2004年 7月

 
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2004年 7月の幻想断片です。

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  7月31日− 


[レイベル夏日記(1)]

 朝から良く晴れて、空気の澄んだ青空が広がっていました。
 私は早起きして、お母さんと一緒にバターと卵のサンドイッチを作り、新鮮なお野菜と一緒にお弁当の箱に詰めました。ピンクの花柄の模様が入ったお気に入りの白い長袖のシャツを腕まくりし、ベージュの長ズボンを着て、肩に掛かるくらいの黒い髪を整えます。首や手の甲に昔から伝わる虫除けの薬を塗りつけ、風通しのいい布で編んだ白い帽子をかぶりました。お弁当と水袋を入れた手提げ袋は、ひもが長いので肩にかけます。
 だいぶ昇った太陽を背に、玄関でお父さんとお母さんに見送られ、横顔の私は何度も手を振りながら元気に出発しました。
 今日は、ナンナちゃんと一緒に、野山へ遊びに行く日です。

 待ちあわせの木の下で、幹に寄り添い、木陰の涼しい風を浴びていると、私の故郷のナルダ村はつくづくいいところだと思います。実りが豊かで、食べ物はおいしいですし、みんなのんびりしています。しいて言えば冬の寒さが厳しく、雪はいやになるくらい、たくさん積もります。でも、今はきらめきの夏なのです。
 靴から伝ってズボンの方へ、蟻さんがはい登ってきたので、私は笑いながら身をかがめ、人差し指の先で軽く弾きました。
 その時――ナンナちゃんの声が、空から降ってきたのです。
「ごめ〜ん、待った〜?」

「ナンナちゃーん?」
「寝坊して」「あわてて」「出てきたんだ」「よー!」
 私が大声で呼びかけると、緑色の葉をたくさんつけた梢の向こう側からナンナちゃんの返事がしました。どうやら待ち合わせ場所の木を旋回しながら、地面に降りてくる途中のようです。
 ナンナちゃんの声が、東西南北、四方八方から響きました。
 私は友達の声がどこから降ってくるのか、枝先をあおいで素早く首を振って探していましたが――相手は急に叫びました。
「うわぁ!」
「ナンナちゃん!」
 私が駆け寄ろうとするや否(いな)や、何かが幹にぶつかるような音がして、女の子の人影と木のほうきが落ちてきました。この国ではめったに見られない金の髪の毛が、一瞬だけ木洩れ日を受けて輝きました。それはまさにナンナちゃんの印です。

 それほど高いところから落ちたわけではありませんが、ナンナちゃんは下草の上へ思いきり尻餅をつきました。大事なほうきは、地面にぶつかってから、ゆっくりと横に倒れていきました。
「てて〜っ」
 ナンナちゃんはつらそうに顔をしかめて、焦げ茶色のズボンのお尻をさすっています。ナンナちゃんの登場の仕方はいつも大胆で、すごいので、そのたびに私はあぜんとしてしまいます。
 私ははっと気がついて、手提げを肩にかけたまま走ります。
「ナンナちゃん、大丈夫? お尻を打ったの?」
 するとナンナちゃんは痛みをこらえながら地面に手をついて顔を上げ、澄んだ青い瞳にじわりと涙を浮かべました。それでも根性で歯を食いしばり、精一杯のほほ笑みで応えてくれました。
「おはよー。何とか大丈夫だよ。へーき、へーきっ☆」
「おはよう。気を付けてね……けがはない?」
 私がたずねると、ナンナちゃんはひじをなでながら素早く起き上がりました。ぺろりと舌を出して、恥ずかしそうに言います。
「いきなり、やっちゃったね。ナンナさぁ、眼が回っちゃってー」

 どうやらナンナちゃんは、落ちてきた時にひじをすりむいたようでした。血は出ていませんでしたが、痛そうだったので、私は手提げから塗り薬を取りだして指先に付け、ナンナちゃんの肘に広げました。それから私は倒れたほうきを拾って、渡しました。
「はい、どうぞ」
「レイっち。朝っぱらから、ありがと〜」
 今度はナンナちゃんの本来の、素敵な明るい笑顔でした。
 木をめぐって降りてきた時に、友達は目を回して、幹にぶつかってしまったようです。ナンナちゃんは背中に小さな黄色のリュックをしょっていて、カサラおばあさんが作ってくれたお弁当をしまっておいたので、中身の方はかろうじて平気みたいでした。

 そうなんです。
 私の親友――ナンナちゃんは、実は〈空飛ぶ魔法使い〉。
 都会からやって来た、ちょっとドジな〈魔女の卵〉なのです。

「じゃ、行こ〜!」
「うん。今日がとても待ち遠しかったわ」
 私たちは二人並んで、朝の光に目を細めて歩き出しました。

(続く?)
 


  7月30日− 


[洗濯日和(後編)]

(前回)

「どうでしょうか……?」
 あまり乗り気ではないテッテは、出来たての〈氷水の上着〉を羽織ったまま、首をひねって背中の方を眺めた。実験台になった若き弟子は両腕を水平に上げ、狭い部屋の壁にぶつからないように気をつけながら、その場でくるりと一回りして見せた。
 カーダ氏は威厳のある表情を保ちつつも、口元の隅っこに笑みを浮かべ、深い皺が刻まれた両手を何度か叩くのだった。
「悪くないぞ。さあ、歩くんじゃ」
「はい」
 テッテはやむを得ず雇い主の指示を受け容れ、発明品の上衣の裾を引きずりながら、書類や箱が積み重なって混沌としている研究室のわずかな通路を、恐る恐る慎重に進んでいった。
 半透明のガウンの背中や肩口からは、夏空を丸く切り取ってひっくり返し、真冬と繋げたかのような冷たい空気が煙のように沸き起こっていた。うっすらとした霧状になって生まれ出た冷気は、短い抵抗の後、乾いた風に包囲されて滅びる。それでも部屋の温度はだいぶ下がって、清らかな秋の気配を感じさせた。
「着ている本人よりも、周りの方が涼しそうですね」
 とは通路の突き当たりまで行って帰ってきたテッテの弁だ。

 零れ落ちた雫と冷気が床を濡らし、木の板が黒っぽく変色している。それはまるで巨大なナメクジが這った後を思わせた。
「う〜む……」
 しばらくの間、顎に拳を置いた姿勢のまま深い物思いに耽っていた博士は、床を見つめて難しい顔をし、低くうなっていた。
 次の瞬間、初老の“迷”発明家は後ろ手で腰をかばいながら突然にしゃがみ込むと、木の床に染みついた水の軌跡を指先で撫で、その中に淡く輝く青い粒子を見つけて舌打ちをした。
「チッ。これはまずいのぅ」
「え?」
 間の抜けた反応をしたのは、言わずもがなテッテである。
 一方、カーダ博士は立て膝を着いた姿勢のまま、落ち着かない様子で古びた眼鏡を掛けたり外したりを繰り返し、何度も床の状態を調査してから、ふいに顔を上げた。目の前に立っている弟子と上着を見つめながら、老師は分析の結果を説明した。
「せっかく水を氷の膜でつつんだというのに、肝心要の凍った部分が溶けてきて、高価な氷の素がどんどん流れておるんじゃ」
 嫌な予感がした弟子は、何枚もの防寒具を重ねて着膨れした上に羽織った、透き通る水色の部屋着をまじまじと見つめた。
「ということは……」

 その時、テッテの〈氷水の上着〉に変化が起こり始めた。
 大きく姿が崩れ、ゆがみ、原型をほとんど留めなくなった。
 揺らした桶の水が左右に跳ねる状態を彷彿とさせ、軟体生物のように蠢き、午前の浜辺に寄せる軟らかい波のごとく――。
 カーダ博士と弟子のテッテは大きく瞳を見開いたが、予想以上の速い崩壊劇に、最悪の事態を待つことしかできなかった。
 まさに、その刹那である。
 氷の素が流出し、形を整えきれなくなったテッテの上着は。
 ゆっくりと、しかも急激に膨張したかと思うと――。
 斜面でつっかかり、桶をこぼした際に奏でるのと同じ種類の、情けなくも爽やかな水音が手狭な研究室の中に響き渡った。

