[弔いの契り(31)]
(前回)
「あっち……」
フォルは指を上げて、はっきりと示す。ダンスパーティーの度に同じような事があったのだから、知っていてもおかしくない。
屋敷はひっそりと静まり返っている。幾つもの窓には厚いカーテンが掛かり、一つとして光は洩れていない。だが、その中から血走った黒い不気味な目で監視されているような錯覚を覚えて、俺の背中には冷たい悪寒が走った。ダンスパーティーのさんざめきは聞こえてこないし、この場所が敷地のどの辺りになるのかも判然としない。現実から切り離されたような感じだ。
そんなことを考えていたのは、実際には一瞬のことだった。俺とタックは向き合ってうなずき、それから同時にフォルを見る。
「はぁ、はぁ、僕が、案内する」
フォルは歯を食いしばって、肩で息をしていた。男に二言はない。賢いあいつは、もう後戻り出来ねえって気づいたんだろう。
姉貴のサーシャを不気味な呪縛から完全に解き放つには、俺たちにすがり、男爵側と徹底的に戦うしかないんだってことを。
「ほっ、ほっ、ほっ」
誰ともすれ違わないが、俺たちは神経を研ぎ澄ませて快速に走った。屋敷の裏側に沿って石造りの遊歩道らしきものが整備されており、そこからは少し離れた庭を突っ切ってゆく。満月が雲に隠れ、姿を現すたびに、夜の彩りは一層深まっていった。
詮索するように通り過ぎる冷え切った秋の夜長の風は、さっきまでの清々しさを確かに失いつつあった。町の側溝に溜まったヘドロみたいに、ねっとりと重たく、身体にまとわりついてくる。
魔法を扱えるほどの魔力を持っていない俺にだって分かるさ。いよいよ〈やつら〉が、倒錯した本性を露わにし始めたんだな。
草は身を寄せて恐怖に打ち震え、夜行性の鳥は巣に戻ってじっとしている。庭の池は深淵に繋がる穴と変じ、舞い散る木の葉は悪い夢のかけらだ。馬小屋の馬たちは低くいななき、屋敷は邪(よこしま)な神を崇める妖しい一団の本殿となり果てる。
所々に設置されている裏口から誰も出てこないことを確かめつつ、俺たちは息をひそめて駈けた。タックは事態の急展開に備え、次なる〈ガミンの目薬〉を用意してある。俺だって当然、タキシードのポケットに突っこんだ右手はナイフの柄を握ってる。
果敢にも先頭に立って道案内役を務めるフォルは、すでに額の汗が流れ出し、しきりに目の辺りを手の甲でこすっている。
「はぁ、はぁ……」
地面の起伏さえ、夜の闇は隠してしまう。足を置いたつもりの高さに土がなかったり、その手前で触れたりする。俺とタックは余力があったし、得意の運動神経で体勢を立て直していたが、フォルはしだいにふらつくことが多くなっていた。限界が近い。
振り返ってみれば、それほど長い時間でも、遠すぎる距離というわけではなかった。広いことは広いが、要は田舎の貴族の居城だ。妙な幻惑魔法さえ使われていなければ、どこまでも続く屋敷という代物は存在しない。いつか必ず目的地に着ける。
「あれだ」
「あれですね」
俺とタックは、フォルが教える前から気づいていた。立ち止まって場所を示そうとするフォルをとっさに捕まえて、近くの木陰に隠れる。まだ距離はあるから、見つかってはいないはずだぜ。
心臓を抑えて座り込むフォルを勝手に休ませておき、俺と相棒は樹の幹の左右から顔を出し、情報収集に励む。礼服の白いシャツは目立つから、首だけを突き出す苦しい格好になる。
ひときわ良く茂った木々の間にカムフラージュされているが、そこに〈何か〉があった。入口の辺りに人の気配があるのも微かに見分けられる。かなり高い場所へ登りつつある望月の淡い光の糸を絡め、林の奥に鈍く輝いている建物が垣間見える。
「ここでもう結構です」
振り向いたタックは、ささやき声でフォルに告げた。声量は小さかったが、相手に有無を言わさぬ決然とした響きがあった。
「待って。僕も、何かの役に……」
渇いた喉を無理矢理に潤そうと、唾液を飲み込みながら、フォルは途切れがちに言った。必死になってやがる――健気なやつだ。俺はもう、さっきの〈リンが騙された〉ことに対する怒りは、ほとんど鎮まっていた。今ならまだ、間に合うかも知れねえ。
リンはきっと掴まってる。ルーグとシェリアのその後も気になるが、とにかく最後まで諦めず、俺とタックだけでも出来ることをやるしかねえんだ。となると、フォルには悪いが、足手まといだ。
「もう充分だぜ。ここまで案内してくれたからな」
俺はナイフを持っていない方の手をあいつの肩に乗せ、労をねぎらう。タックも自らが得意とする論理的な説得を展開した。
「あなたは朝まで、どこか安全な場所に隠れるんです。僕らは敗れて、戻ってこないかも知れません。そうしたら逃げて逃げて、隣町の役場か冒険者支部に駆け込み、全部話すんです。ある意味、最も重要な役ですよ。あなた以外には頼めません」
「任せとけ」
やつの肩を叩くと、フォルは急に涙声になり、諦めて言った。
「姉さんを……頼みます」
「頼まれたら断り切れないのが冒険者。あとは任せて下さい」
タックは飄々とした口調で言った。緊張すべき出来事や緊急事態を楽しんでしまえる性格は、ほんとに羨ましい限りだぜ。
「さて、まずはどうやって、突入のきっかけを作るかだよな」
走り回った結果、背中や脇の下、太ももの辺りが、汗でじっとりと湿ってくる。さすがに二人だけで切り込んでも、剣術士の俺には愛剣がなく、諜報員のタックの得意とする飛び道具も足らない。ここからじゃ相手の人数も把握出来ねえし、敵の本拠地に入れる自信はない。時間がなくて焦りは募るが、ここまで真相に近づけたというのに、警備兵をやり過ごす切り札がない。
畜生。状況の変化や、機会を待つしかないのか?
ルーグたちと合流すべきだろうが、ダンス会場に戻ったら確実に捕縛される。武器を置いてきた控え室に戻ると言っても結構な距離があるし、場所もいまいち分からねえ。どこまで男爵側が兵を雇ってるのか不明だが、待ち伏せに遭う可能性もある。
タックは監視役を俺に任せ、ぬかりなくフォルを諭していた。
「僕らがいなくなったら、こっそりと逃げて下さい」
「はい」
だいぶ落ち着きを取り戻したフォルは微かにうなずく。タックは鋭い五感の状態を維持したまま、年下の男に指示している。
「くれぐれも屋敷の正門で掴まらないように。幸運を祈ります」
と、その時。
赤っぽい妙な光が、向こうで弾けたんだ――。
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