虹あそび 〜
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秋月 涼 |
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「雨があがったわ」 カーテンを開け、村長さんの娘で十二歳のレイベルは黒い瞳を輝かせ、窓の外を指さしました。北国のナルダ村では、草月(五月)半ばになっても朝方や夕暮れは冷えるのですが、さすがに雪は溶けて消え、美しい花と緑の季節がやって来ました。 灰色の雲が割れて、その間からまばゆい光があふれます。 「よーっし、チャンス到来だね☆」 ナルダ村の質のいい木で作った椅子に腰掛け、レイベルのお母さん――つまり村長夫人――がふかしてくれた熱い〈おいも〉をほおばっていたナンナは、腕をかかげて立ち上がりました。 ここはレイベルの家、二人は学舎の同級生で大の仲良しなのです。転校生のナンナは背が低めで、可愛らしく下ろした豊かな金の巻き毛は太陽の糸で編んだかのような明るさでした。 ナンナの着ている厚手の長袖ブラウスは春らしい桜色です。その右肩にちょこんと乗っているのは、淡雪のなごりではありません。真っ白い毛を持つ小さな賢いインコ、使い魔のピロです。 「ぴろ、ぴろ」 ナンナが急に立ち上がったので、ピロは驚いて鳴きました。 「いったい、何のチャンスなの、ナンナちゃん?」 窓のそばで振り向き、レイベルは軽い気持ちで訊ねました。 すると、ナンナは満面の笑みを浮かべ、自信たっぷりです。 「レイっち、知ってる? こういう時、虹の橋が出やすいの☆」 「うん、知っているわ」 博識なレイベルは興味深そうにうなずきました。さすがは村長さんの娘です――気品があり、とても落ち着いています。嫌みがなく、ひかえ目な性格で、ナルダ村の学舎の人気者です。レイベルは黒い髪をきれいに梳(くしけず)り、今日は後ろで結わえていました。赤茶色のロングスカートが良く似合っています。 「だから、虹の橋といっしょに遊べるチャンスだよ。えへへっ」 ナンナは得意げに、そしてちょっと恥ずかしそうに、鼻の頭を指先でなぞりました。使い魔のピロは高らかな声で叫びます。 「ぴろちゃん、かわいい!」 「ピロは黙ってて。話がややこしくなるから」 ナンナがほおを膨らませると、レイベルはなだめます。 「まあまあ、ナンナちゃん。ピロも悪気はないのよ、きっと」 それから想像力を胸の中で膨らませ、本題に入ります。 「虹の橋と遊ぶって、どういうことなの?」 「ふっふっふっふっ、えっへっへっへっ……」 うつむいたナンナは、ひどく妖しげに笑い始めました。 「ナンナちゃん、怖いわ」 レイベルはのけぞって窓に寄りかかり、苦笑いをします。 いたずらっ子のナンナは、ゆっくりと顔を上げてゆき――。 人差し指をまっすぐに突き出して、決め台詞を言いました。 「魔女におまかせっ☆」 そうです。ナンナは魔女の卵で、魔法が使えるのです! 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「やみ、だんご?」 レイベルは耳を疑い、目を白黒させ、すぐに聞き返しました。 「そう。闇のお団子、闇団子だよ☆」 都会っ子らしく片目をつぶったのは小さな魔女のナンナです。華奢(きゃしゃ)な肩の上で、インコのピロは首をかしげました。 「ぴぃー」 「闇って、大丈夫かしら……」 レイベルは不安そうにうつむきました。魔女のカサラおばあさんのもとで修行中のナンナの魔法はけっこう無茶苦茶で、しかも無謀で、無鉄砲の物も多かったのです。見習い中だから失敗は仕方ないけれど、何よりも親友のナンナが危険な目に遭うことが、レイベルは気がかりでした。それでも出来るだけナンナを信頼したい気持ちもあり、心は千々の悩み事でいっぱいです。 窓の向こうでは灰色の雲がほぐれ、思ったよりも強い春の光が降り注ぎます。レイベルのぬばたまの髪の毛は神秘的に輝きました。林の緑が鮮やかになり、水たまりは空を映します。 「光のスープに、闇のもとを溶かし込んで、ぐつぐつ煮るの。で、よーくこねて、力いっぱい固めれば、闇団子は出来上がりっ」 考えに沈んでいるレイベルをよそに、ナンナは大きく動作をつけて説明しました。親友の不思議な話とあどけない笑顔は、いつもレイベルの興味をかき立てます。楽しい想像力を膨らませると、さっきまでの不安もどこへやら、続きを聞きたくなります。 「ナンナちゃん。闇団子は食べられるの?」 黄金の髪の小柄な魔女は、すかさず左右に首を振りました。 「ううん、だめだめ。めちゃマズイよ」 「なーんだ」 レイベルが残念そうに言うと、ナンナはしゃがみ込んで何やら手を組み合わせ、素早く立ち上がって投げる真似をしました。 「雪合戦みたいに、闇団子を思いっきり投げるわけ。そしたら、光の子たちは闇が嫌いだから、避けて曲がっちゃうの。上手く光を集めれば、かなり見やすい虹の橋が出来やすくなるよ☆」 「お団子を投げるなんて、良くないわ。食べ物ですもの」 あくまでも真面目な村長さんの娘は驚いて目を丸くし、あわてて反論しました。ナンナは一瞬ひるみましたが、負けていません。どうしたら相手に分かってもらえるか、首をひねり、低くうなりながら一生懸命に考えました。やがてポンと手を打ちます。 「闇団子は食べ物じゃないよ! そう……泥の固まりみたいなものかな。ほんとにおいしくないし、誰も食べようとしないよー」 「ナンナちゃん……危なくないの?」 一つ目の疑問は解決し、少しは気持ちも和らぎましたが、レイベルはなお慎重に訊ねました。ナンナの話は面白いのですが、今までが今までだったので、全ての不安は消えていません。 「レイっち、だいじょーぶだよ。今回はちゃんとした道具を使うから、いくらナンナの魔力が低くても、ぜんっぜん危なくないよ」 ナンナは言い終わってから、くちびるを噛みました。自分が半人前だと認めるのは、我慢が出来ないほど悔しかったのです。 「それに、早くしないとチャンスが終わっちゃうよ。さあ行こ!」 「うん。わたし、ナンナちゃんを信じるわ!」 決心したレイベルの顔は、明るく晴れ晴れとしています。 「……ありがと、レイっち」 かすれた声で恥ずかしそうに、ナンナはささやくのでした。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「これでもない、あれでもない……あった!」 木の台の上で背伸びをしたナンナは、高い戸棚の中をのぞき込み、黒い小さなビンを手前に引き寄せました。いかにも怪しげなそのビンには〈闇団子の素〉という札が掛けられていました。 「ナンナちゃん。おばあさんに断らなくて、いいの?」 レイベルは心配そうに両手を組み合わせましたが、台から後ろ向きに飛び降りた魔女の孫娘はあくまでもマイペースです。 「あとで、ちゃんと言っておけば、だいじょぶだよ」 ビンを突き出し、薄暗い台所で金の髪をさらりと揺らします。 「それより時間がないから、急ごー!」 狭い通路を駆け抜けてドアを開け、ナンナは飛び出しました。 「あっ、ナンナちゃん、待って!」 急な出来事にレイベルは驚きましたが、何とか冷静さを捨てずに友の後ろ姿を追います。ナンナの頭の上にいた使い魔のインコのピロは、素早く羽ばたいてレイベルの肩にとまりました。 「ぴろ、ぴろ!」 「うん。わたしたちも行きましょうね」 レイベルはピロに微笑みかけ、裏口のドアに手をかけます。 強い光を浴びて、雨粒の名残は月を砕いた粉薬のように透き通っています。草いきれが命と大地の匂いを風に乗せて散りばめ、立ちのぼる霧はかげろうのように揺れています。二人の少女と一羽の小鳥は、湿気と熱気に充ちた外へ出てきました。 北国のナルダ村では、新芽の花月(四月)と、草木の緑が目にしみる雨月(六月)に挟まれた若葉の草月(五月)は、いたずらっぽい空気の流れ、甘い香り、ちょっとムラのある天気の移り変わり、さわやかな雲と明るい陽射し、限りなく広がっている空――ちょうどナンナくらいの年頃の子供と、どこか似ています。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 何度も繰り返して勢い良く振ってから、ふたを時計回しにして外し、ナンナは小ビンを傾けました。ゆっくりとこぼれた黒い粉は地面に落ちることなく、水に浮かぶように宙を漂っています。 「不思議だね……」 レイベルは興味津々そうに、ぬばたまの瞳を大きく見開いてまばたきしました。黒い粉は溶けることもなく、じわりじわりと広がっていきます。思ったほど悪い予感はしませんでした。そうです――夜は視力を奪うから怖いけれど、一方では、まどろみと夢と静けさと仲良しです。忙しい昼間を忘れ、心の休息を与えてくれる〈闇〉もまた必要なのだと、改めて思うレイベルでした。 「ピィ、ピィ……」 インコのピロはレイベルの肩に乗ったまま、黄色のくちばしでナンナのビンをつつこうと限界まで身を乗り出していましたが、闇だんごの素が出てくると慌てて食べようとしました。魔女の孫娘はビンと反対側の手を差しだして邪魔をし、鋭く制止します。 