恋多き(?)乙女たち 〜
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秋月 涼 |
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「ユイちゃん、遅いなー」 広場を囲うようにして生えている松並木の、一本の松の木の下で、メイザは腕を組んでいた。幾分小柄だが、綿と毛の綾織りの蒼いロングスカートの裾に隠された脚は割と長いようだ。 渋めの茶色に灰色が混じったような、縦にボタンが並ぶ大人っぽいカーディガンを羽織り、その下に着ている白いシャツの襟を出している。良く梳かれた長い黒髪を品の良いアップにし、銀色の髪留めが抑えている。どこか育ちの良さを漂わせているおっとりとした横顔からは、彼女の〈人の好さ〉があふれている。 実はその中には良く鍛えられた肉体が潜んでおり、彼女は格闘家として修行を積んでいる二十二歳なのだが、端から見ると良家の可愛らしいお嬢さん――という印象しか受けなかった。 北の都・マツケ町は、今日は秋晴れであった。彼女は呆然と広場を行き交う人を見ていたり、風に舞う赤や黄色の落ち葉を眺めたり、松の木を仰いだり、その梢の合間に覗く空の青さに眸をしばたたいたり、白い雲の行く末を目で追っていたりした。 涼しい風が日陰を通り抜けると、予想以上の爽やかさに思わず目を閉じ、組んでいる腕に力を込める。ぬばたまの黒い睫毛はかすかに揺れ動いて、形の良い桃色の唇は乾くのだった。 朝は魚売りが集まり、昼は露店の出る広場に人は多かった。メイザはその隅にいるのにも関わらず、目立つ存在であった。美人というよりは可愛らしいタイプの彼女は好印象を与える。 「ねえねえ、いま暇かい?」 貴族か商人の次男坊あたりを思わせる、短い黒髪を同じように尖らせた若い二人組の男が近づいてくる。一人は左から、もう一人は右から回り込み、メイザの退路を断ち切ろうと弄する。 「はい?」 メイザは驚いて問い返した。その黒い星を思わせる清楚な眸には、一瞬にして疑念の色が浮かんだ。直感は鋭いメイザだ。 ひょろりと背の高い男の一人が見下ろし、馴れ馴れしく言う。 「ちょっと、お昼でも一緒にどう?」 「いえ……あの、待ち合わせているんで」 えくぼの似合う笑顔をしまい込み、普段は滅多に見せない硬い表情とぎくしゃくした言葉で、彼女はうつむきがちに応える。 「なんだよ、男がいるのか?」 もう一人の、若いけれどもやや太った男が言った。妙な毛皮の縁取りの帽子をかぶっているが、趣味が悪く、似合わない。 「いえ、女友達ですけど」 メイザは下を向いたまま、律儀にいらえを返した。格闘の、同じ修行場の後輩のユイランと待ち合わせていたのは本当だ。 それを聞いた瞬間、痩せた方の軟派男の目がキラリと光る。 「じゃあ、いいじゃねえか。ちょっと遊ぼうぜ、金なら有るんだ」 妙な金色で陽の光を反射するジャケットのポケットから、幾つもの銀貨を取り出して掌に乗せ、メイザに見せびらかす。かつて物々交換が主流だった辺境のマツケ町だが、メラロール王国の影響下に入ってからは銀貨・銅貨等の硬貨が流通している。 「ペッ」 太った方の男は広場を舗装する煉瓦に唾を吐き、すごんだ。 「俺たちに逆らうと、痛い目に遭うぜ。お嬢さんよ」 「私をその名前で呼ばないで下さいよ」 メイザは妙な回答をした。彼女の愛称は〈お嬢〉さんなのだ。 広場の隅の松の木の下でやりとりが進み、周りには気づかれにくかったが、そろそろ不審に思う者も現れる。あまり頼りなげだが、勇気を振り絞ったのだろう――細身の男が声をかけた。 「き、君たち、何をしているんだ」 震える声で指摘したものの、メイザに絡んでいた男どもから威圧的に睨まれると、注意男はすくみ上がってしまう。メイザの淡い期待は、儚くも裏切られてしまった。事態はさらに悪化する。 「なー、いいだろ? 付き合えよォ」 太った方の男が、気だての良いメイザに近寄ってきたのだ。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「やばいなぁ、かなり遅れ気味……どいてーっ!」 いたずら好きの洟垂れ小僧たちや、買い物へ出かける腰の曲がった老婆、野菜を積んだ車を引いて通りを歩いている男、昆布を竹垣に干している乾物屋の老人、暇そうにぶらつく男女の学院生らを器用に避けながら、ユイランはマツケ町の未舗装の砂利道を走っていた。額にうっすらと汗をかいているが、まだまだ余裕はありそうだ。通りの左右には、やや黒っぽくなった木造平屋の商店や、庶民の家々が立ち並んでいる。マツケ町の大部分を占める、あまり洗練されていない地区の一つである。 黒い髪は簡素に、しかし堅実にきっちりと後ろで結わえていて、闇色の瞳は真っ直ぐに前を見つめている。