霧のお届け物 〜
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秋月 涼 |
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「お姉ちゃーん!」 妹に呼ばれても、姉はしばらくの間、口を半開きにして心地よい空気を吸い込みつつ、雫のしたたる木々の梢を仰いでいた。 夜半過ぎに雨はやんで、森はしっとりと湿っていた。朝早い鳥たちがあちらこちらで新しい日の挨拶を高らかに唄い交わし、つい立ち止まりたくなる。夏の終わりの高原の朝は、長袖を二枚着て、薄手の上着を羽織って、ちょうどいいくらいの涼しさだ。 まばらに生える白樺の木立も、その幹も、葉も、なだらかにずっと続いている歩きやすい林の小道も、つややかに濡れていた。水をおいしそうに飲む草木や大地の息吹が伝わってくる。 「あれっ? さっきまで、すっごくきれいな青空だったのに」 足元のぬかるみと木の根に注意しながら歩いていた妹のシルキアは、ふとつぶやいた。見ているだけで心が広がってくるような澄んだ蒼い空に、どこからか現れた白い膜が幾重にもかぶさって――辺りの風景は急激に乳白色へと溶けていった。 「曇り……じゃないよね?」 「ものすごい霧なのだっ」 再び立ち止まり、改めて純白に沈んでゆく空を見上げ、三つ年下のシルキアの問いに答えたのは、姉のファルナだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「やっぱり、霧か……何度見ても面白いね」 シルキアは目をこすって、不思議そうに眺めている。家の窓から――あるいは朝の道すがら、数えきれないほど見てきたはずなのに、それでもなお今朝の霧も新鮮に感じられるのだった。 空気は冷えていて、音は良く響いた。視界が狭まる分、聴覚が研ぎ澄まされているのかも知れない。深まる霧で空を飛べずにいる鳥のさえずりや、風で枝先がこすれ合ったり、雫が葉裏にこぼれ落ちる音など、森の生命の息吹が直に伝わってくる。 その白さは厳冬期の吹雪を思い出させるが、あの荒くれた凶暴と冷酷とは正反対の、穏やかな静謐(せいひつ)さとともにある。高原のお茶に細く注いだ羊のミルクのように奇妙な模様と軽さを伴い、低く降りてきた半透明の雲のごとく拡がってゆく。 腕を伸ばした霧に、だんだん抱きしめられているようにも感じる。爽やかで、視界を遮る様子はいたずらっぽくもあり、悪い気はしない。妹は腕を掲げて、高らかに熊除けの鈴を鳴らした。 「気をつけないとね」 霧の森では熊と鉢合わせる危険性が高まる。見通しが良ければ、基本的には熊の方から人を避けてくれるが、森の木々と霧という悪条件では注意する必要があるからだ。熊はもともと目はあまり良くないが、耳は敏感なため、鈴で知らせるのだ。 「ゆっくり行くのだっ」 細長い小さな樽に土産の葡萄酒を入れてふたを閉じ、それを紐で左手に結びつけて、二人の少女たちは見知った森の道を注意深く歩いていった。霧はすでに森の隅々にまで浸透しているが、足元が見えなくなったり、歩けなくなるほど濃くはない。 「ここ、ドロドロだよ」 先頭をゆくシルキアが、後ろからついてくる姉に呼びかけた。木の根やゆうべの雨でぬかるんだ土に足を取られそうになる。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ドロネイルさんを思い出すの……」 ずいぶん前に出会った不思議な泥の生き物のことを頭に思い浮かべて、ファルナはつぶやいた。その間も霧は濃さを増して、しだいに視界は狭まってゆく。細かな水の雫で作られた、柔らかで冷えている乳白色の扉が閉じてゆくようにも感じられる。 「そうだね〜。ドロちゃん、元気にしてるかな?」 妹も懐かしそうに答える。それから二人はしばらくの間、黙ったまま足下に気をつけながら、ゆったりとした足取りで霧の海原に沈みかかる森の小道を歩いていった。時折、シルキアは立ち止まり、空の方に向かって熊除けの鈴を高らかに鳴らした。 ちりーん、ちりーん……。 その清々しい音色は朝の空気にふさわしく、木の葉を震わせて伝わり、淡い光に溶けて響き合い、風に乗って遙か遠く運ばれていった。もしかしたらその掛け合いに、姿の見えない可愛らしい小妖精たちの魔法の唄さえ混じっていたのかも知れない。 「〈切り株広場〉で、いったん休もうよ」 先陣を切って堂々と身軽に歩いているシルキアが半分だけ振り向いて呼びかけると、背中の方角から姉の返事が聞こえる。 「うん」 姉の姿はまだ見えるが、いよいよ霧は深まり、森は夢と幻の世界へと変わってゆく。白樺の樹が明るい霧の湖に浸かって、枝や幹が見え隠れする様子は、この世のものとは思えない。 「すてきなのだっ……」 ファルナの焦げ茶色の瞳はとろんと落ち、雪空のごとき天を仰ぎ、しだいに歩くのは遅れていった。秀麗で繊細で、しかも適度に不規則で不安定な霧の芸術に目も心も奪われていたのだ。 しかもずっと同じではなく、霧の流れによって見える部分が異なってゆく。山に住んでいる二人は海を見たことがないが、メラロール湾を知る者が見れば、今朝の〈もや〉は緩やかな潮の満ち引きにも感じられたことだろう。あるいは大地に降りた雲だ。 「ふう〜っ」 詩人の心を持つ穏和な姉は、思いきり霧を吸い込んだ。吸っても吸っても、霧はなくならない。気持ちのいい、おいしい風を飲み込めば、眠さは吹っ飛んで頭はスッキリするし、この森がもっと好きになり、ここに生まれることができたことに対する感謝、そして歓びへと上昇してゆく。自然と素直な微笑みが溢れた。 そのうち吸い過ぎで息が苦しくなって、彼女はむせてしまう。 「けほっ、けほっ……」 「お姉ちゃーん、何してんのー? 早くぅ〜」 厚くなった霧の幕の、辛うじて手前に見えるシルキアがやや苛立ち気味に――他方、ほんの少しだけ不安そうに呼んだ。 「いま行くのだっ」 ファルナは足元よりも、左右や斜め上の景色に見とれながら、あくまでもマイペースに、霧と戯れる朝の散歩を楽しんでいた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 やがて木がまばらになり、開けたところに出る。そこにはかつて一人の木こりが住んでいたが、ずいぶん前にその場所を見捨てていた。村からはだいぶ奥まっており、苦労したからだ。 雪の重みでつぶれた廃屋の残骸が残っていて、ちょっと薄気味が悪いが、開拓の名残で切り株がたくさんあり、休むにはちょうどいい。付近の再生のために置き土産として植えられた苗木をまたぎ、棒で切り株の毒キノコを払い落として、腰掛ける。 ここが二人の言うところの、通称〈切り株広場〉だ。 太陽がどこにいるのかははっきりと分かり、大きな白いお盆のごとく光が洩れ広がっている。雲の後ろだと陽は隠れてしまうが、霧は雲よりも薄いのだ。