2004年 4月

 
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2004年 4月の幻想断片です。

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  4月30日− 


[風薫る季節に(3/4)]

(前回)

 ザルカはミザリア島の春の風景を代表する花である。人の両手を合わせ、ワイングラスのように広げた状態を思い起こさせる大きな花びらは、華やかで鮮やかな季節の到来を明瞭に告げる。春の空気に身を浸すザルカの花はどれも明るい色に染められているが、当然ながらそれぞれの木によって彩りは少しずつ異なり、微妙な違いが人々の目を楽しませてくれる。紅っぽかったり、朱に近かったり、桃色がより強調されていたり――。

「ねぇー、花びら、まだ落ちないのー?」
「ハラへった!」
「こらァ、食べ物を持って走り回らないの!」
「すいません、うちの子です。クゼ、ほら、謝るんだよ」
 好天に恵まれて家族連れが多く、背の低い子供たちが予想できない動きを繰り返しているが、大多数の人々は微笑ましく眺めている。その代わり、あまりにも常識から逸脱している場合は、誰もが親代わりになって注意する――けじめのある、サッパリとした心の風土が、この国には古くから根付いている。
「今年は早く咲いたわねぇ」
「色の出方は、いつかの年に比べれば、あまり良くないようね」
 話し込む近所のおばさんたちの横をすり抜けて、ウピとレイナは眩しい午後の広場を斜めに横切っていく。向こうには椰子の木が遠慮がちに見え隠れし、年に一度やってくるザルカの見せ場の引き立て役に徹している。白い破片が風に乗って飛んでいたので、最初は花びらかと思ったが、それは清楚な蝶だった。

「近くから眺めるのは、また格別ですね」
 以前、ゆえあって最高級の水色のドレスを着させられた際、ララシャ王女と間違えられて追いかけられたことのあるレイナは、どこか優雅な雰囲気を醸し出している少女である。言葉遣いも落ち着いていて、眼鏡の中に輝く瞳は知的な光を帯びている。
 自然の草花は華奢で繊細で、しかも生命力に溢れ、二人にとってはどんなに精密なフレイド族の金細工より価値があった。
「いいよねー、季節のまっただ中を感じられて」
 ややくすんだ金色の前髪を掻き上げて、ウピは痛くなるほど首を曲げ、ザルカの花びらの造りや、内側の色、めしべやおしべ、緑のがく(うてな)の様子を興味津々そうに覗き込んでいた。おっちょこちょいで早とちりな面はあるが、彼女の朗らかな微笑みと裏のない素直な性格、聞き上手で出しゃばらず思いやりのある心は、多くの友人に受け容れられ、愛されている。

「かわいーい」
 銀色の立派な口ひげをを蓄えた父親に肩車してもらっている幼い娘が、発展途上の小さな手をザルカの花の方へ伸ばす。
 手をつないだり、はにかんだ笑みを浮かべて幸せそうに見つめ合う――春らしく、初々しい姿の恋人同士も目立っている。
「あー、あたしも早く素敵な恋人が欲しいなぁ」
 ウピが言うと、花から視線を逸らしたレイナは静かに応えた。
「ちょっと遅かったかも知れません」
「ええっ?」
 耳を疑い、ウピは仰天して聞き返した。力が抜けたようにガックリと上半身を落とし、それから徐々に持ち上げてゆく。就職したとはいえ、いまだに青春を謳歌しようと欲する彼女はレイナの言葉の一撃にかなりの衝撃を受けたようで、口調は重かった。
「遅いかなぁ……でもあたし、まだ十八だけど」
「いえ、お花の話ですけど」
 レイナは顔の前で手を振り、あくまでも生真面目に否定した。
「なーんだ。びっくりしたよ」
 ウピはほっと胸をなで下ろし、心からの安堵の溜め息をつく。
「ふぅ〜」


  4月29日○ 


[笑顔の種(10)]

(前回)

「わしはさっき、命はバネみたいなものじゃ、と言った」
 思いをじっくり味わうかのような口調で、博士はつぶやいた。
 吟遊詩人がまれにが吹く、鳩の形に似ている陶器の笛は物悲しい音を奏でる。それを思い起こさせる北風の一団が通り抜けると、古びた研究所は微かに震えた。隙間風も入り込むし、築四十年近く経ってあちらこちらにガタは来ているものの、何人もの腕のいい大工が建てた木造の〈七力研究所〉は土台がしっかりしていたので、驚くほど堅牢であった。平面上の広さはそれほどでもないが、二階と屋根裏、そして地下倉庫まである。
 それは建物の主(あるじ)の雰囲気と、とても似通っていた。

 外の風の音が収束していく速度に合わせ、老師は瞳をゆっくり閉じていった。代わりに、無精ひげの伸びた口を開いてゆく。
「わしらが知恵を絞り、いくら薬品や魔法の力で作り替えようとしても、やつらは抵抗する。伸ばしたバネが縮むように、元に戻ろう……バランスを取ろうとするんじゃ。それを知り、上手く誘導することじゃな。決して騙してはいかん、理解してもらうんじゃ」
「……」
 弟子のテッテは口をへの字に曲げて、眉間に皺を寄せ、無言でうなずいていた。そのたびに安物の眼鏡が上下に揺れた。
 彼はふと思い出す――昨年、師匠に怒鳴られながら何とか育て上げた、天空の魔力を帯びた道具のことを。空切り鋏・雲塗り絵筆・星吹きストローと名付けられ、ジーナとリュアが初めて研究農園に迷いこんできた日に彼が贈った不思議な草のことを。
「と、いうわけじゃ。……ふっうぉーおァ」
 言い終わってから、カーダ氏は椅子に座ったままの姿勢で腕と腰を思いきり伸ばし、大きなあくびをした。次々と襲いかかる強烈な睡魔の攻勢に耐えられず、壊れかけの眼鏡を無造作に外し、幾筋もの谷が刻まれた初老の手の甲で両眼をこすった。
「そして、わしは寝る」
 突然に話を打ち切った博士は、作業机の上に開きっぱなしになっていた分厚い専門書に突っ伏し、腕で頭を抱えるようにして眠る体勢を整えた。後で首が痛くなるのは分かっているが、暖炉を炊き続けている室内の空気は温かく淀み、眠気を誘った。

「貴重なご助言、ありがとうございます」
 テッテは真摯な気持ちで深く頭を下げた。さっきまでの興奮は冷めて、体の奥にじっくりと力の源が染み渡ってくるような、奇妙で新鮮な感覚に捉えられていた。左手に握りしめていた四つ折りのメモ用紙が汗で湿っていることに、今さらながら気づく。
 カーダ博士は早くもいびきを立て始めている。最初は偽物のいびきに聞こえたが、いつの間にか本物と入れ替わっていた。

「夢、か……」
 雫の浮かぶ窓辺に近づき、若い弟子は野原を眺めていた。
 外に広がる丘や森、くすんだ空は遠い春を待ち望んでいる。
 傍らで寝息を立てているカーダ博士も、夢を彷徨っている。
 たまに遊びに来るジーナとリュアも。
 そして自分自身も――。

「よし、決めた」
 師匠を起こさないよう小声でつぶやいたテッテは、靴の足音に気を付けながら部屋を出ていった。だいぶ火の勢いが弱まってきた暖炉には、黒く炭化した角材がうずたかく積もり、まだ燃えはぜっている部分は黄色の焔をあげて室内に暖を振りまく。
 戻ってきた時、テッテは一台の天秤を胸に懐いていた。手先の器用なフレイド族が作り、観賞にも堪えうるほどの美しさを誇るが、実用的でもある精巧な秤だ。古びてはいるが、男爵の息子だったカーダ氏がずっと大切にしてきた貴重な一品である。
 幾つかの小皿に分けて狭い出窓に並べておいた粉末のうち、テッテが最初にスプーンを差し伸べたのは、紫色をした〈夢幻の魔力〉の抽出物だった。それから他のエキスを混ぜたり、割合を変えたりし、深めの皿に移し替えた。もちろん内容物と、区別するための皿の模様をメモ用紙に記入することも忘れない。
 汲み置きの水と、触媒の薬品をそれぞれの深皿に加えて良く溶かし込んだ特殊な液体へ、最後に同じ数ずつ植物の種を沈める。一晩浸けておけば、実験に用いる種子は完成である。

「出来た……」
 池に氷が張るほど冷え込んだ翌朝、紫や青や緑色にうっすらと染まった種をつまみ上げて、テッテは息を飲んだのだった。


  4月28日− 


[笑顔の種(9)]

(前回)

「植物をなめてはいかんぞ」
 まだ多少はまどろんだ瞳をしていたが、いつも怒鳴っている時とは明らかに異なる深みのある声で、カーダ博士は若き弟子に〈忠告〉した。妙な研究を繰り返し、四百種類を越える奇抜な発明品を作り上げてきた老師であるが、最終的には〈世界を形作る七つの元素を解明して、虹の橋を人工的に造りたい〉という一つの目標を目指して四十年も続けてきた熱意は人並み外れており、培った思想も、独特の実験の結果に裏打ちされている。
 言われた方のテッテは襟元を正す思いで、立ったまま背筋を伸ばし、一言も聞き洩らさぬように聴覚へ神経を集中させた。

「植物も命。植物にも、心がある」
 妙なふしをつけて、古い神事の歌を口ずさむかのように、かつての男爵の跡取り――白髪交じりの研究所の所長は告げた。
「は、はい」
 他方、初めて自分自身で設定した課題の研究に取りかかっている弟子の方は、震える声で相づちを打つのが精一杯だった。握りしめた掌に緊張と興奮の汗をかいている――話に集中していた彼がそのことに気付くのは、ずっと後のことだったが。

 老師が捉える〈世界認識〉についての講義は、ひそかに燃えたぎる血潮の激流のように、なおも留まることなく続いていた。
「命というのは、ある意味、バネみたいなもんじゃ」
 淀みなく語った偉大なる〈迷〉博士は、弟子が並べておいた窓際の薬品の皿を椅子に腰掛けたまま遠い目で眺めた。その向こうには、窓枠に四角く区切られた灰色の寒空が覗いていた。
 野原の彼方に連なっており、鮮やかさを失って長い眠りについている広葉樹の枯木の建ち並ぶ森の奥には、テッテが秋の終わりにジーナやリュアと遊んだ農園があるが、この研究所からは見えない。彼に与えられた小さな区画もそこにあるのだ。
(テッテお兄さん、すごいね!)
 一瞬、花を愛でる少女たちの喜ぶ笑顔がテッテの脳裏をよぎったが、カーダ氏の厳しい声色で、急に現実に引き戻される。

「おぬしは葉っぱの機能を持つ花を咲かせたいと言うが……それは葉っぱから七力の薬品を抽出するのとは訳が違う。分かっておろうが、根本的に違っているんじゃ。もちろん難易度もな」
「はい」
 テッテはしっかりとうなずく。普段は師匠から叱られてばかりで、危険な実験を多く任されていたテッテだが――今は使命感と責任感、なおかつ溢れんばかりの研究意欲に溢れていた。
 カーダ氏の話は、基本的には論理的だったが、時には飛躍して非論理的で幻想的な方向へも自在に足を踏み入れていた。
「植物の性質を力ずくで変えるんじゃない、話を聞いて貰って、了承を取れるようにしなきゃならん。それが何よりも第一じゃ」
「はい、師匠……」
 近年はあまり激しく感情を揺さぶられることの少なくなったテッテだったが、瞳は輝き、数年来の感銘を抑えきれない。腕や背中には鳥肌が立ち、涙腺が温かく緩みそうになるほどだ。博士の実験や発明品にはどこか懐疑的な部分があったが、今日の〈想い〉の伝授で、改めてカーダ氏を見直したテッテだった。

「子供というのは、親の言いなりにはならないものじゃからな」
 老境に差しかかりつつある五十四歳の壮年の男は、少し懐かしそうに目を細める。自らの少年時代を重ねていたのだろうか、意見の食い違いで別れた三千九百九十九人の弟子たちの顔が記憶を掠めたのだろうか。もしかしたら、なかなか上手くいかない研究の成果を自嘲気味に思っていたのかも知れない。
 テッテには、それらの仮説がすべて正しいように感じられた。


  4月27日△ 


[一番あったかい暖炉について(8)]

(前回)

「ふぅ、ふぁ……」
 何とかマフラーをサホに押しつけるように手渡し、リュナンは再び歩き出そうとした。ところが膝に力が入らず、酔っ払いがふらつくような足取りになる。鼓動は激しく叩きつけるように鳴り、こめかみは激しく上下している。頭が痛んで意識が朦朧とし、貧血の症状を覚えると、裏通りの景色が急激に遠ざかった。
「あっ」
「ねむ!」
 少し心配そうに見ていたサホは、とっさに後ろから肩を抱き留めるようにして、倒れそうになる友達を支えた。厚手のコートに隠された華奢な腕に気づくと、サホは人知れず顔を曇らせる。
(あたいの考え、無理して押しつけちゃったかな)

