり、尊敬の念を込めて応えた。
「はい。投げ飛ばす……のは言い過ぎとしても、たぶん王女は余計にへそを曲げると思うから。とりあえず万が一のために命綱を準備してもらって。網なんかは、さすがに無いですよね?」

「あみ……」
 横にいたウピの頭の中に浮かんだのは、まるでハンモックであるかのように、幾つもの網が船のあちらこちらに掛かっている図だった。それはいつしか意志を持った太い蜘蛛の巣となり、獲物のララシャ王女を捕らえようと拡がってゆくのだが――。
 勢い良く飛び降りてきた格闘王女のすさまじい蹴りは、一瞬にして網を突き破り、直後、見事に甲板へ着地するのだった。
「おうよ。この船は漁船じゃねえからな」
 壮年の船員の言葉で、ウピはふと我に返った。さすがの王女も、あの高さから落ちればひとたまりもないだろう。あの身軽で負けん気の強い姫君が足を踏み外すとは思えないが、馴れないことでもある。不安に思うと、背筋に寒気が走るのだった。
 隣のレフキルは辛抱強く、現実的な話を地道に続けていた。
「じゃあ、落ちそうなところに張っとくのも無理だよね」
「そうだな……」
 海上を進む微かな夕風が遠くから吹き始めて、頬の産毛を撫でる。袖ははためき、音もなく忍び寄る焦りは募るのだった。

 突然、レフキルは両手を口に当てて胸を広げ、やや長い耳をぴんと伸ばして両足を軽く開き、少し反りつつ息を吸い込む。
 そして、それが一杯になる手前で止め、今度は吐き出した。
「ララシャーっ、降りてきてよぉ〜!」
 目をつぶり、ありったけの音でレフキルが怒鳴った声は、遙か彼方までどこまでも続いている空と海とに吸い込まれてゆく。
 互いに耳打ちしていた船員たちは、何とはなしに口を閉じて子供のように澄んだ瞳を大きく開き、マストの人影を仰ぎ見た。
 風や海流を乗り換えながら、船は順調に水を掻いていた。

 それほど待たずに、天の高みの方からいらえがあった。
「もう少しで着くじゃないのー!」
 縄梯子を登る格闘王女はふいに立ち止まって上を見、それから下を見て、改めて気づいたかのように感嘆の叫びを発した。
「けっこう高いわねー!」


  2月15日− 


[鏡の向こう側(5)]

(前回)

 足元のランプの光でぼんやりと判別できる、壷の中の漆黒に近い水――そこに十八歳のシルリナ王女の整った清楚な顔が浮かんでいた。王女が部屋を歩いた時の細かな振動が伝わったのだろう、ほとんど判別できないくらいに僅かではあるが、水面は波立っている。それはほんの些細な波であったのにも関わらず、水面に映っている姫君の顔に大きな影響を与えていた。
 色白の頬は若い張りを失ってゆがみ、賢そうな瞳は垂れ下がり、鼻はただれ、輪郭はぼやけ、顔全体が何かの虫であるかのように絶えずせわしなく奇妙に動いている。その波から目を逸らさずに壷の中をじっと見据えて、王女は息を殺していた。

 張りつめた時は流れ、正面の三面鏡とほとんど同じように、手洗い用の壷の水は落ち着きを取り戻していった。壷の水は深い穴となって、別の世界へと繋がっているようにも思えてくる。それを見下ろしていた王女は、突然何を思ったのか寝巻の膝の部分に手を当てて中腰になりながら、静寂の闇夜を吸い込み、それから唇を軽く尖らせて、温かな息を吹きかけるのだった。
「ふぅーっ……」

 すると王女の吐息の流れを忠実に再現して、壷の水は片側から再び起きあがり、沈み込み、幾つもの細かな波紋を生じた。シルリナ王女の息が苦しくなってきて吐き出す勢いが強さが不安定になると、水滴が飛び跳ねたりした。遙か遠くで木枯らしの音がする以外は、ひっそりと静まり返った〈王女宮〉の最奥の一室である。ずっと前に侍女が用意しておいたランプは月明かりの代わりとなって足元でちらちら瞬き、三面鏡が互いに映し出した世界は永久に続いていて、吸い込まれそうになる。

 だが王女がずっと覗き込み、視線を奪われていたのは――自らの息で揺らぎ、鏡よりも明らかに映りが悪い壷の水の方だ。再び肺を空気で充たした深窓の姫君は、さざ波に飲まれつつも皮肉に笑う〈もう一人の自分〉を冷ややかに見下ろし、胸の辺りに軽く手を当て、ひどく無機質な低い声でこう訊ねるのだった。
「あなたは、誰?」


  2月14日− 


[凍えた時の彼方で(5)]

(前回)

 低かった天井は、洞穴に入るとすぐに上の方へ遠ざかっていった。硬い鍾乳石の屋根を抑えていた両手があいたので横に広げ、左右に闇を掻き分けつつ泳ぎ、屈めていた膝をゆっくりと伸ばしながら歩き続ける。明るいところから急に薄暗い場所に来たので、視界は予想以上に狭まっていた。私は特に足元に注意しながら、暗闇に吸い込まれる緩い下り坂を進んでゆく。
 暗くてはっきりとは分からないが、洞穴の表面は凍りついているのだろう。鍾乳洞の表面を覆いつくす薄氷は私の靴に踏まれて、時折、ヒビの入るような軽い音を立てる。そのささやかな残響が周囲の壁にこだまし、より強調されて聞こえるのだった。

 その時だった。
 私は肩をすくめ、目を閉じて立ち止まる。
 ――と同時に、思わず悲鳴をあげていた。
「ひゃっ」

 天井から雫が垂れたのだろう、それが私の着ている白い長袖の服の首筋に落ちたのだった。だが、私は薄暗い場所で小さなものがぶつかってきたことに驚いただけであって、私はむしろ、そのことに寒気を覚えるのだった。冷たさという感覚が存在したということは既に思い出しているが、冷たさは分からなかった。
 水分が豊富なはずなのに湿り気は具体的には分からず、現実的な〈寒さ〉という感覚もいまだに訪れない。けれどもしばらくの間、その事を考えていると、どうやら私の体の奥底には、深い〈悪寒〉とでも呼べるようなものが常に付きまとっているようだ――ということが何となく分かってきた。それが私の感覚を鈍くさせている、のかも知れないし、そうでない、のかも知れない。
 また頭が痛んでくる。私は首を振り、無心になって歩き出す。

 暗く滑りやすい道は続いている。洞穴の道の天井はかなり高いが、幅はそれほど広くはなく、人が何とかすれ違うことが出来るくらいだ。何もない場所を歩くのは空間が測れないので、私はいつしか右手を壁伝いに這わせ、それを頼りに歩いていた。
 恐ろしさという気持ちを忘れてしまったのかも知れないが、妙なにおいや動物の糞があるわけでもなく、恐怖は感じない。吐息が、遠い日の朝もやであるかのような淡い乳白色に――。
 乳白色? さっきまでは見えなかったのに、どうしてだろう。

