2003年 1月

 
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2003年 1月の幻想断片です。

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  1月31日○ 


[帝都マホジール]

 関連作品→「幻想断片・2002年 8月14日」

 日が昇る直前の、黒いシルエットとなって嶮しくそびえる東の中央山脈を遠くに眺め、十五歳のリリア皇女は厳しい寒さの中で独りごちた。とっくに暖炉の炎を消してある部屋の中では、頬や耳も痛いほどである。彼女がいるのは最高級の長い毛皮の上着で、胸元にマホイシュタット皇帝家の紋章が縫いつけられているが、肩の部分が広く、古さの甚だしいデザインだった。
(この国時代が、流行遅れになってしまいました)
 わずかな幼さを残しつつも、誇り高い精神と冷静な判断力の発露によって大人びた凛々しい表情を得るに至った皇女は、中央山脈の向こうから洩れだした朝日の前触れに目を細めた。

「もしも山脈が低ければ――」

 考えるまでもない。彼女は力無く首を振った。
(むしろ攻め込まれ、滅亡の日を早めただけでしょう)
 リリア皇女が言うわけにはいかぬ思いをぐっと飲み込む。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 帝都マホジールは背後を中央山脈に守られ、自然の要塞となっている。数多い坂は緩やかであるけれど、町全体としては薄暗く、地に低く張りついているようにも思える。幾つかの尖塔と、ひときわ目立つ灰色の石造り――皇帝の居城を除けば。
 農業は盛んではなく、もともと養える人口は少ない。西の肥沃なリース町やパルチ町からの年貢に頼りきりの、現在のルデリア世界では他に例のない政治都市・文化研究都市であった。
 魔法通信が遠くまで届いた時代は秘密の司令所的な役割を担い、属国支配に必要不可欠な迅速で確実な情報網を確立させ、世界の南半分を治めた。いわゆる三帝国時代のことだ。
 しかしながら大森林の縮小と死の砂漠の膨張に歩調を合わせるように、魔法使いたちの魔力は低下した。かつて世界最強の軍隊と畏れられた帝国の魔術師部隊が、フレイド独立戦争の折り、雪山で全滅した事件が象徴している。支配の緩んだ属領は次々と無血独立を果たし、帝国の威信は低下し続けた。
 最終章は音もなく秘やかに――だが確実に迫りつつある。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「私は若く、経験は少ない」
 低い太陽が発する光を一身に受け、リリア皇女は思わず口に出して呟いた。その反動か、あとに続く強烈な考えは内面へ重く沈んでゆく。食いしばった唇からはうっすら血の色がにじむ。

 父親のラーン帝や、弟で皇太子のリーノの文人気質では、この国を建て直すことは不可能と思われた。だが、リリアが施政の最高位に立てる可能性は、このままでは極めて低いのだ。
 国と臣民を見殺しにしないために女性のリリア皇女が皇帝位を継ぐには、法規範を全面的に改めるか、最悪の場合は実の家族の命を絶たねばならぬ。そうしたからといって、リリアにこの疲れた国を再建出来るかというと、確たる自信はなかった。

(両親や家族を手に掛けることは、私には……)

 冷静な性格ではあるが、決して冷酷ではない。父と弟を殺してまで国を救うために立ち上がるのは出来ないということを、当の彼女自身が最も良くわきまえていた。彼女の悩みは深い。

(結局のところ、私も、父上やリーノと同じなのですね)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 だが今朝も夜は明けた。間もなく侍女が暖炉の薪を燃すためにやって来るだろう。皇女はそっと窓際を離れ、冷えた身体を再び豪華なベッドの上に沈めた。しばらくの間、夢と現を行ったり来たりし、いつ果てることもない思考の循環を繰り返していた。
 


 幻想断片三周年 

 2000. 1.31.〜2003. 1.30. 

  掲載 :357日 + 612日= 969日(88.4%)
  休載 : 8日 + 119日= 127日

 期間計:365日 + 731日=1096日


  1月30日× 


[水やり]

「たくさん飲んで、大きく育ってくださいの」
 鉄製の角張った簡素なじょうろを手に、しなやかな腕を伸ばし、サンゴーンは庭で水やりをしていた。長い水色のスカートの裾と銀の髪が柔らかな風にそよぐ。井戸で汲んだ水は可愛らしい虹を作り、種を埋めた地面の茶色はしだいに濃くなってゆく。
 じょうろの水が尽きて、サンゴーンは再び井戸端に向かった。彼女はザーン族の平均よりも少し背が高く、ほっそりした印象の十六歳で、育ての親の祖母を亡くしてからは一人暮らしだ。
「いらっしゃいませ、ですわ」
 玄関に続く短い階段の、その最上段では、丸々と太った三毛猫がひなたぼっこしている。猫は眠たそうに半分だけ瞳を開いたが、敵意のない少女の姿を目にすると、重そうなまぶたを下ろして夢の中へ帰りゆく。サンゴーンは微笑み、ささやいた。
「のちほど、サンゴーンも参加しますわ――居眠りに」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 南国の冬は乾期でもある。夏のような厳しい暑さはもちろん、肌を射る輝きもなりをひそめ、優しい太陽の光の降りそそぐ晴れた日が多い。だからこうしてサンゴーンが水やりする機会が自然と増えるわけである。春に芽を出す種への水やりを終え、続く二杯目は育ち盛りの照葉樹の乾きを癒すつもりだった。
 照葉樹はサンゴーンの肩くらいまでの背丈であった。いつか追い抜かされる日を思い描き、サンゴーンはじょうろを傾けた。無骨なじょうろから伸びている筒状の口から、さわやかな音を立てて水がこぼれる。出口を斜め四十五度に倒しているのにも関わらず、水が下へ下へと落ちてゆく軌跡は、まるで世界が飲み物を欲し、大地の方へ引き寄せているようにも感じられた。
 硬くてつるつるした薄緑の葉に雫がこぼれ、乾いた幹も潤い、少女の気持ちが土を通して根まで届く頃――水はわずかだ。
「また汲んできますの〜」
 サンゴーンは軽やかな足取りで、三たび井戸へ向かう。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 満杯のじょうろを両手でかかえ、別の草に水をやっていたサンゴーンは、ふと先ほどの照葉樹を見やって自分の目を疑った。
「あらら?」
 素早く深緑の瞳をしばたたき、彼女はひどく困惑する。水をやったはずの照葉樹がすっかり乾いているように見えたからだ。
 いくら乾期といえども、これだけの短時間で蒸発するほど乾燥しているわけではない。じょうろをその場に置き、右に左に揺れつつ不安定な足取りで真実を確かめるため照葉樹に近づいたサンゴーンは、視覚と触覚を全力で駆使し、葉と幹と足元の地面までくまなく調査した。その結果には愕然とするほかない。
「やっぱり乾いてますの」
 不思議な気もするし、楽しくもあるのだが、その一方で不安な気持ちも大きい。サンゴーンはじょうろの所まで戻って、それを持ち上げ、水滴を垂らしながら歩いた。問題の照葉樹の前に進み出ると、深呼吸してから、先刻と同じように水をやる――。
 


  1月29日− 


[雪遊び]

 額に手を当てた二人の少女の後ろ姿が、まばゆい光に照らし出されて、黒いシルエットになっている。大雪の翌朝、地上を真新しい白銀に塗り替えられたナルダ村は心まで染み込むような寒さだったが、冬空にふさわしい凍りついた晴天に恵まれた。

「ナンナちゃん……雪、かなり深いよ」
「だいじょぶだよ。魔女におまかせねっ☆」
 威勢のいいナンナと比し、レイベルは不安そうに訊ねる。
「でも、この前もそう言ったけど、かなり危なかったよ?」
 しかし、指摘された当の本人は意に介さず、指を鳴らした。
「さあ、行こ! 今回はゼッタイ、へまをしないもんねー」
「ナンナちゃんのその自信を分けてもらいたいな。はぁ」
 レイベルの小さな溜め息は、風に運ばれて見えなくなる。

「魔法があると、雪遊びもこんなに楽しくなるんだよ〜」
 ナンナは目を閉じて気分を落ち着かせ、呪文を詠唱する。
「дюε塔イ……ドカーっ!」
 すると指先から赤々とした炎が生まれて、元気に飛び出し、脇目もふらず雪の壁の中に突っこんで縦横無尽に動いた。
「これで、雪の中に、道が、出来る」
 魔法の維持のため集中力を途切れさせず、ナンナは彼女らしくない低い声で言った。ここで感心するのがレイベルなのだ。
「ナンナちゃん、すごいね。私たち、雪壁の間を歩けるのね」