「はあ、汗が、ふぁ……」
 止まると、リュナンは汗が吹き出してきた。みるみるうちに額に膨らんでゆく生暖かい粒や、髪の毛の間から湧き出てくる流れは、幾筋か頬を伝って合わさった。目に染み込んだり、顎の辺りから地面にこぼれ落ちたりする。背中や腿も湿っている。
「はぁ、はぁ、もう、だめ!」
 彼女は膝に手を付いて上体を前屈みにし、腰の支えをサホに任せて固くまぶたを閉じた。手元の荷物が落ちるが、拾い上げる余裕はなかった。首筋は叩きつけるように鼓動を刻み、心臓は壊れそうなくらいに全力で血液を送り出す。目をつぶると世界が揺れているように感じ、酔いそうなのでうっすらと瞳を開けるのだが――開けているのも目が染みて辛いという有様だった。
「ふぅ」
 サホはリュナンの体力のなさに軽くため息をつきながらも、素直に挑戦してくれた友を心からいたわり、鞄から吸湿性の綿織物(タオル)を取り出していた。それを相手の額に押しつける。
「ほら、拭いて」
 リュナンは精一杯に腕を持ち上げて受け取ると、前屈みに立った状態でサホに身体を預けつつ、不器用な動かし方で顔や頭を拭くのだった。せっかく整えた金の髪は乱れがちになる。
 それから渇いて張りつくような喉でつばを飲み込み、しかめ面で苦しげにつぶやいて、さも邪魔そうに身をくねらすのだった。
「重いよ、暑いよ……」

 冬の朝であっても、ささやかな日溜まりは、日陰とは比べものにならないほど温かい。サホは出来るだけ優しく呼びかける。
「ねむ、コート脱ぎなよ」
「うーん」
 リュナンは頭を押さえ、返事をした。ようやく激しい呼吸は治まりつつあったが、コートのボタンを外すのは苦労しそうだった。
 サホはしだいに責任を感じ始めて、ボタンを代わりに外そうかと考え、手を伸ばしかけた――が、やんわり相手に払われる。
「自分でやるよ」
 少女のこめかみは、未だに普段の倍ほどの速度でリズムを刻んでいた。それでもリュナンはわずかな膝の筋肉に力を注いで、しだいに自分の力で立ち上がってゆく。サホにかかる体重はその分だけ減少し、最後はなくなった。引き続き、リュナンは上着の大きな茶色のボタンを、上から無造作に外していった。
 通り過ぎる風は確かに冷たいのだが、今は清々しくもある。
「あぁ、きもちい」
 服の内側で蒸れた汗はいい気がしないが、燃焼の峠を越えたリュナンはいつの間にやら、何となく機嫌が良くなっていた。


  4月26日△ 


[天音ヶ森の鳥籠(20)]

(前回) (初回)

「どうした?」
 前を行くケレンスは急に立ち止まり、強ばった顔で振り向く。
「不思議な魔力を感じる……」
 リンローナはそこでいったん言葉を切った。見えない〈誰か〉が聞いているのを警戒するように、いっそう声を潜めて説明する。
「あの霧、もしかしたら魔力を帯びてるのかも知れない。ただ、あたしが知ってるような魔法とは、かなり違ってるようだけど」
 鋭い感覚の持ち主である聖術師のリンローナは、自らの身体を守るように――抱きしめるように強く腕組みをし、抑えた声でささやいた。辺りの空気は張りつめていて、風の流れさえ妙に肌にまとわりつくように白々しく思えるし、産毛を撫でられて寒気を覚える。麗しく響き渡っていた鳥の歌声は、いつしか音の輪郭と影を朧(おぼろ)にし、抑揚を失い、くぐもって聞こえた。
「ん?」
 少し離れていたケレンスは、良く聞き取れず怪訝そうに問う。
 だが、リンローナの変化を察して、身体はすぐに反応した。池を取り囲む細い土の道を早足で引き返し、彼女の前に立った。

 二人はしばらく黙ったまま、しだいに咲き始めた花のつぼみのように膨らんでくる池の対岸の白いもやを睨み据えていた。湖面を細波が滑り、辺りの彩りは灰色に塗り替えられてゆく。
 やがてケレンスは戸惑いつつも右手を挙げ、人差し指を真っ直ぐ伸ばし、シェリアと二人を隔てている池と霧に突きつけた。
 視力の良い彼としては珍しく、蒼い眼を何度も瞬きして言う。
「なんか、あの霧、色が付いてねえか? 薄紫みたいな、さ」
 隣のリンローナは草色の後ろ髪を揺らし、真剣にうなずいた。
「うん、お姉ちゃんの瞳の色だ。そして……夢幻の魔法の色」

 水にピションと雫が落ち、同心円状の波紋を投げかける。それが何の仕業かは分からない。孤独と不安の物思いから醒めきれぬケレンスとリンローナは、不意に眼差しを交錯させた。
 地方の貴族の清楚な姫君を連想させる背の低い少女は、いまや唯一の頼りの綱となった年上の剣術士を見上げ、大きくて愛らしい薄緑の瞳を心配そうに曇らせた。懸命に張り巡らした魔力の網で感じ取った〈霧の印象〉を相手に伝え、懇願する。
「邪悪な感じはしないけど、ちょっと神秘的で、しかも身近な魔力みたい。とにかく、一刻も早くお姉ちゃんと合流しなきゃ!」
「ヤバいな」
 舌打ちし、ケレンスは独りごちる。魔法を扱えるほどの魔力を持っていない剣術士でも、あの薄紫の霧の妙な現れ方や、意思を持っているかのような広がり方は癪に障って仕方がない。
 リーダーのルーグ、策士のタックはいない。自分たちも変な霧に巻き込まれないか、そうでなくとも視界不良で道に迷わないか、出会い頭に熊に襲われたら――色々な可能性が頭をかすめたが、結局、彼の導き出した結論はとても単純明快だった。
「シェリアを助けたい。だから、とりあえず行くべき、だよな?」
「うん」
 リンローナはほっとしたように一瞬だけ頬を緩めたが、両手を胸の前で組み合わせ、聖守護神に姉の無事を祈るのだった。


  4月25日○ 


[弔いの契り(31)]

(前回)

「あっち……」
 フォルは指を上げて、はっきりと示す。ダンスパーティーの度に同じような事があったのだから、知っていてもおかしくない。
 屋敷はひっそりと静まり返っている。幾つもの窓には厚いカーテンが掛かり、一つとして光は洩れていない。だが、その中から血走った黒い不気味な目で監視されているような錯覚を覚えて、俺の背中には冷たい悪寒が走った。ダンスパーティーのさんざめきは聞こえてこないし、この場所が敷地のどの辺りになるのかも判然としない。現実から切り離されたような感じだ。
 そんなことを考えていたのは、実際には一瞬のことだった。俺とタックは向き合ってうなずき、それから同時にフォルを見る。
「はぁ、はぁ、僕が、案内する」
 フォルは歯を食いしばって、肩で息をしていた。男に二言はない。賢いあいつは、もう後戻り出来ねえって気づいたんだろう。
 姉貴のサーシャを不気味な呪縛から完全に解き放つには、俺たちにすがり、男爵側と徹底的に戦うしかないんだってことを。

「ほっ、ほっ、ほっ」
 誰ともすれ違わないが、俺たちは神経を研ぎ澄ませて快速に走った。屋敷の裏側に沿って石造りの遊歩道らしきものが整備されており、そこからは少し離れた庭を突っ切ってゆく。満月が雲に隠れ、姿を現すたびに、夜の彩りは一層深まっていった。
 詮索するように通り過ぎる冷え切った秋の夜長の風は、さっきまでの清々しさを確かに失いつつあった。町の側溝に溜まったヘドロみたいに、ねっとりと重たく、身体にまとわりついてくる。
 魔法を扱えるほどの魔力を持っていない俺にだって分かるさ。いよいよ〈やつら〉が、倒錯した本性を露わにし始めたんだな。
 草は身を寄せて恐怖に打ち震え、夜行性の鳥は巣に戻ってじっとしている。庭の池は深淵に繋がる穴と変じ、舞い散る木の葉は悪い夢のかけらだ。馬小屋の馬たちは低くいななき、屋敷は邪(よこしま)な神を崇める妖しい一団の本殿となり果てる。

 所々に設置されている裏口から誰も出てこないことを確かめつつ、俺たちは息をひそめて駈けた。タックは事態の急展開に備え、次なる〈ガミンの目薬〉を用意してある。俺だって当然、タキシードのポケットに突っこんだ右手はナイフの柄を握ってる。
 果敢にも先頭に立って道案内役を務めるフォルは、すでに額の汗が流れ出し、しきりに目の辺りを手の甲でこすっている。
「はぁ、はぁ……」
 地面の起伏さえ、夜の闇は隠してしまう。足を置いたつもりの高さに土がなかったり、その手前で触れたりする。俺とタックは余力があったし、得意の運動神経で体勢を立て直していたが、フォルはしだいにふらつくことが多くなっていた。限界が近い。

 振り返ってみれば、それほど長い時間でも、遠すぎる距離というわけではなかった。広いことは広いが、要は田舎の貴族の居城だ。妙な幻惑魔法さえ使われていなければ、どこまでも続く屋敷という代物は存在しない。いつか必ず目的地に着ける。
「あれだ」
「あれですね」
 俺とタックは、フォルが教える前から気づいていた。立ち止まって場所を示そうとするフォルをとっさに捕まえて、近くの木陰に隠れる。まだ距離はあるから、見つかってはいないはずだぜ。
 心臓を抑えて座り込むフォルを勝手に休ませておき、俺と相棒は樹の幹の左右から顔を出し、情報収集に励む。礼服の白いシャツは目立つから、首だけを突き出す苦しい格好になる。
 ひときわ良く茂った木々の間にカムフラージュされているが、そこに〈何か〉があった。入口の辺りに人の気配があるのも微かに見分けられる。かなり高い場所へ登りつつある望月の淡い光の糸を絡め、林の奥に鈍く輝いている建物が垣間見える。

「ここでもう結構です」
 振り向いたタックは、ささやき声でフォルに告げた。声量は小さかったが、相手に有無を言わさぬ決然とした響きがあった。
「待って。僕も、何かの役に……」
 渇いた喉を無理矢理に潤そうと、唾液を飲み込みながら、フォルは途切れがちに言った。必死になってやがる――健気なやつだ。俺はもう、さっきの〈リンが騙された〉ことに対する怒りは、ほとんど鎮まっていた。今ならまだ、間に合うかも知れねえ。
 リンはきっと掴まってる。ルーグとシェリアのその後も気になるが、とにかく最後まで諦めず、俺とタックだけでも出来ることをやるしかねえんだ。となると、フォルには悪いが、足手まといだ。
「もう充分だぜ。ここまで案内してくれたからな」
 俺はナイフを持っていない方の手をあいつの肩に乗せ、労をねぎらう。タックも自らが得意とする論理的な説得を展開した。
「あなたは朝まで、どこか安全な場所に隠れるんです。僕らは敗れて、戻ってこないかも知れません。そうしたら逃げて逃げて、隣町の役場か冒険者支部に駆け込み、全部話すんです。ある意味、最も重要な役ですよ。あなた以外には頼めません」
「任せとけ」
 やつの肩を叩くと、フォルは急に涙声になり、諦めて言った。
「姉さんを……頼みます」
「頼まれたら断り切れないのが冒険者。あとは任せて下さい」
 タックは飄々とした口調で言った。緊張すべき出来事や緊急事態を楽しんでしまえる性格は、ほんとに羨ましい限りだぜ。

「さて、まずはどうやって、突入のきっかけを作るかだよな」
 走り回った結果、背中や脇の下、太ももの辺りが、汗でじっとりと湿ってくる。さすがに二人だけで切り込んでも、剣術士の俺には愛剣がなく、諜報員のタックの得意とする飛び道具も足らない。ここからじゃ相手の人数も把握出来ねえし、敵の本拠地に入れる自信はない。時間がなくて焦りは募るが、ここまで真相に近づけたというのに、警備兵をやり過ごす切り札がない。
 畜生。状況の変化や、機会を待つしかないのか?
 ルーグたちと合流すべきだろうが、ダンス会場に戻ったら確実に捕縛される。武器を置いてきた控え室に戻ると言っても結構な距離があるし、場所もいまいち分からねえ。どこまで男爵側が兵を雇ってるのか不明だが、待ち伏せに遭う可能性もある。
 タックは監視役を俺に任せ、ぬかりなくフォルを諭していた。
「僕らがいなくなったら、こっそりと逃げて下さい」
「はい」
 だいぶ落ち着きを取り戻したフォルは微かにうなずく。タックは鋭い五感の状態を維持したまま、年下の男に指示している。
「くれぐれも屋敷の正門で掴まらないように。幸運を祈ります」

 と、その時。
 赤っぽい妙な光が、向こうで弾けたんだ――。


  4月24日○ 


[笑顔の種(8)]

(前回)

 まろやかで深い味わいの季節は、こうして暮れていった。
 やがて広葉樹の葉が落ちて、森の地面に降り積もり、枝先から澄みきった青空が覗くようになる。デリシ町と、やや離れた丘にある〈七力研究所〉にも、例外なく冬がやってきたのである。
 曇り空の野原は閑散として、北風が吹き荒れていた。地面までもが薄暗い灰色で塗り替えられてしまったかのようで、彩度が低い。尖った刃の切っ先のような静寂に溢れていて、こんな日は小動物たちもあまり出歩かず、時折、鳥の声だけが響く。
 それほど寒い地方ではないため、滅多には降らないが、鉛色の空からは今にも白い天使たちが舞い降りてきそうだった。

