メロウ修行場

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(一)

ミザリアで、王女杯の武闘大会が開かれるんだってさ」
 木の床に草で編んだ黄緑のゴザを敷き、その上にあぐらをかいている。寝癖の残る短い髪を掻き上げ、大麦の黒パンと豚肉の生姜焼き、野菜サラダを威勢良く食べ終えて喋り始めたのはセリュイーナだ。二十七歳の彼女の筋肉は全体に引き締まり、本来は黄色系の肌はうっすら日焼けし、さっぱりした口調と性格は同性にも異性にも好かれる、存在感のある人物である。
「ま、私らには関係ないけど」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ルデリア大陸の北東、トズピアン公国の沖合には三つの島が浮かび、東方諸島と呼ばれている。最果てのグレイラン島、良好な天然の銀鉱を持ち世界第二の大きさを誇るジルビ島、そして公都マツケの向かいに見える〈武術の魂〉メロウ島である。
 その名もメロウ家の土地であるメロウ島は、最も由緒があり、しかも最強の名高い武術の中心地である。世間一般に〈メロウ修行場〉と通称される闘術訓練の館には、自給自足的な集団生活を営みつつ心技体を鍛える、若くして腕に憶えのある屈指の強者たちが集結している。メロウ氏は誰も彼もとむやみやたらに弟子を取らないため、常に参加者は百名程度に限定され、現在は男性約八十人、女性は約二十人ほどが在籍している。メロウ氏の信頼厚く、多忙な氏に代わって全般の運営と弟子の育成を任されているのが、冒頭のセリュイーナ女史であった。
 
 
(二)

「モゴ、モゴ……」
 セリュイーナの横で食事を摂っていた別の女性が、師匠の方を向いて苦しげに顔をしかめ、素早い動作で口元を抑えた。その頬は膨らみきって、今にも破裂しそうである。彼女は目下のところセリュイーナ師匠の一番弟子、十九のユイランである。
 師匠の方はあきれ顔で、率直な忠告を与えた。
「あんた、めし食ってから喋んなよ……」

 対するユイランの瞳は白黒し、後ろで簡単に束ねた闇色の艶やかな髪は前後に揺れ動いている――彼女が胸板を激しく叩いたからだ。それから目を閉じ、一気に食べ物を飲み込んだ。
「ごくっ」
 喉が鳴り、周りの女弟子からもユイランに注目が集まった。その当人は一瞬うつむくが、すぐ好奇心に負けて師匠に訊ねる。
「その情報を持ってきたのは、誰なんすか?」
 率直な言い方で訊くと、セリュイーナもあっさりと応える。
「もちろん、おやっさんよ」

 この修行場で〈おやっさん〉と言えばメロウ氏のことだ。
 氏は地元の有力者でもあり、軍事力が弱い辺境のトズピアン公国から重宝されている。マツケ町で異変が起きた場合、麾下の武術家たちを治安維持のため出動させる密約の代わりに、メロウ島への干渉の排除と、公国主導による報奨金付きの闘技大会の開催を要請している。異民族支配によるトズピアン公国が成立する前から島を守ってきたメロウ家の末裔であり、したたかな政治的手腕もある人物だが、それも全ては武道家たちが修行しやすく実力を発揮できる環境を作り上げるためである。
 利用できる物は利用する。ただし公国側からの爵位授与の話は断り続け、権力には属さない――セリュイーナが安心して後進の育成に励むことが出来るのも、影となり日なたとなって面倒な調整を一手に担う〈おやっさん〉の努力のお陰であった。

 最近のメロウ氏は、公都マツケ町に長く詰める機会が増え、トズピアン公国上層部と武術大会などの打ち合わせを行うことが多い。辺鄙で国力が低いとは言うものの、支配者層ともなるとそれなりに他国の情報も入ってくる。正確かどうかはともかく。
 一般的に民衆の情報網は弱く、他国の情報どころか、自分の国の動静さえ詳しく分からないのが現状である。特に大陸の北東に位置するトズピアン公国だから尚更だ。それなのにセリュイーナやユイランという辺鄙な上にも離島に居住する若者たちが、遙か遠い南国ミザリアの王女や武術大会の内容を知り得たのは、ひとえに〈おやっさん〉の情報収集力の賜物であろう。
 