 そのレイベルの表情が、しだいに失望の彩りを増してゆく。
 魔女の方はというと、呪文の効果を切断し、肩で息をする。
「はぁはぁ……あちゃー、だめだ」

 考えとしては悪くなかったのだが、いかんせん魔法の炎が小さすぎた。せいぜい彼女の親指ほどしかない火炎では、鼠が通れるくらいの穴を開けることは出来ても、人間用のは難しい。
 学院魔法科で留年し、挫折したナンナの魔力が不足していることは確かであるが、この世界の一技術として普及している魔法は古代の封印により効果を抑えられ、ささやかな恩恵をもたらす場合が多いことを彼女の名誉のために付け加えておこう。

「残念だね」
 うつむいたレイベルを励ますため、ナンナは別の方法を模索した。火炎魔法の疲れはあるが、名誉挽回への踏ん張り所だ。
「じゃあ、これはどーかな?」
 ――と言いつつも結局のところ名案は浮かばないけれど、
「塔ヨξйэ……我、天空の力・大いなる風を欲す……ヒュ!」
 とりあえず唱えてみた風の魔法は予想外の結果を招いた。

 表面に降り積もった最後の粉雪たちは、ナンナの魔法で剥がされ、舞い上がる。淡雪、雪花、花霞み――春のような趣だ。
「とってもきれいね……怖い吹雪と違って、夢のようで」
 レイベルは手を組んで見とれている。寒さのために赤く染まった鼻の下をこすり、魔女の卵は面目を取り戻して誇らしげだ。
「成功、成功っと」
 飛びはね、分かれ、また合流する生き物のような雪。ナンナは精神力の続く限り、親友のために冬の見せ物を演出した。

 それに疲れると座り込んで雪人形を作り始める。いくら遊んでも遊び足りない少女たちは、日が陰るまで動き回るのだった。
 


  1月28日△ 


[ひとしずく]

 しだいに遠ざかる秋の終楽章を、冬の序曲が確かな追い越した日のことである。結婚の約束を取り交わした恋人の熱病を治すため、若い男は重い荷物を背負い、北の大地へ旅立った。

 永久凍土のひとかけを――。
 溶かさずに持ち帰ることが出来れば、熱病は治るという。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 冬山を越え、幾度の吹雪をやり過ごした生と死の狭間の大冒険だけでも別の物語になるが、今回は枝葉である。冬の真ん中の日、男はついに最果ての村へ到達することに成功した。

 大地は白く凍え、起きることを決して許されぬ永続的な眠りについていた。何枚もの服の上に駄目押しの毛皮のコートを羽織って着膨れし、耳まで覆う帽子を被り、重ね着したズボンと黒い長靴を履いた物々しい出で立ちの男はその場にしゃがみ、氷の表面をナイフで削り取る。が、手袋の右手に載せただけで、じわりじわりと白の厳しさが薄れ、透明になり、溶けてしまう。

 ひとかけの永久凍土が、ひとしずくに――。

 容器に密封したとしても、恋人の待つ故郷に帰り着けるのは春ごろになってしまう。溶かさずに持ち帰るのは容易でない。
 男は村の長老を訪ねた。
「これを持って帰るには、どうしたらいいでしょう?」
「鍛冶屋に頼むがいい。値は張るがな」
 赤い帽子を被った白い無精ひげの老人が無感動に言った。
「鍛冶屋?」
 驚いて聞き返しても、相手は何も応えず首を振るだけだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「永遠の輝きなど……どだい無理なのだ」
 壮年の鍛冶屋は腕組みし、男に背中を向けて椅子に腰掛けたまま吐き捨てるように言う。男は引き下がるわけに行かぬ。
 粘って、粘って、追い返されても粘ると、鍛冶屋は諦めた。
「それほどまでに言うならば、やってやらんこともない。おそらく将来、わしを恨む日が来るだろう。だが、決めたのはあんただということを肝に銘じておくことだ。あんた自身が決めたのだぞ」
「恨むだなんて」
 男は訳が分からず絶句したが、鍛冶屋の気分が変わらぬうちにと高額の料金を手渡した。鍛冶屋は受け取らずに返した。
「天の定めた死期に反する。こんな仕事から金は取れん」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 どんな道具、そして方法を使ったものか。
 かくして、不思議きわまりない北国の職人の手により、凍土のひとかけは指先ほどの大きさのダイヤモンドに加工された。

 氷の微笑、時を経ても変わらぬ未来永劫の輝き――。

 求めていたものを手にし、男は深く礼を述べて村を去った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 水音麗しき雪解けの頃、男はいよいよ故郷に帰り着いた。
 はやる気持ちを抑えて家に駆け込み、ブローチにしたダイヤモンドを贈ると、病床の恋人は痩せた顔に薄い笑みを浮かべた。
「この〈お守り〉が輝いている限り、私は大丈夫だと思うわ」
 事実、恋人の熱病は急激に恢復して、結婚話は前進した。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 風の強い春の晩であった。隣村に出かけていた男の留守の間に火事が起こった。恋人は煙と炎に巻き込まれ、逝った。

 翌朝、鎮火したものの、未だにくすぶっている自宅の前で、男は呆然と立ちすくんでいた。双つの瞳はもはや何も映さない。
 無意識にガレキを越え、恋人の座っていた場所に向かう。

 焼死体はなかった。ダイヤモンドも溶けていた。
 ただ、唯一の形見だったのは――。

 青空を映して輝く、丸い大粒のひとしずくであった。

 手を伸ばし、もう少しで触れられると思った時だ。折からの強い風を受けて、それはあっけなく弾け、霧散し、消え失せた。

 虚無を除いて、後にはもう何も残らなかった。
 あの最果ての鍛冶屋を、男は恨み、憎んだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 翌年、男はもう鍛冶屋を恨まなかった。
 男は別の女と結婚した。
 


  1月27日− 


[海を飛んだ少女(5)]

(前回)

「私は呪文を唱えたわ」
 シェリアはゆっくりと薄紫の瞳を閉じ、回想の海に潜った。必死に取り組んだことほど、振り返れば懐かしく思えるものだ。
「うろ覚えの、師匠の言葉を思い出しながらね」
 腰の後ろ側に両手を当て、彼女はしなやかに指を伸ばす。

『おおいなる風を、われは欲す……ヒュ!』

 あざ笑うように背伸びしてはしゃがむことを繰り返す沖つ白波はいったん大人しくなっていたが、十一歳のシェリアは次なる瞬間に飲み込まれてもおかしくない、まさしく風前の灯火だった。
 しかしながら風には二種類がある。炎をかき消す空気の流れと、むしろ火を煽り立てるもの。炎の気性を持つ彼女は、自ら風となって生命の火を燃え上がらせ、窮地を脱すべく画策した。

 魔法を詠唱する場合、本来ならば前方や上方に腕を伸ばす。ところが若き魔術師は、塩水の中に浸けたままの両手を後ろに回し、腰を支えるような形でしっかりと組み合わせたのだった。勇気ある少女が唯一の打開策と信じ、実行に移したのは、これまで一度も成功したことのない、捨て身の〈天空魔術〉だった。

 呪文を唱え終わっても何の反応はなかった。失敗という単語が脳裏をかすめたが、彼女は決して諦めず、水の冷たさに震える指先へ限りなく意識を集中させた。この一時的な〈凪ぎ〉が終われば確実に命運は尽きる。彼女にはそれが分かっていた。

 その日、海が荒れていたこと――ここでは逆に幸いとなる。
(要するに、天空の精霊たちが数多く行き来していた訳よね)

『来た!』
 小さなシェリアは、指先から弱い風が発生して渦巻きを始めたのに気づいた。十歳くらいだと、せいぜい魔法を安全に使用するにはこの程度が限界であるが、彼女は一つ心に決めていた。術者に危険が及ぶため、固く禁じられている使い方であることを承知の上、魔力を一気に解放して自分には制御できないほどの魔源物質を取り込み、敢えて暴走させることを――。

「あんな無謀な使い方は、最初で最後にしたいわねぇ……」
 溜め息混じりに感想を洩らすシェリアに対し、彼女より三つ年上で恋人のルーグが、今までの沈黙を破って思いを伝える。
「無茶して心配をかけるのは、勘弁してもらいたいものだな」
「まあ……なるべくね」
 シェリアは割と素直に従い、ルーグと視線を交錯させる。リンローナはそんな二人をまぶしそうに見つめていたが、ケレンスはタックの方を向いてあからさまに顔をしかめる。タックは何一つ表情を変えず、今まで通りの軽い微笑みを浮かべていた。


  1月26日− 


[弔いの契り(7)]

(前回)

 ダンスホールの木の床は一応良く磨かれてはいたが、とりあえず磨いておいたという印象がぬぐえない。表面的に艶はあるけど、どうしても薄汚く見える。かつては隆盛した時もあったんだろうが。まあ、これはこの町に共通してる雰囲気だけどな。
 参加者の方は余計ひどい。最初に見回した通り、田舎者のヤローか適齢期を過ぎたオバサンばっかしで、華も覇気もない。
 こんな状態だから、俺たち若い冒険者を呼んでパーティーを開くんだろうか? ――いや、それだけじゃねえはずだ、絶対に裏がある。そもそも、この年齢と性別の参加者からして奇妙なんだぜ。俺はかぶりを振って、もう一度周りの様子を精査する。