 他に誰も住んでいない秘密の丘の上に建てられた、無骨で古びた木造の家の煙突から、ゆらゆらと煙が立ちのぼっていた。
 暖炉では赤い焔が燃えはぜて、雫に似た不規則で不思議なゆらぎの音楽を奏でていた。窓ガラスはわずかに曇っている。
 薄暗い部屋の中で、カーダ博士は暖炉の方を向いて椅子に座り、机の上に分厚い本を置いて読んでいる。その首が前後に動き始め、完全に垂れ下がり、しまいには寝息が聞こえ出す。
 弟子のテッテはというと、研究所の出窓――と言っても、ほとんど出ていないが――のわずかな棚の部分に幾つもの小皿を乗せ、丈の高い椅子に座って頬杖をついていた。ぶらりと下ろした反対の手は四つ折りにした皺だらけの紙をつかんでいる。

「うーむ……」
 彼は長い間、それぞれの小皿の中にある色とりどりの粉末を見ながら考え込んでいた。ルデリア世界の元素である〈七力〉を帯びた抽出物で、例えば黄色の粉は月光の力を表している。
 その脇に置いてある、欠けた部分のある焼き物の深皿には、つぶれた楕円形をした黄土色の植物の種が入っていた。やや大きめで、黒や焦げ茶の線が縦の方向に何本か入っている。
 疲れたのだろうか、テッテは安物の眼鏡を外し、服の袖で両眼をこすった。掛け直したのちに、腕を窓の方へ伸ばしてゆく。
 隙間風の入り込む木造の研究所ではあるが、ずっと暖炉を焚いて空気が悪くなっていた。彼は換気のために窓を開けようと思い、取っ手に力を込めようとした。造りは頑丈で品質は高い建物だが、幾星霜を経てさすがに立て付けが悪くなっており、結構な力が要る。聞いたところによると、カーダ氏の弟子であった大工の経験者たちが、何人も入れ替わりつつ建てたらしい。

「こりゃ、そこを開けちゃならんぞ」
 突然、後ろから声が聞こたので、テッテは驚いて振り向く。
「師匠、起きてらしたんですか」
「にゃにを言っとる。わしゃ、ずっと本を読んでおったわ」
 相変わらず自信たっぷりの言葉ではあったが、声の勢いは弱く、発音も曖昧だった。ほとんど開いていない寝起きの目は焦点が合っていないし、額には本の跡が残っている。白髪混じりの髪の毛はクシャクシャで、年代物の眼鏡は少し歪んでいた。
「なぜ、窓を開けては……」
 テッテが問うと、博士の普段よりも勢いの弱い雷が落ちる。
「馬ぁ鹿もん。貴重な七力の粉末が飛んでしまうわ」
 言い終わると口をひん曲げて、カーダ氏は口をつぐむ。はっとしたテッテは、身体中に鋭い刺激が走り抜けるのを感じた。
「ありがとうございます、僕の研究を心配してくださって」
「心配なんぞ、しとらんわ。わしがせっかく七力の粉末の余りをくれてやっというのに、無駄になっては、もったいないからじゃ」
 カーダ博士は精一杯の毒の籠もった言い方で応えた。眠りから醒めたばかりで不機嫌そうではあったが、朦朧としている頭は、博士がいつも隠してきた〈人の好さ〉を浮き彫りにさせる。
「一つだけじゃが、わしの極意を教えてやろう……」

 テッテはさらなる衝撃に貫かれ、息を飲んだ。四十年間、七力の研究をひたすら続けてきた頑固者のカーダ博士がこのような話をする機会は、これまでの所、ほとんどなかったからだ。
「はあ」
 と、気の抜けたような相づちを打つのが、やっとであった。


  4月23日△ 


[風薫る季節に(2/4)]

(前回)

「いやー、すごいね」
 人、人、人……。
 花壇と樹木が一段高い場所に整備されている行き馴れた広場を見渡したウピは、目を丸くして言った。この島国の原産である白い石で作られた、古くからある町中の広場はそれほど広くはないものの、今日は周辺に数多くの人々がたむろしている。
 子供の手を引く夢曜日の商家の親子連れや、石の長椅子に腰掛けて話し込む老翁や老婆の一団、鮮やかな色合いに塗り分けられた薄手の服を着ている学院の華やかな女の子たち、それを少し遠くから品定めする少年のグループ、仕事の合間にやってきた果樹園の農夫、いつもと違う髪型にしている配達屋の青年、本を片手に花を見上げる真面目そうな少女、勢い良く駆け回る子供たち――そして手を繋ぎ、はにかんだ微笑みを浮かべてうなずき合う恋人同士。ありとあらゆる年齢、性別、階級や職業を越えた市民たちが、この時、この場所に集っている。

「きれーい」
 まぶしそうに額に右手を当てて、ウピは安らいだ口調で感想を洩らした。麦わら帽子をかぶっているから頭は暑くならない。
 広場を取り囲むように背の高いザルカの木が生えている。普段からミザリア市民の憩いの地になっているが、ザルカの花が咲く春先が最も活気づく。枝先の花は全般的に盛りを過ぎ、葉ばかりの樹もあった。少数ながら、つぼみだけの樹もあった。もちろん満開を謳歌している樹もある。大金持ちや貴族でも、これだけ立派なザルカの木々を庭に育てている家はまれである。

「寄ってみましょう」
 レイナは冷静に広場の様子を観察していた。その目の前を、紅と桃を混ぜ合わせたようなザルカの花びらが、蝶の翼のごとくに通り過ぎた。やや色褪せていたが、それでもなお鮮明で美しい。南国の新緑の季節にふさわしき、おしゃれな小妖精だ。
「あらっ?」
 一日花であるザルカは、朝につぼみを開いて夜には散ってしまう。昼間に飛ぶ数はあまり多くないゆえ、地に落ちる前に捕まえたザルカの花びらは〈幸運をもたらす〉という伝説がある。
「よっ」
 見逃したレイナに代わり、花びらを目で追っていたウピがすかさず適切な一歩を踏み出し、手を伸ばした。ザルカの花びらは二、三度揺れた後に、彼女の掌の中へ吸い込まれていった。

 派手な外見に似合わぬ微かな薫りがする。ウピは指をこすり合わせて独特の手触りを確かめてから、レイナに差し出した。
「レイナが見つけたから、返すよ」
「えっ? でも、ウピが捕まえたのでしょう?」
 広場の隅で二人が譲り合いになっていると、聞き覚えのない壮年の男のしゃがれた声が割り込んできた――足下からだ。
「お嬢ちゃんたち」
「はいっ?」
 ウピとレイナは声を揃えて、一斉に下を見る。

 するとそこには、白い開襟シャツと薄茶色のズボンを履き、つばなしの焦げ茶の帽子をかぶった優しい目の男性が、丈の低い特製の木の椅子に腰掛けていた。彼の前にあるキャンバスには、紅と桃色に染められて広場を飾る立派なザルカの木々と、行き交う人々の浮き浮きした様子が繊細に描かれていた。
 彼はいったん筆を置いて、キャンバスのそばの小さな箱を開け、中からつまみ上げたものをレイナの方へ軽く突き出した。
「あげるよ。二枚あるんだ」
 春のうららかな陽気は、人々の心の奥の花園で培われていた〈親切の花〉のつぼみを開かせる。見えない花粉が広がり、誰もが余裕を持って他人のことを考えられるようにしてくれる。

「ほんと、嬉しいよねー」
 レイナとお揃いのザルカの花びらをブラウスの胸ポケットに入れ、ウピはご満悦である。人並みを避ける足取りは軽かった。
「花びらを頂けたこと自体が、既に幸運なことです」
 しっかりと前を見据えて、レイナは噛みしめるように呟いた。
 ささやかなザルカの香りと、海の方から流れてくる潮の匂い、食欲をそそる食べ物屋の煙が交錯する、昼下がりの広場だ。
「もっと近くで見たいです」
 上品な歩き方のレイナは、腕を伸ばして人混みを指し示した。そこには満開となっているザルカの樹が、誇らしく立っている。
「行こう行こう♪」
 ウピはすぐさま賛成し、上機嫌で旬の花へ近づいていった。


  4月22日△ 


[雲のかなた、波のはるか(21)]

(前回)

 変わらずに響き渡っている空の河の轟音や、強い風の甲高いうなり声も、どこか遠くから聞こえてくるような感じがしていた。
 今度はきちんと三回転、何事もなかったかのように塔をめぐって、さかさまに浮かべた黒いこうもり傘の船は順調に進んだ。落ちそうになることも、塔にぶつかりそうになることもなく、木の葉のように河の流れの中央部を滑らかに進んでいくのだった。
 もう大丈夫だ、という直感的な安堵と、明白な意志を持って二人を〈助けてくれた誰か〉に対する畏敬の念が心の奥の方で疼いている。頭は冴えているが、上手く働かない。緊張から解き放たれた少女たちは、精神的に抜け殻となってしまっていた。
「……」
 言葉が出てこない――いや、今の気持ちを正確に語れる言葉は存在しない。想いの種類に比べれば、言葉は足りない。

 しばらくの間、二人は放心していた。傘を貫く芯に寄りかかって、レフキルとサンゴーンは背中同士を付け合わせていた。最初のうちはとても無表情で、通り過ぎる青空や白い雲を、あるいは立ち上る激しい水しぶきを、潮水の流れが滞っている空の渦を、見るともなくぼんやりと眺めていた。やがて止まっていた時間が緩やかに動き出すと、しだいに瞳の焦点が合ってくる。
 そこには、かつて見たことがない神秘的で壮大な風景が、どこまでも広く展開していた。レフキルは目を奪われ、魅了され、食い入るように見晴るかす。一方、まだ現実の世界に戻りきれていないサンゴーンは、ほとんど無意識につぶやくのだった。
「夢、みたいですの……」
 時折、濡れた銀の髪の先端からの雫の宝石がこぼれ、夏の光で虹色に輝いたが、サンゴーンは気に留めていなかった。

 いよいよ空を駆ける汐の龍は、とぐろを巻いていた海神アゾマールの神殿の尖塔から遠ざかり、小さな峠を越えて、まっすぐに続いている長い一本道を少しずつ流れ落ちてゆくところだ。
 視界が一気に広がり、空の果てに吸い込まれてゆく大きな河がその巨大な全貌を露わにした刹那――レフキルの背中には鳥肌が立ち、曖昧な安堵の向こう側にある〈助かった〉という実感が涌いてきたのだった。心身の緊張はほぐれている。あとはためらわず、緩い傾斜の河に運命を任せて下っていけばいい。
 河の最も突端は、遙か先の方で灰色の雲の大陸に沈み込んでいる。その下がどうなっているのかは、まだはっきりしない。
 それでもサンゴーンとレフキルは、確かに〈理解〉していた。
 地上を走る流水と同じく、空の河の還ってゆく先は、麗しい珊瑚礁の根付いている蒼く澄んだ南国の大海原だということを。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 二人の髪が風に煽られる。妖精族の血を引くレフキルの緑がかった銀色と、より純粋な銀に近いサンゴーンの御髪が、生き物のように飛びはね、絡みつき、目隠ししたり逆立ったりした。
 こうもり傘の小舟は、怖いくらいに速度を上げすぎることもなく、かといって滞ることもなく、さざ波を立てて水の一本道を快速に駆け下りている。注意をしていると、大きな海の魚が身をよじって飛び跳ねて、入り組んだ鱗が間近に見えることもあった。
 上空の風は気持ちが良かったが、遮るもののない太陽のきらめきは、ジリジリと焼け付くように迫ってくるような感じがした。
「くしゅん」
「服を乾かさないと」
 サンゴーンのくしゃみを合図に、すっかり正気に戻ったレフキルは、固くなった体を動かしにかかった。膝を抱くような格好になっていたので、身体は堅くなっている。腰を浮かせると船が揺れたので、傘のバランスを崩さないようにしながら、ゆっくりと足を伸ばしていく。すっかり水に浸かったサンゴーンに限らず、長らく下着姿だったレフキルもさすがに寒気を覚え始めていた。
 レフキルは脇の下の挟んでいた服を取り出して、雑巾のように強く絞った。何度も力を込めてひねると、水は出なくなった。
 そして皺だらけになった服をかぶり、袖を通し、無理矢理に首を出して、あっという間に着てしまった。普通ならば、このまま濡れた服を着ていても体温が奪われて調子を壊しそうだが、照りつけてくる南国の太陽はじきに二人を乾かしてくれそうである。布は湿っているし、あまり良い気分ではないが、どちらにせよ風邪をひく可能性があるのならば服を着ている方がましだった。
「サンゴーンも絞った方がいいよ」
「ハイですの」
 背中合わせの友の助言を聞いてサンゴーンはうなずいたが、この狭いこうもり傘の上で器用にワンピースを脱げる自信がなかったので、服を着たまま、部分ごとに繰り返し布を集めて絞った。もちろんチェック柄の、素朴で上品なスカートも忘れない。

 その間もこうもり傘の船は滑るように進んでいる。触れられるほど近い場所を、白い雲の羊の群れがゆったり浮遊している。
 一段落したレフキルは、疲労と脱力と、冷静と驚異と、無駄な飾り気のない感嘆の入り混じった深く長い溜め息を洩らした。
「ふぅーう……」


