2002年11月

 
前月 幻想断片 次月

2002年11月の幻想断片です。

曜日

気分

 

×



 11月30日◎ 


[たまご(3)]

「怖い、怖いよ……」
 クルクは顔を引きつらせ、黒い瞳からは今にも大粒の涙がこぼれそうだった。右手を斜め上に掲げ、出来るだけ身体から離して卵を持ち、薄暗い寝室棟を全力で駆け抜けた。年代物の木の床がミシミシ悲鳴をあげるのも気にせず、両脚を前へ出す。
 寝室棟の突き当たりにぶつかる手前で急ブレーキをかける。まるで暗殺者集団にでも追われているかのように、空いている左手を死にものぐるいで動かし、何とか取っ手を回してドアを引き、石造りの短い廊下を抜けて実験棟に駆け込む。一瞬だけ、外の日光がまぶしく目を射抜き、再び薄暗くなる。自分の部屋を出てから、実験棟に入るまで、クルクは誰とも会わなかった。若くて艶のある頬は、可哀想に、不安と恐怖とに歪んでいた。

 その時、卵スープを思い出させる香りが鼻腔に届き、口の中を刺激した。おそらく朝の当番の班が食事を作っているのだ。
 とにかく、誰でもいいから会って話がしたい。切望したクルクは心臓付近を左手で抑え、辛そうに素早い呼吸を繰り返しながら、もつれる足で曲がり角を左に折れ、厨房に針路を取った。まるで敵軍に夜襲された兵士が本陣へ急報を知らせる時のように切羽詰まり、彼女の動きには無駄な部分がなくなっていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 食堂の両開きの扉の隙間に滑り込み、いよいよ強まるスープの匂いの発信源を求め、クルクは大きな足音を響かせながらカウンターへ向かった。膝はがくがくと崩れそうになり、背中や額には冷たい汗が流れているのに、身体は湯気を発している。
 そしてついに人の姿を発見し、クルクは突撃した。

 まさに、その時である。
 足に力が入らなくなったクルクは、前のめりになり。
 前髪が目にかかり、無意識のうちに腕を伸ばし。
 背筋は曲がっていき、カウンターに覆い被さるように。
 ゆっくりと――だが確実に、倒れていったのである。

「うっ」
 反射的にカウンターにしがみついて何とか事なきを得る。
 だが、その拍子に離してしまったのだ――例の卵を。
「あ、あっ!」
 クルクの耳には自分のかすれた叫び声が遅れて聞こえた。
 卵はゆっくりと放物線を描き、最も高い点の前後でわずかに落ち着いたと思ったのも束の間、奈落の底へ墜落していった。
 直後、一定の質量を持つ物体が大地に激突する音がした。

 朝の当番の者たちはあっけにとられつつ調理の手を休め、この村で最年少の騒がしい侵入者を不思議そうに怪訝そうに見つめる。その刹那、スープがぐつぐつ沸く音だけが厨房に響く。
 クルクは説明しようとするが、開きっぱなしの渇いた口と喉からは苦しげな吐息が洩れるばかりで、まともな言葉にならぬ。
「おはよう、クルク」
 やがて厨房にいた二十代半ば位の男が声をかけてくれた。彼は似合いの白いエプロンを掛け、眼鏡の奥の双眸を光らす。
「そんなに慌てても、食事はまだ出来ていませんよ?」
「エリオン助手。違うの、はぁっはぁっ、卵!」
 何とか最低限の単語を並べたものの、ついにクルクの足腰と肺は限界に達してしまい、ずるずると身体が下がっていった。
「卵が、どうかしたんですか? おや、ゆで卵かな」
 カウンター越しにエリオンのつぶやきが聞こえる。耳元やこめかみまでが激しい鼓動に襲われているので聞き取りにくいが、クルクは聴覚を研ぎ澄まし、相手の単語を拾うように務めた。
 その横顔が、目に見えて青ざめてゆく。
 単に走った疲れではなく、指先まで小刻みに震えている。
 根は元気で活発な彼女には珍しく、絶望的な表情だ。

 エリオン助手は、確かに、こう言ったのだった。
「卵スープの卵はもう足りてますけどね。
 あれっ? この卵、ゆで卵じゃなかったの?
 殻に入ったヒビから白い部分が見えていたから。
 固まった白身じゃないとすると、こりゃ何だ?
 殻の向こう側も……殻? 二重の殻じゃないですか!

(続きは凍結)
 


 11月29日○ 


[たまご(2)]

 斜めに射し込んでくる眩しい光で、クルクはゆっくりと瞳を開いた。精巧な人形を彷彿とさせる長い睫毛の一本一本が上昇していく。キィーという空を裂くような渡り鳥の鳴き声が、はるか彼方から流れてくる。レルアス村は開墾されているが、周囲は依然として荒れ地であり、雀や鳩といった普通の鳥は多く見られない。事実上、レルアス村しか集落はないポシミア連邦のレルアス自治州は、政治的な意図で生まれたダミーの州である。
「ん……うーんっ」
 クルクは上半身を起こし、大きく伸びをした。昨日の昼間はずっと座りっぱなしで服を編み、さらに夜の〈定期召喚会〉でかなりの精神力を摩耗したためか、どうも身体までだるく感じる。
 それでもどうにかベッドから這い出し、窓を開ける。待ってましたとばかり、乾いた朝の空気が小さな部屋に乗り込んでくる。
 クルクは窓から思いきり首を出して空をあおぎ、雲の様子をざっと眺めた。それを記録するのがクルクの大事な仕事である。
「雲量は一と。薄い雲の群れが、すっご〜く高いところに掛かってるけど、おおむね青空かな。まさに天空の力の水色、と」
 窓辺に置いてある記録帳を取ろうと視線を下げた時だった。

「え?」

 彼女は幻を見たのかと思い、服の裾で反射的に目をこする。
 そして次に、自らの記憶をたどった。
「誰かにもらったんだっけ?」
 ――いや、そんなことはない。
 手のひらに収まる白くて楕円形の球が、横たわっている。
 命を培い、全ての始まりを司る、目に見える最も単純な形。

「たまご?」
 クルクは呟いた。

 そして、それの正体を確かめようと、出したり引っ込めたりしつつも、結局おそるおそる右手を差し伸ばしていった。ごくありふれて見える突然現れた一つの卵は、ありふれているのにも関わらず、何か心の深淵を揺さぶる言いようのない直感的な恐怖を感じさせた。それでも彼女の好奇心の方が打ち克ったのだ。

 その硬い殻に振れた瞬間、クルクの指先に電撃が走る。
「ひゃっ!」

 こんなに冷たい卵に触れたことは、かつて無かった。電撃だと思ったのは、外界を拒む力と冷酷さとが掛け合わされた、やり場のない憤りであった。生命の象徴であるはずの卵の意味を魔の鏡に映したかのような、それは異様な物体だったのだ。
 さっきまでの不安の予感が現実となり、クルクの二の腕と背中に鳥肌が立った。幸い、ここにはレルアス女史を始めとする魔法研究家が数多く揃っている。クルクの決断は迅速だった。
 降って湧いた大きな問題を、一人で抱え込む必要はない。
「誰かに相談しよう」
 そうは決まったものの、次の行動をどうするか悩みに悩む。
 出来れば相談相手を呼びたいが、その間、卵を部屋に置きっ放すのは怖いし、万が一、消えてしまったら面倒な事になる。
 クルクは唾をごくりと飲み込み、勇気を振り絞った。
 瞳をぎゅっと閉じ、腰を引きつつ、慎重に腕を伸ばしてゆく。
 心臓が壊れそうなほど、鼓動は高鳴り、こめかみが痛い。

 指先で触れてみると、意外にもさっきほど冷たくなかった。
 今とばかりに目を開けて、右手でしっかりつつむように例の卵を持ち、左でドアを開け、クルクは大急ぎで部屋を飛び出した。

(続く)
 


 11月28日○ 


[たまご(1)]

 ポシミア連邦共和国の内陸に分け入り、中央山脈にほど近い荒れ果てた土漠の果てに、秘境レルアス村がある。数ある魔法の系列の中でも格段に難しいとされる、精霊界からの精霊の召喚を目指す〈月光術〉を扱う魔法使いがここに集結し、老いも若きも修行と実践に励んでいる。特に月光の力が強まる望月の晩には〈定期召喚会〉が催され、二百余人の中から選ばれた十数人の弟子たちと力を合わせ、世界的な〈月光術〉の権威である三十八歳のレルアス女史が特別な上級魔法に挑戦する。

 今月の〈定期召喚会〉が果てた漆黒の夜更け。圧倒的な静寂の粒子は濃密に充ちている。ランプの炎を吹き消し、冷え切ったベッドに手探りで滑り込み、頭まですっぽり毛布をかぶってから、レルアスの弟子の中で最年少のクルクは溜め息をついた。
「……何も起こらなかったなぁ」
 その口調は安らぎと落胆とを含んでいる。

 いつもいつも月光術が成功するとは限らない。成功するどころか、何も起こらないのはマシな方だ。失敗すれば悪霊を呼び出す可能性も否定できず、常に危険と隣り合わせ――しかしながらその種の恐怖は、彼らの〈月光術〉の体系的な解明を目指す夢を潰すどころか、内なる執念の炎を増幅させるのみだった。

 若いクルクには、そこまでの目的意識はない。両親を失くし、身寄りがなくなったため、やむを得ずレルアス村に出奔したのが始まりだ。レルアス女史は、自らの研究に賛同して協力を惜しまず、なおかつ昼間は農業に従事する自給自足の生活に耐えうる者ならば、誰でも受け容れると噂で聞いたからだった。
 何だか面白そうな〈月光術〉の研究にも惹かれた。一度入ってしまえば、世界のバランスを壊しかねない重要な情報の流出を防ぐために、もはや普通の世界には戻れないことも覚悟の上だった――幼いクルクには、他に頼れるものが無かったから。
 運を天に任せ、無謀すぎる賭けに出る。単身、土漠に立ち向かったのだ。奇跡的に獣には襲われなかったが、何日も歩いたあげく水と食料が底をついた。痩せ細り、朦朧とする意識の中、彼女は自分の身体が己れの所有物でなくなる感覚を味わう。

 気がつくと、クルクは見たこともない奇妙な魔法陣に横たわっていた。それは満月の晩で、レルアス女史らは〈定期召喚会〉を実施していた。どういうズレがあったのか未だに分からぬが、その晩は精霊の代わりにクルクが召喚されてしまったのだった――敢えて言うなら、彼女はレルアス村に〈選ばれた〉のだ。
 彼女は救われた。手厚い看護で体重も元通りに回復し、元気になった。そして〈月光術師〉になることを志願したのだった。

 将来有望な少女を秘境の魔法使いとして育てることに対し、レルアス女史には強い抵抗があったようで、全く認めない。異例の馬車を仕立て、まともな規模の集落があるキルタン村まで送り返そうとするが、クルクは強硬に反発して一歩も引かぬ。
 あどけなさと健気さと生命力に打たれ、ついにレルアスは折れた。その日から孤児は村の最年少の構成員になったのだ。

(最初の頃、農業の手伝いで、手をマメだらけにしたっけ……)
 そんなことを考えながら、クルクは深い眠りに堕ちていった。

(続く)
 


 11月27日− 


[寒くて熱い町 〜吟遊詩人のおはなし〜]

 私がかつて訪れた中でも、ずば抜けて奇妙な町でした。町のあちらこちらに氷のかけらが散らばっていました。時たま、とてつもない音を立てて、氷の固まりが空から降ってくるのです。
 町の人たちは、とっくに慣れっこになっていたようでした。

「危ない!」

 真っ赤な杖をついた初老の紳士が声をかけてくれなければ、氷の刃はものすごい速さで、私の頭を貫いていたことでしょう。
 私は間一髪、避けることが出来ました。何十枚ものガラスを一度に割ったような音が響いて、威勢良く氷が飛び散りました。
「どうもありがとうございます」
 私がお礼を言うと、紳士は持っていた杖を掲げ、開きました。
 それは単なる杖ではなく、実は真っ赤な傘だったのです。派手だなあと思って見ていると、私はさらに驚いてしましました。

 赤いと思っていたのは、熱く燃えさかる炎だったのです!