やや大柄で筋肉質の若い格闘家、今後が楽しみな十九歳のユイランは、運動に適した黄土色の綿の長ズボンをはいていた。上も木綿の長袖シャツという、見栄えよりも使い勝手を重視した服装である。 修行場のあるメロウ島を離れ、交流試合に出場するためマツケ町に来ていた二人は上々の戦いで成長ぶりを示し、今日は師匠からご褒美として久しぶりの自由時間を与えられていた。賞金の一部も分配されており、いくら武術を生業にしているとはいえ年頃の娘の二人は、一緒によそ行き用の服を買おうと約束し、なじみの広場で待ち合わせたのだった。午前中は互いに別行動だったが、昼食前に合流して一緒に摂る予定だった。 その時――。 平和な庶民街に、一つの変化が起こった。 甲高くも可愛らしい声が、やや遠くで響き渡ったのだ。 『やめて下さいっ!』 そのまま走っていたユイランの足取りはしだいに重みを増して、ついに止まってしまう。彼女の表情は真剣になっていた。 「今の声って……」 大して考えなくとも、自ずと結論にたどり着く。彼女は天の白い羊雲を仰ぎ、聞き耳を立てながら、道のど真ん中で叫んだ。 「〈お嬢〉さん?」 どこか貴族の娘を彷彿とさせるおっとりした上品な感じを漂わせ、しかも二カ国語を操れるメイザは、師匠から〈お嬢〉という愛称を付けられた。ユイランなどの後輩が尊敬と親愛の気持ちを込めて呼ぶ時――それは[〈お嬢〉さん]という言い方になる。 「やばっ、急がなきゃ!」 我に返ったユイランは砂利道を蹴り、飛ぶように走り出した。 「落ち着いて待ってて下さいよ……お嬢さん!」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「お嬢さん!」 先輩の愛称を呼びつつ、疾風(はやて)のごとく待ち合わせの広場に滑り込んだユイランは、素早くあちこちに視線を送った。 「どこ、どこに居るんすか?」 居ても立ってもいられない慌てた様子で、ユイランは辺りを見回した。ゴザの上に座り込む老いた露天商、食べ物売りが豚肉を焼く香ばしさ、並木の間を駆け回っている子供たち――。 その並木に近い、広場の隅の方にユイランの焦点が合う。 だが次の刹那、彼女はとんでもない光景を目撃していた。 「あーっ、お嬢さぁん!」 「ユイちゃん!」 というメイザの返事があった直後のことだ。 「ヒャーッ!」 広場全員の注目を集める、恐怖と驚愕の悲鳴がこだました。 その後は声にならない。むしろ、声を出せない――と言った方が正しいのだろうか。ユイランの黒い大きな瞳が見開かれる。 「お嬢さんッ!」 皆の好奇のまなざしを斜めに切り裂いて、ユイランは再び全力で駈け出した。清楚なメイザの姿が眼の中で拡大してくる。 額から汗のしずくを散らし、ユイランは現場に駆けつける。 そして左右に首を振り、一言、溜め息を洩らすのだった。 「手遅れだったんすね……」 「ああ、ユイちゃん。ずいぶん遅かったのね」 口をへの字に曲げてメイザは不満そうに呟き、両手をはたく。 その小柄な女性のロングスカートの足元には、柄の悪い太った男が腰を強く打って気を失い、白い泡を吹いて伸びていた。 ユイランがメイザを見つけた時、敬愛する先輩は修行の成果を遺憾なく発揮し、重い男を背負い投げで宙に飛ばしていた。 さっきの悲鳴は、メイザに叩きつけられた男が発したのだ。 「え、えっ?」 残っていた背の高い男は口を歪め、なす術なく立ち尽くしている。ユイランは面倒くさそうに両手の関節をポキポキ鳴らした。 「どーせ、お嬢さんに絡んだんでしょ? とっとと消えなよ」 「……」 男は唖然として凍りついた表情になり、重心を後ろに傾けて二、三歩退いたかと思うと、回れ右して一目散に疾走し、不規則な足音はすぐに遠ざかった。子供らは一斉に煽り立てる。 「お姉ちゃんに、太っちょが負けた!」 「やったー、ザコが逃げてくぞー!」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「お嬢さん、怪我ないっすよね。今度は一体どうしたんすか?」 遅刻したことを忘れ、ユイランはあきれたように先輩を問いつめた。すでに何回も同じ経験を味わったような言い方である。 「だって、腕を捕まれて、気持ち悪かったから……」 メイザはややうつむき、悔しさと恥ずかしさと反省の混じったような横顔で、不満そうに口を尖らせた。ユイランは呆れて言う。 「前に駄目って言ったじゃないっすかー」 「だって、ユイちゃんが来るのが遅いんだから」 指摘の反論になっていないのだが、小柄な先輩は大柄の後輩を仰ぎ、矛先をいよいよ後輩の過失に向け、責任を転嫁してきた。だが効果てきめん、相手は言葉に詰まり、頭を下げた。 「うっ、そうだった。