「食べ物じゃないよ! まずいんだからねー」 ナンナの表情は、言葉とは裏腹に真剣そのものでした。 「おなか壊しても知らないよ。ナンナの言うこと、分かる?」 金の髪のいたずら魔女は、顔をしかめて厳しくいさめます。 「ピュー」 一時は騒いでいたピロでしたが、そのうち諦めて静かになりました。小鳥の美しい羽が一枚、揺れながら落ちていきます。 ずいぶんとナンナが〈闇だんご〉の味に詳しいので、ふと気になり、村長の娘さんは半分冗談、半分本気で軽く訊ねました。 「ナンナちゃん、もしかして……昔、つまみ食いしたの?」 「うー。てへへ」 案の定、ナンナはほっぺを朱く染め、後ろ頭をかくのでした。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「うーん……うーんと……」 ナンナは素早くつま先立ちを繰り返し、待ちきれない気持ちを表していました。それでも、ふだんは落ち着きの足りない魔女の孫娘としては珍しく手を後ろに組み、瞳を輝かせ、目線の高さにこぼした〈闇のもと〉の様子を一生懸命に見守っています。 レイベルは予期しなかった親友の変化に少し驚きましたが、興味深そうにまばたきを繰り返しつつ、ナンナの一歩後ろから〈闇のもと〉がじわじわ広がってゆくのに目を凝らしていました。 その時、彼女はふと、親友の事前の説明を思い出します。 『光のスープに、闇のもとを溶かし込んで、ぐつぐつ煮るの。で、よーくこねて、力いっぱい固めれば、闇団子は出来上がりっ』 小さな魔女は確かにそう言ったはずでしたが、今までのところ〈溶かし込んだ〉り〈ぐつぐつ煮る〉ようには見えませんでした。 (もし、ナンナちゃんが作業を勘違いしていたら……) おせっかいとは思いつつもレイベルは不安でした。魔法は良く分かりませんが、何よりも心配なのは〈ナンナが怪我をするかも知れない〉ということです。加えて、優等生のレイベルは、村長のお父さんとお母さんに迷惑がかかることを恐れていました。 ですから、ごくりと唾を飲み、勇気を出して訊ねます。 「ナンナちゃん。闇の素を、光のスープで煮なくて、いいの?」 すると訊ねられた金の髪のいたずら魔女は不思議そうに首をひねりましたが、急に何かを理解して顔じゅうに喜びをあふれさせると、迷わず右腕を掲げ、人差し指を天高く突き出しました。 「いま煮てるよー。ほら、レイっち、あれだよ、光のスープ☆」 「えっ?」 ナンナの指さした先を見たレイベルは意味が分からず、最初は空の彼方を見回しましたが、やがて彼女も深く納得します。 「……うん、見えるわ!」 雲の切れ間からあふれ、こぼれ落ちてくる繊細な日差しは、お鍋のスープを別の器に移し替える時を連想させるのでした。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 さて、しばらく様子を眺めていると〈闇のもと〉から香ばしい匂いがふつふつと生まれ出てきました。光と闇がせめぎ合い、うっすら一筋の湯気が立ちのぼって、鼻を刺激します。図らずも舌の周りにあふれる唾を、レイベルはごくりと飲み込みました。 「ピュー、ピィー!」 お菓子の匂いと勘違いしたのか、ナンナの肩に乗っていたピロはその場で思いきり羽ばたきました。小さな空気の流れが起こって白く澄んだ一枚の羽が抜け落ち、舞い降りてゆきます。 「だめだめ、危ないんだから」 ナンナは人差し指を伸ばし、自分の使い魔のピロをなだめようとしましたが、逆に黄色のくちばしで耳を噛まれてしまいます。 「ひゃあ、ひどい!」 たまらずに首をすぼめると、ピロは素早く飛び上がり、横にいたレイベルの肩に上手いこと着地しました。黒い髪の似合う村長の娘さんは白いインコのまん丸の瞳を覗き込んで、穏やかに微笑みかけます。そして優しい口調で辛抱強く頼むのでした。 「ピロちゃん、あとで美味しいものをあげるから、今は我慢よ」 「フゥーン……」 首をかしげて甘え声で鳴くと、ピロは毛づくろいを始めます。 「もー。飼い主はナンナなのに」 不満を口にのぼらせつつも、十二歳のいたずら魔女はどこかしょんぼりしていました。遊び終わって家に帰ったら、きっとピロの好きな緑の野菜をあげようと心の中で反省していたのです。 「ナンナちゃん。やっぱり、これ、熱いのかしら?」 少し沈んだ考えを止めてくれたのは友だちのレイベルでした。彼女は空中でくすぶっている〈闇のもと〉を興味津々そうに見つめています。その向こうには今や七色の虹がくっきりと、ひび割れた雲から垣間見える水色の空の河原に優雅で雄大な橋を架けていました。辺りの湿気と草の匂いはいよいよ鮮やかです。 ナンナはすぐに気を取り直し、おしゃべりの本性を現します。 「うん、ゼッタイに手を出さないでね。やけどするよー。もうちょっとだけ煮込んだら、自然と水が混ざって、冷めて行くからね☆」 「お水?」 レイベルは再び鴉(からす)色の瞳を見開きました。地方の村娘のレイベルは魔法の知識に乏しく、都会っ子のナンナの言葉に惹かれていきます。さっきの光のスープのこともあったので、楽しげな想像は膨らみ、心臓は速い鼓動を打ち鳴らしました。 続くナンナの返事は、親友の素直な期待を裏切りません。 「雨の後の風さんには、水分がいっぱい含まれてるからね☆」 レイベルは一瞬、静止して、相手の言葉を深く味わいます。 それから両手を組み、新鮮な驚きに充たされて叫びました。 「まあ、すごいわ。ナンナちゃん、すてきね!」 「ぴろ、ぴろ、ぴろ」 ピロは諦めたのか、レイベルの肩の上で静かにしています。 「てへへ……まーね。魔女におまかせだよ☆」 少女は得意げに、やや恥ずかしそうに鼻の頭をなでました。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ナンナの言うとおり、しだいに〈闇のもと〉は水蒸気をあげて、固焼きした米菓子のように焦げた匂いを漂わせています。そのうち風に含まれた雨粒をいっぱいに吸い込んだ黒い粉は、泥を思わせるごとく溶け、大きなあぶくをいくつか膨らませました。 やがて、それも静まってゆきます。 首筋や頬をなで、髪を揺らして通り過ぎる涼しい風を感じながら、二人と一羽は背の低い草の生い茂るナルダ村の道から少し外れた家のそばの原っぱで、大いなる生命の誕生さえ思わせる魔法の泥の不思議に面白い移ろいを見守っていました。 「そろそろかな〜?」 八歳のナンナは少し背伸びをし、人差し指を伸ばします。 そして恐る恐る〈闇のもと〉に触れ、すぐに引っ込めました。 「どうかな?」 この辺りの村では珍しい、金色の髪を戴く魔女の孫娘は、再び指先で温度を確かめます。今度は長く触れていましたが、にわかに半分だけ振り向き、いたずらっぽい笑顔で言いました。 「レイっち、もう触っても大丈夫。こねこね時間だよ☆」 「こねこね時間?」 レイベルは目を丸くして聞き返しました。肩に座っている使い魔のピロも、可愛らしく小首をかしげ、つぶらな瞳を瞬きます。 「うん。冷めないうちに、お団子作らなきゃ!」 虹のくっきりと現れ出た空高く、ナンナは右腕を掲げました。 「いよいよ〈闇だんご〉が出来るのね……」 村長の娘のレイベルは、胸に秘めた大きな期待を声に乗せてつぶやきました。それから準備のためにブラウスを腕まくりして気合いを入れ、こぶしを握りしめ、優雅に口元を引き締めます。 雨上がりに特有な潤いの風が吹き過ぎ、色とりどりの緑の草はいっせいに爽やかな音を立て、波のように揺れるのでした。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 風が運ぶ水によって冷やされた〈闇のもと〉は熱さの盛りを過ぎ、ちょうど良い温かさでしたす。言うなれば、お湯加減のちょうどいい温泉――触れているだけで睡魔に眠気を誘われます。 「こねこねこ〜ね、こねこ〜ね、こねたら、こ・ね・て〜♪」 ナンナはまぶたが下がってくるのをこらえつつ、妙な節をつけて夢見心地に唄いながら作業を続けます。両手で抱え込めるほど小さな泥の固まりになった、虫の羽のように黒くテラテラと輝く闇だんごの材料を何度も混ぜ合わせ、ひっくり返しました。 ナンナの祖母のカサラおばあさんなら、こう説明したでしょう。 『もともと〈闇のもと〉は真夜中の空気にたっぷり含まれているものじゃから、お前が眠気を感じたのも当然かも知れんよ……』 「こね、こね、こね、こね……」 レイベルの方はナンナよりもちょっとだけ背が高いので、宙に浮かぶ〈闇のもと〉をこねるのは、いくぶんやりやすそうです。時折、瞳にかかる黒い前髪をかき上げながら、あくまでも自分に合った速さで、ひたむきに、出来るだけ力を込めて押し込みます。二つに切り離し、くっつけ、ぎゅっと手を組んで固めました。 「ぴろ、ぴろ、ぴろ……」 レイベルのリズムに合わせるかのように、肩の上では小鳥のピロが首をかしげて何やら早口に喋っています。二人の作っているものが食べられるどうか、やはり気になっているようです。 それほど時間が経たぬうち、レイベルはこめかみや額にうっすら汗をかいていました。