流れ来て濃くなったり、風に剥がされたりしつつも、星の光を砕いてゆっくり風に溶かし込んだ色褪せた砂のように、細かな水のかけらたちは自在に宙を舞う。 「ふー」 幾重にも吹き付けられ、層が厚くなってきた森の霧は、一時よりもかなり濃くなってきていた。しばらくは歩けそうにないので、切り株に座ったままシルキアは口を尖らせ、足を前後に振る。 「あの曇り空の向こうに……青空が、ほんとにあるのかな?」 「ふぁー」 他方、ファルナは琥珀色の純粋な瞳をぼんやりとさせて、唇を少し開き、悠久の流れに身を任せた雫の粒の大河を飽きることなく下から覗いていた。透明すぎる森の湧き水に比べれば、はっきりとした存在感がある霧のミルクに思わず手を浸してみても、決して触れることはできない。握れば固まる新雪とも違う。 「つかまえてみたいのだっ」 ファルナがゆっくりと瞬きしながら夢見心地にぽつりと洩らすと、隣の切り株から割と冷静な声で思わぬ応えが返ってきた。 「たぶん、霧は……風よりは簡単じゃないかな?」 もちろん、しっかり者の妹だ。ファルナは驚きを隠せない。 「えっ?」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「だって、霧には色がついてるから、見分けられるよ」 得意がるわけでもなく、シルキアはごく当然のことのように語った。彼女は座ったまま腕を伸ばし、乳白色の流れを撫でた。 「確かに、霧は白く塗られてるのだっ。風は見えないけど……」 姉のファルナは納得して、ゆっくりと深くうなずいた。そのまま視線をやや下ろして、静かな朝方の物思いにふけっていった。 「でも、手じゃつかめないけど」 前に突き出した掌を大きく開き、池にきらめく陽の光のかけらのようにパッと散らしたシルキアは薄紅の唇を動かし続けながら、足下に置いてある陶器の細長い瓶(かめ)を持ち上げた。 「これに汲んじゃえば、持っていけるかもね?」 おしゃまな妹は説明を終えてから素早く右目を閉じて、姉に合図をした。すっかり感心しきったファルナは〈目から鱗〉とでも言いたげに、琥珀色の瞳をまん丸く見開き、無邪気に拍手した。 「シルキア〜っ、頭いいのだっ!」 「チチッ、チチッ」 突然の手を叩く音に驚いた枝先の小鳥は、つたない飛び方で一目散に霧の海原へ飛びだしてゆく。他方、姉に褒められたシルキアは口元をほころばせ、少し照れくさそうに笑うのだった。 「えへへっ」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 二人が持ってきていたのは、姉のファルナが運ぶ特製の葡萄酒入りの小さな樽と、妹のシルキアが手にしている空っぽの瓶(かめ)だった。中身のない瓶は、帰り道に森の泉に立ち寄り、透き通って美味しい清水を汲んで家に持ち帰るためのものだ。 「よいしょ、と」 おもむろに立ち上がると、シルキアはその瓶を肩の高さほどに持ち上げた。落として割らないように握りしめたまま、彼女は右へ左へと振り回す――兵士や船員が旗を振る時のように。 「お入り〜」 シルキアの声と動きは、ぼんやり霞みにつつまれた木々の幹や枝を背景に、静けさの奥底で、不思議に浮き出して見えた。 「こんなんで、ちゃんと汲めたのかな?」 切り株の上へ注意深く瓶を置いたシルキアは、腕組みして少し斜に構え、琥珀色の瞳を細めて、思いきり息を吐き出した。 「ふぅーっ」 「う〜ん」 姉のファルナが横の切り株に座ったまま身を乗り出すようにして覗いてみても、瓶にはきちんと霧が収められたのかどうか分からない。遅ればせながら彼女も立ち上がり、数歩進んだ。 「どう、見える?」 シルキアが嬉しそうに声を弾ませて訊ねた。一方、ファルナはゆっくりと身を屈めて瓶の口に瞳を寄せ、反対の目を閉じたが、淡い光の漂う霧の森の中ではますます見分けられなかった。 瓶を手で抑えて何度も瞬きしていたファルナだったが、やがて瞳を離して首を持ち上げ、困惑したような憮然とした顔で語る。 「わからないのだっ」 「お姉ちゃ〜ん。無理矢理、注いじゃえば?」 一歩後ろから見ていたシルキアが言った。霧の層がやや薄くなり、あちこちから発せられていた鳥たちのさえずりが高まる。 「む〜」 ファルナは首をかしげて考えてから、軽くうなずくと、掌を扇のように素早くはためかせて瓶の入り口に霧の風を送り込んだ。 「どんどん入って欲しいのだっ!」 「どうだろう。上手く掬えてるといいけどね」 無邪気で夢見がちなファルナと比べると、次女のシルキアは遙かに現実的だ。それでも感性は似ており、姉妹仲は良い。 「お姉ちゃん、代わろうか?」 「うん。お願い」 そして、今度はシルキアがひとしきり瓶に向けて風を送った。 一仕事終えた後、二人は顔を寄せ合って白い歯を見せ、笑い合った。どうやら秘密の意見交換が合意に達したようだった。 「お姉ちゃん、これもおみやげにしちゃおうよ」 「いい考えですよんっ!」 気温が上がり始め、霧は溶け出して微細な水蒸気に変わり始めようとしていた。シルキアは霧を入れた瓶にふたをした。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 細かく散らばって斑(むら)ができた霧は、粒の一つ一つまでが見えるようになっていた。微かにたなびき、移動する霧の群れを眺めていれば、細かい風の流れを詳しく追うことができる。 姉妹は再び歩き始めていた。木の葉がお辞儀して朝露が首筋にこぼれ落ちれば、驚きと楽しさの混じった悲鳴をあげる。 「ひゃあ!」 所々ぬかるんでいる場所もあるが、木こりが通る道なので踏み固められており、背の高い雑草も少なく比較的歩きやすい。 今や、霧の白さが透けて見えるようになった森は、しっとりと湿っていた。十一月の新しい雪をシャーベット状に溶かして、森という大きな器に沈めておいたかのようにつややかで、絹織物のように品があり、軽く飲み込めばさっぱりした味わいがする。 「あっ」 突如、先頭を歩くシルキアは斜め上を仰ぎ、小さく叫んだ。 その琥珀色の瞳は驚きに彩られ、早く知らせたい、姉は喜ぶだろうか、という慌ただしくも純粋な気持ちで充たされていた。 「お姉ちゃん、空が開いたよ!」 「すごい、のだっ……」 二歩、一歩、半歩――ファルナはその場に立ち止まった。 霧はまるで生き物のように、あるいは過ぎゆく嵐が連れてゆく雲の群れを思わせて、どんどん遠ざかってゆく。春になって水と風が緩み、凍てついた池の氷が朝日に溶けてゆき、澄んだ青空が映るのを、とても速く見せられているようにも感じられた。 「うーん、どういう仕組みなんだろう?」 首をひねり、霧を入れた瓶を持ったまま腕組みして考える妹のシルキアの後ろで、ファルナは少し瞳を潤ませていた。ついに本当の朝が来て、誰かがそっと開けている森を覆う白い〈霧のカーテン〉の不思議さに、姉はうっとりと心を奪われていた。 「あっという間なのだっ……」 「そろそろかな……」 やがて姉妹は、斜めの光が枝先を照らして繊細な模様を土に描く森の小径を歩き出す。