遅れてすんませんでしたっ」 こう言う所は、割と礼儀正しく仕込まれたユイランである。 「ウーン」 メイザにやられ、煉瓦作りの広場の足元に仰向けで転がっている小太りの男が、夢と現実との間の黄昏を彷徨ったまま低い呻き声をあげた。闘術士の視線は、いったん地面に集まる。 ユイランは両手を腰に当てて胸を張り、軟派男を見下ろした。 「馬鹿だねぇ、メロウ修行場の武術家に手出しするなんて」 「手加減したから、骨は折れていないと思うけど……」 自業自得とはいえ、さすがに素人の被害者を見ていて忍びなくなったのだろう。メイザは男から目を逸らし、表情を曇らせた。格闘家のまなざしは自然と上昇し、再び目の高さで交錯する。 ユイランは相手の感情の変化を察知して、的確に補足した。 「まあ、まさかお嬢さんが格闘家とは思わなかったんでしょう」 「まあね……」 特徴的なえくぼを浮かべて、メイザはしかめ面で苦笑する。 「これに懲りて、ああいう事をやめてくれればいいんだけど」 パチ、パチ……。 突如、まばらな拍手が起きて、壮年の露天商が立ち上がる。 「いやー、あんた、可愛らしいのに大したもんだね」 「さすが鍛え方が違うのぉ。わしの若いころを思い出すわい」 通りかかりの老婆も皺だらけの手を叩き、メイザを賛美する。 町の子供たち、同年代の娘、左官に大工、庭師に八百屋、荷馬車の馭者に、薬売り――拍手の渦はしだいに大きくなった。メイザは驚きつつも、礼儀正しく丁寧に各方面へ頭を下げる。 「あ、どうも、どうもありがとうございます」 あっという間に素直な照れ笑いを取り戻した彼女は、せっかくの機会に宣伝することも忘れない、したたかな〈お嬢さん〉だ。 「今度、ぜひ試合も見に来てくださいねー!」 「この辺りで悲鳴が聞こえたようだが、大丈夫かッ?」 騒ぎを聞きつけて颯爽と駆けてきたのは、肩幅が広くて大柄な、黒い髪を短く切り、腰に長剣をぶら下げたトズピアン公国の二十代の若い兵士だった。野次馬は興醒めして大人しくなる。 「どうした、君たち」 革製の簡素な鎧を身にまとい、白いマントを風に揺らし、広場のある地域を警備する役に就いている若い兵士は付近を見回す。彼の瞳は、目立っている二人の女性におのずと注がれる。 「御令嬢がた、怪我はないかね……?」 やや威厳を含んだ口調で言い、大股で並木の方に近づいてきた兵士だったが――仰向けに倒れて腰を打ちつけ、気絶している小太りの男に気がつくと、違和感を覚えて立ち止まった。 その顔から凛々しさが溶け出し、困惑に塗り替えられてゆく。 「なんだ、また君たちか」 ユイランとメイザの姿を認めると、うんざりしたように言った。 「すいませーん」 ユイランは頭を掻き、ぺこりとお辞儀して、ぺろりと舌を出す。 「申し訳ありません……今回は私なんです」 スカートの前で手を組み、メイザは深々とこうべを垂れた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 予定よりもだいぶ遅い昼食を終えて、二人は砂利道の庶民の町を歩いていく。秋の深まる北国のマツケ町では、午後になると影は伸び始め、風が肌寒く感じられる瞬間が増える。日向はまぶしいが、日陰は寒く、夏と冬――光と闇がせめぎ合う薄暮の季節であった。垣根から飛び出た広葉樹の葉は真っ赤だ。 「それじゃミザリアのおてんば姫と同じっすよー。大師匠が話してくれましたよ、ララシャ王女が街で騎士を吹っ飛ばした噂を」 ユイランは大げさに投げる仕草をして、先輩をからかった。 「私は正当防衛だもん。それに前回の騒ぎはユイちゃんだし」 おっとりしているメイザは、とても負けず嫌いな一面もある。 気の合う仲間との散歩は、まろやかで質の高い刻が流れてゆく。修行の時とは違った普段の面を、お互いが感じ取れる。 「それにしても、なんで、そんなモテモテなんですかねぇ?」 ユイランが少しひがみっぽく言うと、メイザは深く考え込む。 「それがわからないな。心当たりがないんだものね」 「あたいは、なんとなく分かるような気がしますけどね……」 珍しくユイランは含みのある口調で呟き、やや歩みを緩めた。メイザは興味をかき立てられ、相手の漆黒の瞳を覗き込んだ。どのような回答が来るのか、興味津々の様子で相づちを打つ。 「ふーん?」 そこで一呼吸置き、ユイランは優しい言い方で語りかけた。 「〈お嬢〉さんは、やっぱり〈お嬢さん〉だからっすよ、たぶん」 「えっ、何、それ?」 小首をかしげ、先輩はきょとんとした表情だった。綾織りの蒼いスカートの裾を揺らして軽くつま先立ちし、艶やかな黒い前髪を降り注ぐ光にきらめかせ――メイザは上品に立ち止まった。 | ||
(了) | ||
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