 
(三)

 さっぱりと短めに切った黒い前髪を無造作に掻き上げ、使い古した安物の箸を片手に、セリュイーナ女史は感想を述べる。
「武術大会はいいけどさ、あまりにも遠すぎるでしょ。それに向こうとこっちじゃ、北方流と南方流って風に流儀も違うらしいし」

 一番弟子のユイランは湯飲みを傾け、深緑色に濁った渋い冷茶を飲み干す。妙な味も身体造りのためとあっては仕方ない。
「ミザリアっすか。賞金より旅費の方が高くつきそう……」
 言い終えると、彼女はおもむろにフォークを持ち上げ、目の前の皿に並んだ水分の豊富な桃色の果物に突き刺すのだった。

「この前みたいに、有り余る力でお皿を割らないようにね」
 ユイランから向かって斜め左の席で静かに食事を摂っていた小柄な女性が、さも可笑しそうにつぶやき、やがて吹き出す。
「ぷぷっ……くっくっくっ」
「蒸し返さないで下さいよー、お嬢さん」

 十九歳のユイランが三つ年上のメイザ先輩を〈お嬢さん〉――正確に記すのならば〈お嬢〉さん――と呼ぶのには訳がある。
 武術の腕は確かであるし、心に火がついた時の集中力はものすごいのだが、普段は性格がおっとりしているメイザを、セリュイーナ女史は親しみを込めて〈お嬢〉と呼んだ。それが後輩にも広がり、敬称の〈さん〉を後ろに付けて〈お嬢さん〉になった。

 笑いの発作が止まらなくなり、左右に可愛らしいえくぼを浮かべた口元を手で隠し、メイザは小刻みに痙攣していた。その一風変わった弟子をよそに、師匠は半信半疑の口調で呟いた。
「ミザリアの王女が闘技大会を主催、ねえ……」
「おてんばとわがままで有名なララシャ王女は、大の格闘好きだそうで。見るだけじゃなく、自分でもやっちゃうみたいっすよ」
 
 
(四)

「へー」
 セリュイーナは無機質な声で相づちを打ち、口を尖らせて顎をなでる。何らかの不満がある、または反論したい時の仕草だ。
 ユイランが黙って師匠の顔を見つめると、案の定、相手は空いた皿の脇に頬杖をついて気にくわぬ点を率直にぶちまける。
「王女様だか何だか知らないけどサ、武術を貴族の暇つぶしにやって欲しくないね、こっちは生活かかってんのに。貴族は大会だけ開いてくれりゃ、それでいいってもんじゃない。違う?」
「うーん、そーかも知れないっすねえ」
 あさっての方向に視線を送り、ユイランが曖昧に応える。そろそろ周りの者たちも食事を終え、しばしの雑談を始めていた。当然ながら修行中は厳しく私語が禁じられるものの、休憩時間までは介入されない。けじめのある集中と、調和の取れた弛緩が健全な心技体を作る。それが〈メロウ修行場〉の方針なのだ。

 セリュイーナはちょっと肩をすくめ、呆れたように手を広げる。
「どっちだい、あんたの意見は。はっきりしなよ」
「基本的には師匠の意見に賛成なんだけど……」
 弟子は桃色の果実の余りを手に取り、勢い良く食いついた。
「モゴモゴ、んくっ……ララシャ王女に関しては例外かな、と」
「どうせ周りの連中が手加減してやってるんだろうね」
 なおもセリュイーナは突っかかった。もとより負けず嫌いの努力家である。そういう人物でなければ、種族から年齢から目的から様々である闘術の修行者たちを束ねるのは困難だろう。