 どおりで、私が毛皮のコートに身をつつんで震えているのに、紳士は紺の薄い生地の開襟シャツと、涼しげな白いズボンを履いているわけです。気温は真冬のように冷えるのに、紳士といったら夏の終わりか秋の初めごろの格好だったのですから。
 周りを見渡せば、それは紳士だけではありませんでした。元気な子供たち、お腹の大きな中年女性、仲むつまじい若い男女に至るまで、みな炎の傘をさしていたのです。傘をさせない猫たちが、ふさふさで長い冬支度の毛だったのと対照的でした。

 あっけにとられて私が辺りの様子を眺めていると、いつの間にかそばに近づいてきていた紳士が、低い声でこう言いました。
「準備がなけりゃ、おちおち歩けんぞ。死にたくなけりゃ、ミオ魔法商会の炎の傘を買うんじゃな。それか、ここを立ち去るかだ」
「ミオ魔法商会?」
 訊ねると、紳士は私の耳に口を寄せ、さも憎々しそうに――だけれど決して周りに洩れない囁き声で、注意深く答えました。
「この町の空を冷やして、雲を凍りつかせた守銭奴たちじゃ」

 そうか。落ちてくる白っぽい氷は、空に浮かぶ雲だったのか。
 私は納得しましたが、同時に腹立たしくなりました。とても危険な氷の固まりを降らせて、無駄な炎の傘を買わせるとは、何ともひどい話だとは思いませんか。抵抗できない町の人や農家の人から、なけなしのお金を取るなんて、ゆゆしき事態です。
 そして、私はそういう話を聞くと、たとえ自分と関係なくても、面白い悪戯や仕返しがしたくなる性分なのです。吟遊詩人という流れ者の身分であるから実行できるのかも知れませんが。

「需要のないところに需要を作る。これが商売の基本だ」
 とのたまい、
「わしがやったという証拠があるのか?」
 と言い張る魔法商会の会長を、どうやって追いつめたか。

 ここからが面白くなってくる所です。まあ皆さん、お茶でも飲んで一息入れて、引き続き私の話を聞いてくれませんか……?
 


 11月26日− 


[姫たちの四季(序論)]

 伝統ある由緒正しき名家の令嬢から、新興下級貴族の末娘に至るまで、ルデリア世界には無数の姫が存在する。君主制の国家が多く、貴族階級が各地で勢力を誇っているためだ。

 夜空の星はたくさんあるが、強い光を放つのはほんの一握りだ。それと同様、歴史の狭間に埋もれる無名の姫が五万といれば、一方で世界中の誰にも知られる〈選ばれし者〉もいる。
 当代、何かと噂の的となり、今後の動静が注目されるのが〈四季の姫〉あるいは〈四方の姫〉と呼ばれる女性たちである。
 後者の〈四方の姫〉は出身国の位置に由来する。ただ、より一般的な呼称は前者の〈四季の姫〉で、彼女らの誕生日に合っているし、それぞれの雰囲気を言い得て妙――とされている。

 まずは、それぞれのプロフィールを比較・検討してみよう。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

◎クリス・シャムール公女 《春》
 東方、シャムル公国の第一公女。ザーン族、二十一歳。
 五月十二日生まれ。シャムル町在住。
 参考→『幻想断片 〜2002年 8月31日〜』

◎ララシャ・ミザリア王女 《夏》
 南方、ミザリア国の第一王女。ザーン族、十五歳。
 七月十七日生まれ。ミザリア市在住。
 参考→『おてんば大騒動!』

◎シルリナ・ラディアベルク王女 《秋》
 北方、メラロール王国の第一王女。ノーン族、十八歳。
 九月三日生まれ。メラロール市在住。
 参考→『幻想断片 〜2002年 2月20日〜』
    『幻想断片 〜2001年12月25日〜』

◎リリア・マホイシュタット皇女 《冬》
 西方、マホジール帝国の第一皇女。ウエスタル族、十五歳。
 五月二十九日生まれ。マホジール町在住。
 参考→『幻想断片 〜2002年 8月14日〜』

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 リリア皇女は実際には初夏の生まれなのにも関わらず、その物静かで内に秘めた性格と、しんしんと降り積もる粉雪のように透き通った白い肌、彼女が背負っている斜陽のマホジール帝国や枯木の森のイメージから〈冬の姫〉と呼ばれるに至った。

 一方、魅惑のシャムル島に生まれ育った〈春の姫〉クリス公女は明るく活動的、しかも先進的な考え方の持ち主である。庶民的な振る舞いや、常識的で率直な発言が受けているようだ。

 臣民の人気で負けず劣らぬのは〈秋の姫〉シルリナ王女だ。物事を的確に捉えることの出来る知的で冷徹な思考回路を持ち、政治的な実務能力に長けている。容姿は見目麗しい――かつての可愛らしい少女は、成長を重ねるたびに美しくなる。
 十八歳にして、すでに国内の社交界を先導する活躍をし、国際的に重要な会議にも出席した。公務に多忙な日々を過ごす中でも読書を惜しまぬ努力家でもある。王女の従姉妹で、無二の親友でもあるレリザ公女が、良い引き立て役となっている。

 対照的なのは〈夏の姫〉ララシャ王女。おてんば、わがまま、乱暴という評価が付いて回り、筋肉を鍛えて闘うことが好きな前代未聞の姫だが、そんな彼女でも兄のレゼル王子には弱いようである。相手の身分に関係なく、心からの友達になった者には、真の優しさや少女らしい一面を見せることもあるようだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 この四人の姫に次いで有名なのは、先に述べたガルア公国のレリザ公女(シルリナ王女の従姉妹)や、リース公国のリィナ公女、エスティア家のルーユ嬢、クルズベルク家のティルミナ嬢などだが、存在感ではやはり〈四季の姫〉に及ぶべくもない。

 ルデリア世界の鍵を握る〈四季の姫〉が、今後どのように成長し、どのような運命の変転を遂げるのかは、未来の重いヴェールにつつまれている。そのゆくえは、まだ誰も知らない――。
 


 11月25日− 


[小さな島の大きな町の、小さな小さな秋の終わりに]

 海岸通りに出ると、幼い頃から馴染んできた濃い潮の香りが鼻をつき、口の中で塩味となって甦った。昼の海風から夜の陸風にかけての微かな空気のささやきが、彼女の頬の産毛を撫でて行き来する。それは地面から溶け出した夜の精霊だった。
 草履で一歩を踏み出すたびに白い砂が崩れて、足の指の隙間を滑り、爽やかな音を立てた。珍しく後ろで束ねた長くもない髪が、ねずみの尻尾のようにリズムを取って上下に揺れている。その黄金のひと房は、夕陽の最後の残滓を浴びて、ちらちら星くずのように瞬いた。見上げると、何にも邪魔されない広々とした夜空の舞台には、本物の星たちが姿を現し始めている。
 出来たての肉だんごを彷彿とさせる彼女の後ろ髪の、その快活な動きがわずかに大きくなった。疲れていたはずの帰り道なのに、いつもと違う海辺の遠回りをしたら元気が湧いてきて、足取りも軽くなったのだった。典型的な海の民、ザーン族である。
「うーんっ」
 立ち止まって空に腕を伸ばし、つま先立ちしたまま息を吐き出せば、新鮮な思いが爪の先まで、心の奥底まで充たしていく。
 最高に贅沢な瞬間だよ――彼女はそんな思いにかられた。

 明日は仕事が休みで、久しぶりの息抜きが楽しめる。あの店の新作のケーキも食べたいし冬物の洋服も買いたい。何より、なかなか会えないでいる友達と、くだらないおしゃべりを交わしたい――やりたいことが次から次へと浮かんでは消えてゆく。
「だいぶ短くなったんだなぁ」
 昼間は日を追うごとに短くなり、その分を補うかのように足元の影は細く長く伸びている。海はとっぷりと藍色に暮れ、普段はあっけらかんとしている椰子の木のシルエットが不思議なほど繊細に見える。一年を通して気温が高く、カラっとしていてもやはり厳しい暑さと、全てを叩きつける激しい降雨で知られるミザリア市にも、乾いた冬の前の短い秋を感じることが出来る。
 ちょうど今ごろの季節、凪の夕べ――この国に紅葉はないけれど、空の紅葉ならば、どこにだって負けない自信があった。

 彼女はミザリア国で唯一の国立学院の魔術科を中くらいの成績で卒業し、今は商人になるため下積み修行を重ねている。
 小柄で、目鼻立ちはとりたてて特徴のない、ごく平凡な十八歳のザーン族の女性である。だが、その柔らかな視線の中に宿る一途な意志の力――夢に向かう努力のカケラ、とでも言おうか――が印象的だ。それらは強烈なイメージではなく、むしろ彼女の身の丈に合った控えめなものだが、決して友を裏切らない、信頼のおける彼女の人柄が滲み出ていて好感が持てる。
 遠浅の海岸線は秘密を隠して闇を映し、昼の熱気はいつしか失われて、すがすがしい夜の内側へと移り変わっていった。
 革製のきんちゃく袋を小脇に抱え、家を目指しつつ遠回りをしながら、彼女は気ままな散歩を続けた――おなかがすくまで。
 そして限りなく自由な気分を味わいつつ。

 彼女の名前は、ウピ・ナタリアルという。
 


 11月24日△ 


[クル山]
 地図→『ルデリア大陸・北東部』

 ガルア湖はルデリア世界で最も大きい湖沼で、しかも現在までに確認されている湖沼の中では最も高い場所に位置する。大陸を縦断する中央山脈が唯一、途切れている地点であり、メラロール王国とガルア公国、ひいては大陸西部と大陸東部を結ぶ重要な交通路でもある。その周囲は深い原生林に覆われており、一歩踏み込めば、そこは獣たちの支配する王国である。

 最も高い場所にある湖であることは冒頭に述べた。そのガルア湖を遙かに見下ろす場所がある。かつてこの地を治めたガルア帝国で、ガルア湖と並ぶ国のシンボルとなっていた世界最高峰――敢えてメートル法に換算するなら海抜7,240m――の、霊峰〈クル山〉である。この数字は、滅亡した古代魔法帝国の辞書に載っていたものであり、今のルデリアの住人にそれを計測するだけの技術はない。まして山頂を極めるのは絶対的に不可能な、文字通り前人未踏の切り立った岩山なのである。

 見上げると、半分から上は万年雪が積もっているのか、白く輝いている。おそらく氷河もあることだろう。最上部の一〜二割にはいつも雲がかかっており、決してその頭を現そうとしない。
 鋭利な刃物の先端部を連想させる幾つもの嶺はアンバランスで、今にも倒れてきそうな恐怖感を見る者に与える。しかも上の方に行けば行くほど、尖っているのだ。この山を征したいと望む命知らずでさえも、実際に見た段階で諦めるのが殆どである。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 こういう山であるから、人々は畏敬と畏怖の念を覚え、強く崇めてきた。当然の結末として色々な伝説が生まれる。その中には本物とおぼしき逸話もあれば、吟遊詩人の作り話、また世界的に浸透するラニモス教を側面支援する宗教的な神話もある。
 ラニモス教の神話では、クル山は地上界から天上界への重要な通路として扱われている。あまりにも峻険で、気候も厳しい山のため、神殿などは存在しない。ガルア河の上流地域ではどこに行っても視界に入るクル山自体が、人々の踏み込むことの出来ない巨大な神殿と化している。なお霊峰崇拝の拠点はエルン町に置かれており、巡礼の神官や旅人は少なくない。

 それはそれとして、クル山にまつわる最も有名な伝説はというと、クル洞とリーマ仙人に関するものであろう。クル山の麓、あるいは中腹にクル洞という地の底まで続く穴があり、ひどく年老いてはいるが神に次いで聡明なリーマ仙人が世界の研究をしている――という類の話だ。クル洞と思われる謎の洞窟については実際に幾つもの目撃談・報告例があるが、生還者は一様にして洞窟に辿り着いてからの記憶を失くしており、気がつくとガルア湖のほとりに戻っていた点で共通している。これがクル洞とリーマ仙人の存在がまことしやかに囁かれる理由である。