「ひゃあ!」
 瞳を固く閉じて、身を縮めたテッテの悲鳴が響き渡る。何枚も着込んだ服は、あっという間に上から順序よく湿っていった。襟元からは幾筋かの冷水が胸に入り込み、心臓を凍えさせる。
 カーダ博士は立て膝の姿勢のまま、頭から水を被り、薄くなりつつある白髪からは夕立のあとの軒先のように雫が垂れていた。服はもちろん、睫毛や眼鏡までもびしょ濡れの濡れ鼠だ。
 博士は何も言わず憮然とした表情で目をしばたたく。発明品の上着は跡形もなく消え去り、研究室には似つかわしくない水たまりが現れた。無造作に置いた書類が濡れそぼっている。

 テッテは両腕を広げ、雫を垂らしながら呆然と立ち尽くす。
 カーダ博士の方は、床の微妙な傾斜に従い、細い筋となって流れてゆく埃まみれの水の流れを無感情な眼で追っていた。
 だが、突然に恐ろしいほどの生気と、根っからの反骨心を燃やしたカーダ博士は、天井に向かって力強く吠えるのだった。
「わしは、これしきのことでは負けんぞォ!」
 腰をかばいながらも、すっくと起立し、彼は弟子に命じる。
「こら、早く床を拭かんか。今すぐじゃ!」
「は、はい……はっ、はあっ、ハックション!」
 うなずいたテッテは、そのまま大きなクシャミをしたのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 研究所の外にある、棒と紐で作り上げた簡素な物干場には、その日の午後、いつもよりも多くの服が風にたなびいていた。
 乾いた風が丘の中腹を撫でる、良く晴れた洗濯日和だった。

(おわり)
 


  7月29日− 


[雲のかなた、波のはるか(28)]

(前回)

 驚くほど幅の広がった天翔ける大河は、かつての早瀬の様子とは異なり、ほとんど水音を立てていない。入り日の放つ明日の光に照らされて、雄大になった〈彼ら〉もまた、ここまでの長い旅――振り返れば、あっという間だが――を繰り返し反芻して、最後の目的地を控えつつ、感慨に浸っているかのようだった。
 いよいよフォークのごとく河の流れが袂を分かつ部分に近づいてきた。木の根のように、雨上がりの光が虹となるように、あるいは指先のように五つか六つに分かれていた。傘の小舟はどこか名残惜しそうに、その中の一つの路を選んだ。他の水の流れを横から見ると、それは水で出来た長い橋のように思えた。
 サンゴーンとレフキルは膝を抱えた姿勢のまま、老婆の言葉をじっと胸の奥で噛みしめ、懐で味わっていた。その背中には鳥肌が立っている。移りゆく空と海、昼と夜の狭間で、雲の上を滑ってきた龍を思わせる天の潮水の河に想いを馳せると、砂浜に打ち寄せる波のごとくに次々と感激が湧いてくるのだった。

 その時、レフキルはふと天を仰ぎ、鋭い驚きの声を発した。
「……あっ!」
「どうしましたの?」
 こうもり傘の柄を境として背中合わせの状態になっているサンゴーンが訊ねると、レフキルは何も言わずに腕を掲げ、妖精族の血を引く者としてはやや短い指を伸ばして斜め上を示した。
 夕暮れに迫りつつある熱っぽい光が緩やかに柔らかに満ち足りた空間の片隅に、腰がやや曲がって杖を握った黒い人影が、まるで夜の先触れのようにかそけく縮こまって浮かんでいた。
 相手は太陽を背にしているため、レフキルたちの位置から見れば思いきり逆光で、しかもかなり遠く、表情は見分けられないが――それが話し手の〈老婆〉であることは明らかだった。
 レフキルの指の先を何度も倍々に延ばし、示す先を追い、サンゴーンはついに同じ場所にたどり着いた。若き〈草木の神者〉は、万感の思いを込めて、震える声で静かに強く語りかけた。
「やっと……会えましたの」

 雲を縫って現れた巨きな海鳥の群れはきびすを返して、ここからでは見えない砂浜を目指して飛び去ってゆく。今や何の変哲もない――それでいて過去のどの夕暮れとも異なる素晴らしい夏の黄昏を迎えつつあり、雲は淡い赤灰色や薄桃紫に染まった。その一方で光を受けた部分は強烈な輝きを放っている。
 二人はあまりのまぶしさに、額を空いた手で覆いつつも、両眼を線のように細めて老婆を凝視した。相手は何の支えもなく、宙(そら)の一点にとどまって、微動だにしない。長い後ろ髪を軽やかな潮風にたなびかせ、幻の存在ではないのだと知れる。

「世の中には、不思議なこともあるものじゃ」
 老婆はひどく嗄れた声で喋り、言い終わってから咳き込んだ。その語りは、これまでのように耳の内側へ直に響いてくるのではなく、きちんと空気の波動を通じて届けられたように思えた。
 少女たちは黙って精一杯に耳を澄まし、老婆は話を続けた。
「さっき、わしは〈風に意志がある〉と言った」
 一陣の風に煽られて、こうもり傘の小舟が激流の河の軌道を外れた時、二人を救った反対向きの空気の流れについてレフキルが訊ねた際に、老婆は〈風に意志がある〉と説明していた。
「じゃが、風の意志と言っても、風が自ずと動いたとは限らぬ」
 本来の感情が厚く隠蔽されている、冷静な言葉が淡々と伝わってきた。相手が何を言いたいのか、まだ分からず、サンゴーンは一言も聞き漏らすまいと唇を閉じて集中している。とっくに乾いている彼女の銀の髪が、天龍の河口の風を受けてなびく。

「念のために言っておくのじゃが……」
 そこで老婆は珍しく口ごもる。続く口調は、ずっと無感情だった老婆としては初めて、僅かにおどけた感じが含まれていた。
「誰か――どこぞの誰か――に頼まれた事柄を承けるかどうか決めるのも、それはそれで、やはり〈風の意志〉じゃからなァ」
「風に、誰かが……」
 彼女はうわごとのように呟く。心の奥底に拡がる花園では一斉に色とりどりのつぼみが開き、あまたの温かな灯がともる。
 老婆の話は、小舟が道を踏み外した際の奇跡について、亡くなった祖母の関与を暗に示唆しているように聞こえたからだ。
「その可能性は否定せぬよ」
 老婆が細くするや否や、サンゴーンの瞳は見る見るうちに潤み、やがて頬には一筋だけ、流れ星に似た涙の河が伝った。
 レフキルはほっと胸をなで下ろし、背中の友に声をかける。
「サンゴーン、良かったね。本当に……」


  7月28日− 


[洗濯日和(前編)]

 幾本かの棒を組み合わせて地面に突き刺し、その間に紐を張っただけの簡素な物干し場には、使い古した男物のシャツや下着が無造作に干され、乾いた爽快な夏の風に揺れていた。
 てんでに飛び交い、季節を唄う虫たちの声で、野山はざわめく。ささやかな甘い香りの花が咲き、草いきれが立ちのぼる。

「できたぞい!」
 初老のカーダ博士が豪快に叫ぶと、それほど広くはない木造の〈七力研究所〉の中に響き渡った。日差しはなかなかに強く、遮るもののない丘の中腹に位置する〈七力研究所〉の気温は幾分上昇していたが、開け放たれた窓から窓へ通り抜ける涼風の通り道を確保していたので、それほど暑く感じなかった。

「これは貴族に売れるじゃろう」
 窓の外の澄んだ青空を見上げた博士は、夏に全くそぐわない厚手の黒い手袋をはめて、発明の〈試作品〉をつかんでいる。
 その時、丁寧なノックの音とともに、弟子のテッテが現れた。
「あの、失礼します」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「師匠、今度こそは本当に大丈夫でしょうね……?」
 古びたテーブルが置いてある研究所の部屋で、二十代の弟子のテッテはやや胡散臭そうに博士の発明品を眺めている。
「何を言うとるか。わしを信用せんとは、このたわけ者めが!」
 カーダ氏は眉間に皺を寄せ、怒りの声を放ちつつも、テッテを最初の実験台にすべく〈試作品〉を強制的に手渡すのだった。