 妙に寒々しいダンスホールの入口と反対側、最も上座に一段高い席が用意され、色褪せた青っぽい天蓋まで用意されていた。美しい町を統べる、ご立派な男爵様の定位置なんだろう。
 その前に横長のテーブルをしつらえており、並んでいる椅子を数えたらピッタリ五脚だった。横には給仕らしき年増の女が片膝をついて頭を垂れ、痩せた十歳ほどの小姓も控えている。
 あんまし考えたかねぇが、俺らの場所なんだろうな――。

「なんか、おかしいわね……」
 肝っ玉の据わっているはずのシェリアは、緊張を押し殺した声でひそやかに語った。あいつには珍しく、寒気を振り払うかのように肩を震わせる。薄着だから、という理由じゃねえはずだ。
 あの村人たちに比べれば、洗練されていると断定しても過言ではないシェリアとリンは目立ち、全体の雰囲気から明らかに浮いている。姉貴の方は息苦しさを感じているようで、わざとらしく咳払いしたり、落ち着きなく右足のつま先を上下に動かす。
 あれから俺の方を向いてくれないリンの表情は分からなかった。参ったな、あいつ、まだ俺の言ったことを気にしてやがる。何だか分からねえけど、俺の胸まで苦しくなってくる始末だ!

 気分を変えるため、俺はタックに近づき、低い声で言った。
「この村のファッションは素晴らしく先進的らしいぜ。なあ」
 近くに来てみて分かったんだが、村人の精一杯の正装は俺でも分かるほど流行遅れだ。ボタンの付き方やら形やらが徹底的に古臭いのだ。単に貧乏なら、もっと見すぼらしいだろうが、そういうわけでもない。精気と誇りだけが腐ったような感じだ。
 今日はずいぶん皮肉屋になってる俺だが、実際の所、頽廃的な雰囲気に揺さぶられている。悪いことが起きなきゃいいが。
 どうやらタックも同じことを考えていたらしく、小声で返した。
「ある時点で、時の流れが止まってしまったかのようですね」
 悪友の言う通り、数年前、何かが起こったんじゃねえか?

 社交界は華麗なる戦場だという言葉に縁の無かった俺だが、確かにこれは闘いの場所だと感じる。おそらく、ここに勢揃いした役者からして、社交の王道である優美な争いからは外れるだろうが、そう大差はないはずだ。剣術士の直感が俺に絶えず警告しているからな――ごちそうへの欲求も衰えてくるほどに。

 タックに同意しようと思った寸前、老執事が邪魔をする。
「男爵様がご到着されました。一同、拍手をお願いします」

 俺は両手を打ち、最後の役者に最大限の称賛を送った。


  1月25日○ 


[夜半過ぎ(6)]

 廊下の空気は凍傷になりそうなほど厳しかったが、それは寒さだけでなく、耳が痛くなるくらいの〈沈黙〉と〈静寂〉の影響が大きかった。気温の低さの素となって散らばるかのような、ほのかに降り注ぐ月明かり――あるいは天からの視線――は、張りつめた濃密な空間が色褪せぬよう、絶えず塗り替えている。
 窓の外はぼんやり乳白色に染まっていた。その傾向が強いのは、より遠くを眺めた場合だ。動くものは何一つ存在しない。
 刹那、ファルナはようやく雪がやんだことを悟った。夢の続きを思わせる幻惑的な銀の月だけでは実感が湧かなかったのだ。
 踏み下ろすとカツンという軽い足音が後追いで鳴り響くのを確かめつつ、ファルナは窓辺に寄り添っていった。久しぶりの晴れた夜空を見たいと思い、近づけば近づくほど、防寒対策の二重ガラスの内側の方の一枚はファルナの吐息で曇ってしまう。
 さて、美味しそうな香りはさざ波のごとく――山奥の村娘が知っているのは湖のさざ波くらいだが――濃くなったり薄まったりを繰り返した。つかず離れず、つきすぎず離れすぎず、不規則でしかも心地よい周期と幅を保ち、陽炎に似て揺らいでいる。ファルナには、匂いが手招きをしているようにさえ感じられた。

 彼女は左向け左をして窓に背を向け、手を前に差し伸べて前進しつつ壁を探った。部屋の中とは異なり、月光の白い炎(ほむら)が照らしているぶん作業は楽になっている。今度はすんなり到達したファルナは、右を向き、人気(ひとけ)のない宿屋の二階の廊下を見据えた。身体の震えは止まらず、腿(もも)や背中の筋肉も収縮しているが、ほんの少しだけ夜の海に馴れてきたのだろうか――上着の中に閉じこめられた温もりは間違いなく生命の力強さを膨らましている。もちろん寒いことは変わらないし、肌が出ている部分は猛烈に痛いくらいなのだけれど。
 ファルナは一呼吸置くと、左手で壁を伝いながら、スープかシチューらしき匂いの源泉を求める短い旅路についたのである。

 と、その時。音の失われた世界の片隅に――。
 割り込んできたのは、木の床のきしみ。
 しかもファルナとは明らかに無関係な場所だ。

 立ち止まって耳をそばだてれば、誰かの動く足音がする。
 気配。何も変わった点は見えないが、近づいてくる、誰か。

 匂いにせよ音にせよ、全ての証拠は、明らかにシルキアが眠っている部屋をさしていた。もともとは姉妹二人の部屋である。

 ファルナはどうしようかと、一瞬ためらう。
 結果として、先に行動を起こしたのは相手の方だった。取っ手が回るような軽い響きがあり、問題となっている部屋のドアの隙間から黄色がかった弱い輝きが洩れ、慎重に広がってゆき、それに伴って香りも高まる。彼女はごくりと唾を飲み込んだ。


  1月24日○ 


[試験近し]
 関連作品→『朝風のように』『友情の壷』

 昨日降った冷たいあられの残り香が、地面のレンガに繊細で異国情緒あふれる不思議な模様を描いている。太陽の光に焼かれ、誰かに踏まれ、世間の厳しさを味わった白い線である。
「ねむ様ねむ様、昨日のノート見せてっ。この通り!」
 親友のリュナンを拝み倒し、サホは言った。彼女らはズィートオーブ市の旧市街に住んでいる学院の生徒で、仲良しクラスメートだ。二人の絆は授業中に居眠りをして廊下に立たされる所から始まった。今でも居眠りの多さで二人は学科のトップを快走しており――言うまでもなく成績の方はいまひとつである。
 だが、それぞれに理由のある居眠りであるし、つまらぬことをぜんぜん気にしないという点では共通している二人組である。
「ねむちゃんので構わないなら、どんどん見てね」
 リュナンはそう言って、鞄から取り出したノートを手渡した。
 穏やかな性格の、金の髪を持つ十六歳のリュナンは、居眠りが過ぎて〈ねむちゃん〉というあだ名を付けられるに至った。その呼び方が気に入っているので、自分でも使っている。体が非常に弱く、しかも一人娘で、両親の強い愛情を注がれる。かつて学舎時代に喘息(ぜんそく)をこじらせて生死の境を彷徨い、入退院を繰り返して留年するなど、ひそかに苦労人でもある。
「恩に着るよ〜」
 一方のサホは十五歳、ざっくばらんな性格で、目立つ赤毛を持つ骨董店の娘だ。父を亡くし、母を手伝って遅くまで働けば、当然の皺寄せとして学院生活に影響するのもやむを得まい。髪や言葉遣いやから不良少女だと陰口を叩く輩もいるが、赤毛は元々だし、サホ自身は大人で、つまらぬ批判を相手にしない。

「やっぱ、ねむ、字がきれいだわなぁ。羨ましい」
 その科目は試験が近いのであるが、サホは寝坊して遅刻し、間に合わなかった。よって親友のリュナンに取りすがった次第だ。けれど親友の字が読みやすいのはお世辞ではなかった。
「そんなことないよ。サホっち、褒めすぎだよ」
 リュナンは謙遜して頭をかく。

 だが、その時、サホの足がはたと止まったのである。
「ん?」
 立ち止まり、赤毛の少女の眉毛はぴくりと動いた。その燃えるような瞳は、リュナンのノートの一文に釘付けにされていた。
「その時、マホジール帝国のマほジーこうて……〆〜÷?」
 リュナンは首を斜めにかしげ、相手の次なる反応を待つ。
 他方、サホは両腕を広げ、お手上げのポーズを取った。
「ねむに頼んだあたいが馬鹿だったわ……」
 顔は血の気が引いて蒼白になっている。無理もない。親友のノートは、途中から居眠りのせいで文字が躍っていたからだ。
「だから言ったのにぃ。ねむちゃんので構わないなら、って」
 鼻高々の様子でリュナンは得意げに応える。もはやサホは言い返す言葉が見つからず絶句し、淀んだ考えに沈んでいた。
 