 確かに白と黒という最低限の色が見える。この先の方から新たな光が洩れだしてきているようだ。私はそれから二、三歩進んだところで思いきりつんのめり、膝をぶつけ、左手を思わす地面についた。立ち上がってからは、靴を前後左右に動かしながら眼の代わりに足元を探って、急な登り坂を見つけてゆく。そのずっと先の方に、どうやら横に広がる小さな光の窓が見える。
 私は慎重に歩いていった。髪が天井に触れると、少しずつ屈みながら。光の窓は、遠くに見えて思ったよりも近く、それでいてやはり遠かった。それでも休まず果てを目指せば距離は縮まり、神々しい輝きが手に届くところにまで徐々に近づいてくる。
 道は再び下りになり、高さも幅も狭まったが、暗闇に慣れた目にはあまりにまばゆい明るさが〈窓〉から射し込んでいる。そこは不思議な凹凸のある横に長い楕円形をしていて、おそらく入口――私にとっては洞穴の出口――なのだろうと思われる。

 いよいよ〈窓〉は目と鼻の先になった。
 そして私は、輝きの降り注ぐ窓から顔を出して――。
 辺りに充ちているまぶしさに、両眼を手で覆うのだった。


  2月13日△ 


[七色の雨]

 良く晴れた真っ青な空から細やかに降り注いでいるものは、光の――虹の雨であった。
「ほら、すごいよ。見て、お姉ちゃん!」
 少女は腕を掲げて、毛糸で編んだ赤い手袋の人差し指を伸ばし、斜め上を示した。そのまま振り向いて笑い、はしゃいだのは十四歳のシルキアである。コートに帽子に西洋かんじき、手袋と、防寒対策は万全だ。
「きれいなのだっ……」
 後からついてきていた三つ年上の姉のファルナは、茶色の瞳をまぶしそうに細めた。そして根雪の上にゆうべ降り積もった新鮮な雪――それに覆われた土と、白い帽子をかぶって立ち並ぶ針葉樹の木々との間の中空の世界をうっとりと眺めていた。
「まるで七色の宝石ですよん……」
 天性の詩人の魂を持っている姉は、こみあげる感銘に表情をゆるめ、手を後ろ手に組んで立ち尽くしていた。帽子から出ている琥珀色の前髪が、時折、かすかな冷たい風に揺れている。

 森の奥まで差し込んでくる光の筋道が、雪の溶け始めた樹の梢から絶え間なくこぼれ落ちる雫たちを、たくさんのきらびやかな流れ星に、あるいはあまたの宝石に変えていたのだった。
 一方、妹のシルキアは姉ほど夢想的ではなく、一瞬のきらめきを追って視線をあちこちに送り、そのつど指で示すのだった。
「ほら、赤! あっち青! 水色、緑! 黄色も光った……紫、橙色、また赤!」
「きっと、光の妖精さんが色塗りしてるんですよん。水の珠に」
 そう独りごちてから、ファルナは大きく深呼吸するのだった。

 空気も風も、雪の湿り気が混じっていて清々しい。それを吸い込む人の心までもが美しく冴え渡る、高原のサミス村の二月である。
「お姉ちゃん、もっと先まで行ってみよっ!」
 七色の雨の中、妹が明るく誘えば、姉は素直にうなずいた。
「うん!」
 二人の少女たちが新雪に残した足跡は錯綜し、身軽にはしゃぎながら、森の奥の方へと続いてゆくのだった。
 


  2月12日△ 


[リリアの決断]

「わたくしも、外交団に参加致したく思っております。父上」
 強い決意を蒼い瞳に、悲壮感をこわばった頬に漂わせて、声を震わせながら立ち上がったのは、まだ十五歳くらいの少女であった。正装にも幾つかの水準があるのだが、その中ではやや正式度の低いドレス――あまり煩雑な刺繍はなく素朴であり、優雅でもあるのだが、やや平面的で古風な印象を受ける。胸の辺りにリボンがつけられ、水色を基調とした、ヒダの多く丈の長い可憐なドレス――を身にまとった少女は、どちらかと言えば小柄で、起立しても威圧感はなく、むしろ子供じみて見えた。
 下座にいる大勢、こちらもやや略式の正装で身を固め、剣ではなくこの国の力の象徴である魔法の杖を握りしめて跪(ひざまづ)いている壮年や老齢の男たちは、上座で起立した少女の方に一応注目したものの、彼らの大半は白けていたようだ。
 その男たちの間で、素早く耳打ちや小声の会話が飛び交う。
(急に、何をおっしゃるかと思ったら)
(リリア様も健気なことだ)
(十五歳の姫君のご身分で、何をされるというのか)
(外交の舞台に登場してもおかしくない良い年齢じゃろう)

 冬のマホル高原は空っ風が吹きすさび、冷たい粉雪が舞い飛ぶ。雪はあまり積もらぬが、三方を囲む山並みから吹き下ろす木枯らしは身を切り裂くように冷たい。その灰色に沈む帝都マホジールを見下ろす奥まった高台に構えるのが、歴史と伝統あるマホジール帝国の皇帝が政(まつりごと)を行う宮殿だ。
 この、今日も雲に覆われ、粉雪が降りそうで降らずにいるマホジール町の宮殿の広間で、皇帝の朝の謁見が行われていた。重厚な造りの古びた謁見場には、どこか遠い国から取り寄せた重苦しい花の香りが沈み、黒いマントに身をつつんで最後尾に立つ魔術師たちが使っている温暖魔法の暖房が入っている。
 皇帝が取るに足らぬ話をするために各種国務大臣を始めとする重臣、地方を与えられた上流貴族の代理人(ある意味では人質に近い)として帝都にいる公爵や侯爵たちの血族、帝都に屋敷を持つ下級貴族たち、皇帝直属騎士団の幹部、かつての戦争で痛手を受けて今はほとんど名ばかりとなった魔術師軍団の統括長、各神殿の代表者や代理人などが集まっている。彼らは身分の高い順番に前から並び、よほど年取った者以外は跪いて杖を立て、清浄なものとされる右手で握りしめている。

 上座には、マホイシュタット皇帝家が豪勢な椅子に並んで家臣たちを見つめている。最も中心の玉座に、痩せていて目に隈ができ、細い目つきであまり顔色の良くないラーン皇帝、その横にはかつては美人だったはずだが今はややふっくらとして興味なさそうに時折目をこする皇妃、立ち上がったままの十五歳の聡明なリリア皇女、それから皇女の弟に当たり、どちらもあまり賢そうには見えないリグルス、レムノスの両皇子が控える。
 時間が止まったかのように、ラーン帝は何も言わず、首をほんの少し傾げただけだった。誰も何も喋らず、多くの者たちは虚ろな眼をしており、つまらぬ謁見が早く終わるのを祈っていた。