 それは薄い水色の、ほとんど向こう側が透けてしまいそうな――それでいて曇りガラスのように霞んでいる、ゆったりとした部屋着(ガウン)であった。氷が溶ける時と同じ冷えきった水蒸気が、高い山を滑る濃い霧のように絶えず湧き起こっている。
 カーダ氏は顎を上げ、胸を張って自慢げに説明する。自らの頭脳に酔いしれ、気分はあっという間に持ち直したようだった。
「水を固めて作った上着じゃ。海竜に恵まれたこの島国では、暑すぎる日は滅多にないが、対岸のテアラットでは寝苦しい夜が多いと聞いておる。これは貴族の間で流行るじゃろうて!」
「この服は、氷で作られているのですか?」
 冷気が煙のように上がり、受け取ったテッテの眼鏡にはあっという間に水滴が付着した。彼は薄手の長袖の服の中に右腕を引き込み、服の生地を媒介として〈試作品〉の部屋着をつかんだものの、しだいに冷気は布地を通して強く伝わってきた。
「扱いに気を付けないと、いつかのように低温火傷してしまいますよ。すみませんが、師匠の手袋を貸してもらえませんか?」
「ほれ」
 カーダ博士は冬の手袋を脱いで渡しながら、説明を続ける。
「水を水のまま固めるのが難しかったので、高価な氷の素を必要なだけ混ぜて固めたのがミソじゃな。新発明の誕生じゃ!」
 白髪交じりのカーダ博士は、厳粛な面もちで勝利宣言した。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 しかしながら〈七力研究所〉の所長の自信とは裏腹に――。
「本末転倒だと思いますよ。ちっとも涼しくないですよ……」
 弟子のテッテは情けない声を出し、首を振った。凍傷にならないよう、夏物の服を引っ張り出して何枚も重ね着し、その上に水の部屋着を羽織っていた。着膨れするくらいに防寒しないと、冷気が服の繊維の隙間を縫って肌に達し、体温を奪うのだ。
 男の裁縫なのでサイズもデザインも大雑把で適当な〈水と氷のガウン〉の試作品は、どこか世間ずれしているテッテには何故か似合っていたが、その一方で彼の表情は冴えなかった。
「あまり着心地が良いとは思えません」
「うーむ……」
 弟子の正直な感想を受けて、カーダ氏は神妙に考えている。あまり実用的でないことに賢くも気づき始めているようだった。
 それでも博士は前向きに考え、弟子に新たな指示を出した。
「とにかく、部屋の中を歩いてみい」


  7月27日− 


[夏の霧]

 雨音は鳴りやまず、驟雨は木の葉を打つ。それは人々の夢の中まで追ってくる類の、静謐ながら激動に充ちた、不規則に整列された音だ。薄暗い林で、時は意味を失くしかけていた。
 強く叩きつけるように絶え間なく降り注いでくる大粒の雨の集団は、草を濡らし、大地を流れ、木の根に染み込んでいった。

 林の奥、続く道のない開けた場所に、一脚の木の椅子が幻のようにたたずんでいる。その姿は白く濁る霧に霞んでいた。
 あまたの白き花――ほとんど透明に近く、光の加減でそれと知れる――が宙に浮かび集い、不思議に神秘的なドーム状の半球を形作り、やや強い風に揺れながら健気に咲いている。

 何もかもを潤す慈悲とともに、何者をも寄せ付けず孤高で誇り高い夕立でさえ、白い花の内側の世界には浸みなかった。厳粛な夜明け前のように、その中はしんと静まりかえっていた。
 広げた笠の中に深く沈んでいるかのごとく閉じられた空間であるが、空気は何の滞りもなく行き来しており、決して息苦しいようなことはなかった。辺りはしっとりとした霧につつまれ、それは濃い牛乳を風に溶いたかのような深みのある色をしていた。

 雨足が弱まると霧はやや薄まり、白い花の世界に浸っていた椅子が見えてくる。そこには細い人影が朧に現れつつあった。
 その人は軽くうつむき、椅子に深く腰掛け、足を組んでいた。
 両脚は細くしなやかで、長い髪は背中の方にこぼれている。
 斜め後ろから覗くうなじは雪のように白く、腰は極めて細かった。無色の薄い長袖の上着から両手を出して、組んだ膝の上に重ねて置いているが、その手の指は艶やかで長かった。表情は判然としなかったが、口元はわずかに緩められている。

 椅子に腰掛けているのは、謎めいた若い乙女であった。
 瞳を軽く閉じ、腰掛けていた乙女は、おもむろに顔を上げる。日焼けしていない顔が、雨の明かりの中で鈍く輝いていた。
 夕立は降り続くが、乙女の周りに住まうのは静寂のみだ。

 椅子の足下には、一台の小さな竪琴が立てかけてあった。
 乙女は組んでいた足を戻し、ゆったり優雅に腰を持ち上げて、折れそうなほど華奢な右腕を、花の丸屋根の外へ伸ばした。
 髪の毛の似た長く透明な雨糸を指先でつまみ、乙女は再び椅子に腰掛けた。彼女の着ている服は光の加減によって薄紫や桃色や水色に変化を遂げ、気品高いアジサイを思わせた。

 乙女は足元に手を伸ばし、竪琴を拾って、持ち上げた。
 ほんの少しずつ薄れてゆく霧の中、乙女は丁寧な仕草で先ほどの雨糸を竪琴に張り、切れてしまった弦の代わりとした。
 彼女はにわかに息を吸い込んで――。
 そして、華麗な雨音のワルツを演奏し始めたのであった。
 その音は林を通り抜け、遠く町の方まで、高らかに響いた。

 雨が上がり、虹が出ると、林の奥深くで半球を形作っていた無垢の花は、人知れず鮮やかな七つの彩りに染まっていた。
 やがて紅の光を投げかける黄昏の陽の訪れとともに、霧の乙女の影も、椅子も竪琴も、淡い光のかなたへと霞んでいった。
 


  7月26日− 


[天音ヶ森の鳥籠(27)]

(前回)

 リンローナの華奢な少女の肩に日焼けした腕を差し込み、しっかりと支えながら一足ずつ歩んでいた時、ケレンスはふと前を見た。その先には広葉樹の高さほどある崖が立ちはだかり、行き止まりだった。崖を仰げば、重なり合って互いにきしみ、それでも上下に押し合う赤茶色や褐色の地層の断面が連なる。
 その手前は今までの細い道が拡がっていて、奇妙に開けている場所だった。まるで誰かが作り上げたかのように、わざとらしく円を描いて、見たことのない丈の低い木々が並んでいた。
 町の夏祭り――。
 そういう言葉と想像の断片が、ケレンスの脳裏をふとよぎる。

 遠浅の海岸の引き潮のごとく、夕暮れになかなか追いつけない夏といえども、かつての蒼空は既に黄色が強まり、黄昏の序曲はいくぶん高まりを見せていた。適度な量の柔らかい雲が天に寝そべり、風に運ばれ、眩しい光の合間に照り映えている。
 だが、ケレンスがそれらの様子を確認したのは、実際にはほんの一瞬の出来事だった。彼の視線は吸い寄せられる。
 広く空いた空間の中程には、幾本もの木々が絡まり合っている。その樹には幹がほとんど無く、分岐する枝も少なかった。
 一目で古株と分かる枝の群れは細すぎず頑丈すぎず、まるで蛇のように一定の太さを保ったまま、腰をくゆらせて他の枝と絡まりながら登っていた。枝の表面は妙に活き活きとしている。
 こんがらがった考えか、あるいは蜘蛛の巣、麦わら帽子か。はたまた豆の鞘や鳥の巣をとてつもなく大きくしたかのように。
 その枝の固まりは生きており、意志を持っていることが、不思議な事態にはあまり馴れていないケレンスにさえも直感として伝わってくる。そして明らかに〈何か〉を隠しているようだった。
 近くの崖が、その〈枝の固まり〉に濃い影を投げかけている。それは見方によっては幻想的であったかも知れないが、ケレンスは妙に生々しく感じ、気色悪い多足の虫を思い浮かべた。

「聞こえてくるよ」
 リンローナの顔は青ざめ、眉間に皺を寄せて、額には大粒の汗が浮かんでいた。それでも喉と肺に振り絞った力を注ぎ、やや調子外れの音で姉との思い出の唄を続けていた。妨害により、一時はかすれ声になったが、精神力で打ち克とうとする。
 ケレンスは足と腰に力を込めて、今や唯一の希望となった聖術師に肩を貸し、地面を踏みしめて歩いてゆく。それは支えるというよりも、下から斜め前に持ち上げているような状態だった。
「森のハーモニー!」
 突如、リンローナの声が長いトンネルを駆け抜けたあとのように、ひときわ高らかに響く――と、あからさまな変化が起こる。