ほどなくして、先頭を切って進んでいたシルキアが、丸太で作られた憶えのある頑丈で質素な一軒家を木々の間に垣間見て、思わず嬉しそうに叫ぶのだった。 「あったぁ!」 「さあ、着きましたよん」 ファルナが優しく声をかけた。家はもう、目と鼻の先である。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 前庭の雑草は朝露の透明な宝石で清楚に飾られ、霧の忘れ形見である銀の星をきらめかせる。河のほとりで梳いた乙女の髪のごとく、しっとりと湿ったアルメリアの花は、時折通り過ぎる驚くほど涼やかな風に吹かれて、かすかに頭を揺らしていた。 豊かな橙色の光が森の中にたっぷりと降り注いでいる。土も木の根も幹も葉も、シダやキノコやツメクサの花、芋虫、松虫、ダンゴムシ、鷹や野うさぎ、紋白蝶――そしてその中では小さな探訪者にすぎない二人の少女たちの柔らかな頬までも、分け隔てなく照らしている。新しい日の希望を焚いた強い色だ。 コン……コン。 年経りて少し黒っぽく変色した樫の木の分厚い立派な扉に、特に意匠を凝らしていない素朴なノッカーが設えられている。それを二度、几帳面に叩くと、妹のシルキアは一歩退いた。左腕には森の朝霧を詰め込んだ細長い瓶を斜めにかかえている。 「オーヴェルさん、おはようございまーす」 念のため、妹は大きすぎず小さすぎない境界の調整した声量で家の主の名前を呼んだ。どっしりと重厚に構え、しかも辺りの森の景観を損なわない質素な感じ――建築を請け負った大工の魂が篭もり、住む者の〈家を大切にする気持ち〉が滲み出ている、丸太造りの気持ちの良い森の家が目前に建っている。 妹の後ろでやや眠たそうに服の袖で瞳をこすりながら、少しのことでは全く動じない泰然自若の様子で、ファルナは見るからにのんびりと立っていた。妹は振り向き、その姉に訊ねる。 「いないのかな?」 「まだ寝てるのかも知れないのだっ……」 朝の二度寝が大好きなファルナは夢心地につぶやいた。歩いている時は冴えていたはずの目が、いつの間にか再び細められている。琥珀色の前髪はどこか整っておらず違和感がある。長袖を二枚と、薄手の上着の組み合わせ方が都会的でなければ、今のファルナは田舎娘の典型のように見えたことだろう。 「でもお姉ちゃん、あれ、煙上がってるよ?」 ファルナの着こなしに影響を与えている妹のシルキアは、少しだけ不満そうに応えた。さっそく煙突の細い煙を指で示した。 「ほらぁ」 「うーん……」 しかしファルナの反応は鈍かった。不審に思った妹が見ると、姉は立ったまま夢路の入口に入りかけ、うつらうつらしていた。 「どうしようかな」 シルキアは首をかしげたが、別に急いでいるわけではない。穏やかな気持ちで〈待つ時間〉が訪れると、歩いている間はじっくり聴けなかった小鳥たちの喜びの賛歌が耳の奥へ爽やかに淀みなく流れ込んでくる。周りの色を映したあまたの透明な朝露の花は足元で弾け、流れ、溶けて――細かく散らした雫の種は澄みきった聖なる涼風に運ばれ、明日の森を育てるだろう。 その時、ファルナの膝から力が抜けかかって急にふらついたので、シルキアは思わず鋭い声を張り上げて注意を促した。 「ちょっとぉ、お姉ちゃん! しっかりして」 「ふわぁ……危うく寝てしまうところだったのだっ」 首を振ってまとわりつく眠気を払い、姉は愕然として語った。 光の色と射し込む角度で、朝の森は驚くほど躍動的に、と同時に夢幻的に絶えず変化を遂げてゆく。微細な光と影の芸術の間を縫って、妖精たちが歩いていても全く不思議ではない。 可憐な白い花はひそやかに咲き、ほのかな香を漂わせる。壊れた蜘蛛の巣には水滴が光って、清らな明かりを灯している。 ファルナは真っ直ぐにうなずき、シルキアは目で合図を送る。 妹はもう一度、樫の木のドアに向き直り、ノッカーを叩いた。 コン……コン。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「はい」 少し遅れて、くぐもった声が聞こえた――ような気がした。姉妹は顔を見合わせて、視線で会話をするが、二人とも今のが本当に返事なのかどうか決めかねている。だが鼓動は少し速まり、ひそかな期待が胸の内側で徐々に高まってくるのだった。 足音はほとんど聞こえぬが、人の近づいてくる気配を感じる。 すると突然、ノックの音が響いて、懐かしい声が聞こえた。 「念のため……どちら様ですか?」 「シルキアです」 「ファルナですよん!」 姉妹はほぼ同時に名乗り、シルキアは不満そうに頬を膨らませる。他方、ファルナは声が合ったことを喜び、相好を崩した。 まもなく簡素で頑丈な鍵が外される音がして、ドアと丸太の壁に隙間が開いた。そこから若い女性の知的な双眸が覗いた。 「まあ、いらっしゃい」 相手の声が弾み、優しく清楚な笑顔が現れる。長い金色の髪は後ろで束ね、ボタンの並んだブラウスと薄手の黒いカーディガン、ゆとりのあるくつろいだ感じの茶色のスカートを着ていた。 「おはよう。持ってきたよ」 シルキアは挨拶をして、霧の入った瓶を持ち上げた。ファルナが本来のお届け物である細長い樽を相手に見せ、補足した。 「おはようなのだっ。おいしい葡萄酒、持ってきましたよん」 「遠いところを、お疲れさま。さあ入って!」 重い木の扉を腰で押さえ、相手の女性は手を広げて訪問者を促す。食欲をそそる、温かい食べ物から広がってくるいい匂いを捉えると、姉妹の口の中には水っぽい〈つばき〉が湧いてくる。 「おじゃましまーす」 最初にシルキア、次にファルナが続き、森の香が漂う丸太造りの家の、木目の美しい磨かれた板の床に靴を踏み入れる。 花の優しさを思い出させる暖かさが、湖のさざ波のように身体の表面へ舞い降りてくる。梯子でしか登れない高いところの窓は少し開き、空気は動いていて、完全に澱んではいなかった。 「寒かったでしょう?」 細身の姉妹に女性は語りかけながら颯爽と歩き、部屋の隅に設えられている暖炉に近づいていった。炭化した薪がパチパチと音を立て、紅く燃えて弱火となり、鍋物が吊されている。その近くには調味料の棚があり、床には水を汲み置いた中くらいの木桶が三つ並んでいる。樹齢を重ねた木と澄んだ水が織りなす森の恵みがふんだんに活かされた、気持ちの良い家だ。 シルキアが頬に手を当ててみると、肌は適度な湿度のお陰ですべすべだったが、かなり冷えていた。秋といえども、晴れた朝の山奥は、平地で言えばほとんど晩秋に近い冷え込みだった。 「うーん……大丈夫ですよん」 ファルナは玄関に立ったまま、やや気の抜けた声で応えた。何度か来たことがあっても、ここに来るたび、新たな気持ちで部屋の天井から床までを見つめてしまう。壁際には本棚が並び、丸いテーブルには読みかけの分厚い本が重ねてある。大きな部屋の奥にはドアと仕切りがあって、書庫へつながっている。 