雨の日の
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秋月 涼 |
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西の方から灰色の雲が近づいてきて、夏の野山はすっかり覆われ、辺りは薄暗くなった。最初の雨粒は錯覚か幻のように舞い降りたが、次の粒、その次の粒が続いて、やがてその間隔は狭まり、太鼓を打つかのように厳然とした行進が始まった。 目にも留まらないほどの速さで、長い線を描いて落下してくる大きな丸い水滴たちは、角度の急な赤屋根を打ち、樋を流れて一度合わさった。かと思えば、再び飛び出して風に乗り、地面に弾け、やがて大地を濡らし――その懐深く染み込んでゆく。 それが短い間に数えきれないほど果てしなく繰り返され、土や草木が飲みきれない分は凝り固まって水たまりを形作った。 まばゆい稲光は輝かず、重々しい雷鳴はとどろかないが、居座る雨は当分やみそうになかった。まだ長い午後の真ん中くらいなのに、家の中は秋の夕暮れのように明度が下がり、ランプをつけるかどうか迷うほどだった。風雅な窓やドアの隙間から、湿り気と涼しさが迷い込んでくる。村の景色はぼんやりと霞み、通りを往来する人々の姿もほとんど絶えた。農作業の人たちはとっくに雨の匂いに気がついて雨宿りの体制を整え、今ごろは森の入口の傘の下、弁当の残りを手に休んでいることだろう。 一階の酒場に並べてある木の椅子に腰掛けて、シルキアは首を左右に動かしていた。ある程度肩がほぐれると、今度はじっと窓を流れる雨の滴を追っていた。目の前のテーブルに置いてあるカップに手を出し、少し温くなった紅茶の残りをすする。 「落ち着いちゃったねー」 シルキアは宿屋と酒場を兼業している〈すずらん亭〉の娘だ。朝早く起きて食事の用意を手伝い、午前中に酒場を掃除してベッドのシーツを取り替え、昼過ぎにいくぶん早めの食事を摂ってしまうと、一日の中で最も緩やかに過ぎゆく息抜きの時がやってくる。宿の客は出かけているし、酒場はまだ開いていない。 母と一緒に外へ買い物に出かけたり、姉のファルナや近所の子らと遊んだり、父のワインづくりの手伝いをしたり、若き賢者オーヴェルのもとを訪れて世界についての話を聞いたりする。 今日は急ぎの買い物はないし、雨の中、わざわざ出かける用事もない。客用のシーツや、自分たちの服の洗濯もできない。 「ねえ、おねえちゃん……ん?」 隣のテーブルに腰掛け、ぼんやりとうつろな目で座っていた三歳年上の姉のファルナに話しかけたシルキアは、とたんに苦笑する。相手はいつの間にか前後に頭を揺らして舟を漕ぎ、気持ちの良いまどろみの世界へといざなわれていたからだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 外の雨を見ながら、珍しく物憂げな様子だった姉は、単に眠かっただけなのだろう。酒場と宿の仕事は朝早く夜遅いのだ。 「お姉ちゃん、寝てるよ」 ほんの少しだけあきれたような調子を籠めてシルキアが呟くと、返事は全く別の方から届けられた。それは母の声だった。 「疲れているのよ。シルキアは眠くないの?」 娘は視線を右の方に動かし、薄暗い中、窓の方を向けた大きな椅子に腰掛けて裁縫を続けている母の横顔を見つめ、言う。 「うーん、ちょっとは眠いけど……でもつまんないな」 活動的な次女は、まだ十四歳の育ち盛りである。野山には命の恵みを注ぎ込み、村の大人には安らぎをもたらす雨も、元気が有り余っている若い彼女にとってはいまいち腑に落ちない代物だった。冬の雪ならば、それはそれで楽しめるが、夏場の雨は服から靴から髪の毛まで濡れてしまうし、土の道では泥だらけにもなる。特に大雨の間は、何もできないのが悔しかった。 「いつも忙しいのだから、たまには休むのもいいわよ」 母は少し手を休めて、シルキアに呼びかけた。その声が終わったのを合図に、再び外の雨足は強まり、水玉が窓を打った。 街道の果て、辺境の山奥にサミスの集落は位置している。 何度か目をしばたたき、目をこすった母は、編みかけの服を膝の上に置いて軽く伸びをした。酒場の空気は涼しくなっていて、秋の始まりを予感させる。次の季節が来れば、日によってはぐっと冷え込んで、朝晩は暖炉に火を入れることもいとわない。 母は編み物の道具類をテーブルに乗せておもむろに立ち上がると、部屋の隅に歩いてゆく。上下に離れて並んだ丸い木の突起の一つに掛けたベージュのカーディガンを取ると、今度は居眠りするファルナの所へ歩いてゆき、優しく背中に重ねた。 シルキアがカップを斜めに傾けると、底にわずかに残る紅茶は窓の向こうの景色をおぼろに映して、少し灰色に染まった。 「うーん、そうだね。虹が出るまで、あたしも寝てようかな」 顔を上げて、彼女が結論を出した――まさに、その直後だ。 日課である厨房の掃除を終えて出てきた、がっしりとした体つきの父がドアを開けて顔を出し、酒場を見回した。最初に妻と目を合わせ、ついで娘のシルキアと視線を交錯させた彼は、最後にファルナが寝ていることに気がつき、声量を抑えつつ喋った。 「シルキア、時間は空いているかな?」 「うん、お父さん」 いつしか動くのがだるくなり始めていたシルキアは、椅子に座ったまま軽く応じた。すると父は突然、ある一つの提案をした。 「せっかくだから、一緒にケーキでも焼くかい?」 一瞬だけ時間が止まり、激しい雨音も聞こえなくなった。 次の刹那、話を理解したシルキアは真っ先に手を挙げた。 「賛成! ケーキ焼こうよ」 「しーっ……」 母が口元に人差し指を当てた。シルキアははっと気がつき、さっきから夢の世界をさまよっているファルナの様子を眺めた。 父と母と妹が固唾を呑んで見守る中、テーブルに突っ伏していた姉に変化が起こった。せっかく背中に掛けてもらったカーディガンが滑り落ちるのも気がつかずに、首をさも重そうに持ち上げる。寝癖のついた茶色の前髪を気にせず、口を開いて――。 「ふわぁ? ケーキ、食べきれないのだっ……」 ほとんど開いていない細い目をこすりながら、ファルナは不明瞭に喋ると、そのまま再びテーブルに突っ伏した。彼女らしい穏やかな寝言に、家族からは温かな笑い声が起きたのだった。 「じゃあ、作ろうか。何にしよう」 父の先導で、シルキアと母は厨房に向かう。酒場に残されたファルナの背中には、薄手の上着がきちんと乗せられていた。 雨はまだ降り続いていたが、西の空は少し明るくなってきていた。やがて雲が割れて光が注ぎ、虹の橋が架かるだろう。 家族はケーキを食べながら、その空を見上げるはずだ――。 | ||
(了) | ||
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