「あっ」
 ケレンスは驚きに眼を見開き、耳をそばだてた。
 目の錯覚ではないし、おそらく聴覚も研ぎ澄まされている。
 間違いでなければ、広場の真ん中で異様に絡まっていた古の木々の枝が、水中の藻が揺れるかのように〈動いた〉のだ。
 その様子は、言うなれば病の床に伏せって蠢くがごとく、苦しみと反発とを帯びて。あるいは開きかけの扉を彷彿とさせた。
 目だけではなく、ケレンスの耳の方もどうやら正常のようだ。その証拠に、リンローナは望みの光を見いだして力強く顔をもたげ、膝に力を込めた。その表情には歓びと覚悟とが混ざり、彼女の本来の年齢である十五歳よりも数段、大人びていた。

 あの時、ケレンスとリンローナが聞いた残響とは――。
『ハーモニー……』
 という、枝の隙間から洩れてきた、女性の唄声だった。


  7月25日− 


[弔いの契り(33)]

(前回)

 俺とタックは、ルーグとシェリアのもとに素早く駆けつける。
「誰だ?」
 二、三人の警備兵は明らかに状況を把握できておらず怪訝そうに声を発したが、この場所のまとめ役らしい図体の大きな中年男が入口の方からゆっくりと姿を現し――闇が膨らんで、浮き出してきたかのようだ――ドスの効いた低い声で一喝した。
「てめえら、落ち着いて配置に付きやがれ。こんなガキどもにビビるんじゃねえ! 邪魔するなら、ぶちのめすだけじゃねえか」
「おう!」
 やつらは残った人数で、入口の扉を固めようとしてるらしい。

 一方、俺は走りながら腕を掲げてルーグに合図をした。すると相手は、やはり俺と同じように忍ばせておいた短剣を掲げた。その切っ先が満月の光を集めて、一瞬だけ朧に輝くのだった。
 ルーグの白っぽいシャツが、暗がりにはっきりしてきて――。
「ふぅ……無事だったんだな」
「やっと会えましたね」
 こうして俺たちは合流を果たした。ちょっと――いや、だいぶ肩の荷が下りた気がする。リン奪還作戦はこれからだが、リーダーのルーグがいて、魔術師のシェリアがいて、四人揃えば心強い。喜んでる状況じゃないが、一言ずつ短く声を掛け合う。
「待たせたな」
 ルーグが言った小さな声にも、安堵の感情が確かに含まれているようだった。俺は次に、ルーグの隣でややうつむきがちに立っているシェリアの方に視線を送った。男爵の屋敷のボヤ騒動を引き起こして状況を混乱させたのは、この若い女魔術師に違いない。だが、肉体だけが取り柄の〈雇われ警備兵〉には、俺らと屋敷の火の手の原因とは全く結びついていないんだろうな。
 シェリアの影は大きく膨らんだドレスの出で立ちではなく、見た目には普段とほとんど変わらない。よく見ると、黒っぽいズボンに、いつもの赤い花びら風のスカートを組み合わせていた。
 あんな膨らんだドレスじゃ目立ってしょうがないし、動くに動けなかったんだろうな。ダンスパーティーで着ていた豪勢なドレスの本体は借り物だから、どっかでドレスだけ脱ぎ捨てたのかも知れない。下には、あらかじめ黒いズボンを穿いてたんだろう。
 この冷え込んできた秋の夜に、胸元を大胆に開く格好の上半身はあまりに寒かったんだろう。ルーグのタキシードの上着を羽織っていて、お洒落なシェリアらしからぬ妙な姿になっていた。

 彼女はうつむいて集中し、口を動かして何事かをつぶやいていた。俺とタックが退(の)いたから、思う存分、打てるはずだ。
「ドカーっ!」
 シェリアの右手が突き出され、細長くしなやかな人差し指の先から、真紅に燃え盛るまばゆい炎の弾が生まれた。それは怒りを含んだ地上の太陽となって、渦を巻きながら成長する。
 と思った次の刹那、掌を広げた時くらいの大きさを持つに至った火焔の固まりは、真っ直ぐに警備兵の親玉を目指し、意志を持った燕のごとくの速さで闇を切り裂き、突き進んでいった。
「うわっ!」
「ぐお!」
 やつらは革の鎧に守られた腕を顔の前にかざし、反射的に身を屈め、無情な火の玉の被害を最小限に抑えようと防戦した。

 まもなく警備兵たちの悲鳴が聞こえると思ったのだが――。
「あ?」
 盛んに火の粉を飛ばしている魔法の炎は、何故か警備兵の親玉のすぐ目の前で停まっていた。よほどの理由がない限り、魔法を傷つけることに使ってはいけないので、そのためだろうか? 俺は手に汗握りながら、事の成り行きを注視していた。
 いつものシェリアならば、状況を打開するためにやむを得ないと判断した際、得意の火の玉を軽く相手にかすらせて、炎と熱さと軽いやけどで脅すくらいのことは厭わないはずだけどな。
 そばに立っている魔術師の様子を覗き込むと、右手を掲げた姿勢のまま、なぜか口を少し開いて、やや上の方を見ている。
 何も起こらないのをいぶかしく思ったのか、この場所を担当している小太りの警備兵の長は恐る恐る目を開けたようだった。
「おわっ!」
 やつは目の前で踊る真紅の炎に度肝を抜かれて、上半身を反った姿勢のまま思わず半歩だけ退いた。その横では、お世辞にも風貌や人相が良いとは言えなかった雇われ兵たちが、やはり少しずつ目を開けて、顔を守る腕の間から、冷たい秋風に凍えてしまったかのような魔法の弾を眺めていた。
「何だァ? こけおどしか?」
 警備兵の親玉は腰の剣を持ち上げ、鞘を足元の地面に投げ捨てて、停まったままの火焔を叩き切ろうと大きく振りかぶる。
「シェリア!」
 俺とルーグが同時に鋭く叫んだ、まさにその時だった――。

「はっくしゅん!」
「ぎゃあ!」
「あぢゃっ!」

 一度に多くの事が起きた。
 秋の闇の海に長く浸かっていたシェリアが、静寂の望月の夜に響き渡るクシャミをしたのだった。どうやら呪文の詠唱が終わった直後から、出そうで出ない状態が続いていたようだった。
 そのため、すんでの所で動きを止めてしまった熱い炎の固まりだったが、シェリアのクシャミとともに、四つか五つに分裂して散らばった。まるでガラス玉をレンガの路に叩きつけたように。
 勢い良く弾けた炎の欠片は、ある者の靴を焦がし、ある者の手にぶつかって剣を落とさせ、またある者の皮の鎧にぶつかって消えた。一つの小玉は、集団のまとめ役を務めている小太りの親爺の頭をかすめ、髪の毛を一瞬だけ燃やしたのだった。

 シェリアは鼻をすすってから、いつもの甲高い声で言い放つ。
「早くどきなさいよ! 今度は思いきり、ぶつけるわよ!」
「鎧が、鎧が!」
 上手い具合に一人の鎧がくすぶり始めて、白っぽい煙を上げ始めた。やつらは次第に、統制不可能な状態に陥っていった。
「おい脱げよ、こっち来るんじゃねえ!」
「池だ、池まで走りやがれ!」
「畜生!」
 もともと志気の低い雇われ集団は勝手に自壊し、敗走する。

 当然ながら、こういう機会を見逃す俺たちじゃねえ。
「行きましょう! 鍵は僕が持っていますから」
 タックが入口の鍵を掲げた。俺とルーグ、シェリアはうなずき、僅かの後には駆け出していた。満月はだいぶ高く昇っている。
 一人だけ残って脱いだ鎧を必死に踏みつけ、何とか消し終えた用心棒も、俺たちが突進すると剣も鎧も見捨てて、丸腰で逃げていった。そのうち他の連中に報告し、この不吉な神殿を取り囲むことになるのだろうが、当面は放っておいて平気だろう。
 髪の毛の焼け焦げた、鼻をつく嫌な匂いが漂う。落ちていた剣は合計三本、俺とルーグが一本ずつ借りていっても充分だ。

「魔法の炎は燃え易いから、ちゃんと消さないと火事のもとよ」
 タックがドアを開ける合間に、シェリアは火が消えたばかりの鎧を足で裏返し、念のためにヒールの靴裏でこするのだった。
「寒くないか?」
 ルーグは心配そうに、小声で恋人の様子を気遣っている。
「もう平気よ。今さっき、焚火を燃やしたところだし……」
 シェリアはささやき声の真面目な口調で冗談を言った。俺は鼻で笑い、思わず表情が緩むのを感じた。ルーグも息をつく。
 だが――。
「開きましたよ」
 タックの言葉が聞こえ、俺ら全員に緊張感が走るのだった。