  1月23日− 


[夜半過ぎ(5)]

「ひゃっ」
 背骨の辺りを昇ってくる寒気に耐えかね、ファルナは肩まで動かすほど大きく震えた。右手を左の腰に当て、反対の手を同じように伸ばし、あごを鎖骨に近づける。身体は縮こまるが、むしろ寒さによって内側へと押し込まれているようにも感じられた。
 上下の歯は離れることと触れ合うことを繰り返し、不安定なリズムを奏でていた。温もりの残る毛布をひどく渇望している。

 この状態でいるのは限界だった。彼女は腕組みしたまま、虫が触角を伸ばすようにひじだけを前に突き出す。得意の直感を働かせ、ドアまでの方向と距離を頭に描き、足早に前進する。

 ――ゴツン。

「いたっ……」
 突如、脳天付近に予期せぬ軽い電撃が走り、華奢なファルナは軽くよろめいた。結果としては頭が先に出て、ドアの場所を痛みとともに教えてくれたのだ――時おり露わになる、妙にどんくさいところは彼女の欠点でもあり、反面、魅力でもあるだろう。

 熟睡の度合いでは家族随一。いつもなら夜中に起き出すことなど考えられないファルナだ。夢も見ずに夜から朝まで直行するのが常であるし、珍しく夜中に目覚めたとしても布団から出ないうちに再び眠ってしまう。そもそも暗闇は好きな方ではない。
 その晩に彼女を突き動かしたのは、心配している妹の体調の最新情報が分かるかも知れないということと、そして何より食欲をそそり廊下から湯気となって漂ってくる〈あの匂い〉だった。
「いくよ」
 ファルナは自らを鼓舞し、外から迫ってくる寒さを押し返すように力強くささやいた。人差し指を目の代わりにして縦横無尽に探り、ついに見つけたドアの取っ手を掴んで、ひねった。最後まで回りきったのを確認してから自分の方にゆっくりと引っ張る。


  1月22日△ 


[夜半過ぎ(4)]

 ファルナは身体を丸め、闇にうごめく小さな山になる。息をひそめて口で呼吸すれば、喉の奥から気管まで冷やされるのが分かる。味覚よりも触覚に訴えてくる、まさに〈冬の味〉だ。この冷え過ぎた飲み物はどちらかというと苦手なファルナである。
 そのままの体勢でしばらくじっとしていたが、心の準備が出来たのか、おもむろに手探りして毛布のすそをつかんだ。ここから先が最も勇気が要るところだ。彼女はまず瞳を閉じ、視界に映るものは何も変わらないことに気づく。ついに最終的な覚悟を決めて、身を守ってくれる温もりのヴェールを少し持ち上げ――。
 鼻の頭を、冬のさなかへと慎重に出していったのである。

(ありゃ?)
 ファルナは思わず拍子抜けした。予想していたほどに鼻は痛くならなかったからだ。勢いに乗って、顔全体を闇夜にさらす。
 考えは甘かった。無数の氷水の精霊は、砂糖に群がる蟻のように、彼女の顔の温かさを奪うため躍起になって集う。それに留まらず、毛布の隙間を縫い、少しでも身体に近づこうとする。
 たまらないのはファルナだ。冬の海に浸した影響で、凍みた瞳からは涙が湧き、耳はむしろ熱くなり、肩の筋肉はこわばった。一方、頬はカンナに削られ、滑らかになったように感じる。

「だっ!」
 面倒くさがり屋の彼女は、一気に毛布をはぎ取ってしまった。腕から背中から足先まで、ありとあらゆる汗腺に鳥肌が立つのを跳ね返すかのような身軽さで立ち上がると、両手を広げ、一歩、二歩、三歩――指先がひんやりしたものに触れた。天性の勘を活かし、樫の木で作られた服掛けを探り当てたのである。
 毛皮の上着を正確にひっさらい、大慌てで袖を通し、羽織る。引き続き流れるような早業で上着のポケットから羊毛の靴下を取り出し、無造作に履いた。いったんベッドに戻って腰掛け、脇に置いてある靴に片方ずつ足を突っこむと、ほっと一息つく。
 僅かに微かな星明かりを除けば、寝室は真なる闇が覆っている。白いはずの吐息さえ、光がなければ見えぬ。この部屋に細い月光が降りそそぐのは、もう少し時間的に後のことである。


  1月21日△ 


[夜半過ぎ(3)]

 ファルナの至った結論は、母親特製のスープかシチューだった――匂いにつられて、お腹がぐぅーっと鳴り響く。この家では宿屋だけでなく酒場も開いており、両親ともに料理が自慢だ。
 村で唯一の酒場は時期を問わず繁盛しており、例えば春の山菜や夏の取れたての野菜、秋の川魚を使った季節のメニューは人気の的だ。真冬は真冬とて、雪かきを終え、身体の底から暖まりたい飲んべえの男たちが集まる。自家製のビールに、紅白の葡萄酒――ラーヌ河の最上流にある水の良いサミス村で作られた地酒は、大貴族も唸らせるコクのある味わいだ。
 十七歳のファルナはそこの看板娘で、裏のない穏やかな笑顔は皆に愛されている。もちろん、この時間では喧噪もとっくに果てて久しく、耳が痛くなるほどの絶対的な静寂の世界である。

 まもなく隣の寝室のドアが慎重に閉じる音が聞こえた。そこは本来、ファルナとシルキアの姉妹にあてがわれた部屋である。今晩は妹が一人きりで夢と現の狭間をさまよっているはずだ。
 二人が仲違いをしたわけでは決してない。雪遊びではしゃぎ過ぎた妹のシルキアは悪性の風邪をひいてしまい、朝から食事も摂ることも出来ず、ひどい咳と熱に浮かされて寝込んでいたのである。シルキアは可哀想だが、ファルナにまで伝染っては大変だと両親に説得され、その結果として彼女は隣の部屋で毛布にくるまっていたのだ。雪深い辺境のサミス村で、冬場の宿はいつも閑散としている。空き部屋はいくらでもあった。


  1月20日× 


[夜半過ぎ(2)]

 その時、廊下の床がきしむような低い音がして、ファルナは少し身をこわばらせた。可能な限り両耳に全ての関心を集める。
 ほどなくして二回目、三回目――風の叫び声にしては現実感がありすぎるし、寒さの仕業にしては間隔が短い。どうやら誰かが階段を上り、こちらに近づいてくるようだ。かすかに密やかな言葉の行き交いも捉えることが出来る。おそらく話し声だろう。
 そしてファルナの鼻は唐突に何かを嗅ぎつけたのであった。

 口の中に唾液をもたらし、猛烈に食欲をそそり、胃のあたりを温めてくれる特殊な種類の香りが、漆黒の空間の上の方を漂い始めた。その食べ物に間違いなく芋は入っており、ほくほくと芯まで熱が通り、自然な甘みの湯気を立てているはずだ。きっと豚か羊の肉も混じっているだろう。旅の行商人から購入した貴重な冬野菜を惜しげなく使ったかも知れない。山の幸をふんだんに取り入れて豊富な栄養を含み、素朴で深い味わいだ。


  1月19日○ 


[夜半過ぎ(1)]

 木目の曲線や楕円が繊細な芸術作品のように優美なのは、さすが豊かな森に育まれた山奥のサミス村である。その良質の材木で作られた堅牢で朴訥な床の繊維のすみずみまでも凍死させそうな勢いで、見えないけれども感じることの出来る〈氷水の精霊〉たちは窓の隙間から止むことなく染み込んでくる。
 外の雪は夜半過ぎにやんだ。それが分かったのは、月が久方ぶりに姿を現したからである。満月に少し足りぬ十四日目の月は、手が届きそうにないほど高い場所から凍った銀色の明かりを粉々にして世界に散りばめ、白い大地をおぼろげに浮き上がらせている。それは、まるで雪自身がぼんやりと光っているかのようでもあったし、夜明け前、山の頂から見渡した綿菓子の花びら野原――どこまでも果てぬ雲海をも彷彿とさせた。

 ファルナは布団の中で、しかも心の奥でつぶやいた。
(落ち着かないのだっ)
 彼女は左右に寝返りを打った。確かに眠気はあるのだが、目をつぶっても夢幻の睡魔は本領を発揮しない。これは寝付きのいい彼女にしては珍しいことであった。足の指の先までも温かさが保たれ、身体に関して言えば眠りの準備は完了している。ただし頭の方が冴え渡り、眠気を発動させないほど働き続けているのだ。鼓動はたまに駆け足をし、胸は本来よりも少し窪んでいる気がする――締め付けられる、とまでは行かないが。
 今宵、使っているベッドは馴染みの自分のものではなく、長さも幅も、堅さも、きしむ音も異なっている。彼女がいるのは、家族で経営している宿屋の客室、その空き部屋のベッドである。
 寝床が普段と違うことは眠れない理由の一つではあるが、副次的な要素に過ぎない。彼女が行き着く考えは一つだった。

(心配ですよん!)