 百人を超える古代人の強力な魔力によって厳重に封印され、現在は魔術ギルド本部の最深部で徹底的な管理がなされている巨大火炎魔法〈ドカリーマ〉は、リーマ仙人が編み出した強化魔法の一つと伝えられており、破壊や滅亡のシンボルである。
 ただ、リーマ仙人自体は聖でもなく悪でもなく、永遠の中立者として捉えられている。リーマ仙人の知識は、使う者によって良くもなれば悪くもなる、というのが一般的な考え方だ。クル山という鬼門は、天上界へ繋がる神秘的な場所の反面、クル洞という邪悪と冥界を感じさせるものをも具有している二面性が、リーマ仙人の伝説の形成に少なからず影響を与えたのだろう。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 なおガルア湖の北東部とクル山は、現在、ガルア帝国のなれの果てであるルディア自治領に属している。最後の皇帝ヒュール氏のもとに、知将アテニア、魔将ジェノフ、勇将ライムログという三将軍が集結し、水面下で何やら不穏な動きも見られる。
 


 11月23日− 


 トン、トン。
 窓が音を立てる。
 北風かと思って、黒髪の少女が顔を上げると……。

「あれっ。ピロ?」

 窓の外に留まっている白いインコを見つけ、本を読んでいたレイベルは毛布を放って立ち上がった。すぐ窓を開けると、同時に氷の針のように冷えきった空気が顔や首筋に染み入ってくる。
 ピロは少し首をかしげ、それからブルブルと身体を左右に振って雫を飛ばし、それから迷わずレイベルの部屋に飛んできた。
 彼女の手の甲の上にきちんと着地し、小鳥は羽を閉じた――そしてレイベルは窓を閉じた。鋭利な奔流はやみ、遠ざかる。
「かわいそうに、こんなに濡れて。居間で乾かそうね」
「ぴゅぃー」
 小さな鳥はレイベルを見上げ、弱々しく返事をした。彼女の手に乗せている両足のそれぞれの四本指はひどく冷たかった。

 重いみぞれが降ると日中でも薄暗く、北のナルダ村に寒さはしんしんと存在感を増し、透明な花の根を張っていた。レイベルの部屋は二階で、暖炉はない。勉強をしている時は寒い方が頭が冴えると、敢えて毛布にくるまり、籠もっていたのだった。
 ピロを華奢な肩に乗せ替え、レイベルは部屋を出て、階段を下る。ところどころ碧がかったピロの真っ白な羽毛と、レイベルの麗しく長いぬばたまの髪は実に対照的だったが、灰色の空の下で、それらの本来の境界線はずっと曖昧になっていた。

「みぞれの中、私を訪ねてくるなんて、どうしたの?」
 暖炉の前の椅子に腰掛け、レイベルはピロに訊ねた。部屋の隅ではあかあかと暖炉の炎が、永遠の聖守護神のように燃えさかっている。頬が、耳が、足の先が……冷え切っていた部分が徐々にあったまり、レイベルは毛皮の上着を一枚脱いで、きちんと畳んだ。部屋の隅では、レイベルの母の村長夫人が編み物をしている。父親であるナルダ村の村長は河の水の権利をめぐる交渉のため、隣村まで出かけていた。静かな部屋の中では、隠されていた物音が良く聞こえる。木の床のきしみ、炎の精霊が弾ける音、みんなの息づかい、ゆったりとした鼓動。

 単なる温度だけではなく、この部屋に漂う優しさにつつまれ、ピロはうとうと船を漕いでいた。ずぶ濡れになり、ほっておけば悪性の風邪をひいたかも知れぬが、もうすっかり乾いている。
 ピロは、レイベルの一番の親友で学舎の同級生、魔法使いの卵のナンナが飼っているインコである。呼びかけられた彼は目をさまし、右足を上げて顔のあたりをせわしなく拭いてから、
「ぴろっ!」
 と、お決まりの返事をする。村長夫人は思わず手を休めた。
「あらまあ、賢い鳥だこと」
「うん。ピロはとても頭がいいのよ」
 レイベルは飼い主の親友の代わりに胸を張り、得意げに語った。魔法使いの手足となり、力を発揮する〈使い魔〉であるピロは、普通の鳥以上に人の言葉や気持ちが分かるようだった。
 微笑む母と反対に、突然レイベルは沈んだ表情になった。発せられた声は、自分の想像が物事をもっと悪い方向に進めないかを危惧したかのように、とても密やかで、そして慎重だった。
「もしかして……ナンナちゃんに何かあったの?」
「ぴろっ!」
 ピロの言い方はさっきと同じように聞こえた。が、その響きの奥底に一抹の〈不安〉が見え隠れするのを的確に感じ取った。

 レイベルの決心は早かった――上着を着つつ、立ち上がる。
「わたし、ナンナちゃんの所に出かけてくるね」
「あら、こんな寒い日に? 小鳥ちゃんはどうするの?」
 至極当然な母の問いに、レイベルは明るく応じた。
「ピロも連れて行くわ。毛布を詰めた箱に入れて、ね」

 箱詰めされる事に対しピロは最大級の抵抗を見せたが、結局は折れて大人しくなった。少しの辛抱だと観念したのだろう。
 やがて少女と小鳥は、みぞれの懐に飛び込んだのだ――。

ピロ氏
 


 11月22日△ 


[こころと作品 〜思・憩・想〜]

「秋の葉、木の葉、黄色の葉。
  赤い葉、手の葉、もみじの葉」

 幼い頃に祖母から教わった唄を口ずさみ、サンゴーンはイラッサ町のメインストリートを歩いていた。メインストリートとは言っても、小さな町のことだから華美ではない。だが、この町のささやか加減とまとまり具合が、彼女にはとても合っているのだ。
「レフキルは『身の丈に合ってる』って言ってましたの」
 親友のレフキルは実務的な常識家、ボーイッシュな感じも漂っている商人の卵である。着実に夢を叶えつつある友と比較すると、草木の神者を継承しているにも関わらず何の目標もなしに日々を過ごしている自分が、とてもみすぼらしく思えてくる。
「サンゴーンには何ができるんですの?」
 風に聞いてみても、何のいらえもない。もし祖母が存命であれば、何と言ってくれたのだろうか。彼女は思い出をかき集める。

 サンゴーンや。
 お前は苦手なことがたくさんあるじゃろう。
 逆に言えば、それだけ可能性があるんじゃ。
 お前がやろうと思ったこと、それができることじゃ。


 サンゴーンは、自らの内側に語りかけてきた祖母サンローンの声に心底驚いてしまい、その場に立ち止まり、呆然とした。
 生きていた頃のサンローンから、そんなことを聞かされた憶えはない。だけれど祖母の声は確かにそう語ったのであった。
「おばあちゃん……」
 町中ということも忘れ、サンゴーンは涙声で訊ねた。
 しかし、いくら世界に名を残す偉大な草木の神者だったとはいえ、もはやサンローンがこの世のどこを探しても見つからぬことを、孫娘のサンゴーンほど知っている人間はいないのである。
 サンゴーンの心の中で、未完成の祖母は表情を緩めた。
(おばあちゃんのかけらが、私の中で新しくなったんですの?)
 祖母は死んだ。だが、祖母はサンゴーンの中で像を結び、本物の祖母とは違うけれど、ある意味では本物以上に本物である祖母を作り上げたのである。それは送り手と受け手、送り手の遺した情報と受け手の想像力とによって生まれた建設的な文化行為であった。独自の魂が宿っていた頃の祖母とは変質しているが、サンゴーンにとってはそれが本物の解釈なのだ。
 個性のぶんだけ、つまり祖母の思い出を受け取った人間の数だけ、祖母はそれぞれの進化を遂げてゆく。その変化の度合が大きいほど、サンローンの生涯は深かったのではなかろうか。

 秋の涼しさは閃きを呼び起こす。サンゴーンは独りごちた。
「わかったですの」
 サンゴーンの目標は、夢は、おばあちゃんなんですわ。
 だけど、それはサンゴーンなりの、おばあちゃんですの。

 地道に取り組めば、必ず後から評価してくれる人も増えるだろう。今だって、レフキルのような素晴らしい親友がいる。といっても、評価が欲しいためではなく――自分の生きた証のために。

 サンゴーンは心穏やかになり、ゆっくりと歩きだした。
 黄色や赤に変わった森って、どんなだろうと想像しながら。
 彼女が住んでいるのは、照葉樹しか生息しない南国だから。
 


 11月21日− 


[七力研究所の近況(後編)]

「火炎の力で水が蒸発し、天空の成分と混じり合って雲が生成される。その雲から雨が生まれ、再び海に注ぐ。その繰り返しじゃ。完璧な理論。わしは……わしは、なんと賢いのじゃろう!」
 山の中腹にある古びた小さな研究室で、樫(かし)の木の椅子に腰掛け、研究生活四十年・現在五十四歳、白髪混じりのカーダ博士は思いきりふんぞり返った。その眼鏡がずれてゆく。
「あわわわ」
 後ろへ重心をかけすぎて椅子ごと倒れ、大音響を立てる。

「いつも理論は完璧のはずなんですがねぇ……」
 その頃、テッテはぶつくさ言いながら火口箱と火打ち金を用意していた。さすがにいつもやっていることなので、慣れた手つきで火打ち金をこすり合わせ、刹那のきらめきを掬い取った。
「よいせ、っと」
 そうして生まれたばかりの火の粉を保護し、燃え易い藁くずに移して大切に育てる。確固たる存在にしてから、いよいよ実験器具の足元に積み重ねてある枝に近づけ、内側で解放する。
 弱い風にあおられ、上手い具合に枝はパチパチ音を立て始め、煙で瞳がしみる。テッテはカーダ博士に報告するため、やむを得ず魔法通信を使うことにした。精神力には限度があるため、電話のような〈相互伝達魔法・クィザロアム〉を使うのは控え、一方的に自分の声を飛ばす〈伝言魔法〉を使うことにする。

「ψ∫ιщяoaζ……音の精霊よ。
 私の声をあの人のもとに届け給え。クィザーフ!」

 カーダ氏は後頭部を撫でながら起きあがった。眼鏡を拾って憮然とした顔で椅子を立て直していると弟子から報告が来る。
『あ、ええと、無事に火がつきました。弱火を維持しています』
「よし。そのまま続けるんじゃ」
 カーダ氏も同じ魔法で応答する。
 根っからの研究人であるカーダ氏は、実験や研究に打ち込むと、くだらぬ怒りは一時的に頭の中から消えてしまうのだった。
 そして弟子からの二度目の実験報告は氏を喜ばせた。
『瓶は暖まり、かなり曇ってきました。特に瓶の上の方、つまり天空の素が散りばめてある付近が最も濃度が高いようです』
 椅子の上であぐらをかき、腕組みし、老博士はうなずく。
「よし、よし。予想通り雲が出来るんじゃな。じきに雨が……」
 今か今かと次なる報告を待ちわび、カーダ氏はしきりに貧乏揺すりを繰り返す。いつも実験の度に落ち着きなく足先を動かすので、博士の特等席付近の床板だけが大きく沈んでいる。
「遅いわい、遅いわい、何をしておるんじゃ奴は!」
 博士が堪忍袋の緒を切り、怒鳴り声を送信しようとした直前。良いタイミングで、若い弟子の弱々しい声が耳元で響いた。
『あの……遅れましてすみません。ええとですね、困ったことが起きました。瓶全体が曇り、水滴が付着したところまで順調だったのですが、瓶の下の方が、なぜか赤くなってきました』
「何じゃと!」
 カーダ氏の頭の中で、瞬時に七力の計算が行われる。
 彼の予定では、焚火によって氷水の力が負けて蒸発し、天空の力と化合して雲となり、さらには雨となって、再び注ぐはずだった。上手く調整すれば蒸発量と降雨量が同じになり、自然界では普通に行われている水の循環が実現するはずだった。
 ただ、弟子の言葉を信じるならば、瓶の中に火炎の力が誕生したことになる。氷水と天空だけで循環する予定だった瓶の中の世界に、情熱の赤い火炎の力が紛れ込んでしまったのだ。
 火があまりにも強ければ、対立する氷水のエネルギーは消滅する。ついには供給の止まぬ火炎の力が天をも焦がすだろう。

 テッテの方はというと、少し危険を感じつつも、ぐつぐつと煮えたぎるガラス瓶を一心に観察していた。焚火は盛んに燃え、ガラス瓶は今やトマトジュースのように赤く染まりつつある。
 その時、にわか作りの実験装置の柱となっている太い木の枝の一本が傾いたので、土の中に深く突き刺して直そうとする。