  7月24日○ 


[霧詠]

 あの森をさまよう霧の固まりは

 もういない昔の人の

 かつて抱いた夢と挫折が

 混じり合い、溶け合い、果てた

 脱け殻だろうか――

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

渋峠(2,172m)
 


  7月23日− 


[雲水]

 森が突然に開け、辺りには細かな水蒸気がちりばめられている。勢いのある水流が岩場を叩きつける爽やかな音が絶え間なく響き、光の砂がキラキラと自由気ままに飛び跳ねている。
 夕涼みの代わりとして、おぬしに一つの清流を紹介しよう。

 これは、一般的には〈雲水〉と呼ばれている早瀬だ。話に聞いてやって来ると、あまりの幅の細さに驚くだろう。辛うじて河と呼べるくらいの流れで、水深は浅く――そのぶん、流れは速い。
 雲さえもここから生まれ出るほどの純粋さと謳われており、それが〈雲水〉と呼ばれる由来だ。当然、銘水の誉れが高い。本来、味はないはずだが、土と緑を潤しつつ進むうちに微かなほんのりとした甘さを帯びるようになる。さっぱりし、後味がよい。

 名もない滝を下り、絶え間なく石を叩く〈雲水〉の流れは、ここで一つの頂点を迎える。それは冷たくて重量のある空気のように透き通り、池を充たし、鏡となって横たわる。時折、大地を撫でる旅の風を浴びて波紋が立ち、水としての自分を思い出す。
 木々の緑はいっそう強く、木洩れ日に照り映え、陰影を濃くしている。光が注げば、その際に〈雲水〉の滝には虹が架かる。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ――おっと。旅人のなりをした、若い人間の男の二人組が近づいてきた。儂(わし)は、ここらでいったん退散するとしよう。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「これは〈雲水〉と呼ばれています」
 男のうちの片方が、さも知っているかのように説明している。
「確かにここに立っていると、雲さえが生まれてくるような、不思議な感じがしてきます。水を超えた水、森の神秘の結晶です」
 さて、もう一人は、さっそくしゃがみ込んで水を掬っている。
「……はぁーっ、うめーよ、これ!」
「そうですね。僕も喉の渇きを癒すことにします」

 儂はこの森では古株のみみずくだ。手近な木の枝に留まり、耳を澄ましていたが、見ていて面白いやつらではなさそうだ。
 こなれた動作で年季の入った翼を広げ、儂は飛び立った。しばし戯れに空の散歩をし、どこまでも続く森を眺めるとしよう。
 


  7月22日− 


[大航海と外交界(5)]

(前回)

「では、お耳をお寄せ頂いてもよろしゅ……」
 全部言い終わらないうちに、ララシャ王女は得意の迅速な動きでもって、侍女のマリージュのそばに駆け寄っていた。わずかに膝を曲げてその上に両手を置き、斜め上の天井を見上げつつ左耳をぐいと相手に寄せた。自分の靴で晩餐会用のスカートの裾を思いきり踏んでいたが、全く意に介さない。王女が巻き起こした後追いの風が流れ、その裾がふわりと持ち上がった。
「さあ、話して。今すぐよ!」
 興奮気味の十五歳の貴人は唾を飲み込む。その期待の現れの音が、がらんとした静かな居室に思いのほか響き渡った。
 ここ数日では滅多に聞けなかった、嬉しさの含まれた若い主人の声が弾け、侍女も心が和んだ。一方で、こう状態になると王女は用事が済むまではテコでも動かないことを、マリージュは良く知っている。晩餐会の時間は気になっていたが、かくなる上はクビも承知で、言い出した話の説明を始めるのだった。

リューベルという港町を、ご存じですか?」
 ベテランの侍女の第一声がよほど意外だったらしい。ララシャ王女は体を起こし、青玉のような目を白黒させて聞き返した。
「リューベル? そんな町、この国にあったァ?」
「どうか、お静かに……」
 マリージュは人差し指を口に当て、片目をつぶった。すると王女はいくぶん落ち着きを取り戻し、声量を抑えつつ返事をした。
「分かったわ。で、リューベルってどこにあるの?」
 外は相変わらずの曇り空で、やや蒸し暑かったが、二人はもはや気にならなかった。今のところ、廊下側から他の侍女が慌てて迎えに来る気配はない。密会には絶好のチャンスだった。
「リューベルは、マホジール帝国領・リース公国の町です」
 王女のちょうど倍くらいの年齢にあたるマリージュは、まずは質問に答えてから、それを踏まえる形で新たな話題に移った。

「数ヶ月後を目処に、リューベル町において大々的な会合があるらしいのです。俗称として〈四ヶ国会議〉と呼ばれています」
「ふーん」
 王女の反応は鈍く、先程までの輝くような笑顔は早くも消えかけていた。統治や外交といった堅苦しい分野には関心も縁もなかったララシャ王女にとって、難しい話は見えない敵だった。
「わたくしがこのような話をするのには、訳があります」
 おてんば姫の様子の変化をきちんと察知していた復職の侍女は、相手の関心が冷めないように的確な補足をした。効果はてきめんで、さっそく飽きかけていた王女は少し背筋を伸ばした。

 頃合いと見たマリージュは、ここで一気に結論をぶつけた。
「姫に、リューベル町での〈四ヶ国会議〉に参加して頂く。いわゆる外交デビューです。それが、ララシャ様に自由な時間を過ごして頂こうと考えた時、わたくしの頭に浮かんだ案でございます」


  7月20日− 

  7月21日○ 


[薄暮 〜兎と闇と]

 日暮れ前、私はその公園にふと足を伸ばした。
 都会の薄汚れた海に面した、古くも新しくもない公園だ。

 賑やかだった日曜日はほとんど末端部分にさしかかり、公園から一時的に〈声〉が消えて、人々は右手に綱を、左手にビニール袋を持ち、黙したまま犬の散歩を続けている。建物や遊具の影が長く伸びて、全く異なる世界を地上に描き出している。
 昼間の暑さの名残はしだいにかき消されつつも、未だあちこちに漂っていた。運河を挟んだ公園の対岸には十数台のクレーンが連なり、動物園で見かけた首の長い動物を彷彿とさせる。

 きちんと刈られている芝生を横切っていた私がふと足を止めたのは、中程にぽつんと立っている石造りのオブジェだった。
 兎の形をあしらった〈それ〉は、大きさは人間の頭よりもやや大きく、直方体の台座の上に顔の部分だけが設えられていた。石は濃い灰色で、細かな黒い点々が浮かんでいる。一回りしても銘板はなく、何を目的として作られたのかは判然としない。
 敵の音を聞きつけた瞬間なのだろうか、兎の長い耳は異様なほどにぴんと立っている。ただ、はにかむような穏やかさが口元には保たれ、視線はやや上向きで、どこか非常に遠い場所を――はるかな故郷を想いつつ、眺めているかのように感じられた。その瞳は兎の故郷を見つめているのか、あるいは石が切り出された場所を想っているのか、私には決めかねたのだが。

 次の瞬間、私が目を奪われたのは、兎の耳の上方だった。
 両方の耳たぶから短くて細い鉄の軸が突き出し、先端にはそれぞれ茶色と黒の風車がついていて、折からの夕風を受けて快く回っていた。兎の顔の本体や台座に使われている石と、耳から伸びている鉄の棒はそれなりの期間を経ており、特に鉄の棒は海に近いこともあって錆が出ていたが、何故か風車に関しては後から取り付けられたか、あるいはこまめに取り替えられているようで、新しくはなかったが薄汚れてもいなかった。その薄いプラスチック製と思われる部品はほとんど音を立てずに回っていた。回ると風車の角が隠されて、ほとんど円に見えた。
 真面目に考えればとてもナンセンスであり、不安定で奇妙な取り合わせだが、私の感性を刺激し、惹きつけて止まない。

 スレンダーな子供たちが自転車に乗って、公園を後にする。私は芝生の中程に立ち尽くし、遠すぎる都会の空を見つめるふりをしながら、実際の所は、横目で兎の風車を凝視していた。
 夜の幕が少しずつ引かれてゆき、夕焼けは甚だ鮮やかさを増した。兎の右耳――私から見ると左側の耳から生えている茶色の風車は、思い出したかのように素早く回ったかと思うと、にわかに止まった。そのうち彼は穏やかな風とともに再び回り出し、不器用ながら健気に風の重さを量ろうとしているかのようだ。