(このままでは國が滅ぶのを、黙って見過ごすだけです……)
 リリア皇女の思いは高まるが、経験や年齢を考慮すると、あまり差し出がましいことを口に上らせることはできない。斜陽の帝国を救う具体策も持っていない。まずは自分が最前線に出て、せめて国家を取り巻く現状を知るところから始めようと考えた。もう一度勇気を振り絞った皇女は、切実な願いを告げる。
「父上、お願い致します。どうかわたしくを四ヶ国会議に」

 ラーン帝に注目が集まる。文学や音楽や晩餐会ばかりに興味を持つ愚帝は、政治や腐敗した役人たち、破綻しかかった財政、難しい外交問題等は、各大臣や重臣に任せきりであった。
 その皇帝が、いよいよ歪んだ口を開いてゆき、酷薄に言う。
「我が娘、リリアよ。朕(ちん)に物を頼む際は、陛下と呼べ」
「は……」
 一瞬、驚愕の表情を浮かべた皇女は、力が抜けたかのように椅子に座り込み、唇をへの字に結び、見る見るうちに両眼を涙で濡らしてゆく。禿げた者の多い家臣らは思わず目を背ける。
「も、申し訳、ございません……皇帝陛下」
 賢明なるリリア皇女は、そう言うのが精一杯だった。謁見場は外気から切り離された魔法の暖かい空気に満ちていても、その空気に色があるとしたらどんな吹雪よりも冷たく――心に突き刺さるかのような鋭角で、さらには頽廃的で無関心だった。
 皇妃は何も喋らずに呆然とうつむいたままで、十歳ほどの次男のレムノス皇子はつまらなそうに足をカタカタ動かしている。
 そこでまたラーン帝が、娘の希望を打ち崩す言葉を洩らす。
「外交は、外交官に、任せておけばよかろうて。リリアよ、お前は晩餐会の服のことを考えていてば良いと、思わなんだ?」

 リリア皇女は硬く唇を噛み、頭を下げた。水色のドレスの膝の辺りには、ひとつ、またひとつと透明な雫が落ちて薄い染みをつけた。瞳を閉じると、一気に温かな雨が降り、膝の辺りを濡らす。本来の彼女は、あまり事を荒立てたり揉め事を起こすのは嫌いな性格であるが、傾いた国家を見るに見かね、せめて外交の場に出ていって自らの力で情報を集め、立ち上がろうとした。その考えに考え抜いた決断が、あっさり流されようとしている。
 打ちひしがれた皇女は、それでも健気に、ゆっくりと顔をもたげた。頬には幾つもの涙の筋が描かれている。前列の方の貴族たちの中には、皇女の表情を直接見て、さすがに心に痛みを覚える者もいたようであり、何人かは表情を引き締めた。だが、厳しい身分制度の残るマホジール帝国で、しかも政治に関心の薄いラーン皇帝に直接訴える勇気や志を持つ者は限りなく少なかった。それが、国家の崩壊の原因の一つともなっている。
 しばらく皇女が鼻をすする音が重苦しく響いていた。場は凍りついたように鎮まり、やがて皇女は布きれを取り出して眼と頬、顔全体を拭いた。レムノス皇子が兄のリグルス皇子をつつく。
「お姉さま、なんで泣いているの?」
「えっ」
 困惑気味にリグルス皇子は声を上げ、何も答えられない。
「いいから、黙ってなよ」
 リグルス皇子が誤魔化すと、弟は不満そうに口を尖らせた。
「ばか兄貴」
 言われた方の兄皇子は誇りを傷つけられて、弟を睨んだ。
「覚えてろ」

「誠に僭越ながら」
 その折、どこかの中流貴族が手を挙げてニヤニヤと笑い、明らかに皇帝の歓心を買おうとしている様子でしたたかに言う。
「わたくしめも陛下のお考えに賛成です」
「わたくしもです」
「わたくしも」
 雨後の筍(たけのこ)のように、幾つもの声が挙がった。長い物に巻かれろという発想で、彼らは続いて挙手するのだった。
 上座にいる小さなリリア皇女はますます小さく見えた。目を濡らした温かな水の名残でゆらゆら揺れる視界のまま、呆然と辺りを眺めていたが、もう涙を流すことはなかった。彼女は当面の希望や使命感を失い、この場を埋めた無気力な家臣たちの瞳とどこか似通った、死んだ魚のような眼に変わりつつあった。

 ――と、その時であった。
「陛下」
 皆に混じって中盤の隅の方で跪いていた、老境にさしかかった白髪の一人の男が、皺の深い手を颯爽と挙げて、年齢の割には良く通る声を発した。今度は、ラーン帝はすぐに聞き返す。
「どうした。メリブセン男爵」
 メリブセン伯爵は、以前は伯爵で、外務大臣を務めたこともある重鎮中の重鎮であった。だが流言により失脚し、牢に入れられて辛酸をなめた。今は辛うじて男爵という位置を与えられているが、近頃はめっきり老け込んで、引退寸前になっていた。
 その流言をした当時のズィートスン大臣は陰謀家で、賢明なメリブセン氏を失脚させ、さんざん帝国を掻き乱したのちに裏切り、現在は新興国家〈南ルデリア共和国〉の代表者を務める。
 ズィートスン氏の裏切りが発覚し、属国独立という事態に至ると、貶(おとし)められていたメリブセン男爵は牢から出されて名誉回復となり、男爵の地位を与えられた。若きズィートスン氏が君臨していた時は、周囲の貴族たちも調子に乗ってメリブセン家を批判していたが、名誉回復となってからは悪く言う者はいなくなった。だが、それ以後、メリブセン男爵は腫れ物のように扱われ、貴族たちは後ろめたさで目を背けた。男爵自身も地位をわきまえて、あまり国家の厄介ごとには口を出さなくなった。
 その、いつもは黙っている男爵が、珍しく進んで話し始めたのだ。貴族たちの何人かは萎縮したり、背筋を伸ばしたりした。
 男爵はごく落ち着いた様子で立ち上がり、帝に向き合った。
「僭越は承知ながら申し上げたい。拙者を外交団の末端に加えて頂けませんでしょうか。拙者の最後のご奉公の場所として」

 最後の、という箇所を聞いたとたん、ラーン帝は思わず軽く身震いをした。政治に関心の薄い皇帝であっても、さすがにメリブセン男爵の一件は皇帝の心に引っかかる物を残していたようだ。流言を信じた反省をしている様子はないし、自らの判断間違いとも思っていないようだが、とにかく皇帝にとってメリブセン男爵は、なるべくならば話したくない相手には違いなかった。
 結局のところ、名誉は回復させたものの、男爵には早いところ引退してもらいたいのが皇帝の本音であり、かつて外交の最前線で腕を振るったメリブセン男爵は、そこを的確に衝いてきた。
「よかろう。メリブセンも高齢だ、息子に道を譲るのも一つの道だろう。リューベルでの四ヶ国会議は花道に相応しい会議だ」
 本当のところは、メリブセンより高齢の貴族や重臣は掃いて捨てるほどいる。死ぬまで地位に恋々とする者の方が多い。
 他の貴族は押し黙ったままで、反対する雰囲気は全くなかった。彼らとて、メリブセン男爵とこうして顔を合わせるのは苦痛だろう。嫌な時代、苦い経験、自らの無能を思い出すからだ。
 他方、リリア皇女の目の焦点は合わず、もう話を聞いているとも思えない。泣きはらした目で、呆然と椅子に腰掛けていた。