靴についている泥を見て、シルキアは家の女性に言った。 「あ、オーヴェルさん。靴が汚れてるから、泥を取ってくるね」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ありゃ、気がつかなかったのだっ……」 身体を左と右へ交互にひねって爪先から踵まで確認し、重い靴を持ち上げ、だいぶ泥で汚れていることを知ったファルナは、困惑気味に顔を上げてオーヴェルの瞳を上目遣いに覗いた。何かやらかした時の癖である、驚きに似た微笑みを浮かべて。 すでにシルキアは玄関の外の古い切り株に靴の裏をこすり付け、雨上がりの森の道を歩くことで付着した泥を落としていた。 「大丈夫、気にしなくていいですよ」 家の主のオーヴェルは振り向いて優しく声をかけたが、ファルナは慌てて駆け出した。重厚な木の扉が音を立てて閉まる。 「あらあら」 オーヴェルは入り口まで引き返し、扉を押した。隙間が生まれ、広がって、清々しく透明な空気の流れが家の中に迷いこんでくる。朝露を色褪せた葉の上に飾り、霧のカーテンを引き、やがては森を暖かな色で塗り替えてゆく早起きの風の子たちだ。 「だいぶ冷えていますね」 扉を肩で押さえたまま静かにつぶやいたオーヴェルは、首を少しすくめた。だが、鳥の歌声が高まると森の枝先を見上げ、その先にある真っ青な眩しい空に優しく目を細めるのだった。 二十歳を過ぎたくらいだと思われるオーヴェル・ナルセンは、秋めいた茶色の長袖の服に花の模様の入ったえんじ色のロングスカートを合わせ、黒いカーディガンを羽織っていた。といっても余所行きというわけではなく、肩口のゆったりしたくつろげる装いだった。今日は少しだけ眠そうな蒼い瞳は、その年齢より遙かに落ち着いた印象を与え、知的な思慮深さを秘めている。 身長は普通であるが、ほっそりとしているので実際よりも背が高く見える。だが特に不健康そうに見えるということはない――あまり日に焼けていないことを除けば。うら若い彼女の胸元には、賢者であることを示す薄紫色の小さな宝石が、朝の光を受けて瞬きしている。それは夢のかけらのように、星の名残のように、誰かのゆうべの涙のように、麗しいきらめきを讃えている。 「でも、おいしい空気」 庭にはコスモスの白や紫、薄い青の花が微かにゆれている。思いきり息を吸えば、きれいになった肺の中から新しい一日が始まり、鼓動は刻を奏で、心からの喜びと活力が湧いてくる。 初秋の森は、春や夏に比べれば鮮やかではかなわないけれど、品のある彩りが増えてゆく。いつしか広葉樹は紅や黄色に燃えて、暮れゆく一年(ひととせ)の黄昏時を迎えるのだろう。 「ふぅーっ」 一足先に作業を終えたシルキアは、入口に戻ってきて口元を緩め、もう一人の姉のような存在であるオーヴェルに言った。 「改めて、おじゃましまーす」 「どうぞ、ゆっくり身体を休めてね」 オーヴェルはそのまま扉を肩で押さえ、ファルナの帰りを待っている。彼女は不器用な動作で、たまに身体のバランスを崩して倒れそうになりながら、靴の裏を切り株にあてがっていた。 静かな山奥の朝である。 姉妹はテーブルにつき、丸太を加工した椅子に座って、また部屋の中を眺めている。床の年輪や、天井の木の組み方や、整理整頓された調度品、村にある全部を合わせたよりも多そうな本の数――ここは賢者オーヴェルの夏季の住みかなのだ。 オーヴェルは床をカタコト鳴らしながら歩き、やはり森の木で作られた食器棚に向かって深皿を出してきたり、暖炉に吊して温めている鍋のふたを取って中身を確かめた。さっき煙突から出ていた細い湯気と、おいしそうな匂いの素が明らかになる。 「シチュー?」 姉はわずかに腰を浮かし、鼻を突き出して嗅ぐ仕草をした。 「お姉ちゃーん、はしたないよォ」 と顔をしかめて言ったシルキアだったが、まさにその直後におなかが鳴って、頬をやや朱く染め、恥ずかしそうにうつむいた。 オーヴェルは振り向いて、姉妹の顔を交互に見ながら語る。 「ええ。残り物ですけれど、もうすぐ温まりますよ」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「朝ごはん、まだでしょう? 取れ立ての木の実入りのパンを暖めます。ちょうど昨日拾って、試しに焼いたばかりなんですよ」 オーヴェルが呼びかけると、ファルナは心底うれしそうに微笑み、温かな風に花が咲き乱れる春のような笑顔をふりまいた。 「やったー! もう、おなかがペッコペコなのだっ」 「いいの?」 シルキアは恐る恐る訊ねた様子を装ったが、瞳を何度もしばたたき、言葉や表情には隠し切れない期待が含まれていた。 「もちろん。大勢で食べるほうが美味しいから、ぜひ一緒に食べましょう。ちょうど朝食にしようと思っていたところでしたし……」 姉妹が気兼ねなく食事を摂れるよう、オーヴェルは上手に返事をした。宿屋で貴族の客を迎えるうちに礼儀作法や気遣いを身につけてきたシルキアだったが、オーヴェルの前ではしだいに力みが抜け、本来の素朴な村娘の顔が現れて、はにかむ。 「うん、ありがとう。何か手伝おうか?」 「大丈夫。お客様は、休んでいていいのですよ」 立ち止まったオーヴェルが優しく相手の目を見て応えると、シルキアは浮かせかけた腰を下ろして椅子に座り、うなずいた。 「わかった。実はあたしもね……」 シルキアは横目でちらりと姉のファルナを見て、うつむく。 その続きは、彼女のおなかの時計が教えてくれた。 グウゥ――。 東の窓から入り込む幾筋もの朝の光は柔らかく、かなり奥まで射し込み、部屋を明るくしてくれる。ゆうべのランプはすっかり消え、夜の忘れ形見として趣のある古びた置物と化している。 「それに、こんな遠くまで、朝早くに届けてくれたのだし……」 木のテーブルを乾いた布きれで軽く拭く間、その上に立ててある特製の葡萄酒が入った携帯用の小さな樽をちらりと見て、若き賢者は補足した。それは確かに彼女がかつて注文しておいた品で、酒場の姉妹が顔見せがてら配達してくれたのだ。 そして彼女の瞳の焦点は、とある別の一点に集約される。 「これは、何かしら?」 空っぽに見える瓶(かめ)を見て、オーヴェルは訊ねた。 それこそはまさに、早朝の霧を溜め込んだ瓶であった。 村からやって来た仲良し姉妹は、はっとして顔を見合わせたが、次の刹那――妹は素早く姉に目配せして同意を求めた。 「食事の後のお楽しみだよ。ね、お姉ちゃん?」 すると姉は、特にボロを出すことなく肯(がえ)んじる。 「そうなのだっ、オーヴェルさん」 「まあ、楽しみね」 テーブルの乾拭きを終えた賢者は顔を上げて、頬を緩めた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「シチューは残り物だけれど、山の幸がいっぱいです」 パンの準備に部屋の隅を動き回りながら、オーヴェルは説明する。強い反応を示したのは、またしても姉のファルナだった。 「大好物なのだ〜っ!」 