 愛弟子のユイランは彼女らしい飄々とした口調で補足する。
「それがなかなか、手強いみたいっすよ。騎士を鎧ごと投げ飛ばしたり……その話、大師匠から聞かなかったんですか?」
 大師匠とは、島の所有者であるメロウ氏のことである。

 刹那、セリュイーナは背後に気配を感じて素早く顔を上げた。彼女は、ちょうど後ろを通りかかった若い男の弟子に訊ねる。
「ヤシ。食器洗い当番は?」
「五班です」
「了解。私は入ってないわね。じゃ、号令にしましょ」
 ここの自給自足の暮らしでは、洗濯物も食事の用意も皿洗いも水汲みも、何もかもが厳密な当番制になっている。師匠のセリュイーナとて例外ではなく、班の一つに組み込まれている。

「とりあえず、続きはメシをいったん締めてからね」
 漆黒の片目をつぶり、セリュイーナは弟子に合図を送った。
「了解っす」
 ユイランは軽くうなずき、そのついでに肩を上下運動した。無駄な肉の全くついていない、強靱な肩のラインが強調される。

「礼!」
 間もなく号令係の凛々しい声が食堂に響き、皆で唱和する。
「ごちそうさまでした!」
 
 
(五)

 それぞれの食器を小さな川沿いに作られた洗い場の近くまで運び終えると、担当の班以外は自由時間となる。ある者は食堂に残って談笑し、ある者は部屋に戻って実家に手紙を書き、またある者は黙々と軽い柔軟体操に励み、仮眠を取る者もいる。
 だいぶ人数の減った食堂のほぼ中央付近に四人の女性が腰を下ろした。セリュイーナの横はちゃっかりとユイランが陣取り、師匠の正面には〈お嬢さん〉ことメイザ先輩、その隣には俊足で有名な小柄の冷静少女、名を〈疾風(はやて)のキナ〉が座る。
 キナの鋭く細められた目つきは炎の気迫と氷の皮肉に充ち、なかなか他人に心を開かぬ。筋力は劣るものの、速さと技術で対戦相手を攪乱させるのを得意とするタイプの格闘家である。

 当番の班が洗い物を始めた水の音が爽やかに響いている。硬い草で編まれたゴザの何とも言えぬ自然の香が匂い立つ。
 荒削りで粗野な、背の低い木造の長い机に右肘をついて、セリュイーナ師匠は三人の弟子の顔を見回し、雑談を再開した。
「で、何の話だったっけ?」
 こういう朴訥で飾らぬところがセリュイーナの皆に慕われる一つの要因となっている。ユイランは思わず微笑みつつ応えた。
「ララシャ王女が強いっていう件っすけど」
「あー、はいはい」
 セリュイーナは納得してうなずき、疑問点を口に上らせる。
「ララシャ王女ねえ。有名な師匠でも付いてんの?」
 問いを受けとめたユイランは、即座に落ち着いて説明する。
「そうみたいですよ。何でも、王女の戦い癖が大変のようで」
 この島に流通している他国の噂の半数以上がメロウ氏経由という事実を考えると、本来ならばセリュイーナの方が情報通のはずだが、彼女は国際情勢に関心が薄く、特に異国の話など、興味のない限りは次々と忘却のかなたへ追いやるのだった。

「うん、うん」
「……」
 メイザは二人の会話を遮ることなく、たまに相づちを打っている。隣ではキナがやや下を向き、口をつぐんでじっとしていた。
 
 
(六)

「へぇー。ララシャ王女って変わり者だとは聞いてたけど、そこまで本腰入れてるとは知らなかったね。そうなのかい、お嬢?」
「ハイ、そうですよー」
 訊ねられたメイザは黒く澄んだ瞳を見開き、師匠の言葉に応じた。普段の柔らかな物腰と平穏さ、それと格闘家としての実力が上手く反比例しているのはメイザの長所であり、さらには真面目な性格なのでセリュイーナ師匠にも可愛がられている。