 すぐにメリブセン男爵は帝国に伝わるやり方で、杖を横向きにして両手で持ち、真っ白になった頭を下げて深々と礼をした。
「陛下の素晴らしき御心(みこころ)、このメリブセン、決して忘れますまい。心より感謝致しとうございます。老骨に鞭打ち、陛下に尽くし、少しでも外交結果を上げるよう努力いたします」
 するとラーン帝は表情を変えずにうなずいた。両者の温度差は明らかで、比べてみると魂が寒々としてくるほどであった。
「正使を助け、助言し、経験を活かして補助するが良い」
 皇帝は心にもないことをつらつらと述べた。彼がこの話に関心がなく、あるとすればメリブセン男爵が引退してくれれば良いと思っている程度で、語調からは早くこの話を打ち切りたいと欲しているのが感じられる。そんな皇帝であるから、男爵が言葉の裏側に隠していた皮肉と侮蔑の感情にも全く気づかなかった。
「そして、もう一つだけ、どうしてもお願いがございます」
 メリブセン男爵はさらに話を続けた。皇帝はやや憮然とした顔になり、少し不愉快そうになった。機嫌が悪ければ〈お前だけの謁見の時間ではないのだぞ〉とでも言う状況だが、相手がメリブセン男爵と言うこともあり、ラーン皇帝はぐっと堪えた。リグルス皇子はどこか不安そうにそわそわし、レムノス皇子は飽きている。飽きていると言えば、おそらく皇妃も息子と同様だった。

「言うがよい」
 ラーン帝が低くつぶやいた声には苛立ちが含まれていた。それは魔術師の拡声魔法で、広間のすみずみまで届けられる。
 対する老境のメリブセンは、怖じけず堂々とした声で言った。
「是非とも外交の現場をお見せしたい方がいらっしゃ……」
「誰だ、言え」
 ラーン帝はなかなか終わらない話に眉をひそめ、手を挙げてメリブセンの言葉を遮り、その名を問うた。場は張りつめている。
 男爵は息を飲み、呼吸を整えて、清らかな表情で答える。次の自らの発言によって何が起こっても構わない、一度は牢に入れられた身だ――という、苦しいほどの決意にあふれていた。
「その方とは、帝国第一皇女でいらっしゃる、リリア様です」

 その刹那。
 リリア皇女の強い視線が、メリブセン男爵に注がれる――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 謁見の後、帰る途中で、皇帝は冷たく言い放つのであった。
「行きたければ、行くが良い。そして外交とやらの最前線に立ち、交渉の真似事でもやり、我が高貴な血筋の品位を下げるのだろう。芸術を至上の歓びとせぬ、哀れな娘よ。同情するぞ」
 実の娘であるリリア皇女は、どんな思いを父の皇帝に抱いたものか――。皇女は泣くことなく、ほのかな薄ら笑いさえ浮かべて立ち止まり、皇帝に礼を述べ、深々と頭を下げたのだった。
「お許しを頂き、有り難き幸せです……皇帝陛下」

 外では、曇り空の下、いよいよ粉雪が降り始めたようだった。高原の帝都は、今日も寒々と灰色に覆われていることだろう。

(おわり)
 


  2月11日△ 


[夕陽の挿話]

「きれい」
 海面すれすれの夕陽に頬と瞳を染めて、ポーがつぶやいた。
「ずっと見ていたいわ」
 その時、沈みかかる陽を指さし、ピーが悪戯っぽく語り出す。
「もし、あの夕陽を追っていったらさ……」
「夕陽を、追って?」
 ポーが驚いて聞き返す。ピーは身を乗り出し、考えを話した。
「ずっと夕陽を見続けて。で、気がついたら明日になってる」
「何それ?」
 ポーは眉をひそめて問い返し、すぐ表情を緩めて軽く笑った。
「ふふっ。ピーって、本当に変わってるね」
「世界中の夕陽が見られるんだぜ? 一日中だよ」
 熱心に言ったピーに対し、ポーは冷静に反論を繰り出した。
「白夜に入る前後の北に行けば、止まっていても見られるわ」
「止まってたって意味ない。動き続けて、世界中の夕陽をさ」
 ピーは夢やありったけの理想を言葉に込めて告げた。するとポーは相手の話を聞いた上で、自らの思いを伝えるのだった。
「止まってたって意味あるわよ? 夕陽は見られるんだから」
 議論は平行線をたどり、ピーとポーは向き合って言い合う。
「俺は時間とともに進みたい」
「私は時間を見守りたい」

 そこでピーは背中の翼を広げ、その場で羽ばたきを始める。
「ちょっくら一回りしてくらあ。全部の夕陽を見るために」
「勝手にすれば」
 ポーは冷たく言い放ち、そっぽを向いた。ピーは浮かび上がりかけたが、顔を曇らせ、ポーを気にして飛び立たない。夕陽はいつの間にやら海に触れ、帰宅の道はいよいよ終盤である。

「明日は、白夜の地に行こう。だから今日は……」
 ピーは譲歩をした。機嫌を損ねたポーはまだ黙っている。
「時間がない。行こうぜ」
 出来る限り優しく話すと、ポーはほんの少し振り向いて言う。
「一日中駆けるなんて、ほんとに大変だわよ?」
「明日は白夜の夕陽を見ながら、どこにも行かずに休むから」
 夕陽は海の中に半分沈み、光はいよいよ鮮やかさを増す。
「……わかったわよ。じゃあ明日は絶対に休みだからね」
 ポーはしぶしぶ同意し、ピーは調子よく相手を促すのだった。
「よっしゃ。そうと決まれば、今すぐ出発しようぜ!」
「しょうがないわねぇ」
 そう言って苦笑いをしたポーは、次の瞬間、空を駈けだした。
「おい、待ってくれよぉ」
 ピーは慌ててポーの後ろ姿を追い、長く短い旅に出発した。

 こうしてピーとポーは、翼を羽ばたかせて惑星の自転の速さを保ちながら、西の方へと全速力で飛び去っていったのだった。
 


  2月10日△ 


[雨霧(あまぎり)]

 二重になっていないので結露したガラス窓を指先でこすると、指先に外の冷たさが伝わる。動き始めた雫は水滴の卵を食べて大きく育ち、幾筋もの水の流れに引き寄せられて斜めに曲がりながら、次第に速度を上げて床に向かい流れ落ちていった。
 軒先からは、時たま小さな雫が舞い降りている。澄んだ雫が光を受けると、ほんの一瞬だけ、虹色の宝石となってきらめく。