魔法の黒い泥からさかんに昇っていた湯気もおさまり、不思議な材料は少しずつ水分を蒸発させ、柔らかさも失われてゆきます。まさに今この時間――雨上がりの湿った土が、照りつける強い光を浴びて乾くのに似ています。 村長の娘は腕に力を込めたまま、苦しげな声で訊ねました。 「ナンナちゃん、まだー?」 手はいつの間にか真っ黒に汚れていましたが、そんなことはちっとも気になりませんでした。普通の水遊びや泥遊び、それに料理のまねごとなら慣れっこです。魔法の闇にしたところで、結局のところ一つの遊びですし、何の違いもなかったのです。 「あ……もういいみたい」 無意識に手だけを動かしていたナンナは、友の呼びかけで夢幻の淵から立ち直りました。その青く澄んだ、いたずらっぽい眼(まなこ)はまだ半分しか開いていませんでしたが、じょじょに、ゆるやかに意識が戻ってきます。視線の焦点が合ってきます。 そして彼女は少しよろけながらも、腕を天に突きさしました。 「細かくちぎって、丸めて、夜の色のお団子にしよっ☆」 ナンナが手を挙げても〈闇のもと〉はふわふわと浮き沈みしながら、その場で微かに漂っていました。空の虹の橋はいよいよ最高潮を迎えて色濃く、素晴らしい弓を張っています。風に吹かれて、足元の草は快い音をあげ、水しぶきを散らします。その中ではあまたの小さな虹が、生まれては消えてゆきました。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ふぅー」「ほーぅ」 疲れて重くなった華奢(きゃしゃ)な肩を軽く上下に動かしてから、ついにナンナとレイベルは思いきり腕を伸ばし、柔らかくこねた温かみの残る〈闇のもと〉を指先で細かくちぎり始めました。 「ぴろチャン、オイデ!」 レイベルの肩に二本の足をかけて立っていたナンナの使い魔のピロは、いよいよ食べ物が出来上がるのを察知し、にわかに激しく羽をばたつかせます。それが快い風となり、雨上がりの空に浮かぶ夜の予感――不思議な〈闇のもと〉を冷まします。 「ピロ、あとで美味しいものをあげるから、我慢してね」 困り顔のレイベルは、翼をはためかせて斜め上を飛び回る小さな純白のインコに辛抱強く語りかけました。その間も指の関節を器用に動かして〈闇だんご〉を細かく分けては真っ黒に汚れた手で丸くまとめてゆきます。謎めいた指紋が世界でただ一つのスタンプとなり、少女の名を天の聖守護神様に伝えました。 「レイっち、さすがだね☆」 少し目の覚めてきたナンナは友だちの慣れた手つきを見て、心からほめました。最初、レイベルは隣に立っているナンナのやり方を見よう見まねで、こわごわと〈魔法料理〉していましたが、結局はいつものお団子作りと変わらないことに気付くと、一気に本領を発揮したのです。田舎の子供らしく、都会っ子よりも指は少し太くて短いけれど、素晴らしい器用さを発揮して次々と夜色の玉を完成させます。人差し指と親指で丸を描いたくらいの大きさしかない、可愛らしい〈闇だんご〉の出来上がりです。 そう――村長さんの娘のレイベルは料理が得意なのでした。 「ナンナちゃんのだって、なかなかだと思うよ」 こぼれ落ちる額の汗が目に入る前に右手で拭い、レイベルは大きさの偏っている親友の作品の、良い部分を見つけました。 「個性的な形で、すてきだと思うわ。これでイタズラしたら、色とりどりの虹の橋さんも、光の子たちも、きっとびっくりするね!」 言いながら、レイベルは本来の目的を思い返していました。金の髪の小柄な魔女の説明が、はっきりと心によみがえります。 『雪合戦みたいに、闇団子を思いっきり投げるわけ。そしたら、光の子たちは闇が嫌いだから、避けて曲がっちゃうの。上手く光を集めれば、かなり見やすい虹の橋が出来やすくなるよ!』 「痛っ!」 豆粒ほどの硬い虫がナンナの頬にぶつかり、あわてて方向を変えて逃げ去ります。さっそく出来たての〈闇だんご〉を握りしめたまま振りかぶり、投げる真似をして、ナンナは注意しました。 「こらー! 痛いなぁ。空を駈ける時は気を付けてよー」 けれども言葉とは裏腹に、都会からの転校生は笑顔でした。 一方、飛び回って疲れた小鳥のピロは、久しぶりに本来の主人であるナンナの肩に止まり、ふいごのように息をしながら目を見開いていました。魔女はピロの白い頭をちょこんとなでます。 「ピロもあんまり無理しちゃだめだよ。ね?」 「ぴゅーぃ」 ピロは不思議そうに首をかしげ、甘えた声で鳴きました。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 天に架けられた大きな虹の橋は、ついに一番の盛りを過ぎていました。はっきり灯っていたはずの七色の輪郭が少しぼやけて、絵の具を薄めるかのように明るい青空へ溶けてゆきます。 雨をもたらしていた黒い雲はものすごい速さで風に散らされ、切れ切れになって飛ばされました。草原の緑はいよいよ鮮やかさを増して内に秘めた生命の息吹を誇らしく燃やし、木の葉に座っていた水滴の真珠は強い光に射られて、再び母なる空への旅路につきました。霧のようにうっすらと地上から草いきれが沸き立ち、独特の匂いで鼻を刺激すると、少女たちの心臓は鼓動を速めました。自然と一緒になれた、大いなる歓びとともに。 「何とか間に合って、本当に良かったわ」 目に入って滲みる汗を真っ黒に汚れた手で拭うわけにもいかず、レイベルは首を曲げて服の袖にこすりつけました。うなじや背中、太ももから膝の辺りまでも汗の河が伝いますが、逆に喉は渇いています。完成した三十個ほどの〈闇だんご〉は、海の波を思わせてそよ吹く風のまにまに浮き沈みしつつ漂います。 ナンナは右手の中に第一球を握りしめ、腕を高く掲げました。 「さー、レイっち、いくよぉ〜。ナンナの見ててね☆」 半分振り向き、小さな魔女のナンナは素直で背伸びのしない十二歳の微笑みを友達に贈ります。この国では珍しい金色の髪がまばゆい輝きのしずくとなり、肩にこぼれ落ちていました。 「うん、しっかり見てるわ。ピロは私の肩においで」 レイベルがうなずいて自分の肩を指さすと、賢いピロは軽やかに白い翼を羽ばたかせて、指示通りの場所に舞い降りました。 「来てくれたのね!」 「ぴろりろ……」 感動するレイベルをよそに、ピロは至って平然とお喋りです。 ナンナは思いきりのけぞって、華奢な腕を振りかぶります。森の方では、雨上がりの華やかな鳥の合唱曲が始まりました。 「よーし」 そして勢いをつけ、ナンナは前に押し出すように、出来る限りの勢いをつけて狙いを定め、最初の〈闇だんご〉を投げました。 ナンナの指先を離れ、魔法の黒い球はいま旅立ったのです。 「行けぇー!」 「頑張って!」 二人はそれぞれのやり方で応援します。ナンナは身を乗り出して口に手を当て、レイベルは指を組み合わせて祈るように。 たいして筋力のない少女が投げるのですから、飛距離はたかが知れています。きれいな弧を描いて出発した〈闇だんご〉はあっという間に速度をゆるめて、草原の中に落ちそうになります。 「ああー」 レイベルは残念そうに溜め息を洩らしたのですが――。 その顔が、みるみるうちに最高の驚きに彩られてゆきます。 「ええっ?」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 墜落するかに見えた〈闇だんご〉は、しかし決して落ちませんでした。しなやかに蝶が舞うほどの速さを保ったまま、見えない天の坂道を風に揺られ、ほぼ同じ角度で駆け昇ってゆきます。 「どこまで行くのかしら……」 見上げていたレイベルはすっかり〈闇だんご〉の黒い流星の軌跡に見とれていました。時々、その中でチカチカと銀色にきらめく神秘の瞬きは、陽の光に隠されていた夜の星なのでしょう。 闇の幕を塗り固めたような魔法の黒い固まりはしだいに遠ざかり、指先くらいの大きさになったかと思うと、やがて胡麻粒に変わります。そのうち一つの点へと縮み、最後には七色の虹の橋のちょうど膨らんだ真上の辺りへ吸い込まれてゆきました。 「これからが本番だよ☆」 ナンナは嬉しそうに鼻の頭を人差し指でこすります。灰の雲の底が重さを失ってちぎれ飛び、綿雲となって青空が顔を見せる中、彼女の細い金の前髪が湿った強い風になびいています。 その時です――にわかに空の果てで何かが動きました。 「あらっ?」 突然の出来事に、レイベルは自分の目を疑い、黒い瞳を素早くしばたたきます。それは注意していないと気づかぬほどの小さな変化でしたが、明らかな〈始まり〉の予兆を秘めています。 だいたいの場所は、虹の橋の最も高い部分でした。絵の具を垂らしたかのように黒いシミが生まれ、ゆっくりとシャボン玉のように丸く膨みます。服のボタンくらいの直径に達すると、今度はしだいに闇色を流して、しまいには天に溶けて消えました。 「あれは〈闇だんご〉のしわざなのかしら?」 食い入るように空を仰いでいたレイベルは、突如、叫びます。 「あっ!」 それは世にも不思議な光景でした。 弾けた〈闇だんご〉の色を嫌がるかのように――。 光と雨から生まれた夢の架け橋、天に渡した大きな∩型の弓は、真ん中がくぼんでm型になります。