こげ茶色の瞳を大きく広げて、ファルナは屈託なく叫んだ。十七歳にしてはやや幼さを残す姉は、久しぶりのシチューという事実を受け入れ、見えない中身をあれこれと想像した。一見すると眠たいかのように、瞳は夢見がちに半分閉じられ、少し開いた口には水っぽい唾液があふれてくる。それを飲みこんでから、彼女は適当なふしをつけて甘くあやふやな唄を口ずさむ。 「シチュー、シチュー、シチュー♪」 一年を通して冷涼なサミス村とはいえ、夏場はさすがにシチューを食べる機会は減る。秋が来て、ファルナにとっては久しぶりに味わう好物だった。辺りに漂うのは母が作るシチューの匂いとは異なるが、それでも温かくて良い香りには変わりない。 「お姉ちゃん、はしゃぎ過ぎ〜。でもよかったね」 シルキアも嬉しそうに言う。ファルナの笑顔は周りの人たちに幸せを運ぶ、不思議で魅惑的な魔法の力を持っているのだ。 暖炉の薪はパチパチと燃えはぜ、食べ物を温めるが、夜のしじまに響いていた時の透明感のある響きは色褪せた。かりそめの太陽である炎は、本物が沈んでから輝きを増す。真新しい朝の空気とまばゆさの中では、小鳥の囁きや微風のざわめき、足音や物音や話し声に混じってしまって、ほとんど聞こえない。 「これから冬になれば、寒いけど、いいこともあるのだっ」 繊細な模様が刻み込まれた銀色のスプーンを見下ろし、ファルナは実感のこもった低い声でささやかに呟く。部屋にはパンを焼く香ばしさが拡がり、シチューの湯気と相まって素敵な雰囲気を醸し出している。待ち遠しい朝餉(あさげ)を胸に描き、望みを膨らませて我慢する刻は、独特の厳粛さをも帯び始める。 シルキアはわざと身を乗り出し、やや斜に構えて訊ねた。 「お姉ちゃんにとっては、シチューばっかりぃ?」 その時、丸太の家の調理場で、トポトポッ――という重みのある音が響いた。姉妹は思わず言葉を失い、そちらに注目する。 オーヴェルがお玉で、温まった鍋のシチューを掬い、深皿に映していたのだ。具とルウが溶け合って響き合う、独特の音だ。 白い流れが、三つの深皿へゆっくりと丁寧に注がれてゆく。その様子にファルナはすっかり魅了され、心を奪われていた。我に返り、話の続きを再開したのは、しっかり者のシルキアだ。 「ほらー、シチューに見とれてる」 「うー」 しっかり指摘されてしまったファルナは、名残惜しそうにオーヴェルの作業から目を離して、ややしどろもどろに説明する。 「そ、そんなことはないのだっ。そりとか、雪遊びとか……」 「あとはー?」 シルキアが立て続けに訊くと、ファルナは返事に窮する。 「うーん、温かい食べ物と、飲み物と……」 ファルナの言葉は途中で消え――あとは高い歓声となった。 「やったー! やっぱりシチューが一番なのだっ」 「うふふ、お待ち遠様。はい、できました」 シチューの皿を乗せたお盆をテーブルに置きながら、オーヴェルは弾む声で言った。古くなった厚手の雑巾を流用した〈鍋つかみ〉で深皿を両側から支え持ち、まずは一番歳の若いシルキアに、次はファルナに、それから最後に自分の場所へ移した。 「パンもこんがり焼けています。待っててね」 オーヴェルは早足に、簡素な調理場の方へ歩いていった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 少し焦げのあるシチューは盛んに湯気をあげ、焼きたてのパンは香ばしさを漂わせている。手を組んで森の神様への感謝の祈りをごく簡単に済ませたあと、オーヴェルは姉妹を促した。 「では暖かいうちに頂きましょうか」 「いただきまーす!」 瞳を見開いて待ち構えていたファルナとシルキアの歓喜の声がはじけて、小さな山小屋に響き渡った。外の小鳥たちもそろそろ朝食時なのだろうか、高らかで軽やかな歌は日の出の頃の生まれたての騒がしさよりもいくぶん落ち着いているようだ。 スプーンの音をカチッと響かせ、ファルナは堰を切ったように右手を動かした。シチューの皿を満たす白い沼地にスプーンを沈めてから持ち上げ、食用きのこの欠片を掬い取る。よく煮込んであってとろりとしたシチューが独特の重みを持ってこぼれた。 「羊の乳も山羊の乳もないので、甘さには劣るのですが……」 そう言ってオーヴェルが席の温まる間もなく立ち上がったのと、こぼさないように指先に力を込めてファルナが大きく広げた口の中にスプーンを斜めに差し込んだのはほぼ同時だった。 そして今度は飲み物の湯を沸かすために暖炉へ向かったオーヴェルは、言葉にならないファルナの深い溜め息を聞いた。 「はあ……」 「美味しそうだね」 次はシルキアの番だ。シチューから攻めるか、焼きたてのパンか迷っていたようだが、結局、姉に倣ってスプーンを握った。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 シルキアは椅子を引いて背筋を伸ばした。それから大きめのスプーンをおもむろに皿へ差し込み、たっぷりと、しかもこぼれない程度にシチューの汁と具を掬い上げ、それを唇に近づけていった。待ちきれず、口の中に唾液が広がるのを感じながら。 村に泊まった貴族の婦人を真似て品良く唇を開き、おしゃまな妹も豊かな森の恵みがいっぱい詰まったシチューを味わう。 「はちゃ、ちゃっ……ほぉー」 盛んに湯気をあげている熱いくらいの温かさも、長くゆっくりと呼吸をし、時間をかけて舌の上で冷ますうちに適度な温度へと落ち着いてゆく。一晩経ち、馬鈴薯はやや煮崩れしているが、逆にシチューのルーと溶け合って味の和声を響かせる。よく火が通っていて芯まで温かい小さな川魚は、きのこのシチューには意外な取り合わせだったが、双方の旨みが出て美味しい。 「口の中がとろけそう」 シルキアは熱さと感激で茶色の瞳を少し潤ませてつぶやく。 「最高の贅沢なのだっ」 はたと手を休め、ファルナはやや斜め上を向いて口の端を自然と持ち上げ、左右に可愛らしいえくぼを浮かべて微笑んだ。 「喜んでもらえて良かった」 湯を沸かす準備をして戻ってきた主人のオーヴェルは、柔らかな表情で席に着き、焼きたてのパンをちぎって食べ始める。 研究のためであり、初夏から秋の間だけ――とはいえ、いくら玄関の扉に頑丈な閂がかかっていても、若い女性が森で独り暮らしするのには大変な勇気がいるだろうし、時には人恋しくもなるだろう。清楚に頬を緩めたオーヴェルは、普段の賢者らしい落ち着いた様子を保ちつつも、本来の二十一歳の女性らしさを垣間見せて、久しぶりの訪問客に心躍らせているようだった。 それからしばらくはファルナもシルキアも黙々と食べた。ファルナは食欲を満たすため、一方のシルキアは食事中に喋るのはあまり上品ではないと考えていたからだ。オーヴェルも敢えて必要以上に話しかけることはしない。鳥たちの唄声が音楽だ。 シチューは確かに素朴な田舎風の味わいであるが、きのこや山菜など山の幸と、川魚のを始めとする水の幸が入り、一晩置いて味の良く染み込んだ代物だった。