 闇に充たされた刻、しかも布団に頭まで潜り込んでいる。それでもファルナの目の前に、シルキア――三つ年下の妹――の明るい茶色の髪、それと同じ色の瞳、やんちゃで悪戯っぽい微笑みがはっきりと形を取って現れ、他方、耳元では〈お姉ちゃん〉と慕ってくれる親しみのある若い声がよみがえるのだった。


(西国紀行により休載)


  1月16日− 


[団長]

 もう少しひどければ血も凍りつくような、最近では抜きんでて気温の低い朝だった。曲がり角のミラーに映った顔が赤い。
 その辺りは高いビルやマンションが少なく、都会にしては割合に空の広い住宅街の一本道だった。すれ違った自転車の女子高生は見るからに寒そうだ。だが、冬の真ん中に近づけば近づくほど頭は明晰になり、無駄が削がれて単純になる気もする。

 白い息を吐き出し、角度にして十度くらい顔を上げる。
(おや?)
 吐息の軌跡が、あの大空に刻印されてしまったか!
 誰かが空の高みから、ゆっくりと牛乳をこぼしたか?
 それとも天の川が出しゃばって昼間に出てきたのか。

 ――どれも不正解。
 それは飛行機雲だった。

 しかし、それは見たこともないほど長い飛行機雲だった。左手の下の方から始まり、首を動かして視界の画面をスクロールしない限り、全貌を拝むことは出来ない。ちょうど二画面半ある。
 白のクレパスを、鉛筆の代わりとしてコンパスに差し込み、サファイアのキャンバスに描いたのだろうか――赤の信号で立ち止まったとき、目線をどんどん右にずらしてゆく。その行き着く果てでは何の前触れもなく突然に霞み、風に取り込まれていた。
 飛行機本体の姿は見られない。最初は離陸したのかと思ったが、あのフェードアウトを見る限り、どうやら着陸したようだ。あの方角に、旅客機の空港は存在しない。殺戮飛行機だろう。

 そのグロテスクさに比べ、白い飛行機雲は無邪気だ。虹と並べれば痩せているけれども、確かに空の橋の一つではある。
(深くて凍った蒼い冬空だったから、余計に目立ったんだな)
 天駆ける白蛇は、何故か女の子向けの塗り絵を想起させる。年甲斐もなく、飛行機のクレパスを取り出して七色に塗り分けたいと思う。飛行機雲は虹よりも神秘性が足りないぶん、寿命は長いだろうから――そういえば飛行機とクレパスは何となく似てはいないだろうか? すさまじい轟音と燃焼が、遠くから見ると柔らかな筆致に見えるとは実に皮肉で、そして可笑しい。

 飛行機雲がいつもに増して生命を宿したのには理由がある。シベリアの熊か、白い字を複写するカーボン紙か、魔力を秘めた半透膜か、あるいは空を漂う流氷か――北の国からはるばるとやって来た、天気予報劇場で有名な〈寒気団〉の仕業だ。
(どんな団体だろう?)
 それは秘密の集団だから結局のところは分からない。だけどその朝に限っては、寒気団の団長の顔を垣間見た気がした。

 信号が進めに変わり、少し背筋を伸ばして歩き始める――。
 


  1月15日− 


[魔術の源・元気の源 〜ウピの帰り道(2)〜]

 南国ミザリア市で商人の修行を積んでいる十八歳のウピは、時折、学院時代にお世話になった白ひげの教授を思い出す。

「火は燃えて上昇し、天を充たす。
 水は流れて下降し、土を充たす。

 火は水を沸騰させ、水も火を消し去る。
 水と火が打ち消し合えば、それは水蒸気である。

 ならば、天と土が打ち消し合ったら、何になるのか?

 わしは、その〈隙間〉を見つけ出したいと考えている。
 無論、それは〈わし自身〉なのかも知れないがね――」


 また、論文に手こずっていたウピに、こう助言をくれた。

「書くからには、何としても結論に至る気概が必要である。
 それは最終的な結論ではなく、当面の結論で構わない。
 結論が完成して、論文はようやく存在意義を確立する。

 後で読み返して幼いと思った時、初めて書き直せば良い。
 当面の結論なのだから、書き直しは何度でも構わない。

 ただし、書く過程を楽しむ心の余裕を持つことだ――。
 言うのは簡単だが、実行するのはなかなか難しいがね」


「商人を目指すからに〜は、何としてもぉ、結論に……♪」
 彼の言葉に適当な音程を当てはめ、低い声で唄いながら帰り道をたどる。それだけでもウピの肩の重みはだいぶ楽になる。
 週末にはルヴィルとレイナという昔なじみの親友たちに会える。今度は何を食べよう。頭の中で想像のケーキが膨らみ、彼女のおなかも膨らみ――それらはシャボン玉のように弾けた。
「ま、ほどほどにしとかなきゃね」
 誰も見ていないのに頭をかく。ケーキのことを考えたら食欲が湧き、まずは夕食に期待をかける商人の卵のウピであった。
 


  1月14日△ 


[海を飛んだ少女(4)]

 十一歳のシェリアは沖に流され、身体の芯まで冷えきって、しだいに泳ぐ力もなくなってしまう。ルーグの追ってくるのが分かったが、波はますます荒ぶる巨大な怪物のようにうねって、二人を絶対的に引き離す。シェリアはふわりと持ち上げられたり、波の坂を下ったり、時には頭から塩水の滝をかぶったりした。
 しかし彼女は諦めない。何か方法があるはずと頭をひねり、考えに考えた。その間も町は遠ざかり、猶予は失われていく。

 結論として、泳いで岸を目指すことは無理だと判断した初級魔術師は、一か八かの賭けをしようと決めた。上体を起こすと、器用に立ち泳ぎをしながら、波のリズムが落ち着くのを待つ。
 目を閉じて水の奏でる音楽に身を任せるていると、身体はしびれ、冷たいのか熱いのか曖昧な気分になる。その一方、遥か海の底の貝殻の音まで聞こえそうなほど心は澄みきってきた。荒れた曲であっても、どんなタイミングで比較的緩やかになり、息継ぎや休符が多くなるか、本能的に分かってきたのだ。

(極限状況で、魔力が研ぎ澄まされたのかも知れないわね)
 あの時に味わった〈死の境界線〉を思い浮かべ、シェリアは寒気を覚えて首を振り、残っていた二杯目のお茶を飲み干した。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 太陽が雲間から顔を出し、八年前の彼女は危うく意識を取り戻した。そして直感する――最大にして最後のチャンスが到来したのを。行動を起こすとすれば、次の〈休符〉しかないのだ。

 彼女は両手を高く水面上に掲げ、思い切り息を吸い込み、吐き出した。精神を集中させ、覚えたての呪文の詠唱を始める。

『塔ヨξйэ……我、天空のちからを……』

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 再びポットを持って通りかかったウエイトレスにより、昔話は中断する。飲み物が充たされると、ケレンスは続きをせがんだ。

「それでどうなったんだ? 死んだのか?」
「馬鹿ねぇ。死んだら、今の私は何なのよ?」
 あきれて応えたシェリアは、もったいぶってカップにゆっくりと口をつけ、音を立てずにすすった。それから細く長い人差し指としなやかな中指でカップの取っ手をつまむと、丁寧に置いた。


  1月13日△ 


[海を飛んだ少女(3)]

 シェリアの漂流にいち早く気づいたルーグは一度戻り、リンローナにその場に留まるよう伝えた。また、大人たちを見つけ次第、助けを乞うように頼んだ。七歳のリンローナは青い顔になったが、気丈にも事態を受け容れてルーグの指示を復唱した。

(リンは昔からしっかりしてたんだな。誰かさんとは違……)
 またもや口を挟んだケレンスの語尾は苦痛な叫びに変わる。対面のシェリアが、つま先で思いきり彼の足を踏んだのだ。
(黙ってりゃいいんだろ。畜生……)
 シェリアは満足して頷き、懐かしそうに目を細める。耳の奥で、あの夏の日の波のさんざめきさえ響いているかのように。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ルーグはシェリアの薄紫色の頭を目指し、泳いだ。しかし予想以上に横波がひどく、思うように真っ直ぐ進むことが出来ない。
「私は焦って、夢中で泳いだが、疲れるだけだった」
 二十二歳のルーグは、十四歳の自分を思い出して語った。