ぎゅっと寄せ集められたぶん、幅は細くなりますが、色はわずかに濃くなっていました。 「こんなの初めて見るわ!」 普段は穏やかな村長の娘が興奮して背伸びし、真っ黒に〈闇のもと〉で汚れた固く両手を握り合わせるほど、それは神秘的で素敵な出来事でした。同じく不思議な予感を感じたのでしょうか、ピロは落ち着かない様子で、白い羽をばたつかせました。 「ぴろ、ぴろ」 相変わらず宙を漂う〈闇だんご〉の一つをつかんだナンナは、魔法が成功したことに、いくぶんほっとしている様子でした。 「さあ、レイっち。じゃんじゃん投げちゃおう☆」 友の可愛らしい笑顔と白い歯に引き寄せられて、レイベルは最高の歓びに頬を紅潮させ、元気たっぷりにうなずきました。 「うんっ!」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「そう、そうやって……で、思い切り投げるんだよ☆」 ナンナは投げるふりをして、友達のレイベルを促しました。 「うん。やってみるわ」 たくさんの好奇心に少しの緊張を混ぜ合わせ、レイベルは最初の〈闇だんご〉を選びました。足元に気を付けながら小股で後ずさりすると、腕を上げたまま軽く助走をつけて、まだ温もりの残る〈それ〉に勢いをつけ――振り下ろす途中に放ちました。 「えいっ!」 レイベルのこぶしを出発した魔法の球は順調に進みます。 「がんばれー」 学舎の勉強の方もしっかりやっていますが、もともと田舎のナルダ村で生まれ育ったレイベルは、こういう新しい遊びが大好きです。特に、魔法の力を秘めた〈闇だんご〉で虹の橋を変えることが出来るなんて、背中に羽が生えて蝶になり、南風に乗って飛んでしまいそうなくらい最高の気分でした。もうすっかり心配の消えた心からの無垢な笑顔が、それを証明しています。 (レイっち、すごく楽しそう。よかった!) 魔法が成功したのもさることながら、仲良しのレイベルに喜んでもらえたのが一番うれしかった、小さな魔女のナンナでした。 「そーれ!」 レイベルの飛ばした球がたどり着く前に、ナンナは二つ目の〈闇だんご〉を投げ込みました。雨上がりの空はまぶしく、思わず左手を額に添えました。その間も、妙な形に曲がった虹の橋は色褪せてゆきます。辺りは蒸し暑くなり、草いきれが限りなく広い半透明のカーテンとなって、天の方へ引き寄せられます。 「よおっ」 ナンナは続けて三個目を、思いきり放ったのですが――。 残念ながらタイミングを誤り、すっぽ抜けてしまいます。 「ありゃあ? ダメかなー」 天に届かず、力無く落ちそうになる黒い闇の固まりはひどく哀れに見えました。もう一押しがあれば、とナンナは考えました。 「ピュィー? ギィ!」 主人の願いが通じたのでしょうか? ナンナの肩を離れ、真っ白の翼を大慌てでばたつかせ、夜のだんごを猛烈に追いかけたのはピロです。黄色のくちばしを伸ばして、自分の身体よりも少し小さい獲物に狙いを定め、斜め下の方から回り込みます。 ピロは〈闇だんご〉をくちばしで押すと、器用に急速旋回してナンナの元を目指します。主人が差し出した泥だらけの手には見向きもせず、きれい好きのインコは再び肩に止まるのでした。 確かに勢いを取り戻した黒い球は空高く浮かんでゆきます。 「ピロ、賢いね。ありがと!」 小さな魔女に褒められると、一仕事終えたピロはつぶらな瞳を見開き、何事もなかったかのようにクチャクチャと喋りました。 「ピロチャン、カワイイ……」 と、その時です。 「あっ!」 じっと自分の投げた軌跡を夢見がちの視線で追っていたレイベルは、思わず右足を踏みおろし、驚きの叫びを上げました。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ふしぎ……」 いつしかレイベルは空のかなたに見とれていました。虹の橋の下側にたどり着いた〈闇だんご〉はささやかなホクロのようでしたが、それは突然、シャボン玉のように――しかも、さっきのナンナのとは微妙に違う見え方で――弾けました。そして凛と張った漆黒の翼の幕を辺りに広げ、しだいに消えてゆきます。 虹に対する効果は絶大でした。腰をくねらせ、伸びようとするのですが、すでに上の方には先ほどナンナが仕掛けた見えない夜の網がかかっています。遠いので詳しく判別できませんが、きっと〈闇だんご〉は風に溶けて散らばっているのでしょう。 熱いゴアホープ茶に溶かした砂糖は見えなくなりますが、味は甘くなります。そして全ての色を塗りつぶす闇は、あらゆる色を持つ虹の正反対です。弾けた〈闇だんご〉が散りばめた一瞬の宵の中、昼の明るさに邪魔されていた星が垣間見えます。 大陸の北東部から出たことのないナンナとレイベルは知りませんでしたが、光と闇がせめぎ合う美しさと面白さは、山の向こうにあるお隣りの国のメラロールで祭りの夜空に明るく映える、魔術師が操る〈花火〉と呼ばれる色の付いた炎と、どことなく似ていました。なお、この〈闇だんご〉の破裂は〈花火〉よりもかなり小さいので、空の彼方に目を凝らしていないとなかなか気がつきません。虹の橋が身をよじるのは分かりやすいのですが。 そもそも〈花火〉は暗い空にあまたの光の模様を描きますが、二人の少女がこねた〈闇だんご〉は昼間に現れた夜のひとひらで、七色の虹の橋を驚かせます。弾けた〈闇だんご〉は、昼と夜が入れ替わっている〈花火〉、いわば〈逆さ花火〉なのでした。 「えへー」 ナンナは鼻の頭を得意そうに人差し指の関節でなでました。はにかんだ微笑みを浮かべて、金の前髪を風になびかせたまま立っていましたが、やがて恥ずかしさを吹き飛ばす勢いで軽やかに腕を差し出し、目の前をふわふわと浮き沈みしている新しい泥の固まりを手に入れて、前に突き出すように放ちます。 その頃、ナンナの投げた二つの〈闇だんご〉が虹にたどり着きました。黒い靄(もや)となって薄く広がり、消えかかる虹のたもと、左と右の出口をふさぎます。虹は上にも下にも伸びきれなくて、中央部へぎゅっと圧縮されます。七色の糸は鮮やかさを取り戻しつつ混じり合い、しだいに虹は横に長い、いびつな楕円形へと変化を遂げてゆきました――石鹸で出来た泡のように。 「レイっちも投げれ……どうしたの?」 ナンナは青い瞳を見開き、あわてて親友に声をかけます。 レイベルの表情は、いつの間にか曇っていたのでした。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「どうしたの、レイっち?」 青い目を丸く広げて、ナンナは隣の同級生に訊ねました。都会ではあまり馴染めなかった風変わりな魔女の卵が、カサラおばあさんに連れられて越してきた田舎のナルダ村では、彼女の大雑把な性格も個性の一つとして受け容れられました。友も増え、中でも心から信頼できる親友が村長の娘のレイベルです。 その真面目な優等生は、ぬばたまの黒い前髪が落ちてくるのも気にせず軽くうつむき、感情を抑えた低い声で応えます。 「なんだか、かわいそうで……」 「かわいそう?」 ナンナはレイベルの言葉を繰り返したきり、口をつぐみます。 速い流れのちぎれ雲が太陽を隠しました。世界は西の方からいっせいに薄暗くなり、野原の緑はくすんだ色に変わりました。雲が地上に灰色の幕を掛けてしまったかのようです。頬をなでる風の流れや草の揺れる音さえ、少し不気味に感じてきます。 その間にも、小さな魔女が投げた〈闇だんご〉は空のかなたにたどり着き、虹の橋を変形させました。もう原形をとどめていません。七色は鮮やかに濃くなり、鏡で乱反射させたように絡み合って、巨大なシャボン玉が天高く生まれようとしていました。 やがて雲は駆け去り、暖かな春の光が降り注ぎます。すくった両手から水が滴り落ちている時に、その手をだんだんと広げてゆくような――最初はきらめく宝石が見え、そのうち細い直線となって、ついには大地の上に光の領域が増えていきました。 「うーん。何が、かわいそうなの? わかんないよー」 しばらく考えていたナンナは首をかしげて腕組みし、頼りなさそうな声で、ひどく困惑して言いました。怒ってもいませんし、悲しくもありません。ただひたすら、彼女はレイベルの言葉が不思議で仕方なく、どうしても理解することが出来なかったのです。 少女は一瞬のためらいを振り切り、勇気を出して訊ねます。 「虹あそび、つまんなかった? なら、違うことして……」 「そうじゃないの!」 レイベルはさっと顔を上げて、相手の目を見据え、普段とは違う厳しい口調で叫びました。激しい稲妻が弾けた感覚が小さな魔女を捉え、心臓は飛びはねて、指先がぴくんと震えました。 「ひっ」 「そうじゃないの……とても楽しかったのだけど。ナンナちゃんに悪気がないことも分かっているわ。だけど、だけど、ね……」 レイベルは思わず視線を逸らしました。笑顔の似合うナンナの表情が、さっきの鋭い一言で凍りついていたからです。レイベルの心は冷めて、あっという間に友達への申し訳ない気持ちに変わりました。悪いことをすぐ認めるのは彼女のいいところです。 「ごめんなさい。私、ナンナちゃんを怖がらせるつもりはなかったの。それに虹あそびが面白かったのも本当よ。