  4月21日− 


[一番あったかい暖炉について(7)]

(前回)

「えっ、走るの?」
 まさに寝耳に水のリュナンは仰天し、目を白黒させていた。
 彼女は二、三歩進んだところで足を出すのを躊躇し、困惑気味に一瞬だけ〈止まりたい〉という仕草も見せたが――何故か、それ以上は頑なに抵抗することはなかった。本当に嫌ならば、親友とはいえ断固拒否することも出来たはずだが、病弱な少女はサホの引っ張る力に負けるような形でゆっくりと走り始める。
 半信半疑と言うよりも、リュナンにとってはほとんど〈疑〉に近い無茶苦茶な健康法であったはずだが、食いしん坊のサホの貴重な朝食を分けて貰った手前もあるし、ちょっとだけなら試してもいいかな――という気分が芽生えていたのかも知れない。
 なじみの店や、好ましい色と形をしている家、葉を落とした並木道、狭い路地裏の近道の景色がいつもよりも早く流れて、視力が追いつかず、リュナンは軽いめまいを覚えていた。歩みを進めるたびに、足の裏から振動と刺激が頭の方に登ってくる。

 空気が動いていた。歩いていた時は、何度も行き交う冷たい北風が身に染み込んでくるだけで、流れは受動的にしか感じることができなかった。しかしながら今は明らかに異なっている。
「はぁ、はぁ……ひゃあ〜!」
 細い通りに集約された鋭い風がぶつかり、殊にリュナンをふらつかせた。前屈みになり、速度は亀ほどに落ちてしまう。サホの赤毛は逆立ち、リュナンの上着の裾は激しく波立っている。
「ねむ、頑張って!」
 サホが叫んだとたん、高らかな声で笑いながら吹いてくる風の勢いには翳りが見え始めた。つないだ親友の手から力をもらって、一緒に何とか突き進むことで、見えない道が開けてゆく。
 そう、もはや空気は受動的に感じるものではなく、彼女たちこそが能動的に影響を与えていけるキャンバスに変化していた。
「はぁ、ひぁ、はっはっ……」
 風がやみ、二人は改めて駆け出した。地面に舞い降り、蹴ることを繰り返せば、景色が上下に揺れ動く。旧市街はレンガの路が整備されており、走りやすかった。その隙間には、溶けだした氷のかけらが光の洪水に輝いている。裏道を通れば、庭のない家が窓から洗濯物を干している。急に立ち止まり、興味深そうな様子で道を空けてくれる子供らを避けて、二人は進む。
「ごめーん。ありがとー」
 サホは軽快な言葉を残し、リュナンの手を引いて住宅地の中の緩い坂道を登る。二人が通っている学院まではあと少しだ。

「はぁっはあっ、んぐ、はあっ……」
 仕方なさそうに走り始めたリュナンは、しだいに余裕のない表情になってきている。口は開きっぱなしになって感覚がおかしくなり、とっくに息は上がっていた。額や背中に汗が生まれ、唾が乾いて、喉は張りつくようになった。風邪を引いて寝込んでいる時以外で、これほど喉が渇いたのは本当に久しぶりだった。
 サホはリュナンに合わせ、ほとんど早歩きと変わらないほどの速さで走ったため、余裕がある。が、もともと体力のない上に着ぶくれしている親友の疲労は想像以上に激しいようだった。

 その時、振り向いて的確な言葉をかけたのは、もちろんサホである。何気ない調子で、友の暖炉の調子を確かめたのだ。
「マフラー預かるよ?」
「……」
 渡りに船とばかり、蒸し風呂になっていたリュナンはその場に立ち止まってサホの手を放し、すぐさま襟元にからみついた厚いマフラーを取り外しにかかる。鼓動が焦って刻を奏で、息はそれこそ暖炉のふいごのように慌ただしい。頭はふらつき、足は鉛のように重く、姿勢は不安定、手先からは血の気が引いている。普通に立つのさえ難儀し、マフラーを外すのは重労働だ。
「はぁ、はぁ……」
「ほーら、燃えてきたっしょ? ねむの暖炉が!」
 額のうっすらとした汗を手で拭き、サホは嬉しそうに言った。


  4月20日− 


[笑顔の種(7)]

(前回)

「それは……」
 テッテは息を飲んだ。腕を組み、真面目な顔で立ちつくしている。やや上目遣いの視線は、二人の少女たちを通り越し、木々の梢を突き抜けて、はるかな森の向こうに焦点が合っていた。
「それは?」
 八歳のジーナは期待に瞳を輝かせ、思わず身を乗り出して訊ねた。好奇心に満ちあふれた彼女の前を、森に住む羽の生えた小さな虫が一匹、幻から生まれたかのように通り過ぎゆく。
「それはね」
 もったいぶったテッテは、さも楽しそうに口元をほころばせていた。頬張った大好物のお菓子をゆっくりと堪能する状況を思わせる幸せそうな表情で、彼は夢見心地にまぶたを閉じてゆく。
「うん」
 相づちを打ったのはリュアだった。話を一言も聞き洩らさないため、テッテを一生懸命に見上げて、返事を待ちわびている。

 その時、青年は再び目を開けた。彼の双つの眸(ひとみ)には、師匠から与えられた現実のささやかな畑が映っていた。
「今はまだ、秘密です」
 辺りに漂う土や草木の醸し出す森の匂いに、清々しく流れ去る一陣の秋の風に、あるいは高みから降り注いでくる小鳥たちのさえずりに乗せて――偽りのない本当の〈思い〉を伝えた。

「えーっ?」
 直後、落胆と疑念とに彩られたジーナの甲高い声が弾けて、緊張感のガラス細工を粉々に砕いた。彼女は納得できず、諦めきれるわけもなく、テッテの足元に駆け寄って理由をただした。
「なんで? どうしても?」
「ええ、どうしても。今は駄目です、申し訳ないですけど」
 これ以上は一歩たりとも譲れないという風に、テッテは珍しく毅然と語った。きっぱり断られたジーナは、返す言葉がない。
「……いじわるぅ」
 せいぜい風船のように頬を膨らませ、腰に手を当て、恨めしげに呟くくらいだ。一方、青年は吹っ切れたような口調で応えた。
「そのうち分かりますよ。時期が来たら、お教えします」
「きっと?」
 リュアは切なる願いを込めて訊ねた。すねたり怒っているような態度はなかったが、やはり待つのがつらいのだろうか――長い時の流れに負けてしまわぬよう、じっと宙を見据えている。
「今じゃ駄目なんだ」
 少しふてくされているジーナが、ぽつりとつぶやいた。それからしばらくの間、会話は途切れた。静寂の天使が舞い降りる。

 赤い落ち葉は次々と木の枝を離れていた。右に左に舵を取りながら、一生に一度の大舞台で自分らしい踊りを披露する。それが傾いた紅の陽の光を受けて鏡の破片のごとくにきらめき、まさに神聖な炎と化していた――秋という季節が燃えていた。
「秋の夕暮れは早いですよ。さあ、出口までご案内しましょう」
 黄昏が奏でる静けさの織物作りを邪魔しないよう、テッテが注意深く語りかけると、ジーナとリュアは顔を見合わせて素直にうなずいた。三人の影が、真東を目指して細長く伸びていった。


  4月19日△ 


[天音ヶ森の鳥籠(19)]

(前回)

「お姉ちゃん、どこにいるの?」
 鼓動さえ痛むのだろうか――張り裂けそうな胸に軽く手を乗せ、リンローナは独りぼっちになった姉のことを心配していた。
 池を取り囲むように続く森の小径を探し歩き、草がカサカサと揺れるたびに姉かと思って立ち止まるのだが、結局は風か小動物の仕業だった。そのうちに何となく見覚えのある景色が現れると、彼女は凍り付くような表情になり、震える声で言った。
「ここ、さっきの場所……」
「これで三周か」
 ケレンスは悔しそうに唇を噛んだ。彼の顔もいつにないほど険しく変わっている。リンローナほど感情が先行してシェリアの安否を気遣っているわけではないが、リーダーのルーグから姉妹の安全を託された以上、シェリアにもしものことが有れば、顔見せ出来ないという責任感をひしひしと感じていた。二人を元気な姿で帰らせるというのが、今のケレンスの最大の使命である。

 昼の明るさは花がしおれてゆくように色褪せ始めて、辺りにはほんの少しだけ黄昏の気配が漂ってきていた。秋の夕暮れは早い――日が落ちてしまえば、ルーグとタックが待つ河畔に戻るのも困難になる。ケレンスたちまで遭難する可能性もあるが、だからといってシェリアを置いて去るわけにもいかない。十七歳の〈サブリーダー〉には初めての、難しい判断が迫られていた。

 ケレンスは頭よりも先に身体が動く男だ。終わってしまったことを後悔する前に、出来ることをやる――彼は即断即決した。
「もう一回、廻ってみようぜ。今度はもっと注意深くな」
 的確な指示を出してくれるルーグや、目先が利いて推理を働かせるタックはいない。ケレンスは心を落ち着かせ、彼なりに優しい言葉をかき集めて、まずはリンローナを励まそうと努めた。
「まだ、そんな遠くには行ってねえよ。大声で呼ぼうぜ、なあ」
 彼女の直感や知識、魔法の力は、ケレンスにはない。曰わく付きの〈天音ヶ森〉では、そのどれもが重要な鍵となるはずだ。

「……うん」
 しっかりとうなずいたリンローナは、泣き出してしまいそうな不安を必死に堪えて、こぶしを堅く握りしめた。すぐに再出発したケレンスの背中から離れ過ぎないように気をつけながら、足下や脇道に注意を張り巡らせつつ、前へ進んだ。頭の中ではケレンスと姉とが喧嘩して、自分が板挟みになったが結局は止められず、別れ別れになってしまってからのことを思い出していた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それはシェリアが去った直後のことだった。姉は歌が上手いから心配、というリンローナの台詞を耳にしたケレンスはにわかに立ち止まったが、それは短い間のことだった。雑念を振り払うように頭を右へ左へと動かしてから、大股で前へ突き進んだ。
「ねえ、ケレンス。早く一周して、お姉ちゃんと会おうよ」
 しつこく責めたい気持ちをぐっと堪え、リンローナは焦り気味の声でケレンスを促した。それほど大きな池ではない――大急ぎで回れば、反対向きに進んだ姉に、どこかで出くわすはずだ。
 それでも何故か、胸騒ぎは止まらない。リンローナは背中に寒気を覚え、ぶるっと震えた。早く姉の顔が見たいが、そうするまでは決して気を緩めてはいけないと密かに肝に銘じていた。

「……」
 ケレンスは黙ったまま、足早に丈の低い草を踏み分けてゆく。さっきまでは高らかに響いていた美しい鳥たちの和声さえ、森の底知れぬ不気味さを演出する。リンローナは山菜を摘むための籠を左手に持ち替えて、前をゆくケレンスの袖を引っ張った。
「ケレンス。あたし、何だか嫌な予感がするんだけど……」
 話しかけられた剣術士は、わずかに眉を動かした。彼は良く知っている――リンローナの〈予感〉は、聞き流すには惜しい。
「気のせいだろ」
 それでも強情になっていたケレンスは、少女の忠告をはねのけた。しかし沈んだ語尾と、その後に取った行動は、強気の言葉とは裏腹に不安そうだった。小柄なリンローナがついていくのが大変なくらい、どんどん歩き方は乱暴に速まるし、目的の山菜には見向きもしない――彼もとっくにシェリアが心配だった。

 池を半分ほど回ったところで、リンローナは顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。信じられないものを見たが、目を逸らすことは出来ないとでも言いたげに、薄緑色の大きな瞳は正面を見据えており、普段とは別人の低い声は微かに震えていた。脳裏には漆黒の暗雲が広がり、ついに土砂降りの嵐に襲われていた。
「白い霧が出てきて、対岸が……お姉ちゃんが見えないよ?」


  4月18日− 


[弔いの契り(30)]

(前回) (初回)

「お迎えご苦労様です」
 タックはわざと愛想良く微笑んで、やつらの手にしたランプの光の輪の中へ一歩だけ近づいた。あちらさんから見れば、ぼんやりと照らし出されていた背の低い影法師が不気味に浮かび上がって立体感を持ち、色が塗られたように思えたことだろう。
「止まれ、動くな。痛い目に遭いたくないなら、言うことを聞け」
 一隊の長らしき中年の男が、少し訛りのある声で命令した。
「諦めな。こっちには武器があるんだぜ」
 部下らしい若い男が、右手に持った長くて重い木刀らしきものを左手に何度も叩いて音を響かせ、脅しにかかる。見くびるわけじゃねえが、そんなもんで素早い俺たちに勝てると思ってんのか? どこの馬の骨とも分からねえ、ごろつきの警備兵め。

