それぞれの夕暮れ 〜
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秋月 涼 |
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(一) 立ち並ぶ木々は物言わずして、しかも様々な想いを見る者の心に廻らしてくれる。年経りてごつごつした幹を、風に揺れる翠の葉の群れを、魔法の硝子細工のように形を変える木洩れ陽を、手を広げた枝を――見ているだけで、それはやがて森の息づかいとなり、自らの鼓動と呼吸のリズムが合わさってゆく。 「なんか、吸い込まれそうな青空なのだっ……」 口を開き、茶色の前髪を掻き上げ、首が痛くなるほど一心に空をあおいでいた姉のファルナが言った。そろそろ家路をたどる鳥たちの声が、遠くから、あるいは近くからも響いてきている。 天は低いところに雲の波が広がっていたが、上空は全くの晴天だった。梢から覗く大部分の空はまだ蒼かったが、枝先を器用に縫って射し込んでくる光は橙色が少しずつ増していった。 それは紅茶の煎れるのを、とても遅くした状態を思わせた。純粋無垢の昼の光が、太陽の茶葉で染められてゆく。紅茶の香ばしさはないけれど、その代わりファルナには優しく生命力に満ちあふれた森の匂いと、かすかに残る陽の香りを感じられた。 「大丈夫。吸い込まれないよ」 横にいる妹のシルキアは、まぶしそうに瞳を細めて姉に語りかけた。温めていた持論を展開し、軽い口調で太鼓判を押す。 「仮に天地がひっくり返っても、木の枝の網に引っかかるから」 ここはラーヌ河の上流、高原にあるサミス村の町はずれだ。 (二) 「気持ちがいいですね……」 疲れているはずなのに、タックの足取りは思いのほか軽かった。すでに今夜泊まるべき村に着き、重い荷物を宿に預けて、余力のあったケレンスとタックは連れだって散歩に出ていた。 「荷物がないと、ほんと楽だよなぁ」 宿から少し行けば、すぐ森の小径に入る。二人は遠くに行きすぎない程度に、森の入口付近をゆったりした足取りで歩く。 昼間の暑さは速やかに和らぎ、涼しい風に傾いた光もまろやかに深まる。しかも清純な少女が頬を薄紅に染めるように、郷愁を誘う暖色へと驚くべき変化を遂げてゆく。その染料はほんの少しずつ染みこんでいくので、ケレンスとタックのようにずっと見ているとなかなか気づきにくいが、宿のベッドに寝転がって、窓から射し込む夕日をたまに見ているはずのルーグとシェリアとリンローナならば、逆に変化が速く感じられたかも知れぬ。 ラーヌ河の中流にある、主な街道からやや外れた小さな集落は、とても静かな所であった。林業と牧畜が盛んで、泊まる宿と言っても畜産家の空き部屋を開放した程度の素朴なものだ。 「こうして木々の間を歩いていると、森の一員に加わらせてもらえたような、荘厳な尊敬の念が膨らんでくるような気がします」 木々の間に立って瞳を閉じたタックは、普段の緊張感を解き放ち、くつろいだ口調と態度に戻っていた。背中を照らす夕陽はほどよい強さで、疲れた心まで温めてくれそうな感じがした。 「難しいことは、よく分かんねえけどさァ」 頬に古傷のある剣術士のケレンスは、金の髪の間の額に汗の粒を輝かして、清々しそうに口元を緩め、友に語りかけた。 「今のおめえ、ホントに森の一員になってるみたいだぜ」 「えっ?」 腐れ縁の友の意外な言葉に驚いて、タックは瞳を開いた。 彼のまなざしは彷徨い、やがて下の方に吸い付けられていった。その表情は、ゆっくりと緩んでゆく――暮れゆく空に似て。 「本当だ……」 足元に長く伸びるタックの影は、背の低い一本の若木となって、確かに木々の間で、ほとんど違和感なくたたずんでいた。 「ケレンス、貴方も《たまには》いいこと言いますね」 「チェッ。いつもだろ? 俺は……」 二人の姿は元来た道をたどり、宿の方へと消えていった。 (三) 峠を越えた辺りで、数頭の白い馬に牽かれた大きな幌馬車は止まった。やがて扉が開き、外行きの最高級の絹のドレスに着替えた高貴な若い女性が二人、颯爽と地面に降り立った。 「わーっ、まぶしい! オレンジ!」 最初に感嘆の叫びをあげたのは、ガルア公国の第一公女、十八歳のレリザ・ラディアベルク嬢だった。ドレスの裾をあまり気遣うことなく、草を踏み分けて心のままに前進し、なかなかゆっくり見る機会の少ない夕陽を――ここからだと横に長く見渡せる〈北の至宝〉王都メラロール市の黒いシルエットを、国土を潤す〈母なる大河〉ラーヌ河下流の雄大な流れを遠く眺めている。 少し離れた場所には背の高い護衛の騎士が数人立って、平和な国とはいえ万が一の襲撃のための警備を務め、ラディアベルク家の紋章の入った立派な幌馬車の前後には屈強な騎馬部隊が続いていて、鋼の槍の刃先と胸当てが夕陽にきらめく。 「まあ……」 上品な仕草でドレスの裾を軽く持ち上げ、土埃で汚れないように気を付けながら注意深く歩いていたもう一人の若い女性が、レリザ公女の斜め後ろに立って、雅やかな動作で額に細く白い左腕をかざした。その腕の先には、あまり自己主張が激しくない程度の、品の良い銀の腕輪――魔法の守護の文字が刻まれており、お守りとしての意味もある――を身につけている。ドレスの胸元に光を湛えるのは深海のように蒼く澄んだ宝石だ。 彼女こそは、メラロール王国の臣民の尊敬を集める次代の指導者、現国王のたった一人の美しき愛娘、従姉妹のレリザ公女と同い年の十八歳である、シルリナ・ラディアベルク王女だ。 地方での貴族との昼食会のため、茶色の髪は珍しく華麗なアップにして、銀の髪飾りで留めている。知慮に充ちた焦げ茶色の瞳が醸し出す雰囲気は、侍女や貴族たちと語らっている時には滅多に見られない、分析的で冷徹な一面が浮上していた。 (都はかなり人口が増えてしまいました。新たな砦を建設するなら、どこが最も効果的に防衛力を高められるのでしょうか?) (尤も、そもそも都攻めなどが起こる前に相手を潰すべきは当然ですが……準備だけはぬかりなきようにしないといけません) (しかも、今の整った街の景観を損ねてはならないのです) 凛と立つ王女の胸に、どんな想いが去来していたのか――。 「すごい! ほらシルリナ、尖塔があんな遠くに見えるよ!」 振り向いたレリザ公女の言葉で、シルリナ王女は我に返る。 「え、ええ……」 王女はひとまず統治者としての考えを脇に置き、しだいに一人の少女のまなざしを思い出して、もう一度、夕陽と向き合う。 暖かな光は分け隔てなく、豊かな国土を橙色に照らし出していた。ラーヌ河は緩やかな曲線を描きながら西海を目指し、都は静かに横たわっている。ここからは見分けられぬが、年月を経て文化の香りの染みこんだ家々では、そろそろ夕食を作る煙が上がり、民は一日の仕事を終えてくつろいでいることだろう。 そういう日々の生業が、不思議と愛おしいものに感じられる。 「いつまでも、永遠に……」 思わず国歌の一節をささやいたシルリナ王女の瞳は、新たな決意と清々しい気持ちを帯び、あの夕陽よりも輝いて見えた。 | ||
(了) | ||
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