 窓の外は薄い霧につつまれていた。土や草花や樹は明け方に降った雨をつかみ、自分の中に保っていたが、太陽が出て急に暖かくなってくると、その手を――見えない拳を開き始める。
 自由になった雨は、故郷の天を目指そうと朝の爽やかな風に吹かれて右へ左へと飛ばされ、微細な粒の姿を垣間見せる。その願いは、彼らが光に溶けて身軽になると叶えられるのだ。
 霧は、すべてが純白に塗り替えられた、明るく澄んだ〈闇〉を思わせた。遠くの方が見えづらいのも、空の色が変わるのも、色や明るさは正反対だけれど似ていなくもない。闇が満ちた時に夜の帳が上がり、霧が溶ければ本格的な朝がやってくる。

「夜の粒子のいとこかな」
 二階で窓の外を見ていた少女が、ふとつぶやいた。外の霧は少しずつ、ほんの少しずつ――ひとつずつ溶けているようだ。
「ご飯よー」
 一階から母の声が届けられた。少女は窓際に手をついたまま顔だけ回して振り向き、期待に満ちた口調で答えるのだった。
「今、行く!」
 少女は名残惜しそうに外を眺めつつ歩き出したが、階段の辺りまで来てから決然と前を向き、そして部屋からいなくなった。

 ガラス窓には、結露を集めた流れが幾つも引かれていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

薄い霧の朝(2005/02/10)

 ゆうべの空から、雨のカーテン

 けさの大地から、霧のカーテン
 


  2月 9日− 


[大航海と外交界(23)]

(前回)

「嘘ついたって、お前……」
 何が何だか分からない様子の若い船員は顔を引きつらせ、絶句する。ウピは口元を困惑させたが、頼りになる新しい友をじっと見つめ、とっさに出てきた妙な愛称で呼びかけるのだった。
「レフちゃん?」
 一方、レフキルは周りの喧騒をものともせず落ち着き払い、澄んだ瞳を再びマストの高み――王女の白い船員服に向けた。
 夕陽に横顔を照らされ、長い耳の影を甲板に映し、一度ゆっくりと瞬きをした彼女は、十六という年齢よりも大人びて見えた。
「ララシャ王女が、高貴な身分だから心配……なんじゃ無い」
 その間も、レフキルは縄梯子を軽快に登ってゆく王女の小さな姿を目で追っていた。コルドン船員が見守っているマストの頂に近い見張り台まで、すでに残り半分を切っているだろう。若いララシャ王女は自分の能力をまるきり信じ、限界というものを知らず、手と足をリズミカルに動かして、疲れさえも次の一歩の力へと変えているようだ。遠くから見上げていても、全身から陽炎のように立ち昇る強烈な情熱と意欲とを感じられるのだった。

 子供を見守る母のように、信じているけどやっぱり心配――とでも言いたげなレフキルの横顔を見ているうちに、問い詰めるのを躊躇していた若い船員だったが、彼は思い切って訊ねる。
「じゃあ、何なんだよ?」
 ウピはその船員を見て、それからレフキルの方に向き直る。彼女は何となくレフキルの気持ちが想像できていたので、変に騒ぎ立てることはせず、友達の傍らで静かにたたずんでいた。
 その脇ではサンゴーンが不思議そうに首をかしげている。
「何が起こっているのか、良く分からないですわ」
「あたしが王女を気にかけてるのは、ね……」
 レフキルはそこまで話して息を飲み、自然と唇を閉じてゆく。

 潮の香りを含んで流れる洋上の風は凪ぎ、レフキルの緑がかった銀色の髪、ウピの淡い金色、サンゴーンのほんの少し青みを帯びた前髪はさらさらと流れるのをやめて、こぼれ落ちる。
 ちょうど船員たちの話し声はやみ、沖の蒼い海をゆく船の水音は弱まる。ちぎれ雲に目隠しされた陽はすぐに顔を出した。
 レフキルはごく穏やかな語り口で、飾らない気持ちを語った。
「ララシャは、大切な友達だから」

 心からの素直で真っ直ぐな想いを込めて〈嘘〉を説明したレフキルの〈本当〉の言葉に、船員たちは胸を打たれ、それぞれに彼女の主張を受け止めた。ウピはというと声にこそ出さなかったが、はにかんだ微笑みを浮かべて大きく一つうなずいていた。
「そ、そうか」
 身分の違いを越えた友情に、若い船員はそう言ったきり、反論するべき言葉もなく口をつぐんで、物思いにふけってしまう。
 花のつぼみが開いてゆく時に似た、緩やかな感動に満ちた場の雰囲気がふっと和んだのは、サンゴーンが喋った時だった。
「そうですの、みんなお友達ですわ〜」
「うん……友達だもんね」
 ウピはしっかりと拳を握りしめ、やる気に満ちあふれた清々しい顔をしていた。美貌の持ち主とは言い難いが、愛らしさと慕わしさを共に含んだ笑みや穏やかな性格、どこかおっちょこちょいな点、相手の話を良く聞いたり自己主張しすぎないところなど――魅力的で包容力のある女性で、自然と人が集まってくる。
 他方、将来を期待される商人の卵のレフキルはまとめ役にふさわしく、筋の通った説明と的確な指示を出すことが得意だ。
「だからさ、あたし、ララシャ王女が怪我しないようにしたい。王女が最後まで無事に降りてこられるよう、協力してくれる?」
 そう言ってから、レフキルはその場で軽快に一回りした。

「オオ!」
 野太い声が合わさり、毛むくじゃらの手が天に掲げられる。
「当たりめぇだ!」
「任せとけ、嬢ちゃん!」
「船の上なら俺たちの方が詳しいしな」
「王家のためでもあり、俺らのためでもある」
 海の男たちは総じて明るい。レフキルは感銘の面もちで、懐の深い選りすぐりの船員たちを頼もしそうに見回すのだった。
「ありがとう、みんな!」
「ちょろっと解決、ってぇ行こうぜ」
 ほとんどレフキルと同じくらいの若い船員も、すっかり機嫌を取り戻し、鼻の頭をこすりながら気恥ずかしそうに宣言した。
「君も、ありがとうね」
 レフキルが小声でつぶやき、目配せすると、日焼けした少年の船員は赤い舌をぺろりと出して金の髪の頭を掻くのだった。
「へへ……」

 最後にレフキルは、両隣に近づいていた友達を見つめた。
「もちろんですわ」
「手伝うよ、私にできることをやりたい」
 サンゴーンとウピの回答は明確で、信頼感に満ちている。
「ありがとう、みんな! じゃあ、一つずつ始めよう!」
 うなずいたレフキルは、早くも厳しい表情を取り戻して額に長い人差し指と中指を当て、さっきから考えていた幾つもの作戦を一気に練り上げて、役割分担を振り分けようとするのだった。
 風は再び流れて、潮騒が響ぐ。黄金の固まりよりもまばゆい太陽は、その間も西の海へ、刻一刻と近づいてゆくのだった。


  2月 8日− 


[鏡の向こう側(4)]

(前回)