でも一つだけ」 「うん。レイっち、気にせず話してみてね☆」 ナンナは無理矢理に痛々しく笑顔を取り繕いました。 息を飲み、黒い瞳を瞬きし、レイベルは大きく息を吸います。 そしてついに思い切り、やや早口で本音を語るのでした。 「笑わないでね。わたし、虹さんが気の毒でかわいそうなの。だってあんなに背中が曲がって、だんごみたいに丸まって……」 「話してくれて、ありがとね。ナンナ安心したよー」 レイベルの考えを決して否定せず、しっかりと受け止めてから、ナンナはまず自分の思いを語り出します。お互いの違いを認めた上で歩み寄る大切さを、村での穏やかで伸びやかな暮らしの中で彼女は知らず知らずのうちに身につけていました。 「ナンナね、さっきは確かに、虹さんは〈闇だんご〉の夜をいやがって身体をくねらせるって言ったし、確かにおばあちゃんからもそう教わったんだけど……今はちょっと違うかな、って。たぶん虹の橋だって、まんざらじゃないと思ってるような気がするよ」 「そうかしら……」 心配性のレイベルを励まし、ナンナは天の頂を指さしました。 「だって、あんなにきれいなんだよ〜、虹のお化粧☆」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「虹の、お化粧……」 レイベルはにわかに強い衝撃を受けて、心や夢みたいに果てしなく広がっている天をあおぎました。眼差しの行く先には七色の満月が浮かんでいます。どんな属性をも越えた幻の魔法を風のゼラチンで固めたような、綿雲よりも大きいシャボン玉です。 地面から顔を出した芽が急速に背伸びするように、花の白いつぼみが開くように――子供らしい遊び心がよみがえります。虹さえ嫌がっていないのなら、レイベルだって本当は今すぐでも遊びたいとウズウズしていたのです。村長の娘の誇りか、真面目な子を演じていた部分も、多少はあったのかも知れません。 「そうよね。虹さんもたまにはおめかししたいよね、きっと」 レイベルはいたく感動し、ほんの少し震える声で言いました。 他方、よく喋る小さな魔女はたいそう調子よく説明しました。 「んー。ナンナね、虹さんは嫌がってるよりも、恥ずかしがってるのかなって思うんだよ。あの〈闇だんご〉って、あんなに真っ黒で泥だらけだけど、もしかしたらお化粧の宝石なのかもねー」 すぐにレイベルは黒い瞳を瞬かせてしっかりとうなずきます。 「うん。きっと、ね!」 二人の視線は自然と空の高みから下がり、いつしか手の届く場所に戻ってきました。カカオ豆のクッキーみたいに固くひび割れたお手製の〈闇だんご〉は風に揺られ、宙を漂っています。 「さあ、おだんごが冷めちゃった。思いきり投げよ☆」 「いっしょに投げよう、ナンナちゃん!」 村娘たちは、思い思いの黒い魔法のだんごを手にしました。形は良くないけれど、気持ちの籠もっている不思議なお菓子には、ほんのちょっとだけ芯にぬくもりが残っているようでした。 それから二人は球を持ったまま、思い切り振りかぶり――。 「届け、虹のお化粧玉!」 声を合わせて同時に投げると、額から汗の雫がこぼれ、明るい光にきらきらと輝いて、雨あがりの水蒸気が漂う草の中に落ちてゆきました。黒い夜の切れ端が、さかさまの流れ星を思わせて、真昼の空にゆっくりと浮かんでいきます。目指す行き先は、空の彼方にある虹の顔です。まもなく第二陣、第三陣の球が元気に続きます。少女たちの心も最高潮を迎えていました。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「しっかり、つかまってててね☆」 ナンナは息を弾ませたまま、首を左に半分動かして、背中のレイベルを確認しました。二人は木の棒をまたぎ、ナンナはそれをつかんでいます。そしてレイベルはナンナの腰にしがみついていました。ナンナの耳元で親友の高揚した声が響きます。 「うんっ」 小さな魔女は両眼を固く閉じて精神を集中させ、普段はめったに見られない真剣な表情で呪文を唱え始めました。風さえ、少女たちを避けて通り過ぎるほどの緊張感が辺りの雰囲気の一粒一粒に充ちていました。ここは踏ん張りどころなのです。 「……と流れゆく空の大河よ、今こそ我が元に集いたまえ!」 そしてナンナは肩の力をふっと抜き、青い瞳を見開きました。 「フォーレル、ロワンナァ!」 その視線は一瞬だけ、どんなものをも見通せそうなくらい、激烈で強い輝きを帯びました。ですが、次の刹那にはいつものナンナです。木の棒の後部座席に陣取っているレイベルは、魔法の成功を祈るように、友の腰を抱きしめる腕に力を込めました。 しばらく何も起きません。村長の娘はごくりとつばを飲み込みます。速まった胸の鼓動が二十を数えるまでは成功か失敗か分からないのです。ナンナの魔法にだいぶ馴れてきたレイベルですが、この時ばかりは何度味わっても精神が張りつめます。 ――気のせいでしょうか。 わずかばかり空気が揺らいだかと思うと、頬のうぶ毛は風が生まれたことを感じ、足下の草は微かにざわめき始めました。 もはや気のせいなどではありません。 その間も予兆は少しずつ充実し、天からの釣り針――斜めに向かう上昇気流に育ってゆきます。ナンナの黄金の巻き毛は舞を踊り、春にふさわしい薄い桃色の厚手のブラウスの袖や襟がはためきます。レイベルの細くて美しい漆黒の前髪は簾のようになびき、お似合いの赤茶色のロングスカートの裾もパタパタと音を立てました。汗は乾きましたが服の背中は湿っています。 ナンナとレイベルの足は少しずつ動き、雑草は倒れ、また起き上がります。二人の周りを、見えない風の輪の源が駆け回り、髪の毛は激しく逆立ちます。水の中の泡のごとく上昇しようとする棒を持ち替えて、ナンナは誇らしげに顔をもたげます。緊張と歓びの入り混じった〈いい顔〉は、まるで花のつぼみです。 やがて、かかとが離れ、土踏まずの辺りが浮かび、つま先が地面に別れを告げます。湖で泳いでいる時、ちょっと深い淵に来て、足が着かなくなったような感覚に似ています。空泳ぎの二人はいよいよ沖を目指して、大地という岸辺を離れました。 「ぴゅーぃ」 留守番を任された白いインコのピロは、近くに生えていた背の低い木の枝に留まって、寂しそうに甘えた声を出しましたが、ナンナたちがいなくなると羽をばたつかせながら、安全な家へと飛び去ってゆきます。冷めきった〈闇だんご〉の細かな欠片だけが、その場でいつまでも浮きつ沈みつを繰り返していました。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ふっほーぉ……」 だいぶ高度を稼ぎ、棒を水平に戻してから、魔女の孫娘のナンナはさっきの呪文の名残のような大きい溜め息をつきます。 離陸の際――特にレイベルを乗せている時――にはいつも緊張します。自分だけならば適当な乗り方でも構いませんが、大切な友達に少しでも怪我をさせるわけにはいかないからです。 ナンナは上空で風の流れを捕まえるのは割と得意なのですが、ふだん慣れ親しんでいる大地の力から切り離されて、正反対の天空の力に身を預けるという〈離陸〉や、帰り際の〈着陸〉は難しいのです。それもそのはず、この〈飛翔魔術〉は大人の魔女だって簡単には使いこなせない、とても高度な魔法です。 魔法には術を使う人の性格が影響します。自由きわまりない考え方を持つナンナは、風に関係した魔法はとても得意です。 ナンナが使った〈フォーレル・ロワンナァ〉は棒状のものを浮かび上がらせると同時に、ある程度まで、それに接している者の身体まで軽くしてくれる魔法なので、お尻はほとんど痛くなりません。また風と仲良しの魔法なので、仮に体勢を崩しかけても見えない精霊が手助けしてくれますし、ナンナが術に集中している限りはレイベルも落ちるような心配はほとんどありません。 その上位魔法にあたる〈フオンデル〉は、物の力を借りずに人の重さを無くして飛ばす最難関の魔法の一つです。さすがのナンナでも、現段階ではまともに使いこなすことは出来ません。 そもそも十二歳のナンナが〈フォーレル・ロワンナァ〉を扱えるだけでも大したものなのですが、他はひどい失敗が多く、お母さんに奨められて受けた学院の入学試験は不合格でした。才能を見抜いていたカサラおばあさんはナンナを預かり、おばあさんの生まれ故郷である田舎のナルダ村に連れてきたのでした。 可愛らしいちぎれ雲がいくつも並んでいる様子は、まるで天の住人のお引っ越しです。その中の一つに正面からぶつかると、刹那、視界は吹雪のような純白に染まりますが、あっという間に向こう側にたどり着いて、一段と明るい光が降り注ぎます。 空駆ける旅人に無関心な一羽の鷹は、ナンナたちよりもずっと低い場所で緩いカーブを描き、旋回しています。その向こうにはナルダ村の様子が、手先の器用なフレイド族の作った精巧な模型のように広がっています。家の屋根は胡麻粒のようです。 村は遠ざかりますが、村長さんの娘のレイベルの屋敷はまだ何とか判別できます。二人乗りなので速度はあまり出ません、せいぜいナンナが早歩きするくらいです。