 パシン。
 どろり……。
 飛んできた蚊を正確に一発でしとめ、叩きつぶし、死体を指で弾いて体液を無造作にズボンで拭き取り、ユイランが言った。
「町に飛び出して、道場破りをしちゃった話は有名ですよ」

 この〈メロウ修行場〉では、夏の森に半袖短パンで出て、出来るだけ蚊に刺されないで帰ってくるという修行があるくらいだ。
 ルデリア大陸の東側には蚊が多く潜んでいる。まだこの辺りは大陸の北東で涼しいので数は少ないが、気温が高くなると草や木の多い場所は蚊の宝庫になる。相手の気配を察知して素早く回避し、機会を逃さず拳を繰り出し、狙った範囲へ適切に命中させる……格闘家の実力が分かる、厳しい難行なのだ。

「ユイさん」
 その時、身を乗り出してユイランに問いかけたのはキナだ。
「ユイさんとララシャ王女、どっちが強いの?」
「そんなの、闘ってみないと……」
 言葉を濁したユイランは、彼女としては珍しく、はっと口をつぐむ。上手く説明できないが何かしらの悪い予感がしたからだ。

「あんた、行ってきなよ。メロウ島の代表として闘ってきな!」
 あっけらかんと言ったのは、セリュイーナ師匠その人だった。
 
 
(七)

「そうよ、そうだよ。あんた、一旗揚げてきな!」
 ようやく長い会議の末にたどり着いた名案を改めて吟味するかのように、セリュイーナは大きく瞳を見開いて語った。それはこの若くして修行場を任された師匠の姉御が冗談を言う時の癖だったが、口調は真剣そのものだ。彼女は追い打ちをかける。
「北方流拳法の最高峰、メロウ島の格闘家の力とスピードで、やつらを翻弄させ、ララシャ王女とやらに目にもの見せてきな」
「ちょ、ちょっと、師匠。何言ってるんすか?」
 ユイランはうわずった声で応じ、腰を浮かせかけた。さすがにまだ本気で信じてはいないが、セリュイーナの神出鬼没な判断や指示はこれまでにもあっただけに、一抹の不安を隠せない。

 助けを乞うように、強気の彼女にしては珍しくおろおろと視線を彷徨わせると、斜め前にいた小柄なメイザ嬢と目が合った。
 しかし師匠のセリュイーナは、そのような事態を見越し、ユイランに気づかれることなく手を打っていた。抜け目のない、貫禄の先制攻撃――お嬢にあらかじめそっと目配せしておいたのだ。
 セリュイーナとユイランの両者から秋波を受けることになったメイザは穏やかでとぼけた性格であるが、決して鈍いわけではなく、むしろ直感や理解力、とっさの判断力は人より鋭い。作戦立案力も豊かで、機転が利く。格闘家としては筋力や技量がずば抜けて高いわけでもないメイザが、セリュイーナのお眼鏡に適(かな)ったのは、まさにそういう点を見込まれてのことだった。

 頬に可愛らしいえくぼを浮かべ、メイザはさも嬉しそうに言う。
「お弁当作らなきゃいけないねー。おみやげは何を頼もうかな」
「お嬢さんまで、なに、なにを言ってるんすか!」
 つばを飛ばして、ユイランは早口で叫ぶ。いつの間にか焦る気持ちが強まり、食事の台に手をついて立て膝になっている。
「船じゃ運動不足になるし、行って帰ったら何ヶ月かかると思ってるんすか? そもそも、船のお金はかなりの金額に……」
 まくしたてる黒髪の娘を厳しく手で制したのは、むろん師匠に決まっている。ざっくばらんなセリュイーナは快活に返答した。
「おやっさんが出してくれるよ。修行の一環だって伝えれば」
「ユイちゃん大変なチャンスだね。ララシャ王女と戦えるなんて」
 メイザは少し調子に乗って、場を煽った。ユイランは余計に目を白黒させる。セリュイーナは微笑みながら、こういう状況に直面した時のユイラン、メイザ、キナの三人の弟子たちの対応を冷静に頭の中で記録していた。欠点を長所に変え、元から良い所はさらに伸ばし、実際の武術大会で花開かせるには日頃からそれぞれの人間をより深く理解することが必須条件なのだ。