 朧な橙色の光が数限りなく奥の方にまで瞬いていて、シルリナ王女はほんの一瞬、入るのをためらった。それは三面鏡に映った備え付けのランプの輝きであった。向き合った鏡は互いの鏡を映し、その風景をまた反対の鏡が映し、それをまた――という具合に、世界の末端は永久の袋小路へと向かっている。
 そこは鏡台と椅子、壷の置いてある部屋で、寝室に比べれば大して広いわけではなかった。軽い身支度をしたり、侍女に髪形を整えさせたり、顔を洗ったり、洗面所として使われている。
 着替えにも用いるこの部屋は、高い場所に採光のための小窓がいくつかあり、昼間でも薄暗く神秘的だった。小さな煙突があり、暖炉には王女が来ることを予期した気の利いた侍女によって薪がくべられ、あらかじめ部屋の中を暖めてあった。そのため空気は濁っており、油の匂いがした。
 寝る前に口をゆすぎ、自ら洗顔料をつけるのが、一日のうちで最後に当たる王女の日課――あるいは趣味の一つである。薬用の葉を燃した灰と花の粉末と混ぜたものを口に含み、洗濯の良く行き届いた衛生的な黒い絹を用いて歯や歯の隙間の汚れを落とし、水でうがいをする。そして軽く額を洗い、湯浴みの後の汗を流して、仕上げに好みの香りのする洗顔料をつける。

 一連の作業をしようと、王女は重い身体に鞭打って椅子に近づいた。闇に囲まれた三枚の鏡が創り出した終わりのない迷宮の映像の中に、華奢で清らかな十八歳の乙女が迷いこむ。その最高級品の鏡は、立った時の衣装を確認できるようにと人の背の高さほどあり、淡い明かりはその足下に置いてあった。
 薄桃色の寝間着姿のシルリナ王女は軽く椅子を引いた。木の脚が床と触れ合う音がやけに強調されて響き渡り、改めて夜更けの静けさを知る。辺りは昏く、高い所にしか窓のないこの部屋では風の音は遠かった。また、いくら小さな暖炉が片隅で燃えていても、人気(ひとけ)が無く、全てが冷え切っていた。

 王女は三面鏡の鏡台に向き合って、椅子に腰掛けた。ほどいた茶色の髪が揺れて、足元のランプの光に時折瞬いていた。
 左手の床に幾つか並んでいる壷のような形をした大きな陶器には、温めた湯を冷ますことによって冷た過ぎないようにし、手荒れ防止のために配慮された花びらの浮かぶ水が充たされており、その口の部分は手を入れやすいよう通常の壷よりも広くしてあった。手拭きに用いる薄い布、顔拭き用の厚手の布、歯磨きに使う布と粉、うがいに使うグラス、洗顔料は鏡台の引き出しに整理されてしまってある。また、鏡台の下には空の桶が置いてあり、うがいの終わった水を吐き出すのに用いられる。
「早く寝ましょう……」
 手の甲で目をこすったシルリナ王女は、ほっそりした腕をしなやかに伸ばし、少し腕まくりをした。それからまず手を洗おうと、近くにある壷の方へ伸ばしてゆく。何の変哲もない、いつもと変わらぬ、ほのかな温もりが残っていて微かな香りが漂う水だ。

 だが、その手が、ふと止まった。
 覗き込んだ壷の暗がりには、王女の顔が映っている。
 妖しの三面鏡には心を動かされたように見えなかった高貴な血の少女だったが、壷の水鏡には強く惹かれた様子であった。彼女は瞳を見開き、ランプの輝きで辛うじて見分けられる壷の中の自分を、虜になったかのように一心不乱に見つめていた。


  2月 7日△ 


[凍えた時の彼方で(4)]

(前回)

 岩場のごつごつした場所の下側にへばりつくようにして、裂け目がある。まるで名も知らぬ伝説の怪物の唇であるかのように、その洞穴は斜め下の方に向かって開いていた。上下から突き出された尖った岩が歯のように思えてくる。けれど、私はむしろ心がそちらに惹かれてゆき、無意識のうちに歩いていた。
 氷の薄いところを踏むと、嫌な音がして亀裂が入った。私がその足を丁寧に持ち上げると、ヒビはさらに大きくなるのだった。
 辺り一帯は、凍りついた河の源流を避けるようにして流れ出した水のせせらぎがまた凍り、それが幾度と無く繰り返されたのだろう――まるで木の年輪のように不思議な曲線の模様のついた凍土と化していた。それは白く濁りながらも、場所によっては穢(けが)れなく透き通り、儚さを誘う風景だった。そしてそれは、私が着ている謎めいた白い服にも相通ずるものがあった。
 私はその年の初雪に足跡を残す時のような神聖で厳かな気持ち、それとともに綺麗なものを壊して自分の印をつけるという残酷な望みを両方とも微かに抱いていた――ようだったが、それらを整理して理解できたのは、もっとずっと後のことだった。
 その瞬間の私は、気持ちよりも足が先に動いていた。私は危険を冒してでもこの道の果てを知りたかったし、そもそも危険だという思いや予感は希薄で朧気だった。この空気さえも凍りつくような場所の寒ささえ、感覚として分からなかったのだから。

 足元の氷の層がにわかに厚くなり、滑りやすくなって、数歩の短い上り坂が始まる。その向こうは角度が急になって、見上げても尽きないほどの蒼天に突き刺さる険しい崖となっていた。
 見ているうちに、崖が崩れてくるような、あるいは私自身が崩れてしまいそうな、不安定な〈感覚〉が襲ってくる。そう――。
「感覚?」
 誰に言うわけでもなく、厳しい荒野、無人の辺境に訊ねる。
 そして私は私自身の言葉に驚き、胸がぎゅっと引き締まるような感じがして、思わず立ち止まった。長いこと感覚という概念を忘れていたことに、今さらながらようやく気づいたからだった。
 風が漆黒の髪を鴉(からす)の翼のように巻き上げ、白い長袖の服の袖を揺らした。足元の氷は鏡のように冷たく広がり、それでいて鏡よりも全てをあやふやに――別のものであるかのように見せ、魔性の美しさと隠れた醜悪さを引き出すのだった。

 そこで立ち止まった。
 この先は崖に連なる坂で、行く当てはない。他方、妖しの洞穴は今や斜め下の、手に届きそうな範囲にまで近づいていた。私はあまり顔を動かさず、眼球だけを下に向けて視線を送る。
 肉体から乖離したとても遠い場所で、私は淡い期待を秘めていたようだった――が、ここにいるこの私に残されたのは、躊躇や決心という前段階ではなく、反射や単なる行動だけだった。
 両手を伸ばしてバランスを取りながらしゃがみ込むと、膝の関節が鳴る。黒い長ズボン姿の右足をずらし、一度足場を安定させ、左足を引き寄せる。氷と化した地面に手をつき、狭い天井を押し上げて、私は少しずつ身体を横へ滑り込ませっていった。


  2月 6日− 


[鏡の向こう側(3)]

(前回)