 タックは腰に回した左手で手招きする。もっと相手との距離を詰めろ、と言う意味だろう。ガタガタ震えて怯えるフォルの肩に腕を入れて支え、前に突き出すように重い一足を踏み出した。
 俺の耳、脚、目、口――ありとあらゆる感覚と神経とが研ぎ澄まされていた。だが、顔はやや引きつっていたかも知れない。
「……」
「こら、その少年を放して投降しろ。事情はあとで聞くぞ」
 隊長が勝ち誇ったように言った。もう四人の敵の顔もはっきりと分かる。これ以上近づけば、問答無用に抑え込まれて掴まってしまうという、ぎりぎりの距離だ。俺は恭順の意思を見せる。
「分かったよ。好きにしな」
 従う素振りを見せながらも、フォルの肩から手を放すような愚かしいことはしねえ。で、俺が俺なら、タックも大した役者だ。
「抵抗しても仕方ありません。捕まえるなら捕まえて下さい」
 タックは淡々とつぶやき、握りこぶしをそろえて前に突き出した。相手は明らかに気がゆるみ、雰囲気は和らいできていた。
「いい心がけだ。よし、お前たち、綱を……」
 隊長が前を向いたまま、部下たちに俺らを縛り付ける綱を用意させようとした瞬間――タックの掌がおもむろに咲き始める。

 相棒が合図するよりも僅かに早く、俺の身体は即座に反応していた。腕を人質の肩から外し、手をひっつかみ、一心不乱の集中力で屋敷の左側を目指し、思いきり飛び出したのだった。
「ケレンス!」
 直後に後追いでタックの声、そして足音と息づかいが近くで聞こえた。フォルも覚悟を決めたのか、俺に手を引かれて懸命に走っている。タックはすぐに俺を抜かして、闇を行く船頭となる。
 ぶち当たってくる風は冷たく、俺の短めに刈った金色の前髪を掻き上げる。タキシードのズボンは、何だか走りにくくて仕方ねえ。破いてしまいたいくらいだが、そういうわけにもいかねえ。

「何だ!」
「いてえ、いてえ!」
「畜生!」
 突如として沸き起こった怒号と悲鳴が俺の背中を追いかけてくるが、その声はあっという間に遠ざかる。順調に行ったなら、やつらはタックが振りまいた〈ガミンの目薬〉の刺激の霧にやられて、しばらくは涙が止まらねえはずだ。たまらずに次々とランプを落として、ガラスが割れる音が二回、立て続けに響いた。
 屋敷が近づいて左に大きく曲がる前、月明かりを頼りに細かい起伏を乗り越えながら漆黒の地面を蹴り、俺はチラリと振り向いた。四つあったはずの淡い灯火の粒は、今は確かに一つしか見えなかったし、その光も悶えて揺れ動き、俺たちを追ってくる気配はないようだ。やつらの足止めは成功したわけだな。

 前に向き直ると、タックは辺りに注意しながら――特に、新手の警備兵が現れないか――立ち止まっており、真剣な顔で手招きしている。俺もタックも呼吸は速まっていたが、こんな〈とんずら〉は世界を股にかける冒険者としては朝飯前だ。意外なことにフォルは何も無駄口を叩かず、良く俺に着いてきていた。
「はぁはぁ……っぐ、はぁ、はぁ……」
 相当に苦しそうだが、若いし農業の仕事をしてるから、基礎体力はあるようだ。俺は年下のフォルを、ちょっと見直していた。
 タックは落ち着いた素振りを見せつつも、すぐ早口で訊ねる。
「時間がありません。フォルさん、次はどちらへ?」


  4月17日− 


[笑顔の種(6)]

(前回)

「どういたしまして。はい、リュアさんの分もありますよ」
「うん……」
 リュアはゆっくりと両手を差し出して、背が倍ほども違うテッテからもう一本の青い草を大事そうに受け取った。しばらくは不思議な色に魅入られていたが、思い出したように顔をもたげると、飾ったところのない素朴な安らぎの微笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、お兄さん」
「いえいえ、どういたしまして。お礼なら、いつも通り……森に」
 テッテは右腕を斜め上に掲げ、大勢を紹介するような仕草で森の木々を広く示し、少女たちを促した。ジーナとリュアは掌を合わせて瞳を閉じ、新鮮で敬虔な気持ちを胸に祈りを捧げる。
(森の神様、ありがとう――)

 少しずつまぶたを開いていくと、遠くに想いを馳せていて散らばっていた心の欠片たちが素早く帰ってきて、眼の焦点も合ってくる。空気に混じりつつある夕暮れの涼しさの粒子や、木の幹や草の葉、足元のシダ植物や落ち葉や土の匂い、上品で控えめな秋の花の香りを改めて感じ取ることができる。名も知らぬ鳥の啼き声や羽ばたき、たくさんの命の営み、森の息吹きを。

 と、その時だ。ジーナはふと、別の小さな区画に気づいた。
 赤ばかりの火炎畑と黄色が目立つ月光畑は、年じゅう秋の終わりのように〈紅葉〉し、または〈黄葉〉している。その境目の辺りに、この前までは見られなかった正方形の〈場所〉が出来ていた。雑草はきちんと抜かれているが、まだ何も生えておらず、耕したばかりの赤茶けた土が剥き出しになっている。それは新しい家が建つ前の、まだ何にもなっていない土地を思わせた。
 抑えられない好奇の想いがうずいて、ジーナはすぐ訊ねた。
「これは何?」

 するとテッテは珍しく口ごもり、うつむく。その頬には紅みがさしていた。ジーナは首をかしげたが、教えてもらえないと知りたい気持ちは逆に高まり、追い打ちをかけて疑問を投げかける。
「ねえ、お兄さん、これ何? ねえ?」
 リュアが不安そうに見守る中、容赦なく責め立てられたテッテは上目遣いに相手を見下ろして照れ笑いを浮かべながら、ほとんど聞こえないくらいの声量で恥ずかしそうに答えるのだった。
「僕の楽園……もとい、農園ですよ」
「えー、テッテお兄さんの? なんで教えてくれなかったの?」
 初めて聞いた話に、ジーナは目を丸くして叫んだ。リュアも驚きに充ちた瞳を瞬きさせ、テッテと足元の区画とを交互に眺めている。三人の間で微妙な時が刻まれ、木洩れ日が光った。

 興醒めした空気を痛感しながら、しばらくして研究所の助手は話を始めるのだが、言い訳じみた苦しい説明になってしまう。
「隠すつもりはなかったんですが、まだこの状態ですからね」
「でも、たったこれっぽっちぃ?」
 おかしな雰囲気――まだ何かを隠している――を敏感に察知したジーナは、口を可愛らしく尖らせて相手を煽るように言う。
「ジーナちゃん」
 遠慮のない発言に、リュアは勇気を出して友達をいさめる。
「ええ。今はこれだけです」
 しっかりとうなずき、飼っている小動物をいたわるような温かい視線で自分に与えられた区画を見下ろし、青年は堂々と語る。
「ごめん。でも良かったね、もらったの?」
 話題の切り口を変え、早口でジーナは訊いた。テッテは怒った素振りを見せず、むしろ追及の手が緩んだのでほっと息をつき、明るい声を取り戻そうと努力しつつ返事をした。その額にはうっすら冷や汗をかいていたが、ジーナは気づかぬふりをした。
「そうです。師匠に頼んで、僕の研究用にもらったんですよ」
「ふーん」

 ジーナはしばらく考えていたが、結局はいくらも我慢できなかった。実はリュアも猛烈に知りたがっていた、青年の〈秘密〉の核心に迫る問いを、思い切ってぶつけてみることにしたのだ。
「ここで……何を育てるの?」


  4月16日− 


[風薫る季節に(1/4)]

「あっつーい……」
 ウピは右手を鳥の羽のように素早く動かして扇ぎ、歩きながら黄蘗(きはだ)色の薄手のジャケットを脱ぐと、小脇に抱えた。
 彼女の横を控えめに歩いていた友達のレイナは、華奢な左手を額にかざし、眼鏡の奥の両眼をまぶしそうに細めて呟いた。
「海水浴日和でしょうか」

 亜熱帯の島にあるミザリア市の春の光は、レイナに限らず、直接見られないほど強かった。いくぶん明るすぎる日差しが南の空から降り注ぎ、人々の肌を健康的な褐色に染め上げる。
 それでも商店の庇に入り、日陰になると、吹き抜ける風は夏場とは違う爽やかさに充ち満ちている。その空気の流れには、皆の心を軽やかにさせる、かすかな甘い香りが混じっていた。

「天気さえ良ければ、一年のほとんどは海水浴日和だもんね」
 暑いと言っている割には、弾ける笑顔を絶やさずにいるウピである。雨季と乾季しかないミザリア国でも、春らしいひとときは確実に訪れる。すれ違う人々の表情も、嬉しさを含んでいた。
「広場もきっと、混み合っていると思います」
 レイナはごく真面目な口調で淡々と答える。それでも口の隅は僅かに緩み、彼女本来の穏やかさや優しさが感じられた。

 仕事は休みの週末――夢曜日である。折からの好天で、気温はぐんぐん上昇していた。通りに面した多くの商店は閉まっているが、通りを行き交う市民は多く、食事処は人気だった。
「ゆっくり見られるといいけど。ザルカの花」
 ウピは遠い目をして言う。彼女の言った通り、二人は泳ぐのではなく、今日は花を見に出かけていた。ウピは左手に革製のきんちゃく袋をぶら下げ、レイナはポシェットを肩から掛けている。

 白いシャツの上に開襟の長袖ブラウス――白地に青と薄紫と桃色を組み合わせた斜めのチェック模様が入っている――を着ている、やや背の低い女性がウピだ。膝下くらいのベージュのスカートを履き、少し伸びてきた金の髪を素朴なバレッタ(髪留め)で留め、日除け用に麦わら帽子をかぶっている。カジュアルな格好が良く似合う、真っ直ぐな性格の十八歳の女の子だ。
 他方、肩の辺りまで伸ばした銀色の髪を風にそよがせ、薄い黄土色の無地に縦方向のひだが入った長めのプリーツスカートを履いているのがレイナだ。薄桃色の地にザーン族の民俗衣装風の刺繍が入った長袖シャツは春らしく、レイナの雰囲気にも相応しかった。彼女は婦人向けの白い帽子をかぶっている。
 二人は学院魔術科の、かつての同級生だ。卒業してからも交流が続いており、都合をつけて一緒に町へ繰り出すのだった。


  4月15日− 


[雲のかなた、波のはるか(20)]

(前回) (初回)

 気まぐれに舞い上がった強い横風を受けて、傘の船はレフキルとサンゴーンの身を預かったまま、塩辛くて荒っぽい天河をあっけなく離れた。それは航路を外れた筏(いかだ)が大洋に飲み込まれるようにも見えたし、湖面に浮いていた落ち葉が突然の波紋と渦に煽られる姿をも想起させた。どこまでも自由で清く澄み渡り――されど支えるものが何もなく、徹底的な自己責任と、冷ややかで孤高の印象を併せ持つ果てしない天の野原へ、二人を乗せた黒いこうもり傘はいざなわれたのだった。

 突如、吹きすさぶ別の風を浴びて、傘の船は右側に傾いた。
「くっ!」
 ほとんど反射的に、サンゴーンとレフキルは傘の柄を両手でつかんでいた。二人の掌が重なり、レフキルはぎゅっと力を込めた。サンゴーンは何も言えず、深い海を彷彿とさせる大きな瞳で、相手の顔を不安そうに見上げることしかできなかった。
 サンゴーンの祖母――前代の〈草木の神者〉の魔力が封印されたお陰で驚くほど寿命が延び、強度も増している不思議な漆黒の〈こうもり傘〉であっても、二人の少女の体重を受け止め続けるには、いくら何でも華奢すぎる。皮が剥がれて骨が折れ、壊れるのが先か。バランスを崩して、ひっくり返るのが先か。二人が最後の望みである〈船〉を失くして、雲を突き抜け、空の底まで真っ逆様に落ちるのは、もはや時間の問題となっていた。

(とくん、とくん……)
 レフキルの長い耳は、自分の鼓動をはっきりと捉えていた。
 時間の流れが、ゆっくりになっていた。あたかも、さっきまで傘に乗って滑っていた塩辛い激流が、本当の〈時の河〉だったかのように。その道からずれてしまった二人の目に、一瞬一瞬の景色はより鮮明に映った。感覚が研ぎ澄まされて、心は世界の懐に近づいた――が、現実の水に濡れた服は重くへばり着いて、折からの上空の風を受け、身が切られるように痛かった。
 遙か下に、イラッサの町を隠している灰色の雲の大陸が遠く横たわっている。綿の切れ端のような白い雲は、南国の海を漂う泡やわかめを思わせて、のんびりと気流に身を任せている。

(光、あったかいな……)
 遮るもののない眩しい夏の光線に直接射られて、レフキルはおぼろげに思った。凝縮された濃密な刹那に、頭は冴え渡る。
 吹き抜けの天井を仰ぎつつ、長い階段を登った懐かしい神殿の尖塔を、今は外側から見渡せた。三周の螺旋のとぐろを描いて塔に絡みつき、勢い良く突き進む天竜――海神アゾマールを予感させる空の河の、巨大な威容を見晴るかすことも出来る。