 それに比して、反対側の漆黒の風車は――。
 とどまることなく、ほぼ一定の速度で回り続けている。
 まるで電動式の機械だ。それが私の第一印象であった。

「電気は通ってないですよ。あくまでも、単なる車だ」
 斜め後ろから声がし、振り返ると、杖をついた老人がたたずんでいた。その目は細められ、限りなく直径の広い曲線だった。
「え?」
 私の驚きの言葉はあまりに軽々しく、この場の空気に似つかわしくなくて、水彩画の中のクレパスのように浮き出していた。
 近すぎず、遠すぎずと言う絶妙な距離感で、彼は立っていた。私がオブジェを見ていた間に、辺りの明度は確実に一段階下がっていたことに今さらながら気づく。私は、彼がどのような表情をしていたのか、はっきりとは窺い知ることができなかった。
「私ですか?」
 彼が語りかけたのは、本当にこの〈私〉だったのだろうか?
 半分は照れて誤魔化すような気持ちで、残りの半分は滑稽なほど真剣に、私は私の純朴さをかき集めて問いを投げかけた。
 あとから考えれば、それはある意味では愚問であり――また別の意味でも、やはり全くの愚問にしか過ぎなかったのだが。

「単なる車だが、ご覧の通り、単なる車ではないよ」
 彼は話を進めた。腰はやや曲がっており、白い睫毛が長かった。少し離れているのに、彼の声は赤い空の下で良く通った。
 私は口をすぼめ、小さく吐息をつく。覚悟の時が来たのだ。
「……この風車は、何故、動き続けているのです?」
 返事をした私の口調には、深い疑念の気持ちが綴られていた(すなわち年を取るというのは、つまりはこういうことなのだ)。
「理屈では説明できんよ。幽霊みたいなものでな」
 安定感のある杖を握って立ち尽くしたまま、彼はややくだけた調子で云った。薄暮のヴェールの向こうで、老人は私に近寄ることも、私から遠ざかることもしない。そして私は動かず、動けず、動こうとしないでいた。頭の後ろに兎から吹いてくる僅かな風を感じつつ、今や腰から上をひねって老人の姿を見ていた。

「あんたは、幽霊を信じる?」
 老人はストレートに聞いた。私は回れ右をして下半身を動かし、全身で老人に向き合ってから――首をかしげ、低く唸った。
「ウーム……」
「その黒い車、それも一つの幽霊みたいなものだと思うよ」
 老人は自分の意見を押しつけるでもなく、諭すわけでもなく、なるべく感情を乗せずにつぶやいた。それでも、叶うならば私の同意を得たいという思いが、空気の流れ方から伝わってきた。

 私は思わず、彼に背を向けて、再びオブジェの方へ向き直った。しだいに闇が拡がってきているアスファルトで固められた公園の片隅で、人口の芝生に縛り付けられた石の兎は、ますます耳をそばだてているような印象を受けた。上手く説明できないが、私の心臓は鼓動を強めた。血潮が身体中を駆け巡った。
 飴玉を味わうように、私はしばらく老人の考えを吟味した。
 相変わらず片耳の先にある茶色の風車は夕風の流れに忠実に、もう一つの黒い風車は回りっぱなしだったが、私の気のせいでなければ、若干、黒い方の回る速度が増しているようだ。
 石の生首の兎の瞳は活き活きとして、とても生々しかった。

 斜めに射し込む朱い光の洪水に、思わず目を細める。いよいよ西の果てに、太陽は巨大なその身を横たえようとしていた。
 政権が変わる日の前夜のごとく、昼の粒子と夜の粒子とが最も盛んに入れ替わっている、黄昏の刻限の極みだ。黄昏という漢字を頭の中に思い浮かべ、思わず〈黄泉〉と混じってしまう。

 そのひとときに――。
 私の頭の奥底で、一つの考えがひらめいた。
 この黒い風車は《闇の流れを量っているのではないか》と。
 一つの答案ができあがり、私の胸は小躍りした。

 しかしながら、この問題の答えは当面、宙ぶらりんになった。
 再度、向きを変えた時、老人の姿は忽然と消えていたのだ。
 途方に暮れて西の運河に目を向けると、太陽の切れ端もすでに沈んでいた。目の前の兎の瞳は精彩を欠き、ただの石の彫像だった。日曜日の昼は終焉を迎え、誰もが帰途についた。
 耳の茶色の風車は、吹いたり止まったりを繰り返している。
 もう一つの黒い〈闇車〉と言えば、いよいよ回り方は盛んになって、身軽に、しかも深い安らぎに充ち、円を描き続けていた。

 もう一度、ここを訪れれば、疑問もあらかた解決するだろう。
 公園の蛍光灯が一斉に灯り、私は名残惜しくも歩き出した。

(おわり)
 


  7月19日− 


[天音ヶ森の鳥籠(26)]

(前回)

『口ずさもう、懐かしい歌を』
 昼間でも薄暗く、空気の感じでしか夕暮れに近づいているのが判別できない〈天音ヶ森の鳥籠〉の中で、シェリアの独唱は続いていた。単語ごとに機械的に音程を発するのではなく、歌詞の意味を想像し、切なる思いを籠めて音の畑を育んでゆく。
 さらに音符の裏側に、妹のリンローナへの秘かなる魔法通信を隠していた。もともと土壇場や逆境にこそ、極めて純化された形で最大限に発揮されるシェリアの集中力は、彼女の限界と思われていた範囲をとうに超えて、今まさに落ちる寸前の雫や張りつめた蜘蛛の糸を彷彿とさせる未知の領域に達していた。
『冷たい霧も、晴れてゆくよ……』
 歌声には、霧につつまれて〈鳥籠〉にさらわれた自分の愚かさに対する深い反省と、脱出への強い決意が混じり合っていた。

『悲しい、気持ちを』
 シェリアの歌に聴き惚れていた姿の見えない大勢の精霊たちは、長らく秘密の伝言にも気づかずに静聴していたが、唄の二番が佳境に入り始めた頃、にわかに動揺し、ざわめき出した。
『誰だ?』
『誰かと誰かが、近づいてるよ』
『小鳥の〈飼い主〉かな?』
『どうして分かったんだ?』
 驚きと怒りとともに耳打ちするような彼らの小声を、女魔術師は研ぎ澄ませた聴覚で的確に拾いつつ、唄いながら考える。

 唄を中断して〈ちゃんと聞いて!〉と怒鳴るかどうか迷ったが、せっかく繋がるかも知れない魔法通信を切ってしまうのはもったいないし、再び集中力を高めるのも大変だ。どちらにせよ手に思惑がばれてしまうのは時間の問題だと判断したシェリアは、いさぎよく賭けに出ることとし、小細工をするのはやめにした。
 音符の影や裏手に魔法通信を隠すことをせず、抑えつけていた気持ちを爆発的に解放し、思いの丈を素直に言葉に乗せる。それによって、妹に正確な居場所を伝えようと画策したのだ。
『偉大な森の木々に預けたら』
 他方、精霊たちはすぐには意見がまとまらず、明らかに動揺が拡がっていた。強硬策を打とうとする思念と、困惑するような思念が行ったり来たりして――不思議な精神力によって頑なに封印された〈鳥籠〉の世界の、透明な屋台骨を軋ませていた。
『優しさ、取り戻せる……』
 その間もシェリアの唄は精霊を出し抜いて続行した。度重なる緊張の連続で、彼女の薄紫の髪の奥から吹き出した汗がこめかみを経由して頬を伝い、腋の辺りはじっとりと湿っていた。
『今日も明日(あす)も、ずうっと!』

 シェリアは鼻歌で間奏を歌い出した。膝を軽く上下させ、身体をほぐしながらリズムを取りつつ、三拍目に的確に指を鳴らす。
『どうしよう?』
 精霊は打つ手が遅く、そしてシェリアは対照的に打てる手を全て打ち尽くした。彼女にできることと言えば、姉妹の絆を信じ、この〈鳥籠〉を越えた斉唱を望み、歌い続けることだった。
 森の中で妹から〈一緒に唄おう〉と誘われた際、むげに断ってしまった大人げなさを恥じ、赦しを乞いながら高く呼びかける。
(リンローナ、ごめんなさい。私はここよ、助けに来て!)
『小鳥、何をやってるんだい! お見通しなんだよ!』
 ついに強硬派の精霊の甲高く子供じみた怒号が飛び交い、ハミングの間奏が終わるところで、再びシェリアの頭はかき乱された。猛烈な反発の精神波に耐えられず、彼女は片膝をつく。
 しかしシェリアにとって、ここが正念場だ。集中力が途切れ、魔法通信はより高次の力によって切断させられたが、彼女は苦しげに宙をつかみながらも、唄うことで自らを奮い立たせた。
「花も……うっ……色も」