「あっ」
 テッテの表情が凍りついた。
 枝は倒れ、例のガラス瓶が火の中に落ちたのだ。
 たちまち瓶は恋する少女のごとく真っ赤に染まった。

「こ、これは……」
 今までの失敗の経験から、物事の危険なタイミングは嫌と言うほど分かるようになったテッテは、考える以前に身体が反射的に動いていた。防護のため頭を抱え、その場所を大急ぎで逃げ出したのである。それでも伝達魔法の呪文を唱え、師匠への報告の義務は何とか果たしたのは、ある意味で立派だった。

『ぎゃああ!』
「どうした!」
 爆発音とともに、弟子からの魔法通信は途切れる。
「馬鹿もん、最後まで様子を見るんじゃ……」
 精一杯の強がりはフェードアウトし、消えていった。

 その日の夕暮れ。七力研究所から最も近い都市であるデリシ町は、全てが溶けるような深い秋の夕暮れを迎えつつあった。
 雲をも染めあげ、いつもよりも赤みが強く、恐ろしいほど美しい空を見上げて、学舎に通うリュアは素朴な感想をつぶやいた。
「空が燃えてるね」
「すっごいなぁ」
 その隣で、同級生で親友のジーナも目を丸くしていた。
 二人は太陽が沈んでしまうまで、砂浜に立ちつくしていた。

(おわり)
 


 11月20日− 


[七力研究所の近況(中編)]

 だが、テッテの呼びかけ虚しく、相手から聞こえてきたのは、遠い山から響いてくる獣の咆吼のような低いイビキと、歯ぎしりであった。どうやらカーダ博士は待ちくたびれて眠ったらしい。
「師匠、師匠、起きて下さい」
 弱り顔で魔法通信を飛ばし続けるが、押しが弱いためか老人の反応はいまいちである。ただでさえ馴れない作業で疲れているのに、これ以上、余計な精神力を浪費するのはさすがに辛いと感じ、テッテは怒鳴られるのを覚悟で捨て身の賭けに出た。
「わあっ!」
 出来る限りの大声を出し、一方的に通信を切断したのだ。

 今度は心の準備が出来ている。テッテは少しずつ確実に夕方へ進んでゆく丘の上に腰を下ろし、相手からの反応をじっと待った。風通しが良いため吊されているガラス瓶が揺れ動き、時折、森のこずえは思い出したようにサラサラと唄っている。
 かっきり三十回、心の中で数えた時、それは唐突に始まる。
『ふぁ……ゲホッ。いつまでかかっとるんじゃ、このたわけが! 夢幻の力の研究をしていたから良かったようなものの……』
 カーダ氏は伝達魔術を通し、あくびをかみ殺した声で繰り返した。〈夢幻の研究〉とは要するに居眠りのことだが、経験上、テッテは敢えて深入りせず、相手をなだめつつ話を進めていく。
「済みません。それで、次のご指示は何でしょう?」
『そうじゃそうじゃ、大事な実験前だったわい……』
 ようやく目的を思い出した老博士だったが、そのまま自分の世界に没頭してしまう。これは自信家のカーダ氏の悪い癖だ。誇らしげに語り出し、その饒舌の勢いは留まることを知らぬ。
『今までのわしの研究はどれも負けず劣らぬ一級品だったが、今回は特にすごいわい。昔のものを遙かに凌いでおる。何と言っても、自然の循環を再現する訳じゃからな。これが成功すれば、色々な分野に応用できるじゃろう。いわば重要な転換点となる基礎研究じゃ。高価な薬品を集めた甲斐があったわい』
「ふむふむ……なるほど」
 テッテは別に嫌な顔ひとつせず、師匠の独白に相づちを打っている。研究内容に全幅の信頼は置いていないにせよ、その一方で雇い主の熱意を尊敬していたのも事実なのである。
 それに、今度は向こうから届いた魔法通信なので応えるのは楽であった。カーダ氏の方が逆に疲労感を覚える結果となる。
『ウオッホン。とにかく火をつけるんじゃ。いきなり猛烈に燃やすんでないぞ。弱火で、じっくりと瓶の中を沸騰させる。その沸騰した様子を観察し、逐一、洩らさずに報告するんじゃ。良いな』
「わ、わかりました。精一杯、やらせて頂きます!」
 テッテが応える直前、カーダ老からの通信は切られてしまう。発せられた声は行き場を失くし、自分の耳に虚しく届いた。
「ふぅ」
 緊張感が緩み、小さな溜め息をつく。肩の力を抜き、左右に首を動かす。それから彼は両腕を上げて、大きく伸びをした。

(続く)
 


 11月19日○ 


[七力研究所の近況(前編)]
 関連作品→『虹の作り方』『空の後ろで』

 円筒形の密閉された透明なガラス瓶は、成人男性の手のひらを広げたくらいの大きさである。その中には、絵の具を溶かしたように鮮やかな青い水が半分ほど充たされており、瓶の上方にはタバコの煙に似た水色の気体が絶えずうごめいている。
 以前、爆発事故を起こした影響で地肌が露わになっている丘の上で、二十四歳の冴えない青年は実験の準備をしていた。
 彼はデリシ町出身のザーン族、名をテッテという。カーダ氏の運営する〈七力研究所〉の記念すべき四千人目の研究員であり、目下、ここの最長勤務記録を更新中の奇特な青年である。

 町の雑貨屋で購入した簡素な木のスコップで二つの穴を掘り、森で拾った真新しくて頑丈そうな太い木の枝をそれぞれ埋める。左右に動かしてみて簡単には倒れないことを確認する。
 それから二つの枝に錐(キリ)で穴を開けようとするが、やりにくくて仕方がない。そりゃそうだ――埋まっている木の枝に横から錐で穴を開けるなんて、歴戦の職人にとってさえ難しかろう。
『いつまでかかっとるんじゃ。日が暮れてしまうぞい!』
 時折、苛立ちを隠しきれない雇い主のカーダ博士から風の魔法通信が届く。耳元で響く怒鳴り声に、彼は思わず手のひらに錐を刺してしまい、相手の罵りの音量に負けぬ悲鳴をあげた。
「ぎゃあぁ! いちちちち……」
 情けない様子が、もともと短気なカーダ氏のさらなる怒りを買ったのは想像に難くない。それでも落ち込まないのがテッテの良いところで、彼はあくまでもマイペースに作業を再開する。
『なぜ、わしの弟子は、こうも出来が悪いのじゃろう……』
 呆れて、ぶつぶつ呟いている師匠の小言も、馴れたものだ。

 テッテは手順の悪さを反省し、結局は枝を掘り返して横向きに置き、不器用な手つきで錐を動かした。狙った場所が悪く、思うように進まない。それでも無理矢理のごり押しで二本の枝の上部に穴を貫通させ、茶色の大地へ丁寧に埋め戻した。
 次は、あらかじめ持ってきて置いた綱を枝先の穴に通そうと思ったのだが、肝心の綱が見当たらない。地面を触って泥だらけになりながら、ようやく探し当てた頃には、大丈夫だと思っていた枝が一本倒れていたので、立て直し、下の方を塗り固めた。

 穴に綱を通すのは楽だったが、冒頭のガラス瓶を固定するのが、また難儀であった。綱に強力な釣り糸を結びつけ、それを垂らして瓶のふたの小さな取っ手に引っかけるのだ。肩が凝って目が痛くなるほど失敗したあげくに、ようやく成功する。仕上げに乾いた小枝を積み重ね、焚き火が出来るように配置する。

カーダ氏の『雑な』設計図(^^;

 これでカーダ氏の描いた雑な設計図通りに一応の実験設備が完成した。青年は天空魔術の呪文を唱え、通信を飛ばす。
「師匠、こちらテッテです。準備が出来ました」

(続く)
 


 11月18日○ 


    ざくっ。            
       ……。          
              しゅっ。  
     ざくっ。           
                 ……。
             しゅっ。   
        ……。         
      ざくっ。          

 軽やかで、涼しげで、リズミカルな音が、表から響いてくる。
 水滴のたっぷり着いた古い窓ガラスは見るからに重そうだ。

 雲に隠れた冬の太陽の代わりに、部屋の暖炉は火の粉をあげている。薪の山を燃やして崩して灰にして、煤を煙突から吹き出した。その手前にちょこんと置かれている揺り椅子には、木目が不思議な模様を描き、見方によっては誰かの瞳のようだ。
 さっきから微妙に揺れていた茶色の髪の毛が、少しずつこぼれ落ちた。ぞうきんを手にしたまま、安心しきった顔で椅子に腰掛け、少女はまどろんでいる。色白の肌は若く、艶があった。
 食後に訪れる緩やかな眠気の海を、彼女はさっきから彷徨っているが、いよいよ夢の領域へ一歩踏み込んだ。玄関の方から聞こえてくる一定間隔の音――何かに突き刺さる〈ざくっ〉、固まりを落とす〈しゅっ〉――の繰り返しが朝の弱い彼女の芯を溶かし、悠久の大河にゆらゆらと呑まれてゆくのを助長した。
 どこかから出てきた季節はずれの天道虫がを暖炉を周回して舞い飛んでいたが、やがて警戒を緩め、彼女の肩に乗った。
 手の力が抜け、ぞうきんが床に落ちた。彼女は上体を前のめりに倒したままで気づかず、それどころか寝言を呟き始める。
「温泉は……最高、ですよん……」
 彼女の名はファルナ・セレニア、十七歳にしては少し幼い。山奥サミス村で唯一の酒場であり宿屋である〈すずらん亭〉の看板娘だ。傷一つ無い柔らかな頬には、やや赤みがさしていた。

 ざくっ。しゅっ。

 サミス村の雪は、降ったり溶けたりしながらも、確実にかさを増していった。村人は皆、厚い毛皮をまとい、木や鉄のスコップで雪を掘っては、邪魔にならない場所へ積み重ねるのである。
 ここで生きていくには必要不可欠な仕事――冬の間じゅう、ずっと続く重労働だった。積み重ねれば家と同じくらいの壁が出来てしまうほど、サミス村は雪深い地域である。冷たくて湿った空気が中央山脈にぶつかり、あまたの雪を降らせるのだ。

 ファルナが完全に眠りに堕ちてから、やがて表の音はやみ、しばらくしてドアがきしみながら開いた。冷たい風が入り込む隙間を見つけてひしめくが、それはすぐに固く閉じられる。全身を雪まみれにした父と、ファルナの三つ下の妹のシルキアが、二人とも顔を真っ赤にして朝の日課の雪かきから戻ってきた。
 ちょうどその頃、わずかな泊まり客の食事の皿を洗い終えた母が、厨房から戻ってきて酒場を通りかかった。夫とシルキアをねぎらった後、母は掃除中のファルナが寝ていることに気づく。
「あらあら」
「しいっ」
 シルキアは利発そうな顔で、口に手袋の指先を当てた。姉とそっくりの茶色の瞳には、いたずらっぽい光が浮かんでいる。
「おしおきしなきゃ」
 そう小さく呟くと、シルキアは母と父にウインクし、そろりそろりと姉が船を漕いでいる暖炉の脇の揺り椅子へ近づいてゆく。

 ファルナは依然として、無防備に寝息を立てている。
 シルキアは呼吸を整え、両腕をゆっくり掲げ、準備する。

 そして、いきなり。
 凍えるほどの雪をいじって、濡れた手袋をはめたまま――。
 ファルナの麗しのほっぺに押しつけたのだ!