(あれっ?)
 二人がつかまっている命綱の〈傘の船〉は、塔から少し離れた中空で動く速度を徐々に緩めると、やがて完全に静止した。

 四方八方へ、てんでに自分勝手に飛び交っていたと思っていた風は、高い声で彼らの音楽を奏でながら、複雑に入り組んだ三次元の見えない模様を織っていた。その網の際どいベクトルが重なってバランスが取れている一点に、サンゴーンが祖母の形見として大事にしてきた〈こうもり傘〉が引っかかっていた。
 気流を味方につけた鳥が羽ばたかずに空を滑るがごとく、二人の傘は落ちることもなく、また浮かび上がることもなく、あたかもその場に昔からあった透明な地面に支えられているかのように留まっていた。それは不思議という段階をとうに突き抜けた、恐ろしいほど奇跡的な体験――運命的な出逢いだった。

(空が、意思を持ってる?)
 レフキルは息を飲んだ。

 少し遅れて、感動が沸騰するように体じゅうを駆けめぐり、背中や二の腕に鳥肌を立てた。視線を落とすたびに足はすくむが、あまり怖い感じはしない。隣のサンゴーンの顔も、決して集中力は失われていなかったが、全身が石のように堅くなるほどの緊張の糸と絶望の連鎖は、いつしか、だいぶ解れていた。

 そしてまさにその時だった。
 今までとは明らかに異なる緩やかで円やかな一陣の風が、こうもり傘を抱きしめるように、どこからともなく吹いてきたのだ。
 傘を寝かして二人を投げ出さないためだろうか。新しい風は極めて慎重に、斜め下の方から出発しているように感じられた。

「お願い!」
 レフキルは声を限りに叫んだ。響きの切れ端が、広すぎる蒼に吸い込まれて消える。にわかにサンゴーンも風を励ました。
「頑張ってくださいの!」
「その調子! そっちに行けば、あたしたち助かる!」
 あまり体を動かして傘の船に負担をかけないよう細心の注意を払いつつ、レフキルは風に頼み込んだ。他方、サンゴーンは傘の柄をつかんだ手を離さぬまま、瞳を閉じて祈りを捧げた。
「聖守護神・ユニラーダ様……」

 優しい風の押す力は非常に弱かった。再び動き出した傘は歩くよりも遅く、猛烈なしぶきを上げて天の原を駈ける海の川に比すれば、止まっていると言い切っても差し支えないほどだった。
 それでも風は負けなかった――二人の救出を諦めなかった。
 もちろん、当事者の少女たちも、望みを捨ててはいなかった。
「お願い、あとちょっとだから!」
「おばあ様、どうか私とレフキルを……」

 思いが届いたのか、少しずつではあるが確実に事態は改善していた。途方もない時間が過ぎ去ったように思えたが、後から考えれば、ほんの数秒しか経っていなかったのかも知れない。

 塔をめぐる激流のうち、一番下の流れが近づいてきていた。
 こうもり傘はしだいに速度を上げ、すれすれの高さを維持したまま、シャボン玉を思わせる軽やかな動きで横滑りした。最後はほとんど音も立てず、あめんぼのように着水したのである。


  4月14日− 


[一番あったかい暖炉について(6)]

(前回)

「本物の暖炉だってさぁ、新鮮な風を送り込んだり、薪を入れ替えてかき回したりすれば、新しい炎がメラメラ燃えるっしょ?」
 面白い悪戯を思いついた場合に特有の、水を得た魚を彷彿とさせる生き生きとした口調で、赤毛のサホは身振り手振りを交えつつ話し続けた。自分の考えを押しつけるわけではなく、あくまでも相手に同意を求めて聞いているのだが、彼女の頭の中では面白い考えや表現が次々と浮かんでは弾けているようで、それを言葉に置き換えるのがまだるっこしいような様子をしていた――というのも、歩きながらむず痒そうに肩を上下させたり、落ち着きなく揺すったり、視線の行く先が現実の街並みを通り越して、楽しい思念の世界に焦点が合っていたりしたからだ。

 さて、いつもなら話に乗ってくるリュナンであるが、事は自分の身体に関係していたためか、慎重に言葉を選んで諾った。
「うん……そうだね」
「あたいらが持ってる一番あったかい暖炉の燃料は、食べ物。食べてから、たくさん風を送り込めば、よーく燃えるんさァ!」
 満足げに背を伸ばして顎を引き、軽く胸を張ったサホは、口元が緩んでくるのを我慢できなかった。この後の〈作戦〉にリュナンがどう反応するのかを早く知りたくて、楽しみで仕方がない様子である。鼻歌を唄いながらにやけていると、リュナンは前を向いたまま小さなため息を洩らして、白けた声で言うのだった。
「はぁ。へんなサホっち」
「ねむが寒いなんて言うから、あたいの心に火がついちゃった」
 冗談も絶好調のサホだったが、他方、相手は黙ってしまう。はしゃいでいたサホもしだいに頬がこわばり、会話は途絶えた。

 サホは常々、喘息持ちで病弱のリュナンに早く元気になってもらいたいと考えていたが、そのことは二人の間で暗黙の禁忌になっており、あまり強くは言えなかった。だが、今日の着膨れした姿と、投げやりな健康管理、弱気な言葉には、サホを奮い立たせるものがあった。押しつけがましくならないように助言をするつもりだったが、意外と頑固なリュナンは反発していた。

 珍しく気まずい距離感が漂っていた親友の二人だったが、少し機嫌を直してサホの遊びに付き合う素振りを見せたのはリュナンの方だった。せっかく相手が自分の身体を心配してくれているのに、あまり無下に扱うのは良くないと反省したのだろう。
「サホっち。風を送り込むってことは、息を吸えばいいの?」

 朝もやはほとんど溶けて、冬の澄んだ空気がより蒼く見せる朝の空が、ズィートオーブ市に拡がっていた。それはまるで、都市自体が眠りから醒めて、瞳を開いていくようにも感じられた。
 サホは隣を歩いている友の顔を覗き込んだ。さっきまでのしおれていた気持ちは一掃され、再び期待が溢れてくる。楽しげな様子があっという間に芽を伸ばし、くきを太らせ、幾重にも葉を付けて、つぼみを膨らまし――見えない花を周りに咲かせた。
 いい音で指をパチンと鳴らし、サホは明るく合図する。ついに意を決して真面目な顔をした骨董店の働き者の長女は、相手の耳元に口を近づけていった。二人はどちらからということもなく立ち止まる。そしていよいよ、サホは〈作戦〉の開始を告げた。
「じゃあ、そろそろ風を吹き込もう。ちょっと無理矢理だけどさ」
「無理矢理……って?」

 聞き終わるや否や、リュナンは強い力で手を握られ、引き寄せられた。痩せ気味で筋力の弱い彼女は、ひとたまりもない。
「えっ?」
「こうするの!」
 サホはリュナンの手首をつかんだまま離さず、相手に辛すぎる負担にならないよう、やや遅めの駆け足を始めたのだった。


  4月13日○ 


[笑顔の種(5)]

(前回)

「えー、分かんないの?」
 蒼い瞳をまん丸に見開いたジーナは、驚きの大声で、のけ反るようにして訊ねた。ジーナとテッテのやりとりを聞いていたリュアは、何か言いたげに口を開きかけたものの、つぐんでしまう。
「ええ」
 傲慢でも卑屈でもなく、わざとらしくもない小春日和のように柔らかな微笑みを浮かべて、研究所の助手はすぐにうなずいた。
「僕は、残念ながら、学舎の先生とは違いますから……さまざまな研究はしていますけれど、何でも〈正解〉を知っているわけではありませんよ。本当に、分からないことだらけなんです」
「大人なのに〜?」
 少しがっかりした、という感情を露わにしながら、ジーナは問い返した。足の位置がずれると、数日前に落ちて地面に横たわっていた木の葉が、薄い氷の割れるような音を立てて崩れた。
 時たま、赤や黄色、茶色の新しい葉が、ゆらりゆらりと波のように揺れそよぐ風に流されながら、目の前をすり抜けて、深い森の底に漂着する。やがては落ち葉のじゅうたんになり、虫たちの冬場のねぐら――春を創り出す天然の肥料になるのだろう。

 テッテが気を悪くしていないだろうかと心配そうに、リュアは横顔を見上げていたが、青年は真面目な口調で穏やかに語る。
「大人だから何でも知ってる、と言うことはないのだと、僕は思いますよ。むしろ僕やカーダ師匠よりも、ジーナさんやリュアさんの方が、色々な事を知っていると思いますよ。冷えてしまった硬い知識としてではなく、温かな直感や柔らかな経験として」
「え? あたしたちの方が?」
 ジーナは自らを指さしながら、とっさに友達を見た。その相手――リュアは、ジーナとテッテの間で視線を彷徨わせている。ジーナはどう答えていいものか戸惑っていたが、つま先立ちを繰り返して後ろ手に組み、はにかんだ微笑みを浮かべた。新鮮で誇らしげな気分を味わっているのだろう、満ち足りた様子だ。
「そんなことないと思う……」
 ぽつりと曖昧な反論をしたのは、長らく聞き役だったリュアである。とんでもない――とでも言いたげに、小さく首を振った。

 彼らの周りで、秋がざわめいていた。限りなく透き通った風の輪舞に、時雨に湿った土の中に。光と影の間で、虫や鳥の鳴き声に呼ばれて。夏の元気さとは明らかに異なる、豊穣と教養を思わせる大人びた雰囲気が、静けさの森に染み込んでいた。
 ジーナの期待とリュアの不安そうな眼差しを受けたテッテは、万感の思いを込めた語り口で、考えを率直に綴るのだった。
「僕が確実に〈知っている〉と言えるのは、おそらく、僕があまりにも知らないと言うことだけです。分からないことに出会うたび、この世はなんて不思議なところなのだろう……と思いますよ」

 言いながら、テッテはおもむろにしゃがみ込んでいた。話を中断して、両手を胸の前で組み、うつむいて短い祈りを捧げる。
 瞳を開いた青年は、首だけを動かして少女たちの方を振り向いた。眼鏡の奥にある二つの瞳と、唇を緩め、悪戯っぽく笑う。
「誰かに百個の素晴らしいことを聞くのも楽しいですけど、自分の力で、たった一つのつまらないことを発見するのも、それはそれで面白いですよ。僕は、そちらの方に魅力を感じるんです」
 肌荒れして痛々しいテッテの右の掌が、ジーナの方に向かって真っ直ぐに差し出される。背の低い八歳の少女は好奇心をはち切れんばかりに膨らませて、顔を近づけていく。友達のリュアは背伸びをして、二人のやり取りを興味津々そうに覗き込む。

「師匠には、風で吹き飛ばされたことにしておきますからね」
 と、小声で言ったテッテの、掌に握られていたのは――。
 それはジーナが気づいて質問した、水路の脇に生えていた〈青っぽく変色している丈の短い草〉である。細長い二本のうちの一本を、テッテはまず人差し指と親指でつまんで持ち上げ、左手に移す。そして残った一本を、迷わずにジーナへ渡した。
 はっと現実に戻って、ジーナは威勢良くお礼の挨拶をする。
「ありがとう!」


  4月12日− 


[天音ヶ森の鳥籠(18)]

(前回)

 シェリアが指摘した刹那、辺りが凍り付いた。直後、ひどく微妙で繊細な、ぎくしゃくする雰囲気が漂う。相手はどう答えるか考えあぐねているのだろう。顔を見合わせるような間があった。
「何を言うんだい」
 動揺を包み隠した低い声で、精霊の一人がつぶやいた。その声には張りがなく、堅い響きで、戸惑いを浮き彫りにしていた。
「もういい、分かったわ。今のやりとりが雄弁すぎる答えよ。あのフニャフニャの緑色のバケモノが、あんたらの姿なわけね」
 さらに続けようとした相手の言葉を遮り、シェリアは悠然と言い放った。立場が弱いのはあくまでも彼女の方に変わりはないが、精霊たちが不安そうにざわめき出すのが手に取るように分かった。かつて捕らえられた村人たちと異なり、魔術師の修行を積んだシェリアだからこそ、魔力の強い精霊を見分けられたのかも知れない。そう――精霊たちは初めて見破られたのだ。

 けれども、中には優位な現状を再認識し、いち早く冷静さを取り戻した者もいる。彼は確信に満ちた口調で皆に呼びかける。
「だからと言って、何も変わらないよ。結局、お姉さんは脱出できないし、鳥になってもらうし、夏祭りで僕らのために唄うんだ」
 今度は軽いどよめきが広がった。すぐ同調する者も現れる。
「そうだよ。いつも通り、今まで通り、無力な鳥に変えちゃえば、今のやりとりはすっかり忘れちゃうんだから。帰る時にはさ!」
「この〈鳥籠〉にいたことすら、ほとんど忘れちゃうんだよね!」

(ははーん、分かったわ。鳥になって帰ってきた村人は、だから〈鳥籠〉って言う単語くらいしか、まともに覚えてなかったのね)
 シェリアはというと、気持ちの揺れが大きい精霊たちの言葉のやりとり――というよりは、魔力の交感による精神的な意志疎通だったのかも知れないが――に翻弄されることもなく、一言も聞き漏らすまいと集中力を極度に高めていた。元来は彼女こそ、案外に浮き沈みが激しく、お世辞にも穏やかな性格とは言えない。だが、相手の心が乱れれば乱れるほど、シェリア自身は興醒めし、逆に頭が冴えてくるのも彼女の特徴であった。