 ますます妨害が強まるかと思えた、その刹那――。
 悲鳴が起こったのは、何故か今度は精霊の側だった。
『ウワッ』
『嫌だ、やめさせるんだ!』
『助けて!』
『やめさせろ!』
『や・め・さ・せ・ろ!』

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「全て違うけれど、すべ……きゃあっ!」
 届けられたシェリアの歌に合わせて、間奏の後の部分から自らも唄いながら、姉の居場所を求めて小道を急いでいたリンローナだったが、何の前触れもなく突如として頭を抱え、前のめりに倒れかかる。見えない毒矢にでも射られたかのようだった。
 水辺の山菜を積んで持ち帰るはずだった籠が転がり落ちる。
「どうした? しっかりしろ!」
 リンローナについて歩いていたケレンスは得意の反射神経で飛び出し、左右から腕を伸ばして、倒れかかった少女を後ろからかかえ込むようにして受け止めた。不思議で優しい温もりと柔らかさが伝わってきて、ケレンスは火急の極みであるのを十分に理解しつつも、顔と耳が火照るのを認めざるを得なかった。
 何とか倒れずに済んだリンローナだったが、眉間に皺を寄せ、顔色は一瞬にして青ざめ、呼吸は荒くなっていた。まだ左腕は頭を抑えて苦しそうにしていたが、必死に右手を持ち上げて道の先を示し――その間もかろうじて唇と喉は唄を続けていた。
「瞳、閉じて、耳を、澄ませ……れば」
「あっちだな?」
 ケレンスは前を見据える。リンローナは、こくりとうなずいた。
 柵のように連なっていた両側の木々が尽き、その先に――。


  7月18日− 


[花火]

 夜空に拡がる御花畑に

 今日もひかりのつぼみが開き

 大輪の花を咲かせた後で

 種を飛ばして、散ってゆく



 あの花火が

 自分を見つめる人々を、逆に見つめ返すのは

 いったい、どんなまなざしだろう

 いったい、どんな気持ちなのだろう――

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

花火
 


  7月17日△ 


[旅、果つる処]

「いててっ! この野郎!」
「目も開けられないわよ!」
「痛っ! 全く、ひどい風ですね」
「あの林まで耐えるんだ! リンローナ、大丈夫か?」
「うん! 何とか。でも飛ばされそうだよ!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 果てしない街道を

 ひたすらに歩いてゆく、旅人たちがいる

 雨の日も、風の日も

 一歩ずつ踏みしめながら

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 最終目的地はあるの?

『最終目的地を決めるのは、心しだい』

 終わりのない道のりを
【11240回】
 本当に倒れるまで、歩き続けた人もいる

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 想像を絶するほどの遠くから、星の光はやって来る

 決して諦めず、ひたすらに足を伸ばして――

 道半ばで息を引き取った旅人は、星となり

 地上人の心の奥に、何かを遺してゆくだろう

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 歩き続けるのは、大変なこと

 不器用でも、一歩一歩、大地を感じて

 歩き続けるのは、大切なこと

 最大の、最後の敵は、きっと自分の中にいる――
 


  7月16日− 


[水のせせらぎ]

 名もない小さな虫たちが目に見えぬ速さで羽を動かして飛び交い、紋白蝶や揚羽蝶、あるいは奇妙な色の蛾が秋の落ち葉のように風の流れに乗って大地を扇ぎ、軽やかに舞っている。
 外の暑さと比べれば驚くほど涼しく、森の小径には心地よい湿り気の粒子が漂い、木々や草花の匂いにつつまれている。
 都会の道路よりも縦横無尽に、しかも的確に根が張り巡らされ、秘やかで力強い胎動に満ちあふれている。腐った落ち葉は泥と混じり合って養分となり、新しい生命を育む肥料へと昇華する。鳥は夏の陽を頌える唄を歌い、獣たちは目を光らせる。

 その森の中を、一筋のせせらぎが流れていた。下が透けるほど透き通った水は、まるで地上をひた走る涼やかな風のようだった。時折、木の影が映ったり、落ち葉のかけらが浮いていたり、流れが歪曲しているところで跳ねたりしているので、せせらぎと見分けられる。それはまさに森をめぐっている血であった。
 いつか出会える大きな河を目指して、子供のように無邪気に駆けてゆく透き通った流れは、木洩れ日の下をくぐる時に強い光を跳ね返して宝石を散りばめ、土で作られた自然の階段を降りてゆく。それにはまだ色がなく、あらゆる希望と可能性とに満ちあふれている。一点の曇りもない硝子よりも穢れておらず、誰もいない白妙の浜辺で迎える黎明と同じ類の神聖なものだ。
 先日の雨から日が経過して縮まった水たまりの上で、若い光の粉が飛び跳ねて遊んでいる。留まるものには安らぎと引き替えに、老いてゆく停滞が忍び寄る。これもまた自然の営みだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

本物の純水は、殆ど写真に映らない。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ぽつっ、ぽつ――。
 掌からこぼれ落ちる水を掬い取って唇を当て、乾いて張りつく喉を潤すと、次の瞬間には冷え切った純水が胃の中に達するのを感じる。少し遅れて額や背中から汗が吹き出し、服の襟元を湿らせる。目に入りそうになり、慌てて手の甲で拭き取った。
「ふうーっ。生き返るのだっ」
 溜め息とともに、ファルナはつぶやいた。彼女が動くたびに後ろで結んだ茶色の髪が揺れ、麦わら帽子からはみ出している前髪がそよぐ。妹とお揃いの長袖の白いブラウスは、あまり飾り気がない田舎風のデザインだったが、袖口に花柄の刺繍がなされ、丸みを帯びた形の襟がアクセントとなって可愛らしい。
 森を歩くための焦げ茶色の長ズボンと履き慣れた革靴、麦わら帽子と相まって、むしろ素朴な服装が年ごろの娘の本来の若さと美しさ、華やかさと洗練さを自然と浮かび上がらせている。
 空気は涼しくても、常に膝や足を使い、所によっては腕でバランスを取らなければいけない山道で、身体は火照っていた。また細い道や崖の近くでは集中力も要るし、意外と神経も消耗する。彼女は気を抜き、しばし休憩がてら、しゃがみ込んでいた。

 ほとんど水と見分けられない澄んだ小川の、微妙に流れが滞ってさざ波が立つ場所や、水底をぼんやり眺めていると――。
「えっ?」
 ファルナは突如、驚きを含んだ鋭い声をあげた。
 彼女の気のせいでなければ、確かにせせらぎの鏡を、何か小さな生き物が横切ったように思えたのだった。それは虫や蝶よりも大きく、強いて言えばネズミやリスと同じくらいの大きさで、しかも人の形をしており、背中の四枚の翼で羽ばたいていた。
 暖かくて気持ちの良い小春日和のうたた寝から醒めたような心地がして、ファルナは鼓動が急激に速まり、胸とこめかみが苦しくなっていた。考えれば考えるほど、分からなくなってくる。
 あの姿にどこかで出逢ったことがあるように思えたが、湧きあがってくる不思議で優しい気持ちは上手く説明できなかった。
 空っぽにした心が透明な水に溶けて、夢のような世界と交叉し、焦点を絞らぬ瞳にそれを〈垣間見させた〉のかも知れない。
 改めて目を凝らしてみても、水面にはもう何もいなかった。
 遅ればせながら顔を上げ、やや落ち着きのない仕草で周りの景色――特に、せせらぎの真上の方向――を見渡しても、もはや何の痕跡も見つからない。視線の先はやがて木々の梢にぶつかり、その間にまたたいている青空の星座に突き当たった。

 痺れている足に力を込め、水辺のぬかるみに足を取られないように気を付けながら、ファルナはゆっくりと腰を持ち上げて膝に力を込め、立ち上がった。結んだ茶色の髪を揺らしながら反対側に向き直り、シダ植物が生えている緩い坂道を登ってゆく。
「シルキア」
 静けさを必要以上に壊さないよう、ファルナは気を付けながら妹の名を呼んだ。近くの白樺の幹に寄りかかって、木洩れ日の変化を眺めていたシルキアは、上を向いたまま適当に応える。
「な〜にぃ?」
 妹の反応を見て、それから小川のほとりで出来事を思い描いてみると、ファルナは腕組みして唸り、考え込んでしまった。
「うーん。ただの夢かも知れないし、ファルナには判断つかないのだっ。シルキアに聞いてみるかどうか迷ってしまいますよん」
 姉のファルナはそう言ったきり、首を右に傾けて立ちつくした。髪の毛とほとんど同じ茶色の瞳を素早くまばたきさせている。