「ひええっ!」
 ぬくい夢から覚め、鼓動を激しく鳴らして、ファルナは文字通り〈椅子から跳ね起き〉た。それから呆然と座り込んでしまう。
「なーに、サボってんの! お姉ちゃん」
 勝ち誇った妹の声が響き、後ろからは両親のくすくす笑いが聞こえる。ファルナは四方八方を見回し、ようやく我に返った。
「あっという間に、温泉が消えちゃったのだっ……」
 ぽつりと洩らした一言が、シルキアの憤りも溶かしてしまう。

 外では氷柱(つらら)の雫が冬の音楽を奏でている。
 鉛色の雲の層は薄くなり、銀の陽が弱い光を撒いていた。
 


 11月17日− 


[折節の収斂、あるいは追憶メモ(6)]

 若い水流の力は休むことなく彼の身体を痛めつけたが、それはいささか強すぎた。完全に押さえつけられた彼は、じわりじわりと戦線を後退し、支え棒に貼り付くような形へと持ち込まれていった。それだけでは飽きたらず、彼の上体を持ち上げてゆく。
 皮肉なことだ。身体を起こすために河へ挑んでいた彼は、今や敵であるはずの水の力を受けて立とうとしていたのである。
 そして風は見ていた。どんな言語が介在したのか――それを知るのは風のみである。とにかく、風は彼らにしか通じない交流の仕方で話し合い、同意の上、一斉に吹くのをやめたのだ。
 次の瞬間、風は溜めた力を結集し、その日で一番強く湖のほとりを駆け抜けた。それは奇跡でも何でもなく、彼の執念が呼び寄せた幸運だった。彼の身体の上半分、空を向いている方が完全に水で濡れていなかったのもチャンスの成就を助けた。
 ふわりと身体が浮く感覚があった。
 スローモーションで、堰の全容が後ろに去ってゆく。
 気がつくと、彼は堰を越え、湖を出た河の動きに乗っていた。ささやかでも、れっきとした一筋の流れである。彼は着実に下流へと歩み始めた。いつしか西の空は、彼がそうだったように、ゆったりと赤く色づき始めていた。溶かした静寂そのものを老舗の職人が薄く塗ったような、透き通り、しかも深い赤だった。
 何事もなかったかのように、黄昏の風は見えない模様を繊細に描く。ボロボロの彼にも、その涼しさは心地よく感じられた。

 彼女はアルバムの時間を進めた。
 八月の最後の日曜日、海を背景に立っている彼女の表情は冴えない。最初に経験した喧嘩から仲直りした直後に撮ったものである。精一杯、楽しそうに装っているのは単なる強がりで、むしろそれは支えのあやふやになった不安さを露呈していた。
 夏の真ん中に最大限まで版図を拡大した二人の小宇宙は、徐々にほころびが見え隠れし始めた。それは左ページの彼女の表情に顕著であった。秋が深まるとともに、つまらぬ喧嘩が増え、二人の関係は急速に冷え込んでゆく。九月以降の写真に、二人で映っているものはなかった。背景からは自然が姿を消し、近代的なビルの下層部や地下鉄の駅に置き換わった。
 それでも見開き右側の台紙には、彼女が一人で探してきた当時の風物が貼り付けてあった。黄緑の葉、黄色の葉、赤い葉。まだ色褪せていない鮮烈で生々しい色が、左ページで展開される一つのコミュニティーの終焉と、実に対照的であった。

 十一月。
 写真からは彼女の姿も消えた。
 彼女が撮った、誰もいない、この部屋の写真であった。

 彼女の瞳の奥に、一粒だけ、生まれ出ることの出来ぬ涙が置かれていた。崩壊へ向かって突き進んだ短い物語がついに終わったことを再確認したから――というより、もっと普遍的な理由、すなわち季節の移ろいの非情さに打たれたのであった。
 右ページは、先ほど追加したばかりの真新しい台紙である。ありきたりの空白さえ寄せ付けない、絶対的な虚無の世界。
 確かに、これをめくった先の、裏見返しと並ぶであろう正真正銘の最終ページは、白銀こそが相応しいだろう。ただ、今の右ページではタイミング的には微妙に早い。彼女の考えでは、ここには冬を予感させる晩秋の風物が飾られるべきであった。
 確かに、くだらぬことではある。死んだ作家の小説のように、復活の可能性が絶たれた、完璧に閉ざされた領域を作ること。彼女がやろうとしている行為は、そういうものに分類される。
 しかしながら彼女は、この物語を責任持って終結させる義務があった。最後まで看取らなければ、彼女は新しい彼女へと駒を進めることが出来ない――そう信じていたからこそ、勇気を出して最初から順を追い、こうして思い出の軌跡をたどったのだ。
 そして、この部屋でやることはやり尽くした。
 アルバムを閉じ、脇にかかえて立ち上がり、ドアを開く。

 彼女は自宅から遠くない小川のへりを歩いていた。かなり薄暗くなっており、しんしんと音もなく冷え込みが迫り来る。すれ違うのは犬の散歩をしている者や、マラソンをしている高齢者、自転車に乗って帰宅を急ぐ小学生らで、みな孤独であった。
 古ぼけた石の階段を四段下りると、川辺に着く。コートの裾が濡れないように気をつけて彼女はしゃがみ、目を凝らして、足元の暗闇をじっと見つめる。昼間は浅い河も、暗闇を飲み込むと深くなる。それを見る者の内側にある追憶の深さに違いない。
 しばらくして、探し求めているものが見つからないことに気づく。わずかに口を開けば、洩れだした息はぼんやり白かった。

 その時である。
 霧散する白い息の向こうに。
 想像よりも遙かに相応しい晩秋の象徴であった。
 それが川面を滑り、彼女の前に姿を現したのだ。
 彼女は魅せられたように手を伸ばし、迷わずに〈それ〉を掬い取った。河の水は氷のように荘厳で、彼女の指先は凍えた。

 心の中のアルバムを広げる。最後から一ページ前――実質的な最終章――に、ボロボロとなった〈それ〉を貼り付ける。
 まだ太陽が高かった頃、森の奥の広葉樹から帰らぬ旅路を歩み始めた一枚の落ち葉。美しい赤を通り越して茶色となり、ぐっしょり濡れそぼった落ち葉。それでも妙に存在感の残っている〈それ〉は、すなわち湖を越えて流れてきた〈彼〉であった。

 これがふさわしい。これで私の昔に終止符を打つ。
 彼女は呟いた。それは安堵の溜め息だったかも知れない。
 やがて決然と振り返り、注意深く階段を登る。後ろから押してくる木枯らしに背中を丸め、彼女は身を震わせて家路をたどる。冷え切った二つの耳には、真っ暗な空の遠くから届いた聞き覚えのない鳥の声が、哀れに響いていた。彼女は歩き続けた。

 落ち葉の〈彼〉は、彼女の思い出の一部となって、閉じた世界の中で永遠に生きるだろう。もちろん永遠に朽ち果てながら。

 アルバムの最後のページには何もなかった。
 冬が始まった。白銀の地に、雪はしんしんと降り続いてゆく。

(おわり)
 


 11月16日△ 


[折節の収斂、あるいは追憶メモ(5)]

 高速道路の料金所を彷彿とさせるコンクリート製の堰は、河の開始地点に橋となってかかり、たくさんの四角い横穴で水の流れを仕切っている。それぞれの穴には牢屋のような支え棒があり、水は通すけれども大きなゴミは抜けられない造りだった。
 堰には彼の仲間たちも引っかかっていたが、大部分は死骸であった。頭をもたげ、腐りかけた者たちが異臭を放っている。鼻も嗅覚も持たぬ彼だけれども、身体の奥まで染み込んでくる酸っぱい強烈な匂いで、辛うじて意識を取り戻すことが出来た。
 みじめな死の山は、彼の存在の根元にある〈生への執着〉という名の暖炉へ絶えず薪をくべ、鮮烈な炎を燃えたぎらせる。
 彼は本能的にこの堰を越えようと考え、全身全霊の力を込めた。まずは身体を起こすため、前段階として藻掻こうとするが、神経が凍えきっているため力が入らず難儀した。ここでは堰の四角い穴のために流れが速まっているのも悪条件であった。
 過ぎゆく時間のように次々と襲い来る圧倒的な水は、彼の身体を支え棒に叩きつけ、打ちのめした。勝っても負けても、これが最後の冒険になることを彼は了解している――今後を考える必要はない。彼はこの場所で全力を使い果たす覚悟だった。

 次のページには、かつての恋人に肩を抱かれた彼女の写真があった。開放的な夏空の下、公園の噴水は涼を振りまき、たどり着けぬ天の高みを目指している。からっとした熱い陽射しを跳ね返し、彼女の白いワンピースが眩しく輝いていた。右側には向日葵(ひまわり)の花びらが二十枚ほど丸く貼り付けられているが、中心部はぽっかりと空いており、みすぼらしかった。
 アルバムの台紙をめくる。夜の河と大勢の人々、屋台の煙と食べ物の匂いを背景に、彼女が現れた。今回は一人で映っていたが、その視線は撮影者の存在を意識させた。写真の枠の中で恥ずかしそうに頬を染めた彼女は、紫を基調とした新品の浴衣に身をつつみ、ウエストの辺りで帯をきゅっと締めている。
 安定感と安心感の滲み出ている、これまでで最高の笑顔だった。他人の瞳で見下ろしている晩秋の彼女の厳しかった表情もかすかに和む。その右ページには、季節のかけら――折々の花や葉の代わりに、大輪の花火の咲き誇る一瞬を捉えた写真があった。写真の隅の電子日付は八月十六日となっている。
 そこから先は見るのが辛い。手が止まり、彼女は天井を見上げた。私、何やってるんだろう、何を怖がっているんだろう、馬鹿だなあ、と喉の奥の方で呟いてみる。が、恐れの元をカモフラージュすることは不可能だった。ゆっくり目線を下ろせば、まだ四時過ぎだというのに窓の外は早くも日暮れを予感させている。
 瞳を閉じ、心を整理して意を決するために十数秒を要した。それからおもむろに右手を差しのべ、アルバムの時間を進める。

(続く)
 


 11月15日△ 


[折節の収斂、あるいは追憶メモ(4)]

 湖面は一つの天球として、その内側にいるものしか分からぬほどの緩やかさで流れ、神秘的な循環を繰り返していた。人間の髪や爪のように水も変わってゆく。今の水はさっきと同じように見えても、実質的には全く異なっているかも知れないのだ。
 生の領域からほとんど足を踏み外していた彼は、冷たさの中に鋭い部分と柔らかい部分があることを朧気に感じ始めたが、それは錯覚のようにも思えた。時間だけが真に持ちうる〈限定〉という絶対的な魔力は、ニュートリノとなって彼を素通りした。
 空気と水に挟まれたまま夢みるように漂っている彼の姿を、風に乗って飛んでいた頃の自分が見下ろしている気がした。ここで湖と同化し、プランクトンの養分となるだろう。その考えは遠い内側から聞こえてくる声のようでもあり、なおかつ他の世界から届くメッセージでもあった。自他の区別が曖昧になり、半透膜の境界が溶け、一つの自然となる――かつて水を吸ったぶん、今こそ自らがそれに転ずることで罪を贖おうとするかのように。
 彼は諦めよりも、むしろこれで貸し借り無しという清々しい思いを胸に、混濁した意識を辛うじて支えていた碇を静かに手放した。彼の〈心〉も、湖を流れる彼の身体と何ら変わりはない。

 彼女は再びページをめくった。
 写真――周りの全てを拒絶してささやかな私的空間を演出する、大きな鴉(カラス)色の傘の柄を、二人で握りしめている。細い雨の筋が、フラッシュによって固められている。二人ははにかんだ表情をし、その後ろには深い藍色や紫の花園が見える。
 カメラからの光が届く場所は妙に白く、その範囲を過ぎてしまうと薄暗く淀んで見える。銀のかたちをした非鉄金属の傘の柄に触れた時、ちくりと感じた、針が刺さったような――ドライアイスをつかんだような指先の奥へと伝わる痛みが、ほんのわずかな間だけ甦った。その感覚のみがはっきりと追憶できる全てであった(そもそも追憶自体が、想像と事実を置換し、物事を歪ませる不確かな行為であることを、まだ彼女は認めたくない)。
 あの頃、彼女が右手で握りしめていた傘の柄は、やがてかつての恋人の左手に置き換わった。もう少しで往時の温もりにさえ追いつけそうだったが、その微妙な温度はどこまでも逃げていくのであった。それは時間の流れに乗っているのだから。
 梅雨という季節を切り取った二人の写真の横には、老人の白髪の固まりと良く似ている紫陽花の花びらの残骸が見えた。
 彼女はページを繰る。誰もいない部屋にその音だけ響いた。

 意志を持って動き出した風の作用を受け、彼はいつしか小さな堰に漂着していた。最後まで粘り強く飛距離を伸ばしたのが幸いした。あの時の彼の抵抗は決して無駄でなかったのだ。

(続く)
 


 11月14日○ 


[折節の収斂、あるいは追憶メモ(3)]