「キナ、船を用意しな。ユイランの栄えある出航だよ」
 冗談の通じないキナに敢えてセリュイーナは命じた。それを耳にしたユイランは驚愕し、軽い身のこなしで素早く立ち上がる。
「はぁ? ちょっと待って!」
「……どの船を用意すれば?」
 相変わらずの鋭い目つきを崩さず、キナは訊ねるのだった。
 
 
(八)

「冗談でしょ、師匠?」
 ユイランは黒の瞳を見開いて大声をあげ、慌ててキナとセリュイーナの間に腕を伸ばし、割って入る。周りで身体をほぐしながら休んでいた何人かの武術仲間たちが、何事かと振り返った。
 一方、師匠は動じず、右手の人差し指を相手に突きつける。
「なんか、あんたにも言い分があんの? ……まずは座りな」
 その指先をゆっくりと下ろし、硬い草で編まれた床を示した。

 メイザはきょとんとした顔で師弟の様子を眺めており、キナはうつむき加減のまま微動だにしない。負けず嫌いの性格を全面に顕して悔しげに唇を噛み、ユイランはどっかりと腰を下ろす。
 自分の気持ちを抑える修行を何とか思い出し、彼女は喋る。早口になって自分の焦りを悟られぬよう、出来るだけ落ち着いて話そうとするのだが、言葉は心を映し、無情にもうわずった。
「あたし、暑いところ苦手なんで」
「でも、暑いところに行ってみたいんでしょ? うまいもん食いたいんでしょ? ミザリアなら年中暑いし、うまいもんもあるわよ」
 セリュイーナは余裕の態度で、ちっとも引き下がらなかった。傍目から見ると、口論という〈闘い〉を楽しんでいるようだった。

 メロウ島の厳しい冬の間、ユイランは夏になればいいと愚痴っていた。思い当たるフシがあるため、一瞬、たじろいでしまう。
「まあ、ちょっとは……」
 ここで素直に認めるのが彼女の長所でもあり弱点でもあろう。若い弟子は苦し紛れに別の理由をでっち上げ、即座に放った。
「ずっと船だと、せっかく鍛えた身体がなまっちゃいますよ」
「さっきもあんた、そんなこと言ってたけどさァ。身体の筋力を保つなら甲板の上でも出来るからね。やる気と根性さえあれば」
 二十七歳の師匠はうなずき、満足そうに微笑みを浮かべる。

(このままじゃ、やばい)
 勝ち誇った師匠を見てユイランは肩の力を抜き、気持ちを切り替えた。次の刹那、ふっと彼女の頭の中を稲妻が駆け抜ける。対戦相手が不得手とする論理的な攻撃法を思いついたのだ。
 それを武器に、機会を逃さずユイランは果敢に挑みかかる。
「ここと向こうだと言語も結構違うはずですよ。言葉が通じなきゃ南国流のルールも分かんないですし、試合になっても本来の力が発揮できないっすよ。あたしがノコノコ出ていって、伝統ある北方流の拳法がララシャ王女に馬鹿にされてもいいんすか?」
「うーん……そうねぇ。どうにか力任せで行けないわけ?」
 いつしかセリュイーナは、少しだけ守りの態勢に入っていた。
 
 
(九)

 舌戦であれ、好機をつかんで果敢に攻め込むのは実際の格闘と何ら変わりがない。黒髪を軽く束ねたユイランは、二の句の継げるスキを相手に与えず、自分の論理を打ち立てていった。
「例えば場外の決まりですけど。場外は関係ないのか、鐘を何回か叩くまでは平気なのか、はたまた場外に出た瞬間に負けなのか? 力ずくで猛烈に攻めて、ふっと避けられて場外に出た時、それが負けっていうルールなら、たまんないっすよォ!」
「そりゃあ、見ていれば、何となく分かるでしょ……」
 押され気味のセリュイーナは、やや自信なさそうに喋った。
 勢いに乗るユイランは内心、ほくそ笑みつつ攻勢をかける。
「無理っす! あの国とは言語体系がかなり違うんですよ。師匠も、大師匠から聞いてご存じですよね? ねっ? ねー?」
 ここぞとばかりユイランは身を乗り出し、わざとらしく言った。