鳥に全く及ばぬ少女の空駆けは〈天のお散歩〉という表現が適当かも知れません。 それでも上空は風が強まって髪の毛は逆立ち、身体は寒いほどです。前を向いて操縦を続ける見習い魔女の声は、後部座席のレイベルには切れ切れのかけらとなって届けられました。 「ちっちゃいよ〜、村が、あんなに☆」 「うん」 レイベルは友達にしがみついていた腕の力を少しだけ緩めますが、普段は遠くに見える虚空に抱かれて、気を付けないと意識までが蝶々のように飛んでいってしまいそう。離陸から続いている凧糸のように張りつめた緊張感と、雲を突き抜けて空に吸い込まれる楽しさ――それは再び土の上に足を置くまで、レイベルの心の奥に燃えさかる炎のごとく葛藤し、交錯します。 レイベルは何度かナンナの背中で空を飛んだことがありますが、なかなか景色を楽しむ余裕はありません。下を見るとすくんでしまい、めまいを覚えるので斜め上を向くようにしています。 さて、十二歳の少女たちが乗っているのはただの木の棒ではなく、その後ろ側には固い竹で作られた房が付いていました。 もちろんナンナがつかんでいる棒は、さっき大急ぎで取りに帰った魔女のほうきなのでした。例の〈闇だんご〉を全て使い切ってから、二人は〈空を飛んで行ってみよう〉と相談したのです。 その行く先には、明るい日差しの中に、すっかりおめかしして不思議に七色がうつろう虹のシャボン玉が浮かんでいました。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「とっても大きいね」 レイベルは上目遣いに虹の球体を見上げて言いました。近づけば近づくほど、その並はずれた巨きさが実感できます。目的の場所ばかり見ていると、距離が迫っているのではなく、虹の球自体がシャボン玉のごとく膨張しているように思えました。 「虹の橋を丸め込んじゃったんだからね〜☆」 喋りながらも、ナンナは決して気を緩めません。大自然の厳しさと穏やかな人々の中で、失敗ばかりだった落ちこぼれの見習い魔女は〈魔法を無理矢理に使いこなす〉のではなく〈魔法と呼吸を合わせる〉コツを、ちょっとずつ掴み始めているようでした。 空気はだんだん冷たくなり、凍えるほどです。寒さに慣れている北国の子供たちでも、風を切って飛ぶ空のかなたは大変です。レイベルの赤茶色のロングスカートの裾がパタパタと音を立てて揺れています。当然、髪型はメチャメチャになっています。 「くしゅん」 先に可愛らしいくしゃみをしたのは、ナンナの方でした。弾みで魔女のほうきが揺れ、集中が途切れたので少し傾きます。 「ナンナちゃん、大丈夫? 寒くない?」 後部座席のレイベルは怖さに身をすくませながらも、勇気を出し、大切な友達を気遣って声をかけました。鋭い風の切れ端たちは、高い音程の歌を唄いながら二人の耳元を通り過ぎます。 小さな魔女は前を向いたまま軽くうなずき、返事をしました。 「へーきだよ! 今から揺れるから、しっかりつかまってて☆」 突然、ナンナは魔法への集中をやめたのです。ほうきは魔法の綱から解き放たれ、気流で編んだ急な坂を駈け登りました。 「ひゃあ」 レイベルは思わず目をつぶり、しっかりと魔女のほうきの柄をつかんで上体を屈めました。上昇感で耳がおかしくなります。 その間に、薄桃色の長袖ブラウスの胸ポケットから黒い小さな石を取り出し、見習いの魔女は謎めいた呪文を唱えました。 「月の光よ、闇の素よ。夜を透かして見せておくれ。ラエル!」 「え……あ!」 次の刹那です。レイベルは絶望的な短い悲鳴をあげました。 ほうきが大きく傾き、二人の身体は左側に倒れかかります。 ほんの一瞬、温かい誰かの腕につつみ込まれる感覚がありましたが――景色はゆがんでレイベルは意識を失いました。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「……ん?」 レイベルがまぶたを開いた時、そこは真っ暗な世界でした。 「あ……れ?」 周りを見渡しても、いつもの自分の部屋の景色ではありませんし、何だか長い夢を見ていたような気がします。頭の中はまだ、ぼんやりしていましたが、徐々に現実感が戻ってきます。 レイベルは座っている姿勢でした。魔女のほうきの上です。 「えっ、どうしたの? 夜が来たの?」 村長さんの娘の優等生はびっくりして、すかさず、背中が黒い影になって見える親友――十二歳のナンナに訊ねたのです。 確かに夜でした。顔を上げると赤や青、銀色の星がきらきら見えます。ルデリア世界の星座や天の川もはっきり分かります。 そんなに長く空の上で寝ていたのでしょうか。それとも天の上昇気流に乗って、神様の住む天上界に着いたのでしょうか? レイベルは目を白黒させています。そういえば、いつの間にか寒さも和らいでいました。ナンナのほうきは飛び続けているようですが、激しい空気の流れはやんでいました。風の音は聞こえるものの、耳に何かを詰めた時のように、くぐもって響きます。 ナンナはちょっと振り向いて、いたずらっぽく微笑みました。 「違うよ。膨らました〈闇だんご〉の中に入っちゃったんだよ!」 「お団子の中に、入っちゃった……の?」 あ然として、レイベルは繰り返しました。今日は不思議な事が次々と起こりすぎて、頭の奥の神経が麻痺(まひ)しています。 「だいじょ〜ぶだよ、レイっち。誰も食べたりしないからねっ☆」 けろりと言いのけたナンナは前に向き直って、人差し指を斜め上に伸ばします。夜空の行く先に、まばゆく光る一つ星――。 「ほら見て!」 「あっ!」 レイベルは思わず歓声をあげました。大きく膨らんだ七色の満月にも見える〈虹の星〉は、もうすぐそこまで近づいていました。 その半透明に近い球の表面では、速やかに色とりどりの河が舞い、光を散りばめ――思いのままに踊り、きらめいています。いつの間にか、ほとんど触れることが出来るくらい、そばに寄っていた丸い虹は、夜の中でも鮮やかな彩りがあります。他の全ての星が持っている色を集め、しかも、そのどれとも違います。 赤い炎の線が、星の中の流れ星のように、または激しい稲光のごとく素早く直線的に進みます。水と氷の力は青く、表面に現れたり内側に引っ込んだりしながら虹をめぐり、潤します。月の輝きを示す黄色はぼんやりと全体的に広がり、人間の呼吸に似て、強まったり弱まったりを繰り返しています。草木の緑色は優しく、木の枝や根が伸びるように、他の色が空いた透き間に腕を伸ばします。その緑色を温かくつつみ込むのが大地の橙色で、縁の下の力持ちとなって静かに確かにうごめきます。風を示す空色は自由気ままに吹いて他の色と交わり、命の種を届けます。夢と幻の紫は、時にははかなく、時には力強く満ちあふれ、決して消えずに〈虹の星〉を育てる大切な肥料です。 ふとレイベルは、ナンナのおばあさん――本物の魔女――から聞いた〈魔源界〉のことを思い出していました。異次元にある〈魔源界〉は、世界を構成する七つの力が激しく交錯していると言われています。魔法を使える人たちは、秘密の呪文の残響と訓練した集中力で、地上界から〈魔源界〉へのトンネルを開いて魔法の素を取り出し、それを組み合わせて魔法にするのです。 今、目の前にある虹の星は、まさに小さな〈魔源界〉でした。 「あれは……あの薄い、黒っぽい膜は、もしかして……」 レイベルは眼を細めて訊ねました。鮮やかでしかも淡い星になった〈かつての虹の橋〉は、良く見ると周りに限りなく薄い膜が張っています。二人の少女たちの投げた〈闇だんご〉が破裂して、出てきた黒い液に行き先をふさがれてしまったのです。 「そう、あれは〈闇だんご〉の液だよ☆」 ナンナはさも嬉しそうに、うわずった声で応えました。二人が〈闇だんご〉の中に入った結果、夜の装いを見せる地上の景色は闇の中に沈み、どこにナルダ村があるのかも分かりません。頭のはるか向こうに星が見え、それが上下を教えてくれます。 「こっちもあっちも同じ膜だから、突き破れるよ〜」 見習い魔女はまた、とんでもないことを言い出しました。すでに目の前の視界は追い続けてきた〈虹の星〉でいっぱいです。村の中では一番大きい、村長さんの屋敷よりも大きいのです。 神秘的な虹に見とれていたレイベルは、素直に問いました。 「突き破ると、どうなるの?」 「わかんないよ〜」 というのが、ナンナの答えでした。レイベルは現実感が舞い戻り、慌てて聞き返しました。もうまもなく、虹にぶつかるのです。 「ええっ? ナンナちゃん、危なくないの?」 「やってみなくちゃ、わかんないよぉ☆」 ナンナの声色は、言葉とは裏腹に真剣さを帯びています。レイベルが一緒だという心配もありますが、魔女の好奇心はそれを上回っていました。やり遂げたい、という思いがつのります。 「そんな……あっ」 にわかに風の流れが変わって、村長さんの娘、黒髪のレイベルは悲鳴をあげました。二人の女の子は、ナンナが膨らませた最後の〈闇だんご〉の内側にいるので寒さや風圧を感じることはありませんが、明らかに〈虹の星〉の影響は強まっていました。 「レイっち、勇気を出して。行くよ〜!」 「きゃあ!」 レイベルは思わず身を縮め、ほうきの棒にしがみつき、両手で頭を押さえます。