 もはや、あがいても無駄だった。親元を離れて以来、彼の推進力となっていたのは、知的とも思えるほどの複雑さで気まぐれな動きを続けていた風だった。ところが障害物だらけの森を抜けて広い場所に出ると、風はすっかり解放されて自らの速度を誇り、矢のように真っ直ぐに駆け抜けるのみだった。謎めいた調べを全て剥落し、何の不思議もない自然の一事象となって。
 最後は磁石に引き寄せられるかのように、研ぎ澄まされた鏡の湖面へ、彼はおそるおそる着水した。片側が濡れると、ゆっくり景色が傾いてゆき、彼は波の狭間に身を横たえていった。
 穏やかな湖面の最上部を、彼は沈むことも出来ず、しばらく漂っていた。湖の水は、かつて味わった秋の時雨よりも穏やかでさえあったが、身が凍えるほどに冷たく、静かな暴力によって絶え間なく彼の体温を奪った。それは己の内部にどんどん流れ込んで意識の領域を狭め、感覚ばかりではなく正常な思考さえ失わせる。混濁し、朦朧とする意識の中、彼は安らかな空を夢想した。その象徴としての白い雲が、見上げた先の遥か遠い世界を流れている。自分と同じように微細な動きの積み重ねだが、確かに天の湖を流れている。どこに行き着くのかも知らずに。
 日が陰り、さざ波が立った。風たちはまたもや新しい流行を追い、徐々に変化を遂げていた。彼に抗う力はなく、とっくの昔に何もかもを委ねている――やれることはやった、という恍惚感。

 秋が部屋のカーテンを揺らし、彼女はとりとめのない想念の底なし沼へはまりかけていたことに気づいた。そんな自分に苛立ちと慈しみを覚え、しなやかな指を手持ち無沙汰に動かす。
 かつて違和感なく収まっていた銀色のリングは、もう、ない。
 視線を手元のアルバムに戻すものの、幼い自分の映っている染井吉野の写真を見るや否や、腕と背中に鳥肌が立ち、反射的に目を背ける。自分の中の嫌な部分が強く心を揺さぶった。
 写真の右ページには、かつて青葉だったものが二枚、垂直すぎず斜めすぎぬ適度な角度に傾き、バランスを取って配置されていた。それは青葉をやめてしまった今となってさえ、鳥の孵化の刹那を、あるいはささやかな〈始まりの物語〉を予感させた。
 何の意味も、何の感情も存在しないのだ――無理に納得しようと仮の自分を捏造すればするほど、真の魂は今にも壊れそうな甲高い軋みをあげ、それに比例して指先は震えるのだった。
 その割にはあっけなく台紙の一枚をめくる。やはり左のページには写真が、見開きの右側には当時の季節の名残が丁寧に飾られていた。それは時期を過ぎた五月人形のように虚無で、大きさや華やかさに比べ、ひどくがらんとした印象を受けた。
 あの時は、そんなこと、思わなかったのに。
 彼女は呻いた。それから軽く首を振り、弱々しく微笑った。

 その頃、彼は。
 厳かに育まれた風の変革は、表面的には先刻の延長線か、せいぜい変奏曲程度にしか思われなかったけれども、着実に浸透を果たしていた。湖に蝕まれるのを待つだけとなり、水面に満身創痍の体躯を広げている彼をも巻き込むほどの実体的な雰囲気として、その移ろいは辺りを塗り替えようとしていた。

(続く)
 


 11月13日○ 


[折節の収斂、あるいは追憶メモ(2)]

 そう――依然として彼は風の上を滑っていた。木々が林立する森の中では、風の動きもより複雑に、より気まぐれになる。
 まるで霧が晴れてゆくかのよう、視界はしだいに明度を増していった。木々がまばらになり、下草が背を伸ばし、森の香という名の通奏低音がdecrescendoするとともに、新しいテーマが内面から充実してゆく。風も異なった色合いを帯び始める。何らかの大いなる変化の確信は、今や最高潮に達しようとしていた。
 突然、彼は白日の光のもとにさらされる。それは予想外の温もりとともにあった。霜月の陽射しは憂いを秘め、儚げである。
 目が慣れる速度と軌を一にし、彼は自らの下方に、何やら空の様子をおぼろげに映している巨大な紺碧の円盤の存在を認識した。それは水面に微かなさざ波の立つ小さな湖であった。
 それは彼が初めて目にする液体の集合体であった。彼にとっての液体は、空から落ちてくる点であり、線であった。彼はここに、面としての液体を見いだしたのである。畏敬の念と偽りのない感嘆、裏切らないで欲しいという一抹の強い願い、理由なき期待、心の自由――加えて〈遠くない将来に何もかもが期限を迎えるであろう〉という、旅程の果てに特有の充実感と喪失感、遙かな場所まで流れ止まぬ溢れんばかりの思いを胸に。
 淀んだ水面が迫ってくる。その瞬間が近づくにつれ、にわかに彼はとてつもない畏れを抱いた。この湖――彼にとっての紺碧の円盤――に吸い込まれてしまえば、その中で彼の存在はあまりにも小さく、食われて溶けて消えるだけである。往生際が悪いと理解しつつも、彼は出来る限り上下左右に身をくねり、距離を稼ごうとするだ。自らの証を賭けた最後の挑戦であった。

 同じ頃、彼女は綴じるのを終え、戯れにページを繰っていた。
 アルバムの最初の台紙には、写真の代わりに何枚もの桜の花びらが散りばめてあった。鮮やかな桃色だったはずの染井吉野は、すでに色が失われて久しい。それは寂しさよりも虚しさを喚起し、日めくりカレンダーよりも残酷で精巧な時計であった。
 白く縮まった桜の花は、桜の花であることをやめたばかりではなく、もはや何の花びらでもない。いや、花びらでさえない。炭酸飲料の泡が抜けたかのように無意味で、化学方程式で表現できる程度でしかない単なる空っぽの物体へと退化していた。
 台紙を一枚めくると、初々しくぎこちない微笑みの若い一組の男女が、染井吉野を背景に手を繋いだ写真が貼られていた。

 その一方で、彼は覚悟を固めるべき瞬間を迎えつつあった。
 彼は限界まで身をよじった直後、いよいよ湖面へ降り立った。

(続く)
 


 11月12日− 


折節(おりふし)収斂(しゅうれん)、あるいは追憶メモ(1)]

 彼は飛んでいた。
 彼女は綴じていた。

 そして彼は飛んでいた――休むことなく。風の吹くままに、彼は全て身を任せていた。地上がだんだんと近づき、確実に落ちてゆくと思いきや、上昇気流に乗ると遠ざかり、しばらくするとまた近づく。波に乗るように彼は彷徨った。親元を巣立ったばかりの彼にとって、最初は目に見える全てが驚異であり、それはすなわち絶え間ない未知の恐怖との精神的な闘いでもあった。
 幹に走る不規則な模様が垣間見え、梢にぶつかりそうになると背伸びをし、冬支度を整えた親リスが彼を眺めて不思議そうに瞳を瞬いた。木洩れ日は銀のしずく、せせらぎは白露の糸。
 彼はそういう場所を、水平に、垂直に、斜めに飛んでいた。

 そして彼女は綴じていた。
 このページが最後になるだろうことを知っている。それについては、もはや特別な感情は持たないつもりでいる。実体は既に終焉を迎えているのだ。夏の〈線香花火〉の光の珠が遂にこぼれて、夜の地面に消えゆく束の間の輝きをどこか想起させる。外側から失われても、最後まで内側の熱は遺っている。永遠の旅路を知る者だけが持ち得る、ほぼ透明に澄んだ諦観だろう。
 これは彼女にとって一つの葬送曲の最終楽章Adagioの、そのまた末端部の色褪せたCodaであり、淡々と遂行すべき儀式であり、それ以外の何ものでもなかった。だが、そう思えば思うほど、彼女は切に痛感しなければならない――実際の所は、この行為に何らかの意味を結びつけたかったのだ、ということを。
 声にならない呻きは胸の奥底に沈んでいった。肩にのしかかる重力の訪れが両手に力を込めさせる。がちゃん、と軽い音がして、付け足しの台紙は小さなアルバムに正しく綴じられた。
 それは銀箔に塗られた神々しい冬の原野そのものの具現、まさに〈孤独〉以外の全てを徹底的に拒絶した空間であった。

 同じ頃、彼は未だに森を舞い飛び、彷徨っていたのである。

(続く)
 


 11月11日◎ 


 ランプのそばに干しておいた洗濯物を取り込み、きちんと畳んで積み重ねる。それから部屋の一角にある小さな机――定位置に戻ってくる。丁寧にページを繰り、分厚い専門書の続きを読もうとした時、彼女は初めてだいぶ薄暗くなっていたことに気づいた。夢中で読みふけっていたため、気づかなかったのだ。

 栞を挟んだ箇所の右上には、複雑な図式が描かれていた。
 
●黄昏の混沌(両者の共存は可能か?)→より高次へ!


________《天 界》________

________《天上界》________

|┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓|
|┃      火  創  天      ┃|
|┃   光  炎  造  空  夏   ┃|
|┃   ↑  ↑  ↑  ↑  ↑   ┃|
|┃ 時→─────────────←時 ┃|
|┃ ↓               ↓ ┃|
|┃ | 暁           春 | ┃|
|┃ |               | ┃|
|┃ |       聖       | ┃|
|┃ |               | ┃|
|┃ |      ┌─┐      | ┃|
|┃ |      |黄|      | ┃|
月┃ |精 夢   |昏|   草 地| ┃魔
|┃ |霊   永 |の| 生   上| ┃源
光┃ |界 幻   |混|   木 界| ┃界
|┃ |      |沌|      | ┃|
|┃ |      └─┘      | ┃|
|┃ |               | ┃|
|┃ |       呪       | ┃|
|┃ |               | ┃|
|┃ | 夕           秋 | ┃|
|┃ ↑               ↑ ┃|
|┃ 時→─────────────←時 ┃|
|┃   ↓  ↓  ↓  ↓  ↓   ┃|
|┃   闇  氷  破  大  冬   ┃|
|┃      水  壊  地      ┃|
|┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛|

________《冥 界》________




「だいぶ……陽が短くなりましたね」
 返事をする者がないことは充分に知っているが、口と耳が機能していることを確かめるべく、若きオーヴェルは独りごちた。
 ゆうべ積もった雪はまだ残っている。いよいよ、あれが最初の根雪になるだろう。北風は我が物顔で冬枯れ唄を響かせる。
「お夕飯、すずらん亭へ行こうかしら」
 一人で黙々と研究を続ける賢者のオーヴェルであっても――いや、むしろ彼女のような境遇だからこそ、時には無性に人恋しくなる。すずらん亭へ行けば、オーヴェルを姉のように慕ってくれる〈妹〉たちがいつも歓迎してくれるし、暖かいスープがいい香りのする湯気を立てている。そこは必ずぬくもりがあるのだ。
 ややもすると自分の殻に閉じこもりがちなオーヴェルと、世界の生命とを繋ぐ橋の役目をしているのが、すずらん亭で過ごす時間だった。その間はもちろん研究は進まないけれど、決して無駄な浪費ではなく、心の糧を蓄える重要な気分転換となる。
 毛織りの上着をきちんと羽織ってから重い木のドアを開ける。と、空も村も山も森も暖炉の中で燃えさかっている。幾筋もの雲の軌跡が哀しいほど深く照り輝いた、晩秋の夕映えであった。
 