 眠気よりも、だるさが強く襲ってきているのだろう――シルリナ王女は目を閉じるわけでもなく、顔は横向き、身体はうつぶせという中途半端な姿勢でベッドにもたれかかったまま、しばらく動けずにいた。心臓が、やや不規則に鼓動を鳴らしている。
 美術品のような両手の細く長い指先をぴくりと震わせ、足の位置を少しずらした王女は、どこでもない場所を見つめている。
 だが、いつも彼女の原動力となってきた、強く誇り高い意志を奮い起こしたのだろう。ベッドに手をつくと、上半身を起こした。
 頭は重く、思考は停滞し、身体は床に引き寄せられている。
「早く寝ましょう」
 そう独りごちた王女は、足を引き寄せながら指先に力を込め、誘惑を振り切ってベッドを押し、反動で立ち上がるのだった。

 良く手入れのされた絨毯の敷かれている寝室を、ほとんどヒールのない部屋用の靴で歩き始めると、背中の彼方に暖炉の炎の燃えはぜる音が遠ざかっていった。王女が寝室の扉の前に立ち、ドアを引くと、湧き出してきた深まる闇と真冬の寒さが魂までをつつみ込む。王女は思わず手近なえもん掛けに手を伸ばし、動物の毛皮で作られた保温性の高い上着を手にした。
 立ち止まってそれを羽織り、きちんとボタンを止めてから、深窓の姫君は静寂の薄暗がりの中へと足を踏み出すのだった。

 冷え切ったドアノブを後ろ手に引き、扉を閉める。寝室の明かりはついえ、両側に幾ばくかの間隔を置いてランプが灯っているやや暗い廊下を、王女は手ぶらで進んでいった。硬い靴音は絨毯に飲み込まれ、淡い吐息は真白く染まる。そこはまだ私的な空間であり、侍女が無粋に待機していることはなく、何もかもが息を潜めてでもいるかのようにひっそりと静まり返っていた。
 さほど歩かないうちに王女は左側へ曲がり、扉に向き合う。
 そのドアの取っ手をつかんで、回しつつ手前に引いた――。


  2月 5日− 


[鏡の向こう側(2)]

(前回)

 かつての〈少女〉から〈女性〉へと変貌を遂げてゆく十八歳の、気品と知的さを漂わせた端正な横顔、冷ややかさと翳りを秘めた口元が暖炉の炎に照らされている。自信と責任と、どこかまだ背伸びをして頼りなげな様子の混ざった双つの蒼い瞳は宙に注がれていたが、焦点は合っておらず、心には何も映していないようだ。彼女は連日の予定に忙殺され、消耗しきっていた。
「明日を乗り切れば……」
 侍女たちも聞いたことの無いような、低い声が洩れる。ここ数日は彼女にとって特に負担の多い、実の少ない日々だった。

 ラディアベルク家の嫡流――メラロ国王の一人娘であり、この〈王女宮〉の主であるシルリナ王女は、すでにドレスを脱いで湯浴みを終え、上下が繋がった薄桃色の清楚な寝巻に着替えていた。今は侍女も遠ざけて、独りベッドの縁に腰掛けていた。
 王女の若くしなやかな身体からは、湯浴みの名残である限りなく薄い湯気が立ちのぼり、ほのかな良い香りがしている――それは浴槽にふんだんに漬けられた花の香りだった。後ろで軽く留めた、充分に手入れの行き届いた長い茶色の髪は、侍女が拭いたのでほとんど乾いている。頬は艶やかで、白かった。

 優雅と繊細、気品とを兼ね備え、臣民からも若くして圧倒的な人気を誇るシルリナ王女の寝室は、主にふさわしく意匠を凝らした背の低い箪笥(たんす)や、眠る前のひとときに書簡をしたためたり本を読むための机と椅子、羽根ペンなどが用意されていた。過度に華美ではなく、派手でもなく、かといって質素すぎることもない。良質、良識、センスの良さが随所に光っている。

 王女は落ち着いた動作で、綺麗な指を駆使して器用に髪留めをはずし、それを布団の上に置いた。ついで、がっくりと首を下ろせば、自慢の茶色の後ろ髪が速やかに前へ落ちかかる。
 やがて彼女は声もなく、一気に力を抜き、ゆっくり一度瞬きする間に後ろへ倒れていった。腰から首まで木の棒のように一直線を保ち、それが弧を描きながらベッドに引き寄せられてゆく。
 こうして王女は、厚みのある羽毛布団に抱かれたのだった。
 ふっくらと膨らんだ布団が軽く波打ち、昼間の太陽の匂いが弾けるが、埃はほんのわずかしか舞い上がることはなかった。
 ベッドの枕元の斜め上にある棚の部分では、侍女が用意しておいたランプが温かな光を投げかけている。部屋の隅には相も変わらず暖炉が燃えて、適度に暖まっている。あまり煙の出ない、高級な樹を使っている。それらの燃える音と、窓の外の空の高みを闊歩する風の叫び声、それから王女自身の呼吸と鼓動、軽い耳鳴りとが、令嬢の聴覚が捉えた音の全てだった。

 さっきの晩餐会で見られた外向けの柔らかな笑顔は一変し、かといってベッドの縁に腰掛けていた頃のように呆然として焦点の合わない双眸とも異なっている。その御髪と似た彩りをしている茶色の眼は、今度はしっかりと天井を見据えていた。気を抜けない時間の連続である自分を、どこか遠くからあざ笑うかのような、人には見せることのない皮肉っぽい眼差しだった。
 王女はそのまま身体を左側へひねり、半回転してベッドにうつぶせになった。布団に顔を押し付けて、息を長く吐き出す。
 温かさが口の周囲、顔にまで広がってきて――息が苦しくなる。王女は思いきり肺の空気を絞りつくしてから顔を上げた。
「ふーっ、はーっ……」
 呼吸を繰り返した後、虚脱感に襲われたのだろう。落ち着いたかに見えた王女の両眼は、再び焦点が合っていなかった。
「疲れた」
 無意識のうちに、王女は心の底からの〈思い〉を独りごちた。


  2月 4日− 


[鏡の向こう側(1)]

 メラロール王国の誇る、歴史の重みと国家の繁栄と先端の文化の粋を集めた〈白王宮〉の、他国の使節を招いた宮廷晩餐会は既にお開きとなった。夜も更けて、奥まった〈王女宮〉の回廊はひっそりと静まり返っていた。動いているものといえば門前に立つ当直の警備の兵と、月明かりの描く淡い影くらいだった。
 その〈王女宮〉の、最後の突き当たりにある部屋にて――。