こうして二人は、丸い虹に迫ってゆきました。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「いけぇ〜っ!」 ナンナは口を大きく開いて、あらん限りの声を張り上げ、ほうきの速度と自分の思いにさらなる勢いをつけました。虹の球が割れたらどうなるのか、さすがの魔女もちょっとは怖かったのですが、今となっては好奇心の方が圧倒的に勝っています。何が起こるんだろう、と期待がつのる頭の中は、まさに目の前の七色の珠と同じくらい――いやそれ以上に膨らんでいたのです。 「きゃあ、ナンナちゃん、無茶よ!」 丸い虹が近づくにつれ、不安定な揺れがひどくなってきた〈闇だんご〉の内側で、レイベルは悲痛な叫びをあげます。鋭い風が、二人を守る夜の膜にぶつかっては弾け飛んでゆきました。 ナンナの、ナンナらしい返事は切れ切れに聞こえてきます。 「何が起こるか、分からない……きっと、一番おもしろいよ☆」 いい加減な言葉とは裏腹に、十二歳の小さな魔女の横顔はりりしくなっていました。うれしさと勇気とに彩られた表情です。 視界に映るのは、家よりも大きな〈虹の橋のかたまり〉だけです。赤や橙、青や紫など、鮮やかな色が複雑に入り混じっている様子も一目瞭然です。それらの流れは河のように雄大で、しかも煙のように身軽でした。やや黒っぽいのは、ナンナが言った通り、薄くのびた〈闇だんご〉におおわれているからでしょう。 「やめてー!」 村長さんの一人娘、優等生のレイベルは悲鳴をあげ、涙で濡れた瞳を閉じ、ほうきの柄を両手で握りしめて身を伏せました。 「さあ、突っ込むよ☆」 ナンナは上体を低くし、やけになって右の腕を高く掲げます。 紅の炎の谷や、冷たく光る蒼い氷の筋をさけて、さっきまで遊んでいた春の野原のような明るい碧の一帯に舵を取りました。 水色の風も混じる虹の珠の一点が、眼の中で拡がり――。 離れていた距離が、限界まで狭まって。 その刹那、激しかった風もやみ。 ナンナもついに目を閉じます。 ギギギギ……。 壁がきしむような、いやな音が響きました。 ナンナは腕の先に重い手応えを感じました。 おそるおそる、小さな魔女がまぶたを開くと、二人をつつんでいる〈闇だんご〉は風船を押しつけたようにゆがんでいました。 次の瞬間、息つく暇もない出来事です。 「ひゃあ〜!」「助けて!」 ナンナは驚いて叫び、レイベルは完全に涙声でした。 天と地がひっくり返りました。そのまま回転しながら、二人の乗った〈闇だんご〉のシャボン玉は後ろの方へ弾き飛ばされました。虹にぶつかる時の勢いが足りなかったのでしょうか? 魔法で体重が軽くなっていることも影響したのかも知れません。 「魔女に、おまかせだよっ!」 正念場のナンナは金の髪を振り乱し、歯を食いしばって、得意の台詞を言いました。それから集中して、風をつかみます。 ゆっくりとですが確実に、ほうきは水平を取り戻してゆきます。夜を映す不思議な黒い膜の動きもようやく止まりました。レイベルは心臓を抑えて、ぼう然と〈七色の球〉を見つめていました。 「……」 「はぁ、はぁ、ほぉ、はぁ」 そしてかなり無理をした魔女の孫娘――落ちこぼれのナンナは、額にびっしょり汗をかき、苦しげに肩で息を繰り返します。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 のども乾燥して、つばを飲み込んだら張り付くような感じがしました。ナンナは手の甲で口をふき、ほうきの後ろの席に座っている友達の方に向き直って、とぎれとぎれに言うのでした。 「本当の夜にならないうちに……帰ることも考えれば、ナンナの体力は限界だし……これがほんとに、最後のチャンスだよ〜」 いつも元気いっぱいのナンナにしては、珍しく疲れた声です。得意な〈天空魔術〉だとは言っても、実際、十二歳の駆け出し魔女のナンナには空を飛ぶだけでも大変な負担なのでした。 「レイっち……やる?」 学舎の勉強よりも遊びにこそ真剣に燃える魔女の孫娘は、親友に訊ねました。都会から引っ越してきたばかりの、かつての自分勝手なナンナであれば一人で暴走してしまったところかも知れませんが、今はまず友達の気持ちを大切にしています。 二人を囲んでいる〈闇だんご〉の膜は、さっきよりも夜の色が少し薄くなってきたように思えました。長い暗闇の峠を越え、辺りは黎明の時刻がやって来たかのようにぼんやりと明るくなり、舞踏会の人々が着飾っている装飾品の宝石のごとく数え切れないほど出ていた無数の星も、いつの間にか減っていました。 「やるっ。やろうよ」 レイベルは決意に満ちて、鋭く応えました。何が起こるか分からないという怖さは残りますが、もはや声にも表情にも迷いはなく、不安をかき消すほどの好奇心と勇気が膨らんでいました。 「やってみなくちゃ、わからないものね!」 「うん、そうだ☆」 ナンナはそう言って前を向きました。横顔にはまだ疲れの色が見えましたが、レイベルの返事を聞いた瞬間、うれしくて弾け飛びそうなくらいでした。心の動きにとても敏感な魔法の力は、ぐんぐん上昇していきます――あの空をただよう雲よりも高く。 「じゃあ、左手をナンナの肩にのっけて、右手を伸ばして〜!」 「こうかしら?」 レイベルは素早い動作で、言われた通りにしました。鳥も追いつけないほど、猛烈に吹きすさぶ風が〈闇だんご〉にぶつかり、うなっている天の真ん中で、金の髪の小さな魔女には、友達の手の平の温もりが何よりも確かなものに感じられるのでした。 「うん、へーき。で、ナンナに力を注ぎ込むって、強く念じるの」 「そうすれば、魔法を使えない私でも、手助けになるのよね。魔力は融通できる……ナンナちゃんのおばあちゃんに聞いたわ」 友達の話を最後まで聞き、ナンナは興奮気味に叫びました。 「さぁーっすがレイっち、話が早い」 そして左手でほうきの柄を支えながら、右手の人差し指を斜め上の方に思いきり伸ばし、堂々と出発宣言をするのでした。 「さ、今日の一番の魔法、ふたりで行くよ〜!」 指で示した場所には、彩りが飛び交う神秘の珠、鏡に閉じ込めた大きな光のかけら、七つの河をかき混ぜた虹が見えます。友の肩をつかむ手に、レイベルはちょっと力を込めるのでした。 「うんっ」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ス……っ、はぁ〜っ」 ナンナは集中力を高めるため、一度大きく深呼吸をしました。 「さあ、行くよ」 「うん」 村長さんの娘のレイベルは右腕を高く掲げて前に進みたいと強く願い、左の手のひらを友の肩に載せて気持ちを注ぎます。 「みんなもお願いね☆ もうちょっとだから!」 小さな魔女はいつしか真剣そのものの表情で、姿は見えないけれども仲良しの風の精霊たちに呼びかけました。準備は終わり、いよいよ出発の時です――虹の橋が黒い〈闇だんご〉に丸く閉じこめられた、宝石よりも魅惑的な七色の星を目指します。 雪深いナルダ村で冬場に用いられるそりのごとく、ほうきは空をゆっくりと滑り出しました。細く染み込んできた冷たい空気の流れを受けて、ナンナの黄金の髪もレイベルの黒髪も微妙に揺れ動きます。二人を優しくつつみ、天の寒さから守ってくれていた〈夜ふけの膜〉は、淡い春の夕暮れに溶け始めていました。 ほうきは速度を上げ、雨の名残が紡いだ虹の珠へまっしぐらに舵を取ります。さっき二人を弾き返した球体は〈天の泉〉と呼べるほど膨らみ、鮮やかな七色の河が入れ替わり立ち替わりシャボン玉のように行き交っていて、つい見とれてしまいます。 二人は黙ったまま喋りませんでした。けれどもレイベルが伸ばした左手を通して、お互いの思いや信頼は伝わるのです。 (最後までやろうよ、レイっち。何が起こるか分からないから。ナンナね、ちっちゃい時から何をやっても中途半端で、お母さんやお兄ちゃんたちによく叱られたけど、今なら出来る気がする!) (うん。ちょっと怖いけど……でも、わたし、とっても楽しみだわ) ほうきは空を駆けます。急いでいるはずなのに、一回目とは違って虹の珠はなかなか近づかないように思えました。二人の前向きな気持ちが、距離や時間の感覚までも変えたのです。 実際にはほんのわずかな間の出来事でした。再び風の勢いが強まり、ナンナが寒さよけのために魔法をかけた〈闇だんご〉の壁は震えて、すぐにでもはがされ、壊れてしまいそうです。 あふれ出す嬉しさと、心の奥を締め付ける緊張感が混ざり合った横顔のナンナは、決して虹から目をそらしませんでした。他方、村長さんの娘のレイベルはしだいに瞳の中をおおう鮮やかさを恐れましたが、懸命に右腕を突き出し、素早いまばたきを繰り返して勇気を振り絞ります。二人の耳はもはや何も聞こえず、視点は一ヶ所に定まりました。虹の珠で錯綜する七色のうち、今度は〈天空の力〉を示す水色の部分が小さな魔女の狙い目のようで、ついに手が届きそうなくらいまで近づいてきます。 突如、鉛のように重い衝撃が腕から体へと駆け抜けました。 「うっ!」 声にならない声でうめいたのはナンナでした。