『鳥籠にいた気分だ、と被害者はしきりに語っておるンじゃが』
 村長代理の聞き取りにくい声が、頭の奥底で朧気に蘇った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「シェリアお姉ちゃーん」
 青ざめた顔のリンローナは、姉の名を呼ぶのを中断した。薄緑色の瞳を曇らせて伏し目がちにし、かすれた震え声で呟く。
「どうしよう……」
 つい先頃、池のほとりまでシェリアと行動をともにしていたケレンスとリンローナは、単独行動をして姿を消した魔術師を心配していたし、決して手をこまぬいていたわけではない。彼らなりに最善と考えた、必死の捜索活動を敢行していたのである。


  4月11日− 


(休載)
 


  4月10日− 


[記憶と思考]

 ヘンノオ町の夜は暗く、深い闇の深海の奥底に沈んでいた。
「私があの花を見た、という記憶は……」
 特殊な力を受け継ぐ〈神者(しんじゃ)〉は、森大陸ルデリアで七人しか存在しない。そのうちの一人である〈月光の神者〉ムーナメイズ・トルディンは、眼鏡をかけた二十一歳の、知的で神秘的で謎めいた男だ。彼は表情を変えず、淡々と語っている。
「あの花びらが一枚一枚散ってゆくのと同様、少しずつ剥がれ落ちていくような気がするのです……死ぬというその時まで」
 まだ冷たい早春の夜風は流れ去る。ムーナメイズが思い浮かべていたのは、昼間に公爵家の花園で見かけた、冬から春の狭い橋渡しの時期に開花する、早咲きの花の群れであった。

 彼は諦めに似た小さな溜め息をつき、やがて再び語り出す。
「記憶は色褪せ、曖昧になる。完全な再現など、不可能です」
 相手からの返事はないものの、ムーナメイズは話し続ける。
「そもそも、個人が受け入れた時点で、その個人の目を通して見た物事は、言うなれば〈その者の心の鏡に映された事実を見た〉というような、極めて私的な、個人の記憶になります。一つだけの真実など、存在しない。真実は人の数だけ有るのです」
 そう言った後で、彼は〈彼の真実〉を回想して、しばらく口を閉ざす。銀色の星たちは空一杯に点在し、さながら星の絨毯だ。

「花は散り、姿は怪しげになっても、それは花に違いありません。細部は消えても、手に入れた印象はとても長く残ります」
 見晴らしに都合の良い塔の上に、夜は重く染み込んで来る。
「そう。まるで死んだ者と繋がる記憶と、どこか似ているように」

 ムーナメイズは瞳を閉じた。開けば――彼女はそこにいた。
 彼が語っていた相手は、細面で白い、今宵の三日月だった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

4/10 岐阜県本巣市・根尾地区にて



  4月 9日− 


[春を呼ぶ花]

 厳冬期、マツケ河を下る途中に凍り付いた水が河口にたどり着き、押されて湾から飛び出して、メロウ島に接岸していた。北国の深い海は、やや蒼色を帯びた氷に見渡す限り埋め尽くされ、さながら曖昧で不安定な〈氷の陸地〉を形成していた。離れ小島であるメロウ島は、この時期、大陸と陸続きになるのだ。
 今や、それら流氷の群れも遠ざかって久しく、冬の風物詩である氷上船の姿も消えた。最も気候の厳しい頃には無人の野となり、眠りについていた島にも、少しずつではあるが人の姿が戻りつつあった。人の数こそが、メロウ島の春を測る物差しだ。

「ほっ、ほっ」
 筋肉質の長い右足をしなやかに出し、一定のリズムに乗って左足を下ろす。分厚い靴の後ろに付いている鉄製の太い針が、何度も融けては凍りついた根雪に刺さって、ザクッと割り、えぐった。右、左と、踏み込まれた足跡はほとんど等間隔である。
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ、はっ……ほっ、ほっ」

 まだ雪の残っている荒れ果てた島の海岸を駆けているのは、二人の若い女性であった。十九歳のユイラン、そして二十二歳のメイザだ。遠くから見ている者がいれば、二つの小さな人影となっている後ろ姿が、太陽の光――薄曇を突き抜けて霧雨のように弱々しく降り注いでくる――を集め、求めるかのように、おおよそ東の方角へ向かっている、ということが分かっただろう。
 鼻と口から絶えず煙のように白い吐息が漏れているが、苦しそうではなく、まだ余力はありそうだ。滑りやすい氷の雪の上なのにも関わらず、軽快と言い切ってしまっても決して間違いではないくらいの、馴れた走り方だ。登りでも下りでも、速度は極端な変化をつけず、長い脚と両腕を淡々と動かしている。顎を引き、並んで走る二人の姿は、横から眺めても美しい。その向こうには黒ずんだ冷たい北の海が見える――波頭が踊っている。
 彼女たちはコートを羽織っていない。この地域に暮らしている者は、寒さにはめっぽう強く、冬でも驚くほど薄着であるが、それに比べても彼女たちは薄着の、動きやすい格好をしていた。

「つらら潰し、出来なくなるのは、つまんないっすよねぇ」
 額にうっすらと汗を浮かべ、呼吸の合間を縫って喋ったのは、艶やかな黒髪を邪魔にならないように束ねたユイランである。下は色の落ちかかった赤い長ズボンで、上は白黒の縞模様をした綿の半袖シャツの上に、黄土色をした厚手の木綿の運動着(トレーナー)を羽織っている。その背中には、素手の格闘家たちを育てている道場としては世界最強として名高い〈メロウ修行場〉のシンボルである鷹の刺繍が、辛うじて鳥に見えるほどの下手さではあったが、極めて誇らしげに縫い込まれていた。

「うん」
 応えたのは先輩のメイザだ。やや小柄な体格で、笑顔のえくぼが可愛らしい女性である。黒い髪を、格闘家としては珍しくアップにして留め、長袖のセーターを羽織っている。闇色の瞳は、ユイランよりも幾分、優しい輝きを湛えている。もちろん、それでも試合になれば、雪をも溶かす情熱と集中力を見せるのだが。
 ところで、ユイランの言う〈つらら潰し〉とは――。
 土壌が悪く、気候の厳しいメロウ島に生息できる植物は、地に張りつくような草か、背伸びできない痩せた木々ばかりだ。その木とも言えないような木から垂れたつららを素早く叩き割り、一連の動作の格好良さ、切り口の秀麗さや、破片の大きさ、飛び方、飛距離などで総合的に競う遊びである。雪かきばかりで冬場の楽しみの少ない北国の子供たちが自然と考え出し、改良を加えていった。他方、大人たちは家の中で編み物の内職をしたり、酒の醸造に力を入れた。というわけで、メロウ島の対岸にあるマツケ町では、独特の細かい織り方が発展して〈マツケ織り〉として世界的に有名であるし、ライ麦を用いて作った強い蒸留酒(ウオッカ)は、純粋な雪を溶かした水で作ると特に美味しい。地元の人々に親しまれており、旅人たちの評判も高い。

 そのマツケ町も、メロウ島から遠く望める。漁をする小舟の姿が微かに見える。雪と寒さとの戦いの日々は終わったのだ。

「でも、温かくなってきて、うれしいよね」
 駈けながらメイザが言う。ユイランはうなずく。うなずいてから、めぐる季節に関する万感の思いが、じわじわと染み出してきたのだろうか――薄雲から洩れてくる光の筋道に目を細める。
 小さな島の、道とも言えぬほどの雪残る海沿いの原野は、右へ急に舵を取って南へ向かう。二人は、春を呼ぶ南風になる。

 花月(かづき)と呼ばれる四月になっても、花のつぼみさえ見えぬ北辺の島で、彼女たちは今日も、強く美しく咲いている。

(おわり)
 


  4月 8日− 


(休載)
 


  4月 7日− 


[天音ヶ森の鳥籠(17)]

(前回)

「僕らは、ここにいるじゃない」
「さっきから、ここにいるよ」
「どこを見てるんだい。ははは」
 一人が言うと、何人かの同調の波が起きた。その中にはあざ笑う調子の者もいれば、真面目に応えていた者もいるようだ。
 煮え切らない感情を最後まで爆発させず、心の戸棚に押し込んでしまうと、ひんやりした虚しさが糸を絡めるようにまとわりついてくる。シェリアはいい加減、体力的にも精神的にも消耗しきっていた。朝早くに村を発ってから森に入り、山菜を求めての探索行、ケレンスとの喧嘩、気絶を経て、今度は〈鳥籠〉の中で魔法の網を伸ばしたりしたため、疲れが溜まってきていたのだ。
 もちろん、だからと言って現状を追認するわけではない。一時的な諦めを身にまといつつ、休息を取りながら虎視眈々と脱出の機会を窺う、跳躍に備えた助走の時間が訪れてきたのだ。

 薄暗い場所で研ぎ澄まされた聴覚は、今や〈聞こえる音〉に留まらず、彼女の内側へと向かっていた。耳の奥では妙な声ばかりが反芻される。まずは麓の村の長の、方言混じりの声だ。
『湿った水際に、夏祭りで献上する山菜があるンだとよ……』
 そして妹のリンローナの呼びかけが、生々しく思い出される。
『そうだ、鼻歌のお手本を聴きたいな……お姉ちゃん、とっても上手なんだもん。天音ヶ森の鳥さんにも混じれるよ、きっと!』
 最後にたどり着いたのは、懐かしくて音痴な、妹の鼻歌だ。
『んんんん〜ん……』

「ちょっと。僕らの話、聞いてるのかい? 鳥のお姉さん」
 囚われの若くておしゃべりな女魔術師が口をつぐんでしまうと、何故か辺りの雰囲気も微妙に重くなった。不思議なことに、今や〈鳥籠〉の空気を左右するのは、高みから見下ろしている精霊たちではなく獲物として捕らえられたシェリアの方だった。

 そんな時、親切な〈声〉の一人が、彼女に助け船を出した。
「炎を操る魔術師のお姉さん、普通に見ようとしても見えないはずだよ、僕たちは。そっちとは、まるきり法則が違うんだから」
「……だったら、見てやんないわよ」
 へそ曲がりのシェリアは、大きく息を吐き出しながら目を閉じる。形のいい艶やかな唇は微かに歪められている。自分の犯した失敗を徹底的にあざけるような、それでいて今の状況を楽しむような、気張らない本来の彼女らしさが見え隠れしていた。

 突如、驚きの疑問符を響かせたのは、次の刹那であった。
「はぁ〜?」

 薄い緑色のもやのようなものが、神秘で残酷な火焔(かえん)のように、闇の中で照らされた草のように、透き通った湖の底に沈んだ柳の葉のように、この世に未練を残す亡霊のように、ゆらゆらと揺れ動いているのが分かった。幻とは思えない。まるで国家の偉大な指導者から肉体だけを消し去った時に残る〈存在感〉の、その絞り汁を煮立てたような、躍動の魔力の波紋だ。

「何これ」
 目を開けると、さっきまでと何ら変わりがない、秘密の〈鳥籠〉の薄暗がりがあるだけだ。見えない〈声〉には緊迫感が走る。
 シェリアは再びまぶたを閉じ、開き、数度繰り返した。それから不意に、学院の講師と教え子との恋の現場を目撃してしまったかのような、妖しさと危険と深い興味に彩られた、軽い上目遣いの、相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべるのだった。
「ははーん。とっくに分かってたけど、今ので完全な確信が持てたわ。あんたらは、間違いないわ……森の精霊なんでしょ?」


  4月 6日△ 


[笑顔の種(4)]

(前回)

「師匠……本当に許して頂けるのですか?」
 あっけにとられた様子で、テッテはうわごとのように訊ねる。
 他方、珍しいほどの穏健さ・冷静さを保っていたカーダ博士は、最後に一言、大事な条件を付け加えるのを忘れなかった。
「それと、経過を報告することじゃ。きちんとな」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 まろやかでコクのある季節は、日に日に深まっていった。
「お兄さん、これ何?」
 カーダ氏の研究所からやや離れた不思議な森の片隅で、好奇心に満ちあふれた少女の声が響いた。後ろで束ねた長い黄金の髪を振り乱し、身体いっぱいに元気を身にまとった八歳のジーナは〈森の先生〉であるテッテに次々と質問を浴びせる。
「ここ、火炎畑……って書いてあるけど、山火事は大丈夫?」
「ええ。土の中で種になっている分には問題ありません。大地は火炎を打ち消します。万が一に備えて、飛び火しないように草は刈ってありますし、さらに周りを水路で囲ってありますよ」
 テッテはなるべく丁寧に、分かりやすく、しかも幼稚な内容にならぬよう説明しようと努めたが、専門用語が多くなってしまうのはやむを得なかった。木々が途切れ、広場状になっているこの場所は、カーダ博士の研究農園だ。ルデリア世界の七つの源――火炎・大地・月光・草木・天空・氷水・夢幻の〈七力〉を用いて、植物を交配したり、魔法のエキスを抽出したりしている。