 11月10日○ 


「どーも気が進まないわねぇ……」
 シェリアの言い方には不満がありありだった。腕組みして首をかしげ、目を細めたまま右足のつま先を貧乏揺すりし、ぶつくさ呟いている。ルーグは困ったように顔を曇らせ、彼女を諭した。
「仕方ないだろう。当面の小銭稼ぎだ」
 血湧き肉躍る冒険に巡り会う確率は、現実にはそれほど高くない。つなぎとして彼らが請け負った仕事は、メレーム町の大通りの並木道に積もった落葉の掃除という地味なものだった。
「こんなん、やってらんないわよ。一気に片づけるわ」
 面倒臭さに耐えきれず、魔術師のシェリアは道の真ん中に立ちつくし、雑踏を気にせず精神集中して呪文の詠唱を始めた。
「塔ヨξйэ……我、天空の力・大いなる風を欲す……ヒュ!」
 天空魔術がシェリアの指先から飛び出し、人工の木枯らしとなって落ち葉をぱっと舞い上がらせる。遠くから眺めると、それはまるで地上から沸き起こった赤や橙や黄色の時雨だった。
「きゃあぁ!」
 とばっちりを受けたのは、ほうきで地道に掃いていたリンローナである。薄緑色の髪がくしゃくしゃになったのはまだ良かったが、お気に入りの茶色っぽいロングスカートの裾がひらひらと揺れ動き、ふわりと持ち上がりそうになってしまう。彼女はやむなくほうきを投げ捨てて、スカートを抑えなければならなかった。
「お姉ちゃん、やめて、お願い!」
 妹の必死の悲鳴に気づき、シェリアは魔法を中断しようと指を掲げる――まさに、その直前であった。ケレンスはリンローナの状況を知覚するや否や、目を見開き、ごくりと唾を飲み込む。
「おろっ?」
 これが混乱を増幅させる序曲となった。間もなくシェリアは風を止めたけれど、あまり反省の色を見せずに頭の後ろをかく。
「あら。ちょっとまずかったわねぇ」
「ケ……ケレンスの馬鹿あっ!」
 リンローナの矛先は、事件の張本人である姉のシェリアにではなく傍観者のケレンスへと向かった。顔を真っ赤に染めて恥ずかしそうに叫んだ彼女は、あっけにとられるケレンスをよそにルーグの後ろへ駆け込むと、うつむき、黙りこくってしまった。
 通りをゆく人々は思わず足を止め、何だ何だと好奇心を膨らませる。せっかくリンローナやタックたちが片づけた落ち葉の山は滅茶苦茶になってしまった。全ては水泡に帰したのである。
 だがシェリアはそれに気を取られた様子もなく、ある一点を睨みつけていた。妹のリンローナが自分の恋人であるルーグを頼ったことが気にくわないのだ。状況は一気に複雑化していた。
「ま、待てよ、リン。違うっつーの」
「あんたら、早く離れなさいよ」
 ケレンスの弁明が白々しく響き、シェリアはドスの効いた低い声を放つ。ルーグは戸惑い、リンローナは動転して気づかぬ。
「何だか面白くなってきましたねえ」
 一人、微笑みつつ楽しそうに見守る盗賊のタックであった。
 


 11月 9日△ 


 町外れは砂浜で、その先には南国の青い海が、いつものように穏やかな汐の音を奏でている。後ろに垂らした長い銀の髪をその先端で結び、青い瞳(め)をした少女は、空色のスカートの裾が濡れるのも気にせず、誰もいない波打ち際を歩いていた。
 夏とは異なり、陽射しはだいぶ和らいでいる。窪地に溜まっている海水は温かだが、新しい波にはかすかな鋭ささえ混じる。
「つまんないですわ〜」
 十六歳のサンゴーン・グラニアは、最も遠くまで昇ってきた波頭をひらり飛び越え、口を尖らした。その表情からは、やり場のない不満と不安、今の状況に対する諦めとが交錯していた。胸を張り、両手を後ろで組み、一歩を踏み出すたびに左右へ大きく重心を傾け、微妙な上目遣いのまま、ほっそりした少女はあてどない散策を続けていた。空と海とを全く別の代物に変える時間の流れは、わずかずつ確実に夕暮れを紡ぎ始めている。
 足先が冷えてきてクシャミが出ると、ようやく彼女は波打ち際を離れ、ほこりっぽいけれどもカラッとした砂浜へ上がる。しばらくそのまま歩き続け、特に理由もなく目を上げた時、サンゴーンの視線は疾風の矢文となって、的の中心点に吸い込まれた。

 向こうの岩場で、力強く一双の翼をはためかせ、白い海鳥が今まさに飛び立とうとしていた。大地を離れるまでは無駄と思えるくらいの猛烈な羽ばたきを必要とするが、脚が宙に浮かんで上手く風をつかまえれば、当分は身軽な空滑りで距離を稼ぐ。
「あーあ、サンゴーンもまたお空を飛んでみたいですの」
 それはまさに激流と化した、少女の心情の吐露であった。
 仕事で忙しい親友のレフキル、優しかったが他界した祖母、行方の知れぬ両親――サンゴーンは話相手に渇望していた。
 彼女は大きな翼を持つ海鳥に自分を重ね合わせる。想像の世界では、樹や空や海や風や――世界の全てと触れ合える。誰だって気休めは必要だし、その温もりに浸っていれば楽だ。

『でも、このままじゃ駄目ですの!』

 もう一人の自分の叫びを聞き、それでサンゴーンはふと我に返った。いつの間にか目を閉じて立ち止まり、内面へと深い考えに沈んでいたのだった。空と海は黄色く色づき始めている。
「きっと、ありますの」
 彼女は自らを鼓舞するように、追いつめられて決然としたような顔で、勢いのある小声を発した。彼女にこんな表情ができるとは、親友のレフキルさえ信じられないだろう。そして、その続きの言葉は当分の間、人知れず心に閉まっておくことにした。

サンゴーンも
サンゴーンなりのやり方で
飛んでみせますわ。
きっと。

 海鳥の啼き声はどこか遠くから流れ来て、何もかもが曖昧になって境目のなくなる黄昏の刻の始まりを告げた。吹き過ぎる秋は少し肌寒く、海の水面にちらちら瞬く光の子らは落ちた羽を、漂う雲は巨きな翼を連想させる、南国の夕暮れであった。
 


 11月 8日− 


 あくる日、私は非常な冷気を感じて、ずいぶん早い時間に目を醒ました。部屋はまだ薄暗く、眠気もひどかったが、寒さはそれ以上に私へ襲いかかってきた。カーテンの隙間から染み込んで、足元や背中、肩の辺りへと寒気の勢力を拡大しつつある。
 旅行用サックから防寒着を取り出して羽織り、かじかむ手で靴下を履いてから、私は思いきって左右にカーテンを引いた。
 布が全てのものを二分する音がして――そのあとは全く時間が止まってしまった。耳も機能を失い、厳しい冷え込みさえ私の心を離れたのだった。私は口を開けたまま立ち尽くしていた。白い吐息が洩れ、ガラスを曇らせると溶けて消えたが、私は魂を抜かれたように目の前に広がる〈その世界〉を凝視していた。
 昨日の昼間にこの町へやって来た時は、確かにそれは青々と流れる大河だったのだ。秋の終わりの最後の輝きを灯したかのように暖かい一日で、河の水面はきらきらと光の粉を散らしていた。どう考えてみても、それは真実だった〈はず〉なのだ。
 だからと言って、今この瞬間、目の前に展開されている景色も夢や嘘だとは思えなかった。昨日とはかけ離れてはいるが、存在感と安定感が醸し出す野生の交響曲は、これも偽りなき正しい答えの一つだと告げる(あまりの沈黙は雄弁にさえ転じる)。

 河は、今やびっしりと厚い氷に閉ざされていた。まるで永遠の流れを億劫に思って冬眠したかのようにそれは半透明で、なおかつ柔軟さがなく、死よりも孤高を感じさせた。おかしい。町には河沿いに小さな船着き場があるが、真冬でも不凍のはず。
 そういえば――。

 ――そうか。あの老人の話は本当だったのか!
 私は冷気によって滑らかになった肌を呆然と撫でていた。

 詳しくはのちほど述べることとするが、その老人が語ったのは、氷の女神像の封印についての奇妙な物語であった。地下へ続く階段の最深部にある封印されていた扉が開け放たれた想像図が私の脳裏をよぎった。こうなっては、この町の自慢のカヌー部隊も役に立たず、国境地帯は確実に無防備となる。
 隔たりの大河は〈新たな道〉となるだろう。私は興奮した心を抑えきれず、さっそく出立の準備に取りかかったのであった。
 


 11月 7日− 


 日曜の公園には楽しそうな笑い声がこだましています。それは遠くから聞いていると夏の頃と変わらないように思えますが、間を駆け抜ける秋の風は澄み切っていて、十三歳の咲子はまるで貴婦人にでもなったかのような優雅な気分を味わいます。
「気持ちいいなぁ」
 新しく買ってもらった白いセーターのぬくもりを感じながら、咲子は大きく伸びをしました。適度な間隔で植えられた木々を縫って、小径は公園の奥へと続いてゆきます。周りはすっかり落ち葉のじゅうたんです。雨にしめった黄色や茶色の葉っぱの上に、乾いた赤い葉が重なっていきます。この町に降る雪はすぐに溶けてしまうけれど、そのぶん落ち葉は秋の皮が一枚ずつ剥げ落ちてゆくかのように積もって、時のかなたで土に還ります。一見するとみすぼらしくも思えるけれど、どんな敷布よりも麗しく、郷愁を誘うことを咲子は直感し、はっと立ち止まりました。

 見上げると、さかさまの世界が始まります。空の果てから生まれ出た木々が、まるで黄や赤の花のような色とりどりの葉っぱの網を張り、幹を拡げ、大地を支えているように思えました。
 青空の湖からは葉っぱの網を通して滝のように、また涙の軌跡のように幾筋も光がこぼれ落ち――いや、浮かんできます。
 あの光のように時間も夢も無限だけど、手には掬えないのかな。その時、咲子は確かに秋の魅惑の魔力を感じていました。

 突然のことです。
 一陣の木枯らしが吹き荒れ、落ち葉は高く速く舞いました!
 ……。
 




 11月 6日− 


[南ウエスタリア(6) モニモニ町]

 南ウエスタリアだけでなくルデリア大陸全土の最南西にあたるモニモニ町は、岬の突端に築かれた港町である。聖王領のリルデン町やリース公国のリース町、メラロール市、ラット連合のエルヴィール町などと並び、古代の文献に記述が見られる。
 この町の歴史をたどる時、特徴的なのは〈地の利〉である。南国のミザリア国から北方のメラロール王国へ行く場合や、大陸西部のズィートオーブ市から大陸東部のテアラット市、さらにシャムル島へ行く場合は、必ずモニモニ町を経由する。このため物資と人々で賑わい、文化の交点として栄えてきた。入り江は天然の良港である。自衛のための最低限の海軍を擁しているが、海と山に囲まれたモニモニ町は守るに易く攻めるに堅い。
 マホジール帝国の傘下であったウエスタリア自治領の飛び地として長く栄えてきたが、中心地であったパルチ町やロンゼ町(現在のズィートオーブ市)から離れていたため、自治領の中でも特別自治区とされ、世界随一の自由都市であった。南ルデリア共和国に参加後は、同国の事実上の副首都となっている。

 現在の町長は謎のヴェールにつつまれたモニモニ氏。二十四歳と非常に若い指導者であるが、南ルデリア共和国の議員資格を持つ。本名や経歴は伏せられているため〈幼い頃に引き抜かれ、政治家になるための英才教育を受けてきた人物である〉とも囁かれている。それを裏付けるかのように、モニモニ氏は今も町の施政に隠然たる影響力を持つ自治会議の面々の期待を集めており、一部の学者からは〈この町の長きに渡る知恵の蓄積の結晶〉とも呼ばれている。新興の南ルデリア共和国をズィートスン氏とともに支えつつ、決してモニモニ町の不利益にならないよう、陰に日なたにと策をめぐらす地元の代表者でもある。

 冒頭で述べたように、モニモニ町は今やメラロール市と並ぶ世界的な文化都市として知られている。レンガ造りの幅広の通り沿いには、学舎から学院・大学まで数多くの教育機関が林立し、教授や学生、生徒らが勉学と研究に明け暮れている。文化の交点らしく、ルデリアの各地から人材が集まって来る。モニモニ町は岬から半島の付け根へと静かに規模を拡大しているが、街並みの設計がきめ細やかで、治安の良さも堅持している。
 シェリア嬢やリンローナ嬢、ルーグ氏、ナミリア嬢らは、この自由な雰囲気の中で生まれ育ったことを最後に付け加えておく。

(おわり)
 


 11月 5日− 


[南ウエスタリア(5) エスティア家]

 南ウエスタリアでクルズベルク家以外に名門貴族を挙げるとすれば、誰もがエスティア家の名前を出す。マホジール帝国の傘下という強みを防衛面で最大限に利用しつつ、豊富な財力で文化や商業を育成し、独自の発展を遂げてきた名家である。
 現在の当主はエヴァン伯爵で、地元ミラス町の領主となっている。もともとは侯爵家であり、南ウエスタリアの東端となるヒムイリア侯国を同君連合で治めていた。ヒムイル河下流にある侯都ヴァラスは、エスティア家のお膝元である観光地ミラス町と共同歩調をとって賑わいを見せたのは既に述べた通りである。