むろんのこと、昨日焼かれて今朝に再び軽く火を通した木の実入りのパンも絶品だ。 「おかわり、遠慮しないでね」 オーヴェルに促され、ファルナはシチューを汲みに行った。鍋には思ったほど残っていない――もともとオーヴェルが一人で食べるために作ったのだから、量としてはたかが知れている。お玉を持ち上げると、とぽぽと、独特の重みのある音がした。 ファルナが戻ってきてから、オーヴェルは姉妹に訊いた。 「朝早くて、大変だったでしょう」 「きのうは早く寝たから、大丈夫ですよん」 ファルナがのん気に語れば、シルキアは双眸を輝かせる。 「霧の流れと青空が、ほんとにきれいだったよ!」 それから間もなくして、丸太の一軒家は安らぎとまどろみの行き交う雰囲気につつまれた。時間の進み方も緩やかになる。 中身のなくなった皿が重ねられ、無数のパンくずがテーブルに残っている。シルキアは満足そうに手を組み、挨拶をした。 「ごちそうさまでした。おいしかった……おなかいっぱい」 「ふぁー、ごちそうさまでした〜。ほんとにご馳走なのだっ」 姉のファルナは目尻を下げ、眠たそうに瞳をこするのだった。 「では……」 その時、オーヴェルは何かを言いかけて――ふいにやめた。 鋭くなった視線の行く先は、テーブルの隅、葡萄酒の脇に置いてある、空っぽに見える瓶(かめ)だった。若い研究者らしい、何事をも知りたいという好奇と興味の虫が疼いてきたようだ。 「今度は、オーヴェルさんが楽しむ番!」 立ち上がった妹は、いよいよ〈霧のお届け物〉を手に取った。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「この中に、何が入ってると思う?」 シルキアは軽く顎を上げ、霧の詰まった瓶を両手でしっかりと支えて首の高さに持ち上げ、得意げに訊ねた。するとオーヴェルは座ったまま瞳を上目遣いに見開いて、楽しそうに応じた。 「さぁて、何でしょうね?」 するとシルキアは急に思いついた遊びのルールを説明する。 「質問は〈三回まで〉だよ」 「面白くなってきたのだっ……ふぁ〜あ」 話を聞いていた姉のファルナは座ったまま軽く身を乗り出し、独り言を洩らしたが、その末尾はあくび混じりになった。若き賢者のオーヴェルは椅子に腰掛けたまま、腕組みしてシルキアの持つ瓶にまなざしを向け、それからテーブルの食べ終えた食器を呆然と眺めつつ、小首をかしげて珍しい唸り声を上げた。 「うーん、三回ですか」 外で響いている鳥の歌は早朝の頃の秩序が失われてきて雑然としている。木々の間を通り抜けてきた朝日は光の矢となって東の窓から家の中に入り込み、暖かくて明るい筋を描いた。 強い風が吹き抜けると、木の葉は一斉に音を立てる。落ち葉の季節にはまだ多少時間がある初秋の山奥は、朝が発展して気温が上がり始めても、すがすがしい空気に満たされていた。 森を駆け抜けた風がおさまると、シルキアは腕が疲れてきたのか、再び問題の瓶をテーブルに置いた。ことん、という焼き物に特有の重みのある音がする。うつむいて考え込んでいた賢者はにわかに顔を上げてシルキアの動作に注目し、耳をすます。 しかし手がかりになりそうな響きは聞こえず、当ては外れた。 「さあ、オーヴェルさん。最初の質問は?」 さっきまでの遠慮はどこへやら、シルキアは利発そうに口元を緩めて物怖じせず家の主に問うた。賢者はついに決断する。 「うーん、それじゃあ、これにしましょう」 オーヴァンの娘の若き賢者オーヴェル・ナルセンは、客人の姉妹の顔を交互に覗き込みながら最初の質問を投げかけた。 「それは〈生き物〉かしら?」 「生き物?」 予想外の質問に、シルキアは一瞬だけ息を飲んだが――すぐに謎を出している側の余裕を取り戻し、おすましして答えた。 「フフーン。生き物じゃないよ」 「でも、動くのだっ」 そこで一言だけ補足したのは、早起きと朝食後の相乗効果で眠たそうだったファルナだ。シルキアは横を向いて姉を見つめ、唇に人差し指を当てて、わざと掠れた声で釘を刺すのだった。 「お姉ちゃーん、それって大ヒントだよーっ」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「動くもの……なるほど」 テーブルに初秋の朝陽が注ぎ込む。オーヴェルは腕組みをしてほんの少し首をかしげ、ファルナの言葉を検討するために考えに耽ろうとしたが――その時、シルキアが場を仕切り直す。 「はい、あと二回だよ〜」 「ええ」 促されたオーヴェルは相づちを打って頬を緩めたが、その目は本気だった。だが彼女は決して焦ることなく、テーブルに横たわった空っぽに見える瓶(かめ)をじっと見つめ、まずは現状で分かっている限りの情報を声に出して理論的に整理し始めた。 「シルキアちゃんの動きを見ていましたが、特徴的な物音はしなかったように記憶しています。となると転がる物ではなさそうですし、生き物でもない。おそらく液体でもない。動くもの、と」 「すごいのだっ」 さっきまで相当眠そうだったファルナは、四つ年上のオーヴェルの理詰めに驚いて、茶色の瞳をしばたたく。ちょっとした遊びとはいえ、今度焦り始めるのは、むしろシルキアの方である。 「ねえ、オーヴェルさん、次の質問はまだ?」 「ええ。もう少しで決めます」 はっきり答えた若き賢者は自分のリズムを保ちつつ、所感をさらに付け加えて、姉妹の様子と顔色の変化を伺うのだった。 「粉末のものかも知れない、とも考えましたが、自律的に動くわけではありませんし……それに、とても軽そうなものですね」 鳥たちの唄声が外の森に響いている。問題を出した時、この瓶の中身はオーヴェルにも当てられないだろうと高をくくっていたようもに見受けられたシルキアだったが、迫りつつある真相に半ば感心し、半ば諦めた様子で肩の力を抜き、吐息を洩らす。 「ふぅー。さすがオーヴェルさん、いい線行ってるよ」 「うん、うん」 ファルナは事の成り行きを心から楽しんでいるようで、口元に可愛らしいえくぼを浮かべ、二人の顔を交互に見ながらうなずいた。秋の〈おはよう〉の時間は爽やかさと静けさとともに熟れてゆき、主役から脇役へと転じ――しだいに森の空気の主軸は豊かな恵みに彩られた〈こんにちは〉の刻へと移ろってゆく。 オーヴェルはシルキアの方に向き直り、こう訊ねるのだった。 「二つ目の質問を決めました。その中身は何色でしたか?」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「うーん……色か」 シルキアは小声で悔しそうに呟いたが、その後はわざと耳に右手を当てて聞き返すような仕草をし、声を裏返して訊ねた。 「いろぉ?」 「ええ、色よ」 オーヴェルは全く動じず、口元を緩めて清楚な微笑みを浮かべる。他方、シルキアは末っ子らしく甘えた表情になり、大きく瞳を見開いて相手を仰ぎ、今度は低い声で繰り返すのだった。 「い〜ろ〜?」 