 その頃、浜に残された小さなリンローナは通りすがりの中年夫婦を捕まえ、溺れかけているやも知れぬ姉の件を訴えた。
(何よ、私、溺れかけてないわよ。変なこと言わないで頂戴)
(ごめんねお姉ちゃん。遠くから見たら分からなかったんだ)
 リンローナは身を乗り出して補足する。しばし険悪なムードが漂うが、シェリアの怒りの矛先をケレンスは自らに向けさせる。

「へへーん。シェリアだって溺れかかったわけだな」
「そんなことないわよ。こっからの展開がすごいんだから!」
 意気盛んなシェリアは話を中断し、ケレンスに食ってかかるわけでもなく立ち上がり、興奮して叫ぶ――と、カフェに一瞬だけ静寂の天使が舞い降り、彼女一人に全員の注目が集まった。
「ふん。ほんと、すごいんだから。私の天賦の才能が……」
 顔を紅潮させて、姉は悔しそうに恥ずかしそうに座り込んだ。その声はしだいにトーンダウンし、いったんは消えてしまう。

 再び、周りの人々が会話を始めると、タックは先を促した。
「シェリアさん、続きを聞かせて下さいよ。お願いします」
「しょうがないわねぇ」
 大げさに溜め息をついて掌(てのひら)を上向きに広げ、姉は先ほどの失敗を誤魔化し、動転した気持ちを落ち着かせる。
「ちゃんと聞いててよ、特にあんた」
 シェリアに指を突きつけられると、ケレンスは頭の後ろで両手を組んで〈あさっての方角〉を見つめ、いい加減な返事をした。
「へーい、へいへい」


  1月12日− 


[弔いの契り(6)]日曜連載?

(前回)

「あー、そうだな」
 俺はそっぽを向き、すぐに慌ただしくリンを見直して息を吸う。上手い表現が思いつかねえが、とりあえず褒めておけばいいんだろ。止めていた息を吐き出し、俺はその上へ言葉を乗せた。
「可愛いドレスだと思うぜ」
 適当な感想を洩らすと、その場の空気は凍りついてしまう。
 直後、リンはうなだれて言った。
「そう。そうだよね。ありがと……」
 その言葉は空虚に響き、やつはそのままホールに向かって歩き始めた。何故かシェリアとタックが俺を厳しく睨んでいる。

 リンの後ろ姿がホールの中に消えると、シェリアとタックは一歩二歩と前に進み出て、全く同じタイミングで俺を糾弾した。
「馬鹿ね、あんた」
「馬鹿ですね、ケレンス」
 その後ろでルーグは困ったように腕組みしている。俺はシェリアとタックに詰め寄られてタジタジとなり、右足を少し引いた。
「何だよ、おめえら。俺が何か悪いことしたか?」
 反論しつつも、俺は腰が引けていた。タックが説明する。
「服を褒めてどうするんですか。リンローナさんを褒めなきゃ」
「タックの言う通りよ。あの子、褒めて貰いたかったんだわ」
 ごくりと唾を飲み込み、退く――あいつ、がっかりしたのか? 俺が言ったことは、あいつを傷つけてしまったんだろうか?

 だからと言って真正面から褒めるのは俺の性に合わねえ。
 しばらく睨み合ったままいると、背後から声が聞こえた。
「そろそろパーティーが始まります。ご入場下さいませ」
 老執事だった。俺たちは押し切られる形で会場入りする。


  1月11日− 


[海を飛んだ少女(2)]

「そんなこともあったわねぇ」
 シェリアは非常に平坦な声で、大したことではないように答えた――あるいは万感の思いを込めていたのかも知れないが。
「変身する魔法でも使ったっての……」
「黙って。順を追って話すから」
 ケレンスの質問を厳しく遮り、シェリアは記憶をたどる。

 ――が、身も凍える冬の風は彼女の思い出の邪魔をした。
「悪いけど、場所、変えてもらえる?」
 パーティーの財布を預かる会計係のタックは、現在の残金と今後の収支を素早く計算し、よくよく考えてからうなずいた。

「昔の話よ」
 暖かいお茶の入ったカップを置き、シェリアは語る。妹のリンローナは、かじかんだ手を湯気の立つカップに当てている。ここはメラロール市に林立する落ち着いたカフェの一軒であった。
「とてつもなく昔の、子供時代のことだわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それは、とある夏の日の出来事であった。
 ルデリア大陸の南西に位置する温暖なモニモニ町では、六月半ばから九月半ばにかけて海水浴が可能となる。シェリア(当時十一歳)、ルーグ(同・十四歳)、リンローナ(同・七歳)はいつものように連れだって、町の南側の砂浜に遊びに来ていた。
 その日は北東の風が強く、思いのほか、潮の流れは速かった。まだ小さかったし、安全志向のリンローナは水際で遊んでいたが、泳ぎに自信のあったシェリアはどんどん沖に出ていき、潮に流されてしまった。足はとっくに着かないし、砂浜を目指そうとすればするほど流されていく。大波が来ると視界はゼロになり、塩水を飲み込む。沖に行けば当然ながら水は冷たくなる。

(昔から問題児だったんだなぁ)
 感慨深く呟いたケレンスに、シェリアは鋭く言い返した。
(金づちは黙っててよね)
(な、何だよ、俺が……何だよ、そのな、あれだ)
 ケレンスの口調はしどろもどろになる。剣術に短距離走にとスポーツ万能の彼であるが、水泳だけは大の苦手なのだ。かなり動揺したのか、持っていたカップのお茶をこぼしそうになった。

 ちょうど、その時である。
「お客様、おかわりはいかがでしょうか?」
 盛んに湯気を上げている東国伝来の陶器のティーポットを厚い手袋でしっかりと支え、清潔な長い金髪をアップにした十八歳くらいのウエイトレスが通りかかる。シェリアは真っ先におかわりを頼み、他の四人もそれに従った。しばしの休憩となる。
「冬は、あったかいお茶とか、スープは最高だね!」
 リンローナが明るい笑顔をふりまき、タックはうなずく。
「ええ。全く、心の中まで暖まるようですね」
「じゃあ、続き行くわよ」
 先導役のシェリアが再開を宣言し、皆はカップを置いた。


  1月10日− 


 するとどうだろう。

 私の見間違いでなければ、何かが足元でキラリと光った、そして光っただけでなく白いような銀のような輝きが安定した様子で確かに灯り続けた。今は夏の終わり、そして私が立っているのは永遠に崩れゆく夜の砂浜――光る要素は全くないのだ。
 仮に蛍がいたとしても、あんな低い所は考えにくいだろうし、地を這う虫で光るのは聞いたことがないし、そもそも位置が動かない。壊れた懐中電灯にしては小さすぎるし、豆電球にしては場違いすぎる。消える寸前の線香花火に似てチラチラと瞬いているが、線香花火よりも透き通って、しかも力強い。ダイヤモンドにしては、あまりにも自分で輝きを放ちすぎる。宝石はいわば惑星なのに、足元の光の素は、まるで恒星のようなのだ。

 あッ、またひとつ増えた――。

 恒星。
 まさしく、それは〈恒星〉と呼ぶのが相応しく思えた。

 この静謐(せいひつ)な砂浜は、空を正確に映す湖となって。
 あまたの星たちを身につけ、着飾って。
 私の眼前に、堂々と、その全貌を現し始めたのであった!
 


  1月 9日− 


[海を飛んだ少女(1)]

 灰色の巨大な翼を、不吉な鈎(かぎ)の玩具のように広げ、羽ばたかず、ただ風に乗り、その海鳥は舞い降りてきた。まばたきしている間に翻ると、次の刹那、のたうち回る銀の鱗(うろこ)をくわえている――彼女の長い嘴(くちばし)に。海鳥の魚獲りは年老いた猟師のように厳しく、なおかつ芸術的でさえある。

「海と空との一瞬の出会いだね」
 冬空の海鳥を遠目にリンローナが呟くと、タックが答える。
「本当は、必死の生存競争ですけどね」

 しばらく北風の唄を聞き、沈黙が流れたのち、再び口を開いたのはリンローナであった。荒れた北国の海の向こうに、彼女の故郷であるモニモニ町の南海の夏を懐かしく思い浮かべて。
「そういえば、お姉ちゃん、海鳥になったことがあるよね」
 突然自分の話になり、リンローナの姉であるシェリアは物思いから醒めて顔を上げた。耳が痛いほどの寒さで、息は白い。
 訳の分からぬケレンスは眉をひそめた。姉妹と同郷のルーグは、彼の長い足でゆったり歩きながら、一言だけ賛意を示す。
「そうだな」
「何だよそれ、海鳥になった、っつーのは?」
 ケレンスの文句を合図に、いよいよ物語が始まる。


  1月 8日− 


[光の粒との一問一答]