 南ルデリア共和国の夢が現実になってゆく過程で、メポール町のクルズベルク家と同様に、エスティア家へもズィートスン氏から密かな使者が赴き、建国論が展開された。ズィートスン氏が真に欲したのはヒムイリア侯国ではなくミラス町であった。
 しかしエスティア家は〈金のなる樹〉である地元ミラスの権益の放棄は認めず、ある意味では〈エスティア王国〉の属領とも言えるヒムイリア侯国を切り離すことによって南ルデリア共和国の一端を形成し、国難をしのごうと考えた。新興の南ルデリア共和国へはヒムイリア侯国の割譲によって敵対を事前に阻止し、地元であるミラス町はマホジール帝国の傘下として影響力を保ちつつ様子を見るという、両にらみの作戦を取ったのである。
 これにしてやられたのはズィートスン氏であった。策士の彼としては珍しく、追い込まれて脅迫めいた通知を送りつけた。するとエヴァン侯爵(肩書きは当時。現伯爵)は、この企みをマホジール帝国の首脳へ洩らし、ミラス町・ヒムイリア侯国とは同盟関係にあるマホジール帝国領ミニマレス侯国の助力を乞うと反発した。自衛のための戦いは辞さないという最後通牒であった。
 ズィートスン氏の地盤である商人中心のウエスタリア自治領では軍が脆弱であり、建国の際の軍事衝突は出来るだけ避けたい。そのため、わざわざ事前の折衝を重ね、一つ一つの小国に目標を定めて情報戦による各個撃破を狙ったわけである。
 おまけにクルズベルク家のメポール町やリンドル町、聖王領のリルデン町の世論を固め切れていない状態では、逆に〈反ズィートスン〉の旗印を掲げて、エスティア家を中心に南ウエスタリアの小国が合同する可能性も否定できなかった。さらに中規模国家のミニマレス侯国が加り、マホジール帝国の本国も重い腰を上げれば、とても太刀打ちできない兵力差だ。エスティア家の予想以上の逆襲に、さすがのズィートスン氏も今回は引き下がらざるを得ない。エヴァン侯爵の方が一枚上手だったのだ。
 こうしてエスティア家は、ヒムイリア地域を参加させる見返りに南ルデリア共和国へ一定の発言権を保つことに成功した。かつての侯都ヴァラスには未だにエスティア家の影響力が色濃く残っているし、実質的にミラス町の盾となっている。ミラス町の宗主国であるマホジール帝国からは、反逆の罪によりエスティア家を伯爵に格下げすることが通知された。しかしながら衰退の著しいマホジール側としてもミラス町からの税収は今や貴重な財源となっているので、それ以上の懲罰は行われなかった。
 こうした状況下で、ミラス町は南の真珠として栄華を謳歌する。伯爵令嬢のルーユ・エスティア姫の笑顔が象徴的である。
「私、これからお勉強なの。レイヴァちゃん、また明日ね!」

(続く)
 


 11月 4日− 


[南ウエスタリア(4) 終焉]

 メポール騎士団が南ルデリア共和国の建国に伴って発展的に解消することが決まると、町民には動揺が走った。南ウエスタリア最強の陸軍と謳われ、地元を守ってくれたメポール騎士団が無くなって、わけのわからぬ新興の軍に吸収されるのは、町民にとっては城壁が崩壊するような心許なさを感じさせた。
 長きに渡る領主であったクルズベルク家を公然と批判する者も現れたが、それを取り締まるメポール騎士団自体が消滅の危機に瀕して、内部が混乱の極みだっただけに機能しなかった。
 地元を掌握できなくなり、新国家成立を控えていよいよ生命の危機さえ感じるようになったクルズベルク家は、南ルデリア共和国での議員資格という今や唯一となった再起の希望に全てを賭し、単なる裕福な一貴族として、ライバルであったモニモニ町へ落ち延びてゆくという屈辱的な状況に陥ったわけである。

「あの頃は良かったなぁ……海なんか、大っキライ」
 次女のティルミナ嬢はカフェを出て家路をたどり、モニモニ町の南の丘にある屋敷の二階の自室で、窓辺に頬杖をつき、憂いを秘めた遠い目で穏やかな海を眺めていた。彼女は世界でも有数の教育機関であるモニモニ町の学院に何とか編入を許され、勉学に励むことで痛手を忘れようとしているが、時折、ひどく呆然とすることがある。どうしても家柄の違いが頭をかすめ、心では素直に接しようと思っても横柄な物言いになってしまうため、未だに友達もいない。商人や文化人の円卓会議で運営されてきた自由都市のモニモニ町とは気風が合わないようだ。
「この先、私たちやこの国は、どこへ行くのかしら。はぁ……」
 何の考えも浮かばず、出てくるのは溜め息ばかりだった。

(続く)
 


 11月 3日△ 


[南ウエスタリア(3) 南ル共和国の黎明]

 メポールの町民や騎士団には、モニモニ町と同じ国になることは強い抵抗があった。それは領主のクルズベルク家も同様だったのだが、ズィートスン氏の巧みな弁舌に乗せられて、新興国家入りを決断したわけである。これらの交渉は、宗主国のマホジール帝国には伝わらぬよう、極めて秘密裏に行われた。
 ズィートスン氏は建国にあたり、当初は〈ウエスタリア共和国〉という国号を考えていたが、最終的には〈南ルデリア共和国〉を提案する。今後の勢力拡大を念頭に、ウエスタリア地区に留まらぬという強力なメッセージを込めたのだろうと囁かれている。

 周到に根回しされた南ルデリア共和国の独立計画がマホジール帝国の首脳に知れたのは建国の直前のことだった。兵を出して実力阻止してもおかしくない場面ではあるが、危機意識がなく腐ってしまった黄昏の帝国の首脳陣には諦めのムードが漂った。もはや手の打ちようがなくなっていたことは確かだが、どうやら手を打つ気も起きなかったようである。傘下であったミザリアやシャムル公国の独立以来、長きに渡って続いてきた帝国の弱腰無能外交は、マホジール本国のごく近くである〈ウエスタリア地区〉での謀反、しかもズィートスン大臣(当時)が計画の張本人だったという重大な事態に直面してさえ、何もしようとしない段階まで堕落しきっていたのであった。首脳陣のトップであるラーン皇帝の興味は、属領の独立よりも、今夜の舞踏会や読書の方に向けられていた――帝国の現状の象徴である。

(続く)
 


 11月 2日− 


[南ウエスタリア(2) クルズベルク家]

「ふふ〜ん」
 モニモニ町の有名なカフェのテラスで、エルヴィール調の東方異国風の彫刻を施された木造りの椅子に深く腰掛け、南国の冷茶を煎れたグラスをこれ見よがしに傾けているのは、十代後半くらいの若い少女で、白い帽子をかぶっている。その態度には傲慢や軽蔑に似た感情が入っているのは明白だったが、何となく無理して背伸びしているようで、痛々しさを感じさせる。
 細身の腰をきゅっと縛った民族衣装風の流行のスカートをまとい、首根っこのネックレスも、指先に輝く火炎石(ルビー)も明らかに高価な本物だけれど、彼女から醸し出される全体的な雰囲気には十七歳という年齢にそぐわぬ哀愁さえ漂っていた。
 グラスを置き、軽やかに黄金の前髪を掻き上げたのは、名門クルズベルク家の次女、ティルミナ・クルズベルク嬢である。
 だが、通りをゆくモニモニ町の一般市民たちは興味なさそうに一瞥をくれるだけだ。苦笑いさえもしない優雅な無視は、ティルミナ嬢には屈辱的な仕打ちであった。彼女はみるみる顔を赤く染めていくが、突然、思い返して下を向き、歯を食いしばった。
 そして唯一の慰めの呪文のように、繰り返し小声で呟く。
「イヤな町、イヤな町、イヤな町……百万回でも呪ってやるわ」

 クルズベルク家は〈南ウエスタリア〉の代表という自負のもと、古くから地域の陸上交通の要衝であるメポール町に都に置き、マホジール帝国の属国としてリンドライズ侯国を治めてきた。
 それはライバルのモニモニ町との冷戦の歴史でもあった。実際に兵隊同士がぶつかったことは無いが、どちらがこの地域を代表する町かということを、メポール側は常に意識していた。
 モニモニ側が、この地域のリーダーなどには全く興味も関心も薄く、我々の目はもっと世界に向かっている――という態度を取り続けてきたことも、メポール側を激高させてきた要因だった。
 しかしいつしか時は流れ、宗主国のマホジールが弱体化したのは、前回、説明した通りである。また、割合と波の穏やかなミザリア海は船の発展を促し、この地域の交通体系を変えることとなった。街道を行くヒトやモノの流れは隣接の市町村での移動が主となり、長距離の旅客・貨物はそのほとんどが船で運ばれるという結末を迎えるに至って、内陸のメポール町は流通の蚊帳の外となってしまった。リンドライズ侯国内を見ても、侯都のメポールより、ミザリア海に面したリンドル町の方が活気の出る始末である。メポール町はモニモニ町に完敗を喫したのだ。

 同じくマホジール帝国の属国だった〈ウエスタリア自治領〉、地域名称的に言えば〈北ウエスタリア〉を金の力で統合し、掌握したやり手の大富豪で、マホジール帝国の最後の希望を託された外様起用のズィートスン大臣(肩書きは当時。現、南ルデリア共和国代表)は、いよいよ自らの野心を燃やして〈南ウエスタリア〉地域にも触手を伸ばす。彼の当面の目的は、南北ウエスタリア全域に商人中心の新国家を立ち上げることだった。
 彼は徹底して各個撃破を狙った。南ウエスタリア地域には小国しかなく、一つになった北ウエスタリアに対抗し得ない。モニモニ町とメポール町との仲の悪さも、ズィートスン氏の秘密裏の交渉には追い風となった。クルズベルク家には「新国家建国後は、あなた方こそ、この地域の中心になるだろう」と申し入れ、新国家での議員資格も保証した。クルズベルク家には願ってもないチャンス到来であり、国家消滅という最重要の方針転換としては異例なほど、それを受け容れるまでの時間は短かった。

(続く)
 


 11月 1日− 


[南ウエスタリア(1) 地誌]
 地図→『ルデリア大陸・南西部』

 ルデリア大陸の南西に〈南ウエスタリア〉と呼ばれる地域がある。東西文化と南北貿易の交点であるモニモニ町を筆頭に、歴史あるメポール町、リンドル町、ヒムイル河の下流のヴァラス町に至る、リンドライズ平野を中心とした温暖で肥沃な土地だ。
 かつてはマホジール帝国の属領として、侯爵や伯爵クラスの治める小国が林立していた。当時、世界最強の名を恣(ほしいまま)にしていたマホジール帝国の首脳陣は、南ウエスタリアの商業・農業・漁業・工業、加えて文化の高さに警戒し、小国同士が互いに牽制し合うよう仕向けた。また、合従連衡を通じてマホジール帝国の本国に対抗しうる勢力が生まれないように、貴族の配置転換を繰り返し、細心の注意を怠らなかった。
 マホジール帝国が頼りにしていた魔法の力が徐々に弱まり、緩やかな衰退が続く中、この地域内の各国バランスも微妙に移ろっていった。長い間、地域の盟主を自称して独自の騎士団まで結成していたクルズベルク朝リンドライズ侯国が、海運のルートから外れてしまい、やがて斜陽の黄昏を迎えていった。
 代わって力をつけてきたのは、もともと地の利に恵まれたモニモニ町であった。例えばミザリア市からルデリア大陸の各地へ香辛料を運ぶ船は、モニモニ町かミラス町に寄港し、食料などを補給するのが常である。モニモニ町は自衛のための海軍を所持し、早々にマホジール帝国へ自治権を認めさせた。最終的にはウエスタリア自治領と合同したものの、飛び地という条件を活かして自治都市ぶりを発揮。さらに平和と繁栄を謳歌した。
 南ウエスタリア地域の最も東にあたるヴァラス町は、対岸のミラス町を既に治めていたエスティア家の領土となった。こちらはモニモニ町からミラス町、ミニマレス侯国、ラット連合への陸海の中継地点になっているため、英明なエスティア家の統治のもと、ミラス町と共同歩調を取って地味ながらも発展の歴史を重ねてきた。農業が盛んで、ミラス町の食料庫ともなっている。

(続く)
 






前月 幻想断片 次月