「何色かしらぁ〜?」 この遊びを楽しんでいたオーヴェルは、普段の真面目さも何のその、かつての子供時代の茶目っ気をほんの少しだけ垣間見させてシルキアに調子を合わせ、テーブルに頬杖をついた。 「いつものオーヴェルさんじゃないのだっ……」 思わず唖然としたのは、端で聞いていたファルナであった。 窓から射し込む豊かで緩やかな光の波はちらちらと舞い、それは可愛らしい小妖精たちの踊りを思わせる。窓辺の棚に置いてある鉢植えの、秋の野に咲く白い花は微かに揺れていた。 「ほんと、オーヴェルさん、いい質問だよ」 シルキアはようやく普通の物腰と口調を取り戻し、感心したように何度もうなずきながら言った。椅子に腰掛けている姉のファルナは時折眠たそうに瞳を瞬きさせつつも、無理に話に割り込むことなく落ち着いて二人のやり取りを聞いている。オーヴェルは優しく頬を緩ませ、その眼差しは知的な輝きを帯びている。 「答えは……白かな」 もったいぶったシルキアも、ついに素直に、幾分恥ずかしそうに答えた。自分の行動が大人げなかったと反省したのか、やや紅潮した顔は、悔しさを通り越したのか晴れ晴れとした雰囲気も混じっている。ここまで核心に迫ってきたら、ぜひオーヴェルに当てて欲しい――という期待さえ含まれているようだった。 だからだろうか、今度はファルナが、 「羊のお乳の色にも似てますよん」 と補足説明をした時、シルキアは手放しで喜んだのだった。 「お姉ちゃん、いいね!」 「では、そろそろ最後の質問、いいでしょうか?」 オーヴェルが姉妹を交互に見つめながら訊ねると、立ったままのシルキアはテーブルに手を伸ばして、真っ白の霧をたっぷりと詰め込んだ瓶(かめ)を再び持ち上げ、胸の辺りに掲げた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「それは……」 オーヴェルは最後の質問を言いかけたが、その先を続けずに口を閉じてほんの少しうつむき、いったん躊躇した様子だった。 だがそれほど悩むことでもないと思い直したのか、彼女はこの初秋の朝にふさわしい晴れ晴れとした爽やかな表情で顔を上げ、軽く腰を浮かせて椅子を引き、足の裏とそれぞれの指に力を込めた。ついで膝を伸ばし、腰を伸ばし、背中を伸ばしてゆき、最後には完全に立ち上がる。座っていたファルナから見ると、オーヴェルは急に大きくなったかのように見えるのだった。 淡い金の前髪をさらりと揺らし、オーヴェルは一息に言った。 「それは〈朝もや〉でしょうか?」 「おー!」 ファルナの歓声があがる。シルキアはほっと頬を緩めた。 「……オーヴェルさんにはかなわないよ。当たり!」 その響きが部屋の隅々にまで広がり、染み渡ってゆく。朝という澄んだ水たまりに溶けた、ささやかな花の香りのごとくに。 外では木々の梢を揺らして、透き通った秋風の令嬢が森の一軒家のドアや窓をノックして、ずっと遠くに流れ去っていった。 「本当ですか」 オーヴェルは最後の質問――あるいは〈回答〉にはそれほど自信があったわけではなかったらしく、彼女なりの驚きを持ってシルキアの返事を聞いたようだったが、そのあとには静かに歓びがやって来たようだった。その若い賢者が両手を後ろ手に組み、シルキアの方にゆっくりと一足ずつ歩いてゆく間、東の窓から射し込んできた光はオーヴェルの手や横顔の肌色を照らし、戯れて――移ろいゆく幾つもの細かな影を描き出すのだった。 一方、シルキアは十四歳の瑞々しい肌をした右手で、再び瓶を持ち上げて、樹の幹を思わせる茶色の瞳をまばたきさせる。 「この中に、朝の霧がいっぱい詰まってるんだよ」 「霧の湖から汲んできたのだっ」 ファルナが後ろから補足する。山奥のサミス村で生まれ育ち、村を出たことのない姉妹は、何かがいっぱいに充たされた広い場所を思い浮かべる時は、海ではなく湖を頭に描くのだった。 さて、次の刹那であった。 オーヴェルが着かないうちに、持ち運びの利く細長い瓶のふたを、シルキアが片目をつぶって覗き込んだかと思うと――。 「じゃあ、開けてみるね」 しっかり者の宿屋の妹は、瓶のふたに手をかけたのだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 もともとは森の湧き水を汲んで帰ろうと思って持ってきた、水筒代わりに飲み水を運ぶのが目的の、この地域では割と一般的な携帯しやすい簡素な瓶(かめ)である。その細長い陶器の瓶の狭まった口に、本体と同じ材質で作られた取っ手付きの小さなふたを乗せ、上から水を弾きやすい種類の濃緑の葉を何枚も重ねて、その全体を革紐で軽く結わえていた。また出し入れするつもりだったので、紐は敢えてきつくは縛らないでおいた。 さて現在、瓶のふたを適当に結わえていた紐をあっという間にほどいたシルキアは、重ねた葉を手早く一気に取り除き出す。 「あ、待って! 開けなくても……」 相手を止めようとして、オーヴェルは彼女としては珍しく慌てた様子で右手を差し出し、形の良い指をしなやかに伸ばした。 が、時すでに遅し――。 「え?」 突然、予想外の制止を受けたシルキアは驚いて顔を上げ、オーヴェルの方を見つめて手を休めた。が、それは陶器の触れ合う軽い音が響き、ふたが持ち上げられたのとほぼ同時だった。 そのとたんオーヴェルは表情を曇らせて、うつむき加減になり、行き場の無くなった手を力なく下ろしていった。座ったままのファルナは何も言わず、大きく瞳を見開いて何度か瞬きを繰り返す。呆然とたたずむシルキアは、胸の鼓動が数回打つ間、焦点の合わない遠いまなざしで目の前の賢者を眺めていた。 カーテンの裾が微かに揺れ動き、光がちらちらと遊んだ。 足踏みしていたそれぞれの時が再び緩やかに流れ始める。 「ん? どうして? 開けたらまずかった……?」 右手に引っぺがした葉とふたを握りしめ、左手で瓶の本体を持っていたシルキアは、ふと我に返った。オーヴェルが制止した理由は何だろう、という好奇心が膨らんでいたのかも知れない――茶色の瞳の妹は少しだけ首をかしげて、やや上目遣いで相手を見据え、率直な疑問をひるまずにぶつけたのだった。 訊ねられた方のオーヴェル当人はというと、何故か申し訳なさそうにシルキアの持っている瓶を横目で見つめて、言い淀む。 「それは……」 「あれっ?」 と、すっとんきょうな声をあげたのは、少し離れた椅子に腰掛けて事態を見守っていた、シルキアの姉のファルナである。彼女は瓶を指さし、不思議そうに目をこすりながら言うのだった。 「何も出てこないのだっ……?」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「えーっ?」 シルキアはすぐに驚きの声を発し、手にしている細長い瓶(かめ)を見下ろす。朝の森を乳白色に染めていた深い霧をたっぷり汲んだはずなのに、瓶の中からは何も出てこなかったのだ。 彼女は思わずひっくり返してみたが、やはり何も現れない。 