 ララシャ王女の武術好きも知らないほど、他国の情勢にはとことん関心の薄いセリュイーナである。思わぬ弱点を攻められた師匠は不愉快そうな顔で腕組みし、さも悔しげに舌打ちする。
「チッ……なんか、むかつくね」

(この線はそろそろ危険かな)
 形成逆転した弟子のユイランは、相手の変化を鋭く察知し――気分を害して修行の時間にしごかれることを懸念した。師匠の反論がまとまらないうち、したたかに話題を逸らしてしまう。
「通訳でもいれば別ですけどね」
「……そうだ。お嬢!」
 セリュイーナはポンと手を叩き、今までのやり取りを脇でうなずきながら見守っていたメイザに声をかけた。呼ばれた本人は驚いてびくっと震え、突然の師匠の名指しに背筋を伸ばした。
「お嬢、あんた語学は堪能だったね。昔、外国で暮らしたはず」

 ルデリア世界の〈人間〉を分類するなら、四民族が基本だ。その中で、大陸西部のウエスタル族・北方系のノーン族・南方系のザーン族の三言語は割合と似通っている。せいぜい方言程度の差で、そのうえウエスタル語に近似した〈標準語〉も存在し、大きな障壁なく意志疎通を図ることが出来る。ただし南方のザーン語と北方のノーン語の直接対話は、やや厳しくなるが。
 さて、それら三つの言語体系とかなり異なっているのが東方系の〈黒髪族〉である。名の通り髪が黒く、肌も黄色みを帯び、文化も違う。彼らは魔法の力が弱いぶん、体の造りは頑丈だ。

 家の商売の都合でメイザが一時的に暮らしたデリシ町は、シャムル公国の主要港であり、ミザリア国と同じザーン族が多数居住している。彼女はザーン語の西シャムル方言、およびガルア語(黒髪族の言語)のマツケ方言の二ヶ国語を使いこなす。尚武の民である黒髪族で、外国の言葉が話せる者は珍しい。
「え、ええ、まあ……堪能ではないですけど、あの……」
 嫌な予感がして顔を引きつらせ、メイザは及び腰で応えた。
 
 
(十)

「じゃあ、お嬢。ユイの通訳についてってやんな。もちろん、あんたも大会に出場すんだ。ミザリアの連中に一泡吹かせといで」
「ひぇ?」
 メイザは耳を疑い、思わず妙な声を発した。まだ予想の範囲内、本気だとは受け取っていない余裕を示し、彼女は応える。
「弟子が二人も欠けちゃっても、よろしいんですか? お師匠」

 他方、ユイランは標的が移動して一安心だが、落ち着いてばかりはいられぬ。遠征の参加を免除されたのではないからだ。
(どうせ行くなら、道連れは多いに越したことはないけど――)
 この闘いの行く末を見越し、あらゆる事態に備えるべく、ユイランは独自の考えを導き出した。備えあれば憂いなし、である。
「もし、どーしても師匠が許してくれないなら……逃れられないなら、一緒に行きましょうよ、お嬢さん。話し相手になるっすよ」
「え?」