Q.低い太陽から注ぐ光がカーテンのようでした。
A「光線なんて言うけど、光だって要は粒の集まりだわ」

Q.その光の中で、確かに七色の円を見ましたが。
A「光さえも七力によって作られているわ」

Q.夜の間、皆さんはどちらへ?
A「夜なんか有り得ない。自分らのいる場所が昼と呼ばれる」

Q.夜になると何も見えなくなりますが。
A「闇の精霊が見えてるでしょ」

Q.目を閉じるのと、闇が見えているのは、異なりますか?
A「視力拒否と、積極的に闇を見るのは、根本的に違うわよ」

Q.お忙しい所、ありがとうございました。最後に何か一言。
A「あなたの光を、そして、あなたの闇を紡ぎなさい」
 


  1月 7日− 


[森の魔女]

 大きさは広げた掌(てのひら)ほどの、紅茶色の花が庭に咲いてる。あたしゃ、そこにストローを差し込んで、吸い上げる。花は漂白され、あたしの口の中は紅茶で充たされるってわけさ。
 来客の時には、これで相手を見定めてやるんだ。壁を突き抜ける目にもなれば、声を伝える管にもなる。まさに何でも出来る花、あたしの有能な相棒ってわけだな。嫌な相手だったら、花に水をやる。花は喜び、相手はびしょ濡れで帰っていくのさ。
 


  1月 6日× 


[ミニマレス侯国]
 地図→『ルデリア世界・南部』

 マホジール帝国に属するミニマレス侯国は、長年続いている息の長い国家である。かつてはリュフリア地区(現・ラット連合リュフリア州)をも支配した侯国は、フレイド独立戦争に敗れてリュフリア地区を割譲した。だが、侯都ミニマレスからは中央山脈を越えた先にあり、大した産業も育っていなかったリュフリア地区は、もともと侯国には統治しにくい〈お荷物〉的な存在であった。それを戦後処理の一環として切り離すことにより、ミニマレス侯国は小さいながらも安定した発展を遂げることとなる。

 侯国が一定の勢力を誇ってきた背景には、まず地の利があげられる。東と北を峻険な中央山脈、西をミニマレス山脈、南はミザリア海――という天然の要塞に恵まれ、攻めるに難く守るにたやすい。最低限の兵力で、最大限の防衛力を生むのだ。

 侯都ミニマレスの背後には世界最大と謳われるバリエスタ鉄鉱山が控えている。鉄の輸出は国を豊かにし、安い税金は民の不満を抑える。列強の間で埋没しかねない侯国の存在感を高めるが、何かと採掘権を要求される諸刃の剣でもある。それでもなお、鉱山は侯国の最後の切り札で、死活的に重要だ。

 歴代の侯爵はしたたかな外交を展開。抜群のバランス感覚を発揮し、生き延びてきた。ミニマレス侯国には南方系のザーン族が多く居住し、宗主国のマホジール帝国とは異なる。民族構成では、むしろ東側のエルヴィール町やシャワラット町に近い。
 貿易・航行ルートでもルデリア大陸の東西の要に位置し、昔から〈双方友好〉路線を堅持してきた。西のマホジール、そして東のエルヴィールと、両にらみでつかず離れずの体勢である。

 近年、その路線にも変化が見られる。ウェトン河(東ミニマレス河)の中流にあるミニマレス町に対し、海沿いの港を持つポーティル町が商業的に成功を収め、発言力を増してきたのだ。ミニマレス侯国を通さず、マホジール帝国から直々にポーティル町を所領として与えられているウェトン伯爵は、東側のラット連合と手を組み、侯国を乗っ取るのではないかという憶測も流れている。本人は否定しており、野望も噂の域を出ないが、ウェトン河を挟んで西側のミニマレス町と、東側のポーティル町の間で民衆レベルのライバル意識があるのは本当のようである。

 マルス侯爵が存命の限り、どうにか秩序は保たれることが予想されるが、現状維持、ラット連合への参加、あるいは完全独立をも視野に、次代の侯爵は難しい選択を迫られるであろう。
 


  1月 5日− 


[弔いの契り(5)]

(前回)

 リンは白いドレスを着ていた。よく見ると微妙に黄色がかっているが、元々なのか、それとも時間が経ったからなのかは分からない。材質的は光沢があり、かなり本格的な感じだ。さすがは男爵の邸宅だ、と言わざるを得ない。気に食わねえけどな。
 仰々しいフリルのないシンプルな造りのドレスで、リンの清楚さを引き立てており、借り物にしては良く似合っていた。左右の三分袖と首周りにレースが使われていて、右の胸元にはワンポイントとして淡い桃色の薔薇のコサージュが付けられている。よく見ると袖の中程には小さな白いリボンが結ばれていた。花嫁が着けるような肘まである長い手袋は、さすがにしてない。
 スカートにも縦に幾筋かのレースの模様が縫いつけられていた。裾は無理矢理に膨らませることなく、割と素直に垂れ下がっている。背が低く、いわゆる〈幼児体型〉のリンには、この位の方がバランス的に映えるのかも知れない。その分、小柄さが強調されてるけどな。そんで、頭には銀の髪留めをしていた。

 姉と比べると胸は無いに等しいはずだが、詰め物でもしてるのか、それなりに色っぽい――というか、ウエストがかなり細いので、結果として胸があるように見えるだけかも知れないが。
 水色や青や、限りなく白に近い桃色、あるいはもっと濃い黄色のドレスも想像したけど、やつの薄緑の髪の毛に合わせるならば、俺的には白か黒だと思っていた。予想通りというわけか。

 ただ、頭の中で考えるのと実際に間近で眺めるのは決定的に違う。特にリンの場合は普段が地味な茶系の服ばかりだったから、この変わり様には不覚ながら釘付けにされちまった。もともと有力な船長の娘らしいし、姉のシェリアにしろ何となく品があるとは思ってたが、今のリンは姫君と言っても通用しそうだ。何よりあの笑顔は、どんな立派なアクセサリーでも勝てない。

 ルーグ、タック、俺の男三人は、リンが姿を現した時に息を飲む。一番早く正気を取り戻すのは、もちろん冷静王タックだ。
「リンローナさん……すごくお似合いですよ」
 お世辞の上手いタックだが、今ばかりは本心から喋っているように聞こえた。リンは恥ずかしそうにうつむき、可愛らしく後ろ手に組み、つま先立ちした。そのままの姿勢で軽く礼を述べ、
「ありがとう。似合うかどうか、ちょっと心配だったんだ」
 足のかかとをゆっくり下げる。しばらくの間、俺はぽかんと口を開いていたが、ルーグはシェリアの厳しい視線に気づいてわざとらしく咳払いをし、リンには一言だけ簡単な感想を伝える。
「どこかの国のお姫様のようだな」
「ちょっと褒めすぎだよ……でも、ルーグ、ありがとう」
 リンは、今度は少しだけ自信を持って顔を上げ、返事した。

 その大きな薄緑色の瞳が、俺の視線と合わさる――。
「どう、かな?」

 リンに真っ直ぐ見つめられ、俺は無意識のうちに蝶ネクタイをいじる。気の利いたことを言おうとしたのに、ルーグに先を越されちまった。どうやって答えれば、やつは喜んでくれるんだ?


  1月 4日◎ 


[空の落とし物(外伝)]
 関連作品→『空の落とし物(本編)』

「これは、またしても大発明じゃぞォ!」
 勢いのある叫び声が小さな研究室にこだました。気むずかしそうな眉はつり上がり、白いものが混じっている髪は整えられておらず、点々と生えた無精髭も見苦しい。しかしながら眼鏡の奥に浮かぶ二つの瞳は爛々と光を発し、口元は少しゆがんでいるものの子供時代の悪戯っぽさをちっとも失っていない。
 そして何よりも彼の印象を特徴づけるのは〈無限の自信〉とも言うべきものである。彼の名はカーダ。歳は五十四で初老の域に入っているが、ほとばしるエネルギーは若者顔負けである。
 シャムル島の玄関口であるデリシ町、その郊外の坂道を越え、森を抜けた先にある〈次なる丘〉のどこかに簡素な研究室を構え、長きに渡ってルデリア世界の七大元素を研究してきた。人使いが荒く、弟子の数は延べ四千と豪語する変わり者だ。

「師匠、今度は安全な発明でしょうね?」
 半信半疑の気持ちを隠しきれず不安そうに訊ねたのは、カーダ氏の現在の助手を務めるテッテ氏である。二十四歳にして数々の失職を経験し、駄目もとで志願した助手職であったが、思いのほか合っているようで、彼のあまたの就職遍歴の中でもダントツの長期間だった。それだけではない――雇う側のカーダ氏としても、テッテ氏は最長助手記録を更新し続けている。
 顔は細面で、安物の眼鏡をかけている。見るからに筋力が無く、運動よりも読書が似合うタイプである。最低限の身だしなみは整えられており、みすぼらしさは無いけれども、衣食住に関しては実のところカーダ氏以上に無頓着である。最初の頃はやや落ち着きがなかったが、人使いの荒いカーダ氏のもとで鍛えられ、持ち前の冷静な判断力に磨きがかかってきたようだ。