二人が地上から投げた三十個ほどの〈闇だんご〉が、虹の橋をつつんで伸びた分厚いカーテンを、たった一つの団子から作り上げた〈夜の膜〉が破ろうとしています。その抵抗たるや大変なものでした。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「レイ、っち、力を、貸し……て!」 ナンナは歯を食いしばって言いました。あまりに必死なので、視界に映るものはメチャクチャです。虹の赤や黄色が雷のようにはじけました。激しい風の音も今となっては耳に届きません。ひたすら〈壁を破りたい〉と願い、全身全霊を傾けて押します。 「う……う」 あまりの抵抗感に目をつぶっていたレイベルですが、それでも懸命に虹の内側へ腕を伸ばそうとしました。力が抜けてくると、繰り返し自分にむち打って重心をずらし、もう一踏ん張りです。 心臓の鼓動は駆けずり回るように速まり、息はいくら吸っても追いつかないほど苦しく、したたる汗は額からこぼれ落ち、ほおを伝って流れ、目に入ってしみました。耳鳴りまで始まります。 それでも変化は確かに起こり始めました。さっきまではびくともしなかった七色の珠をつつむ薄い闇色の膜が、ほんの少しだけへこんだように思えたのです。重みはさらに増してきました。 「う、あっ……」 ナンナもレイベルもうめき声になりました。服は湿って、このままでは風邪を引きそうです。ナンナが作り上げた寒さから守る夜の膜も限界が近づいていました。もう後戻りはできません。 柔らかくて弾力性を持ち、しかも鉛のような抵抗力がある、巨大なクラゲを思わせる虹の壁を突き破るのは――ナンナが考えていたよりもずっと大変でした。もともと同じ〈闇だんご〉同士なので簡単に溶け合ってくれると信じて疑わなかったのですが、勢い良く跳ね返されたり重かったりと、大変なことばかりです。 「ナンナ、ちゃんっ」 レイベルはかすむ意識の中、友達の左肩をつかんでいたのをやめました。ほうきに乗ったまま虹に沈み込んでいるので、二人をつつむ〈闇だんご〉は楕円にひしゃげています。何とか呼吸は出来ますが、やはり目は開けられません。手探りのレイベルは右腕を高く掲げつつ前かがみになり、左腕をナンナの腰の脇から思いきり伸ばして、ついには友の手の平を握りしめます。 温もりを通して、確かな友情の証が高まります。二人の心は合わさり、虹のくぼみに最後の力を結集して切り込みました。 「あっ!」「ああ!」 突如、少女たちは叫びました。急激に腕の抵抗感がなくなって、身体が眠りの中へ深く沈んでいくような感覚がありました。 そして強い光が輝き、二人は目がくらんだのです――。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 どこまでも見渡す限りに続いている天の花園は、あらゆる色の、あらゆる形をした花がそれぞれの美しさを奏で、響かせ合い、互いの良さを認め、足りない部分を補いながら一面に咲き誇っていました。必要でない花はただの一つとしてありません――それら全てが、今まさに、ほのかな茜(あかね)に染まっています。薄い朱色のお化粧のようにも見えますし、はにかんで頬を赤らめた大人と子供の境目の少女のようにも思えました。 瞳を開いた刹那、レイベルはまず最初にそう感じました。それは胸を震わせ、魂を揺さぶり、鳥肌を立たせて首筋の後ろに稲妻を走らせまるほど、存在の源へ直に響いてくる光景でした。 透明に近い空色をした春の夕方の風は二人の少女たちを優しく受け止め、定まった速さで地上へ――懐かしいナルダ村へと運んでくれます。上空の寒さは、赤い花びらから発せられる炎の温もりが和らげてくれました。海の青をした丸い固まりを口元に引き寄せれば、それは水と変わって喉を潤してくれます。 明るい茶色、また橙色の細かな粒からは大地の匂いがしました。銀色と黄色の混じった神秘の光は優雅に横たわり、きたるべき夜の月の光を教えてくれます。流れる紫は人々の夢を彩り――それらはみんな形のない〈生命の木〉に育った果実です。 辺りには、お母さんの膝枕で寝ているような限りなく心地よい優しい光がいっぱいにあふれ、絵の具のような七色の雨粒がシャボン玉のようにきらきらと舞っていました。地上には霧の子供たちが生まれていて、上空から見るとはっきり分かります。 「……」 手をつないでナルダ村を目指し、弾けた虹の破片とともに降りてゆくナンナとレイベルには、もはやどんな言葉も必要ありません。透き通った心は夕暮れに溶けてゆきます。世界全体が、沈みゆく今日の夕陽を弔うかのような清らかさです。一軒一軒が見分けられる村の家々や、頂に雪を残す遠い山々の稜線、緑の平原に細く蛇行している河と街道、薄暗くなってきた東に拡がる大海峡――果てしない視界を遮るものは何もありません。 「風さん、ありがとね☆」 魔法と精神集中で疲れ切ったナンナの身体を支えるのは、虹の宝石の中に詰まっていた水色の風たちです。右手をレイベルの左手に重ねて握りしめ、左手は大切な魔女のほうきをつかんでいます。やはり七色の珠から出てきた、辺りに散らばっている赤い炎のかけらが温かさをくれますから、ナンナはもう魔法を使う必要がなく、景色を心ゆくまで堪能することが出来ました。 「うわぁ、ナンナちゃん、上を見て……」 黒い髪のレイベルは、甘くて美味しいケーキを食べた時のような幸せの表情で、夕焼け空をあおぎました。友達の言葉を聞いた小さな魔女は素直に受け容れて、ゆっくりと顔を上げます。 するとどうでしょう。さっき二人が割った大きな虹の珠を卵だと考えれば、黄身と白身のようにあとからあとから降り続いてくる華麗で可憐な流れは、まるで縦に伸ばした虹のはしごです。 暮れかかる空で夕陽の残照を受け、それはひときわ目立っています。強い光は放っていませんが、出会えるはずの明日、信じてゆける未来の希望を予感させて、ぼんやり輝いています。 「すっごい……ほんと、すっごいねー!」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ほうきに乗って出発した野原が見えてきます。ナンナとレイベルは足を伸ばして待ち構えました。成長を続ける春の草が受け止めてくれたため、軽い衝撃とともに降り立った久しぶりの地面は、二人の十二歳の少女に深い安心感をもたらしてくれます。 「ふぁ〜あぁ、無事に着いたね。ナンナ眠いよぉ」 「ナンナちゃん、今日はお疲れさま。ゆっくり休んでね」 思いきり真剣に遊んだ後の帰り道に特有の、充実感と眠気が緩やかに訪れます。陽はようやく西の山脈に沈もうとしていました――昼間が延びたことが実感できます。空気は冷たいのですが、北国とは言っても真冬のような厳しさはありません。雨に濡れた草はだいぶ乾いていました。やがては春の夜の妖しさが浸みてくるのでしょう、東の空から光の幕が消えてゆき、闇の晩餐会に参加する星たちがいつもの椅子に座り始めます。 野原を突っ切って村の道に出た二人に、お別れの時が訪れます。ナンナの家は左へ、レイベルの家は右側です。先に笑顔で手を振ったのは、村長さんの娘で優等生のレイベルでした。 「ナンナちゃん。あした、学舎でね!」 その言葉に、勉強嫌いの落ちこぼれ魔女のナンナは急速に現実へ引き戻されます。ほうきを杖代わりに地面へ置き、がっかりした声と苦り顔で、諦めきったように返事をするのでした。 「あーあ、明日は学舎なんだよねー」 「うん。今日はありがとう、楽しかったわ。じゃあね!」 レイベルは身体をひねり、背中の方を何度か振り向きながら優雅に、しかも元気良く歩き始めました。他方、ナンナはその場に立ち止まったまま大きく手を動かし、再会の約束をしました。 「バイバぁーイ」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ピロ、また遊ぼうね。おやすみ〜」 鳥籠に布をかけながら、長袖パジャマに着替えてすっかり寝る準備の整ったナンナは言いました。ランプの光にぼんやりと浮かぶ白は、小さな魔女の使い魔でもあるインコのピロです。 「ぴゅーぃ」 小さな甘え声が籠の中から聞こえました。愛おしそうな笑顔になったナンナはそのまま窓に向かいます。二階の部屋を通り抜けるしなやかな軽い夜風は、相当に涼しくなっていました。 窓から覗く景色には、虹の梯子の跡を示す七色の宝石が縦に続くまばゆい天の川となり、星の舞踏会のお客さんとしてチカチカと瞬いています。弾け飛んだ〈闇だんご〉は、とっくに夜の家へ帰っていったのでしょう――もう区別することはできません。 「ふぁ〜」 目一杯遊んだ後の生あくびをしながら、ナンナは窓を閉め、カーテンを閉じました。それから窓辺にランプを置き、炎を吹き消してからベッドに潜り込みました。静かに咲いた春の宵です。 ピロが瞳を閉じた鳥籠の横で、ナンナはすぐに寝息を立てていました。レイベルと一緒に天と地をつなぐ虹の梯子を昇ってゆく夢を見ながら、小さな魔女は朝までぐっすりと眠るのでした。 「ほら、きれいでしょ☆ あははっ……」 | ||
(了) | ||
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