「どうして……?」 力余って振り落とさないように注意しながら、宿屋の娘の妹は躍起になって瓶の口の辺りを両手でつかみ、軽く上下に振ってみた。もとより重さのない、つかみ所のない霧だったので、何の音もしない。椅子に腰掛けた姉のファルナは不安そうに手を組んで、素直な瞳を曇らせ、妹の作業を見つめていた。困惑気味の表情で立ち尽くすオーヴェルは、何か言わなければと唇の先を少し開きかけたのだが、そのまま口をつぐんでしまう。どんな風に姉妹を慰めたらいいのか、言葉が見つからなかったのだ。 外の鳥の高らかな歌も三人にはもう聞こえてはいなかった。 「えいっ、えいっ」 シルキアは諦めきれない様子で、瓶を縦に振り続ける。彼女の努力も虚しく、やっとのことで出てきたものといえば――透き通った雫がたった一粒、真っ直ぐにこぼれ落ちただけだった。 ファルナは身を乗り出してその宝石に目を凝らし、オーヴェルも瞳を見開き、シルキアも思わず手を休めて眺めたのだった。 それは明け方の空に還ってゆく最後の星、いつかの夜に頬を流れ伝うことができなかった涙、忘れ霜、あるいは暖かな春の光に舞い飛ぶなごり雪の最後のひとかけらを思い出させる。純粋さと儚さ、浄化された清らかさ、そして切なさに満ちていた。 「シルキア。霧は逃げちゃったのだっ、しょうがないですよん」 姉は残念そうに言い、三つ年下の負けず嫌いの妹を諭した。 ――と、その時である。 「ん?」 嗅覚に何かを感じたのだろうか、オーヴェルは一瞬、鼻の穴をほんの少しだけ動かした。鼻から深く息を吸い込み、胸を膨らませていった賢者の表情は、しだいに元のように和らいでゆく。 シルキアは急激に動かす速度を緩めて、疲れた腕を休め、ついに瓶を振るのをやめた。少女は呆然とした口調でつぶやく。 「消えちゃった」 たったひとしずく、小さくてきれいな水滴だけを残して――。 木々を覆い、姉妹の視界を狭めた早朝の濃霧のヴェールは、時が進み、朝が成熟するにつれて森だけでなく瓶の中でも失われたのだろう。瓶から取り外した小さなふたの内側には幾つもの水滴がついており、密封のために重ねた葉は湿っていた。 オーヴェルはこのことを分かっていたんだ――賢者の様子に合点がいったシルキアは、ようやく落ち着きを取り戻し始める。 「あの……オーヴェルさん。ごめんね」 他方、賢者は目を輝かせ、晴れ晴れとした顔で呼びかけた。 「いいえ。二人の霧のお届け物……ちゃんと受け取りました」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「えっ?」 「何なのだっ?」 シルキアはぱっと顔を上げ、ファルナも椅子から身を乗り出すようにしてオーヴェルの次なる言葉に耳を傾ける。その時を境に、一軒家の中を再び爽やかで楽しげな空気が回り始めた。 「霧のおみやげ、ありがとう。確かに届きましたよ」 オーヴェルは改めて言い直し、品のある清らかな笑顔を浮かべ、そばに立っているシルキアに向かって軽く会釈をした。夏の面影を残した、東の窓から射し込む初秋の朝のまぶしい光を受けて描かれた賢者の影も、床の上で軽く頭を下げるのだった。 「教えて、オーヴェルさん!」 しっかり者ながら甘えん坊でもある次女シルキアは賢者のそばに近づき、答えをねだった。さっきとは立場が逆転している。 「私は気づいたんです」 オーヴェルはファルナにも忘れずに目配せし、二人が口を挟まず目を輝かせて待っているのを確かめてから、先を続けた。 「霧の匂い……しっとり濡れた森の、朝の香りがしましたよ」 一瞬の間があった。 草に置いた透明に澄む朝露が青空を映してこぼれ落ちる。 あるいは翼をはためかせた小鳥が、枝先を離れる――。 そういう類(たぐい)の、些細だが充実感に満ちた時だ。 「やった、届いた!」 次の刹那、シルキアは飛び上がらんばかりに歓び、手にしていた携帯用の細長い陶器の瓶(かめ)を思わず上に掲げた。 「よかったですよん……」 他方、姉のファルナはというと、春の日だまりのように暖かな優しい微笑みをふりまいて、ほっと胸をなで下ろすのだった。 良く似た茶色の瞳と髪を持つ仲良し姉妹は、心を弾ませ、頬を緩ませて視線を交錯させる。その傍でオーヴェルは何故か懐かしそうに目を細めた。ここからラーヌ河をずっと下った中流、セラーヌ町に住む両親のことを思い出していたのかも知れない。 別れ際、玄関の扉の前でシルキアは単刀直入に訊ねた。 「いつ、村に帰ってくるの?」 オーヴェルは軽く唸ってから 「そうね……来月くらいでしょうか。深まる秋と相談して」 「そう。はぁ〜」 シルキアは待ち遠しそうに言い、溜め息をついた。オーヴェルは夏場だけ森の一軒家で暮らし、秋になると村に戻ってくる。 「葡萄酒、楽しんで欲しいのだっ」 ここに来た本来の目的を忘れていなかったファルナは、自分より四つ年上で、背丈はさほど変わらない賢者に語りかけた。 さて、続いて口を開き、礼を述べたのはシルキアであった。 「シチュー、とってもおいしかったよ!」 それを聞くや否や即座に反応したのは、当然ながらシチュー崇拝者の姉だ。彼女は恨めしげに、妹に詰め寄るのだった。 「それはファルナの言う台詞なのだ〜っ」 「やっぱり……?」 シルキアは半歩退きつつ、顔を引きつらせて返事をした。 「ありがとう」 落ち着いた声に感謝の念を重ねて、オーヴェルが呟いた。 外は暖かな初秋の陽射しに満ちあふれている。夏のように命の燃えるような午前ではなく、豊かさを帯びた輝きであった。 見送りのオーヴェルは仲良し姉妹に言い聞かせ、約束する。 「霜が降り、雪が降る前には、また、必ず戻りますから」 「その時は、ケン坊とか連れてくるよ。荷物運びに、ね」 シルキアは友の少年の名を挙げて、泣き笑い――と言っては大げさだが、まだずっと先に思える再会の日の待ち遠しさに、一時的な別れの哀しみをほんの少しだけ混ぜ合わせたような表情を浮かべた。 翻って姉のファルナはというと、事態をもっと単純で楽観的なものと捉えているようで、和やかな雰囲気を醸し出していた。 「オーヴェルさん、元気でね〜」 「ええ、ありがとう。お二人とも帰り道、気を付けて下さい」 澄んだ泉のように穏やかな蒼い瞳で、賢者は呼びかけた。 名残は尽きぬが、ついに姉妹は歩き始める。 土がへこんでいる場所を軽々とまたぎ、秋草を踏みしめて。 「またねー!」 時折、シルキアは顔を後ろに向けて、瓶を高く持ち上げた。 「元気でねー!」 家の前で、若き賢者も右手をゆっくりと大きく振って応えた。 そのたびごとに、オーヴェルはあの朝霧の艶やかで爽やかな香りの幻が、再び鼻先をかすめるように感じられるのだった。 空は蒼く澄み、白の薄い雲がたなびく。今日は晴れそうだ。 姉妹が完全に見えなくなり、賢者は後ろ手にドアを閉めた。 | ||
(了) | ||
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