「水路……?」
 ジーナの後ろから首を伸ばすような姿勢で二人のやり取りを覗いていたリュアが、ぽつりと呟く。森を吹き抜ける秋風に、肩に届くほどの銀色の髪は翼のように舞い、茶色の地に赤茶や黄土色の柄が入った、厚手の生地の長いスカートが揺れる。
「ええ。ですが、ただの水路ではありません。氷水の力を増幅してありますので、炎はこの中に封印されます。出られません」
 テッテはほとんど出し惜しみせず、分かっている範囲内のことを説明した。知識をひけらかすのではなく、ごく自然に語りかけるように。そしていつも、少し恥ずかしそうにこう言うのだった。
「僕の師匠、カーダ博士から習ったことばかりですけどね……」
「じゃあ、これ何?」
 水路の脇にしゃがみ込んでいたジーナは、青っぽく変色していた丈の短い草を指さした。テッテは瞳をしばたたいたが、あまり長いこと考えずに首をかしげて腕組みをし、素直に応えた。
「うーん、分かりませんねぇ。何でしょう、これは?」


  4月 5日× 


(休載)
 


  4月 4日△ 


[笑顔の種(3)]

(前回)

「そうなんですか?」
 色々な意味で驚いたテッテは、つい聞き返してしまった。
 面白くないのはカーダ博士である。椅子に腰掛けたままの彼は、作業台の表面を指の爪の先で弾きながら、顔をしかめた。
「なんじゃ、師匠のわしを疑うのか。いつからそんなに偉くなった、このたわけが。正直者のわしを疑うとはいい度胸じゃ!」
 こうなると博士は手がつけられなくなる。テッテは平謝りだ。
「申し訳ありません、本当に、断じて、その様な疑いは……」
「まあいい。で、どうするつもりだったんじゃ?」
 カーダ氏は頑固そうな声と表情を保ったまま、あっという間に怒りを鞘に収めて、すかさず弟子に先を促した。根っからの研究者であるカーダ氏は、テッテが考えていた方法を聞きたくて、内心はウズウズしていたのであった。いつもなら大爆発する場面であるに違いないが、知的好奇心の方が勝ったのだった。
 そんな師匠の頭の中でのせめぎ合いには気づかず、そういうことに関して非常に鈍感なテッテは、慌てて説明を再開する。
「紫色の夢幻の粉をですね、水に溶いておいて、そこに草木の素を少しずつ足していこうと思っているんです。花は夢、葉っぱが草木の力を表すのであれば、割合を時系列と逆に変えることによって、その溶液にですね、植物の種を浸しておけば……」
「駄目じゃ駄目じゃ。そんなことをしたら種が腐ってしまうわい」
 必死に語るテッテの話を遮って、カーダ氏は激しく手を振る。

「やっぱり駄目ですか……」
 テッテはがっくりと両肩を落とし、溜め息をつく。彼は不器用で不注意で、町の忙しいパン屋の仕事などに就いていても、言われたことさえ上手にこなせなかった。どこにいても叱られてばかりで、長続きしなかった。自分を駄目なやつだと悲観していた。
 そんな彼がカーダ氏の研究所に居着いて、言うなれば〈研究職〉に就いた。それほど成功しているわけではないし、相変わらず叱られない日は無いのだが、テッテにとっては最も長く勤めた記録を更新中であり、カーダ氏にとっても最も長い弟子の記録を更新中である。一年先、二年先を見越してじっくりと取り組める今の仕事は、何はともあれテッテには向いているようだ。

 太陽が薄雲に隠れると、丘に灰色の津波が訪れ、光のまぶしさが奪われていった。小さな研究所の中も彩度が減退する。
 やがて黄金の陽が顔を出す。カーダ博士は自分のことを棚に上げ、白っぽく染められている細い顎髭を撫でながら呟いた。
「それに、あまり実用的とは言えんな」
「この方法が確立すれば、お花屋さんに売れると思いますが」
 珍しく食い下がったテッテに対し、カーダ氏は呆れたような声で反論する。博士は、まずは何事をも否定したくなる性格だ。
「お前は、フレイド族の造花を知らんのか。あの精巧な……」
 背が低く、手先が器用なフレイド族は職人に向いている。
「いやしかし、師匠、作った花と、生きている花は違いますし」

 相手を説得するため、久しぶりに熱くなっているテッテの脳裏には、年の離れた二人の〈友達〉の笑顔があった。たまに遊びに来てくれる二人の少女――学舎に通っている八歳のジーナと九歳のリュアは、テッテのことを〈お兄さん〉と慕ってくれる。
 カーダ氏に気づかれぬよう森を案内するのは大変だが、三人で不思議なことを体験するのは、忙しい研究生活の中では最高の息抜きであり、何よりの楽しみだ。テッテの方こそ、彼女たちに教えられることは少なくない。そのうち大きくなれば、来なくなるのは分かっているが、それも承知の上だ。学舎では習うことのない、森の和音や風のきらめきを知ってもらいたい――。

 望みを叶えるには、金銭面や薬品面でのカーダ博士の助力が不可欠だ。あまり手応えがなく、それどころか普段のように反論ばかりなので、テッテはいささか疲れてしまった。顔からは歓びや情熱が急速に失われ、成果の上がらない交渉には諦めの感情が膨らみ始める。会話が止まり、テッテは頭を下げた。
「……すみません。無謀なお願いでした」
 カーダ氏の性格――まずは何でも否定したがる、あまのじゃく――を意識的に衝いたわけではないが、テッテの吐いた弱音が、逆に師匠を懐柔し始める。博士は腰に親指を当て、上体をやや反らし、足を組み直して、探るような視線を弟子に向ける。
「まあ、目標が出来ることは悪いことではないな」
「でも許して頂けないんでしょう……方法も駄目みたいだし」
 頭を抱えて壁に身を預けたテッテは、かなり自虐的になっていた。当然、博士はそれと反対のことを言いたくなってしまう。
「許さんわけではないし、方法も全く駄目とは言うとらん。見るべき所はあるし、もう少し工夫すれば上手くいくかも知れん」

「えっ、師匠……」
 さっきまでの態度からは、まさか許しが出るとは思っていなかったテッテは、頭が混乱してきて絶句した。後から考えれば、ここで〈本当ですか?〉とか〈信じていいんですか〉〈許してもらえるんですか〉などと訊かなかったのは、彼にとって幸運だった。
 テッテが呆然としていると、博士は当然のように条件を出す。
「最後まで聞くんじゃ。認めてやってもいいが、その代わり肥料代、薬品代、その他もろもろの代金は給料から天引きじゃぞ」


  4月 3日△ 


[笑顔の種(2)]

(前回)

「フン。突っ立ってないで、少しは説明したらどうじゃ!」
 思い切り唾液を飛ばし、カーダ氏は吠える。彼は続けた。
「わしはこれまで四千人の弟子を取ったが、そんなこと言うたのは、おまえが初めてじゃ。葉の代わりに、花を咲かせるじゃと」
 このままでは埒があかないと思ったのだろう、テッテは改めて〈説明すること〉の難しさを噛みしめながら、想像力をかき集め、適切な言葉を探し、とつとつとした口調で熱っぽく話し始める。
「あのですね、師匠。師匠の虹の橋に対する執念に比べれば、比べるべくもないのですが、今の僕のささやかな夢なんです」
「当たり前じゃ。年期が違うんじゃ」
 腕組みしたまま黙って聞こうと努力していたカーダ博士だったが、どうしても口が挟みたくなり、一言だけ呟いた。彼は親から受け継いだミレーユ男爵家の資産を投じ、四十年間にも渡り、一つの夢に向かって取り組んできた。すなわち、雨上がりの空に架かる七色の虹の橋を、魔法の力を帯びた薬品などを混ぜ合わせることによって作り出せないか――という課題である。
 副次的な成果として、気づかぬうちに自然科学の分野の重要な秘密を解き明かしたり、多種多様な不思議で珍妙な発明品が出来上がりもし、それを町で売ることによって研究資金の足しにしてきた。最終的にはそれらの段階を踏まえた上で、あくまでも虹の橋を生み出すのがカーダ氏の生き甲斐なのである。

 テッテは負けじと、彼にしては珍しく身を乗り出すようにした。双眸の輝きを増し、ここぞとばかりに奮起して、素直な気持ちを、心の土で培ってきた願いを、静かな声に乗せるのだった。
「普通の花はすぐに散ってしまいますが、葉っぱのように長く花が咲いていれば、あの子たちがよろこ……いえ、あの、きれいだと思うんです。どうでしょうか、任せてもらえませんか……」
 勢い良く語り出したテッテだったが、末尾は曖昧に響いた。資金や薬品の援助は、師匠であるカーダ博士次第である。テッテには頑固でケチなカーダ氏を説得できる自信はなかったのだ。
 まずは開口一番、感情的に怒鳴られるだろう――テッテは覚悟を決めて、唇を微かに震わせ、ややうつむいて立っている。

 研究所の窓からは、秋風に揺れる野原の草が垣間見える。
 結果から先に言えば、テッテの予想は半分当たりで、半分は外れた。カーダ博士は声を荒げて反論したものの、話の中身は極めて理知的で、なおかつ理論的だったのだ。自らの研究課題を洩らした三十歳年下のテッテを、博士はこの時初めて、単なる弟子としてではなく〈共同研究者〉として叱ったのだった。
「馬鹿もん。葉と根は、植物の口なのじゃぞ。昔、研究の途中で発見したんじゃ。葉を抜いておくと、すぐに草は枯れおったわ」


  4月 2日− 


[笑顔の種(1)]アクセス22222件記念 Cubeさん

 それは半年ほど前の、ある秋の日の出来事だった。広々とした丘を涼しい風が駆け抜けるたび、銀色のすすきの穂が波のように首をかしげていた日々を、テッテは良く覚えている。透き通った水を湛える小さな池は、まるで水の組成が空と融け合ってしまったかのように、野原の片隅で鏡となり、雲を映していた。

「葉っぱの代わりに、花を咲かせる研究……じゃとォ?」
 小さな木造の研究所を細かく震わせるほどの良く響く大声で聞き返したのは、当代きっての“迷”発明家、五十四歳のカーダ博士である。白髪交じりの頭髪は整えられておらず、顎や顔の横には、モヤシの根を彷彿とさせる細い無精髭が生えている。
 博士は見るからに使い古された眼鏡を外して、木の台に無造作に置いた。裾の長いベージュの作業服は洗濯されてはいるものの、色鮮やかな赤や青の塗料のようなものが染みついていて、あまり見栄えは良くなかった。眉間に深い皺を寄せて普段通りのいかつい表情を浮かべ、椅子に腰掛けたまま腕組みし、立っている弟子のテッテの顔を胡散臭そうに睨んでいる。

 博士の雰囲気にたじろいだのは、やや痩せてパッとしない青年――デリシ町出身のザーン族、二十四歳のテッテである。彼も眼鏡をかけており、その内側の瞳を素早く瞬きさせていた。
 身体中の筋肉という筋肉を堅くし、肩を怒らせ、緊張の面もちで、弟子は立ち尽くしていた。まともに博士の眼差しを受け止められず、しばらくの間は困ったように視線を彷徨わせていた。
 が、このままではいけないという、強い意志の力が働いたのだろう。ごくり、と唾を飲み込むと――人知れず立っている閑静な丘の研究所の中では、その音はとても大きく響いた――まずは勇気を振り絞り、弱々しくも精一杯の返事をするのだった。
「は、はい。そうです」


  4月 1日△ 


[白昼夢]

 昨日は太陽が顔を出して、小川の水もぬるみ、根雪を溶かしました。なじみのお店へ買い物に出かける時、予想以上の陽射しの強さに驚いて、薄手のコートを着ようか迷ったほどです。
 ところが今朝は粉雪が舞い飛び、厚い氷が張りました。澄んだ青空に代表される、冬という名の安定した古風で頑固な一枚岩は、春の空気に当たって風化し始めました。せめぎ合う季節は押しつ戻りつしながらも、少しずつ次の段階へ移ろいます。

 細かな名残雪は、音もなく降ってはやみ、降ってはやみ、を繰り返しています。空を埋め尽くす雲は、雪や氷と同じように、日に日に薄くなっています。幻なのか目の錯覚なのか疑わしいほどの、ささやかな粉雪が消えると、時折、か弱い乙女のように儚く美しい、奇蹟のごとく淡い神秘の陽射しも垣間見えます。

 わたしは窓辺に立ち、ぼんやりと外を見ていました。鼻から洩れた生の息がガラスを白く変えてしまい、外の粉雪をより一層、曖昧なものに変えてしまいます。暖炉の炎はパチパチと爆発し、激しくも円やかに、そして艶やかに、短い命を全うします。
 厚い窓ガラスが何度も曇るので、わたしはその度ごとに手近な布で拭き取るのでしたが――キュッキュと音を立てて――少し放っておくと、すぐに水滴がつき、大粒の涙となって滑り落ちます。内包していた春が幾つも芽吹こうとし、卵の殻のように壊れてゆく冬の、それは涙のようにさえ、わたしには思えます。

 温かくなりかけた後の寒さは、身に堪えます。今日はきっと、なじみの〈すずらん亭〉の娘さんたちも遊びに来ないでしょう。

 こんな日の午前中に、わたしは長い夢を見ます――ひどく現実的な問題として、空腹感を覚えるまで。わたしは想います。
 わたしは望みます――あの薄墨色の雲が一掃され、虹の橋ならぬ雲の橋が現れて、やや煙った青空の下地を背景に、粉雪ではない花びらの吹雪が舞う光景を。桃色の花びらの雪を。

 わたしは窓辺に立ち尽くし、微睡みの白昼夢に溺れます。






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