 可哀想なメイザは事態の推移に違和感を覚え、ついで激しく動揺し、顔から血の気が引いて見る見るうちに青ざめた。ユイランとセリュイーナ、二人の顔を交互に見つめながら瞳を不安げに動かし、両手を組んで力を入れ、震える声で問いかける。
「ユイちゃん、貴女、まさか本気? お師匠様は? ええっ?」
「本気も本気、大本気よ」
 セリュイーナは面白そうに筋肉質の肩を左右に揺らし、胸を張って飄々と応えた。そして今度は唇をとがらせ、逆に訊ねる。
「貴重な修行になると思ってるから、こっちは誘ってるのに。そんな機会が来たら、お嬢だったら喜んで行くと思ってたんだが」
「はい、あの……でも、いえ……その」
 滅多にしない真剣な顔で、メイザはしどろもどろに言った。傍らのキナは一人、全く動じぬ無表情のまま、あぐらをかいて座っている。時折、話し手の方へ僅かに首を動かしたり、鋭い瞳を瞬きしているので、人形ではなく人間なのだと分かる程度だ。

「へー、あんた、よほどこの修行場が気に入ってるんだ」
 セリュイーナは顔をほころばせたが、少しずつ興ざめの表情になり、最後には気の毒そうな視線で普段は穏和な弟子を見つめた。それでもなお、からかい甲斐があるメイザの態度に好奇心をくすぐられたかのように、考えた末、最後の一撃を発した。
「じゃあ、お嬢。ユイの代わりに行ってきな。言葉も通じるし」
「お師匠様! どうか考え直してください」
 メイザは珍しく甲高い声をあげ、師匠を見上げて哀願する。
「そんな辺境の国まで、危険な長旅は、ほんとに困りますっ」
 彼女は勢いに任せてミザリア国を〈辺境〉と呼んだが、世間一般的に辺境と思われているのは、むしろこの国の方だろう。

 ユイランは飛び上がって喜び、あからさまに元気を取り戻す。
「そうっすね、それはいい! 危険だからこその修行ですよね」
「ユイちゃ〜ん」
 彼女に出来る精一杯の恨みがましい目で、メイザは後輩のユイランを見つめた。だが本気で仲間には怒れない、お人好しの〈お嬢さん〉である。がっくりと肩を落とし、哀しげに頭を下げる。

 パン、パン、パン――。
 その時、食堂には乾いた現実感のある音が鳴り響いた。
 セリュイーナが両手を叩いたのである。

 二十七歳の師匠は満足げに口元を緩めて種明かしをする。
「ハハッ、あんたたち、ほんと面白いねぇ。そんなんじゃ卑怯な作戦を思いつく闘技場の敵に勝てないわね。冗談よ、冗談!」
「もぉ〜お。お師匠も人が悪いんだからぁ〜」
 メイザは胸をなで下ろし、その場にへたりこむ。ユイランはさっきまでの焦りをきれいサッパリ忘れ、師匠に調子を合わせた。
「そんなことだろうと思いましたよー。へっへ」

「ん? そろそろ時間か。午後の特訓を始めるかい」
 その一方で、師匠が立ち上がろうとして右手をつくと――。
「師匠。船の準備は? どの船を用意すれば?」
 突然、口を開いたのはキナだった。先ほどユイランの出航のため船を出すように頼んだことを、セリュイーナはようやく思い出す。どうやら〈疾風のキナ〉には、シャレが通じなかったらしい。
「ああ、キナ、悪かったね。船は取りやめだ」
 セリュイーナは困惑気味に告げる。キナはしばらく石のように黙ったまま静止していたが、おもむろに腕を交叉して構える。
「おす」
 すると鋭利な緊張を孕んでいた空気が再び動き始める。

「よぉし、お前ら、みんな集めてこい。行くぞ」
 師匠が立ち上がるのに遅れず、メイザも起立する。
「はいっ」
 彼女は済んだことをいつまでもクヨクヨ考えない性格である。

「ユイランは?」
「お、おーすぅ」
 食後の倦怠感を残していたユイランが急に指名されて中途半端に応えると、師匠はすかさずドスの効いた声色で注意する。
「何だい、その返事は。もう一度!」
「オスっ!」
 ユイランは緊張感をみなぎらせ、威勢良く呼応した。

 こうして昼休みは終焉を迎え、午後の長く厳しい修行が始まる。入り込んでくる風は驚くほど涼しい、春のメロウ島である。

(了)



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