「新世界を切り開くのに、安全など無いわい!」
 カーダ氏は弟子を睨んで即答し、それからふんぞり返って含み笑いをした。テッテ氏は特に動じた様子もなく、納得する。
「いやはや、全くその通りで……」
 危険を全てテッテ氏が被るのは、彼としても重々承知の上なのだ。それでも敢えて愚痴るのが一種の儀式になっていた。

 黄ばんだ藁半紙に図面を描き終えると、カーダ氏は重々しい口調で、新たな実験に関する専門的で難解な説明を始めた。
「これは雲を作り、雨を降らせる方法じゃ。この技術が成熟すれば、もはや日照りで食糧不足になることは無くなるのじゃ!」
「素晴らしいですね。皆のためになりますね」
 何度、苦杯を舐めても、人の好いテッテ氏はカーダ氏の話に期待を持ってしまう。それで師匠もつけあがるという図式だ。
「そうじゃろう、そうじゃろう。これが普及すれば、男爵の位を取り返すことなど、たやすいわい。国王だって夢ではないぞよ」
「して、その方法とは?」
 カーダ氏の想像力が本筋と離れていく前に、テッテ氏は絶妙のタイミングで軌道修正する。師匠は我に返って話を続ける。

「まず雲を作る。それには天空の力と氷水の力を適度に混ぜる必要がある。天空が雲、氷水は雨じゃ。そのままでは青い雲になってしまうが、牛乳でも加えれば見た目は白くなるじゃろう」
「は、はぁ……」
「その雲は、高く飛び過ぎては使えん。多少危ない橋を渡ることになるが、天空の力を打ち消すべく大地の力を用いることとする。それから僅かばかりの火炎の力じゃ。これは水分の蒸発を司り、雨を降らせる触媒として雷の発生にも役立つ。雲を持続的に成長させるため草木のエキスを加える。それから……」
 カーダ氏の長話は延々と継続する。テッテ氏は思い出したようにメモを取り始めた。あとでカーダ氏本人が何を語ったか忘れてしまい、弟子に確認することは目に見えていたからである。
 師匠の思考の暴走は、彼が空腹を感じるまで続くのだった。
 


  1月 3日○ 


 間違いねえ、あれは白い服を着た悪魔だ!

 ひび割れだらけで、真っ黒で汚ねえが、それでも安全なアスファルトは、やつらのせいでとんでもないことになっちまった。
 坂道なんざ余計に悪い。進もうとしてるのに足が動かねえ。
 天下の人間さまも、俺たち車も、今日ばかりはお手上げさ。

 もう分かっただろ、空を見てみろよ。
 白い悪魔どものお通りだぜ――雪って名前のな。
 


  1月 2日− 


 ほど良く暖かい、晴れた春の日の昼下がりのことだ。
 森の中に小さな広場があった。僕は自分の木に登り、枝と枝に結んで渡した網のベッドに寝転がり、うたた寝をしていた。

 何かの物音で目を覚ます。間違いない、誰かが草を踏みしめている。僕はものすごく聴覚が敏感だから、それが分かった。
 相手に気づかれないよう、腹筋に力を入れて顔だけを起こし、網目の間から下の方を覗き見た。左目は閉じ、右目だけで。

「光って不思議ですねえ」
 若い男の独り言が聞こえた。痩せている彼は、首から足の先まで漆黒のマントにすっぽりと身を包んでいて、闇色の長い帽子をかぶり、顔だけを露わにしている。表情までは判別できないけれども、ぱっと見た限りでは二十代半ばくらいに見える。

 男は懐からこぶし大のガラス玉(あるいは宝石なのかも知れないが)を取り出し、突然放り投げた。それは勢い良く上昇し、少しずつスピードを落とし、広場の真ん中のてっぺんで止まった。そのまま落ちてこない――僕は息を飲み、目を見張った。

 男が指をぱちんと鳴らすと、不思議なガラス玉は輝かしいきらめきだけを残し、空気に溶けるように見えなくなってしまった。
 そして、消えたミラーボールは太陽の光を集めて――。

 広場には見たことのない模様が描かれていた。光を削って作り出した影の芸術だ。しかも、そのうちに模様が意味を持ち始めたのである。黒い犬がいる、黒猫もいる。豹もいれば、鴉もいる。鯨の一部だろうか、巨大な影も垣間見えた。それらは列を作り、ついに影の殻より浮き出して実体を持ち、広場を回り始めた。例の男は高く両手を掲げ、動物たちを先導して、ゆっくりと歩いている。その行列は神聖であり、同時に不吉でもあった。

「すごい!」
 僕は叫んで、ハンモックから立ち上がり、慌てて木を降りる。最後は面倒になって、結構な高さから飛び降りたほどだ。

 ――しかし、そこにはもう誰もいなかった。

 人だと思ったのは、単なる梢の影だったのだ。
 謎の宝石のきらめきも、すでに失われていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 あれは夢か現実なのか、僕は未だに分からないでいる。
 


  1月 1日− 


[凧揚げ]

「わっ、すごい力!」
 ナンナの小さな身体はのけぞり、黄金(こがね)の髪が揺れました。その視線のはるか先には、竹の枠に薄い紙を貼り付けた凧が浮かんでいます。ナンナは合わせた両手に力を込め、しっかりと大地を踏みしめ、一生懸命に凧を操ろうとしていました。
 その隣では、友達のレイベルが心配そうにつぶやきます。
「ナンナちゃん、無茶しないでね……」
「だいじょーぶだってば☆」
 そのナンナの手には何も握られていません。さらに奇妙なことには、凧の方にも糸は付いていません。それでも凧は風を受けて膨らみ、天の高みを目指して少しずつ昇ってゆきます。あとちょっとで、青空に浮かぶ白い羊雲の群れまで届きそうです。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「雪が降るところを近くで見られたら、きっと素敵ね」
 レイベルの、その一言が始まりでした。
「そんなの簡単、バッチリ見れるよ!」
 魔女の卵のナンナはいつも通り自信たっぷりに言いました。
「本当に? でも……」
 さんざん出来損ない魔法に被害を被ったレイベルは、最近、半信半疑です。口ごもった彼女の心の中では、それでも友達を信頼したい気持ちと、隠しきれない不安な思いが混じります。
「凧揚げって知ってる?」
 突然のナンナの質問に、レイベルは首を振りました。
シャムル島から輸入された外国の遊びなんだけどね、ナンナもよくわかんないけど、軽いものを風に乗せて飛ばすの。うちの物置にあったのを、偶然見つけたんだよ! それで雪雲をつかんで持ってくれば、目の前で雪が降るとこを見れるはずだよ」
「その凧っていうのは、どうやって飛ばすの?」
「えへ……それはね。魔女におまかせ☆」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「きょっへぇー!」
 ナンナは奇声を発し、自分を励まします。レイベルは手を合わせて、ナンナと、風の強い冬空を漂う凧のために祈りました。
 実は、あの凧は魔法仕掛けなのです。糸で支える代わりに、ナンナの魔力を細く長く送り込んで、凧の動きを操るのです。
「ダメダメダメぇ! 切れちゃダメ!」
 ナンナは目をつぶったり、開けたりして、何とか集中を維持しようとしました。見えない魔法の糸が切れる寸前なのです。
「お願い、もうやめて! ナンナちゃんの気持ちは嬉しいけど、そんなに無理してもらっても、ナンナちゃんに良くないわっ」
「あと、ちょっと……」
 凧の頭が、低い雪雲にかかる寸前のことです。

「あっ!」

 ナンナのその一言が全てを象徴していました。前向きな彼女には珍しく、驚きと、失望と、無念さに彩られた声色でした。
 凧はクルクル周りながら、空の螺旋階段を下りてゆきます。
「ごめーん、糸が切れちゃった。今年、第一号魔法も失敗〜」
 すぐに立ち直り、舌をぺろりと出して頭の後ろをかくナンナに、レイベルは抱きつきました。きれいな瞳は少し湿っています。
「ナンナちゃん、ごめんね、変なお願いしたばっかりに」
「どーしたの? 気にしないでね。ナンナももう気にしてないし、魔法の練習になったから助かったよ。今年もよろしくねっ☆」
 相手を気遣って元気に言ったナンナから身体を離して、レイベルは涙を拭き――とびきりの笑顔を取り戻して返事をします。
「うん。私こそ、よろしくね」

 感動的な場面は、残念ながら長続きしません。
 レイベルの真上を目指し、凧が落っこちてきたからです。
「きゃあ、助けて!」
「こっちこっち〜!」

 二人にとって、またしても大騒ぎの一年が幕を開けました。
 






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