 南向きに連なる良く磨かれた窓は、艶のある厚いカーテンに隠されている。微かに、だが確かに、花の芳香が漂っている。
 寝室は広いけれども無粋に広すぎることはなく、ベッドの枕元には油臭さのほとんどしない高級な油を使ったランプが灯っている。暖炉には適度に炎が燃え、北国の真冬に温かさを振りまき、煙の少ない薪が時折破裂する音が響いていた。主人の安眠のため部屋全体としてみれば薄暗いが、かといって動けないほど暗くもない。全てが最も心地よい環境に整えられている。
 外では、メラロール市の郊外の丘を強い夜風が吹き荒んでいる。空の雲はきっと、冴えた星を一つずつ目隠ししながら散り散りに飛ばされていることだろう。いつかの晩に積もり、固くなった雪の名残はしんしんと冷えて、土は凍え、軒先の雫はこぼれ落ちる寸前に石化の魔法をかけられて氷柱(つらら)へと変じる。
 それらと壁一枚を隔てた寝室の中は、充分に暖かく、ほのかに明るく、外とはまるで時の流れ方さえ異なるかのようだった。
 部屋の片隅には、重厚で意匠を凝らしたベッドが設えられている。その辺りから、無意識のうちに心から湧き出してきたかのごとく、放心したような、小さくも長く重い溜め息が洩れだした。
「ふぅ……」


  2月 3日− 


[心をこめて(1)]

 晴れ渡った空には限りなく薄い霞がかかり、家々の間からわずかに覗く遠い山並みはぼやけていた。どこからか、春を告げる小鳥たちの高らかな声が流れてきて、町に染み渡ってゆく。
 うららかな日差しはこの街をまんべんなく照りつけ、古びた石畳を鈍く光らせ、土を暖めて草木の芽を育んでいた。春風の役割は、赤や白や桃色といった鮮やかで艶やかな花のつぼみを起こして回ることだ。ほんの一ヶ月前までは刃のように鋭かったのだが、今は食事に使うナイフのように先が丸くなり、和らいで穏やかに通り抜けた――少女たちのスカートの裾をそよがせ、頬を撫で、髪を揺らしながら。道ゆく人々は薄手の上着を脱いで腕に抱えており、足取りは軽く、その表情は総じて明るい。

「にゃ……」
 居眠りしていた黄土色地に茶色の模様の入った猫が面倒くさそうに顔をあげて、前脚を揃えて伸ばし、思いきり伸びをした。
「ごめんよ、通るよー」
 石造りの家と家に挟まれた日陰の狭い裏通りは、主に猫たちの主要路であり、また一部の人間にとっての近道であった。少し生ごみの匂いのするその道を、二人の少女が縦一列になって進んでいた。トンネルのようなその狭い道の向こうに輝きが見え、それはまるで太陽の光だけで編んだ扉のように見える。
 二人の少女と足音は、そちらの方に吸い込まれていった。

 すれ違うことさえ困難な、押しつぶされそうな混沌とした〈近道〉から抜け出すと、急に視界が広がって目がくらんでしまう。その場所に通ずる道のうちでは一番狭い裏路地から、日の当たる五叉路に現れたのは、赤い髪と強い意志の潜んだ瞳を持つ十代半ばくらいの少女だった。彼女は右手に手提げ鞄を持ち、左の脇には適当に折りたたんだ春物のベージュの上着を挟んでいる。薄い麻の生地で織られた、襟元や袖口にほんの少しだけレースの縁取りが付いている春物の黄色いシャツと焦げ茶色のズボンに身をつつんだ少女は、額に左手をかざした。
「まぶしーっ」

「ここに出るんだね。知らなかったよ」
 その後ろから、やや遅れていたもう一人の少女が顔を出す。二人目は夢みるように穏やかなまなざしが特徴的で、身体の線は細かった。今日は金色の髪を左右で結び、その上から灰色のベレー帽をかぶっている。上品な清らかさの象徴である白い長袖ブラウスに、紺色の長袖ベストを羽織り、幾つもの生地を縫い合わせた民俗衣装風のロングスカートを着こなしていた。
「さすが、サホっちだね」
 後から来たベレー帽の少女はそう言うと、先導役だった赤毛の友人――サホの背中を見つめて、まぶしそうに目を細めた。
「さあ行こう、ねむ」
 友を待っていたサホは振り返り、二人は並んで歩き始める。


  2月 2日△ 


[大航海と外交界(22)]

(前回)

 甲板の船員たちは額に手をかざして陽のまぶしさを防ぎ、帆柱の麓で上の様子を伺ってはいるものの、現在の彼らに出来る手立ては打ったので張り詰めた雰囲気はやや緩んでいた。彼らは元来が陽気で楽観的な、南洋民族ザーン族の出なのだ。
「まあ、マスト登りなんざァ、気をつければ大丈夫だろうぜ」
 と軽い口調で呟いた若い船員を、レフキルは厳しく睨みつける。その双眸はまるで緑色の炎であるかのように燃えている。
「ララシャ王女がどういう立場の方なのか、理解してる?」
「そうだ。それに、ララシャ様は初心者だ」
 年長の船員が落ち着いた声で諭すと、若い船員は口を尖らせ、悔しそうにうつむきながらも、意見を受け容れるのだった。
「そうっすよね」
 白い船員服が初々しい、頬に点々とニキビのある明るい金色の髪の青年――あるいは少年――は、攻撃された相手でもあり、ほとんど年齢の変わらないレフキルに矛先を向けてきた。
「お前よりは知っているつもりだぜ、俺は王国直属の船員だ。お前は何者だ、ララシャ様の何なんだよ? でしゃばりやがって」

「くっ!」
 するとレフキルは、妖精族の血が混じっていることの証であるやや長い耳を少し立て、背の高い相手を一瞬だけ鋭いまなざしで真っ直ぐ見返した。だが本来は辛抱強い彼女のこと、すぐに肩を落として唇を噛み、売られた喧嘩を買わずにじっと耐える。
「まあまあ、二人とも……」
「馬鹿野郎。お嬢さんに突っかかってどうする」
 すかさずウピと、先輩の船員たちがとりなして、事を収めた。
「ごめんなさい。喧嘩してる場合じゃなかったよね」
 レフキルはあっさりと自分の非を認め、潔く、深く頭を下げた。後手に回った感のある血気盛んな若い船員は、そもそも将来を期待されて雇われた優秀な人材だ。彼は怒りを静め、応えた。
「そうだよな。確かに、一国の王女様だもんな」
「もう一つごめん……あたし、嘘ついた」
 顔を上げ、真剣みのある表情と固い口調でレフキルがはっきり言うと、王女を見守っていた周囲の人々の視線が集まった。
「レフキル?」
 突然の告知に驚いて目を丸くしたのはウピだ。喧嘩しかかった若い船員も、訳が分からず、すっとんきょうな声で聞き返す。
「はあ?」


  2月 1日△ 


[如月のソネット]

 朝の大地に
 わたしは光の河をみた
 天の川より強く輝く
 朝日を受けた河だった

 そしてわたしは
 数限りない星を見た
 それはみんなの瞳(め)の中に
 確かにまばゆく、きらめいていた

 時は織りなし、影はうつろう――
 雨の矢の降る嵐の晩に
 この瞳(め)が曇ることもある

 あゝ、どうか
 その瞳が曇ってしまっても
 いつの日か、再び輝きますように
 




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