「よっと」
 好奇心を刺激されたシルキアは樹の幹を後ろへ押し出し、その勢いに乗って二本足に力を入れた。姉と良く似た茶色の髪を持つシルキアだが、その長さは姉よりもだいぶ短く、肩にかかるくらいだった。ブラウスはお揃いだったが、洒落た白い帽子をかぶり、ズボンは秋の紅葉を遠く予感させる赤茶色であった。
「お姉ちゃん、どうしたの? 話してみてよ」

 やや強い風が森を通り抜け、二人の白いブラウスの袖をはためかせる。木々は、まるで噂話をしているかのようにざわめき、木洩れ日の形が大きく変化した。花に留まって蜜を吸っていた蜂はその場で羽ばたき、いったん席を外した。今のファルナの場所からは見えないが、小川には波紋が拡がったことだろう。
 ほどなくして風がおさまってゆくと、すべてはまた心地よい静けさのもとに沈んでゆく。だが、その裏側では、燃えたぎるような命と命のぶつかり合いや、死と再生とが繰り返されている。
「ふーぅ」
 妹に促された姉のファルナは、最初どのように切り出したらいいのか戸惑っている様子だったが――軽く息を吐いて気持ちを落ち着かせると、難しく考えるのはやめて素直に語り始めた。
「さっき、せせらぎの上を……何か通ったのだっ」
「えっ、何が? 何が通ったの?」
 興味津々のシルキアは、次々と質問を投げかけるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 近くの茂みにある湧き水の泉は、さざ波のカーテン越しに地上をのぞいている羽の生えた半透明の水の精霊の姿を映していたが、姉妹は話に夢中で、その姿に気づくことはなかった。
 


  7月15日− 


[雲のかなた、波のはるか(27)] ほぼ1周年

(前回)

『そして……帰ってゆく。各々の家族が待つ、各々の場所へ』
 老婆の声は一言一言を噛みしめるように響いてきた。その間も時は過ぎ、河は流れ、大いなる家である海が近づいてくる。
 天高くの風と波音という、普段はめぐり逢えない二つの調べを伴奏に、姿の見えない老婆は息を飲んで大切に言葉を継ぐ。
『むろん、おぬしらもな』

 いつしか雲は霧散して空が開き、数日ぶりの南国の夕暮れが、しっとりと染み込んでくる季節のごとく訪れようとしていた。
 ほんのりと紅く染まった薄雲は恋をしている少女の頬を思わせ、水平線に寄り添っていく太陽は誰もが持っている宝石だ。
 二人の乗っている〈こうもり傘〉の小舟は、全てを空の河に任せて、ゆったりと流れていた。サンゴーンの銀色の髪と、レフキルの翠がかった銀の髪の毛は、乾いた塩水でやや張りついている。腕の産毛は微かになびき、服はもう完全に乾いていた。
「各々の、場所へ」
 レフキルがつぶやく。海に着水してしまえば、この不思議な旅も終わりを迎えると言うことが、確かな予感として湧いてくる。
 河の流れは時間の流れであり、何もしなくても舟はただ海を目指して流れてゆく。この状況に抵抗するでもなく、また諦めるわけでもなく――レフキルはできるだけ〈受け容れよう〉と考え、改めて冷静になって考え、老婆に質問を投げかけるのだった。
「落ちそうになった時、助けてくれたのは、あなたですか?」
「……レフキル!」
 その質問が出ると、サンゴーンははっとして、背中合わせの親友の顔を覗き込もうとした。こうもり傘が風に煽られて海竜の河を離れた時、彼女は亡くなった祖母の声を聞いたような気がした。彼女が今日の経験の中で最も知りたかった出来事だ。

 音もなく降り注ぐ暖色系の光が、豊かな水量を誇る天河の水面に反射してきらめき、左右の遙か下に俯瞰出来る大海原を染め上げる。些細なことにこだわらず大らかに生きる髭面の老人のようにどっしりと、高度は少しずつ下がってゆく。あるいは名残を惜しんでいるかのようにも、サンゴーンには感じられた。
 ふっと空気が凪げば、老婆の声が再び頭の奥に響き出す。
『いや、わしじゃない。わしは手出ししとらん。わしは案内人ではなく、もっと中立的なものじゃ。……あれは風の意志じゃよ』
「風の、意志ですの?」
 サンゴーンは傘から思わず身を乗り出し、老婆がどこにいるか分からないので、さまざまな方向に視線を送りつつ訊いた。
「どういうことですか?」
 友のレフキルも出来る限り丁寧な口調を心がけ、尊敬の気持ちを込めて素直に質問すると、いらえはすぐに降り注いでくる。
「雲だって海だって、生きているんじゃ。澱んだり腐ったりしないのは、生きている証拠じゃ。あの海の波が何か、分かるか?」
「海の……鼓動?」
 応えたのはレフキルだったが、彼女は口からふいに出てきた言葉に自分自身が最も驚いているようで、きょとんとしていた。サンゴーンは、こうもり傘の柄を挟んで反対側に腰掛けているレフキルの顔を思わず覗き込もうとしたが、黒い傘の舟が大きく揺れたので断念し、膝を抱える形で窮屈に座り直すのだった。
『そう。そして風は空の呼吸じゃ』
 老婆は補足し、さっきの言葉をもう一度繰り返すのだった。
『海も空も、生きているんじゃよ』


  7月14日○ 


[夏バテ]

「暑くてたまりませんな」
 春山氏が、うちわで扇ぎながら汗だくの顔をしかめている。
「ほんと、最近、暑すぎるわ」
 秋本さんも扇子を動かしつつ、ハンカチをこめかみに当てる。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「冬木さんちの雪ちゃんは、夏ばてで寝込んでるわ」
 秋本さんは橙色の上着を胸に抱き、心配そうに言う。
「夏川のやつへ抗議しに行くのだ」
 春山氏は額に青筋を浮かべ、怒り心頭で歩き始めた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 季節町二丁目七番、夏川家にて。
 春山氏は、夏川君の家の呼び鈴を無造作に鳴らしていた。
「ん?」
 その時、呼び鈴の下に張られていた一枚の紙に気づく。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「だめだこりゃ」
 春山氏はあきれ果て、汗を拭いながら立ち去っていった。
 彼が破り捨てた紙には、こんなことが記されていた――。
『夏バテでダウン中。夏川』
 


  7月13日− 


[天音ヶ森の鳥籠(25)]

(前回)

「どうした?」
 急にリンローナが立ち止まったので、歩みを止めて後ろを振り返り、ケレンスは声をかけた。霧の名残となって、幹と幹、葉と葉の間を微かに漂っていた霞は消えそうになりながらも命脈を保ち、そのままほんのり染まって夕靄に変わろうとしていた。
 一群れの秋の風が頬を撫でて速やかに通り過ぎる。この季節、涼しいと思った次の瞬間、早くも冷ややかに感じられる。

 リンローナはまるで警戒を怠らない猫のように、薄緑色の瞳を見開き、耳を澄ませて立ち尽くしていた。その視線の行く先は、現実の景色を飛び越えた先にある真実を見極めようと必死だ。
 息苦しい刻が重く引きずるように進んでいた――次の刹那。
 華奢な肩がぴくりと反応し、彼女は少しだけ向きを変えた。それから杖を握ったまま右手を持ち上げて、前方を指し示した。
「こっち!」
「シェリアだな!」
 出会った最初の頃は魔法や神秘的な現象を苦手としていたケレンスだったが、聖術を得意とするリンローナや魔術師のシェリアたちのことも今ではだいぶ分かるようになってきている。無駄なことは一切聞かず、彼は一気に躍り出て藪に突入した。
「くそっ」
 彼は懸命に腕と足を突き出し、丈の高い草を掻き分けた。剣は使わずに使い古しの靴で踏みつけ、起き上がろうとする硬いくきを長袖の服で押し返し、正面を向いたまま短く鋭く叫んだ。
「来いよ!」
「……えっ? うん!」
 ふと我に返ったリンローナは、口を真一文字に結んで決意を表情にみなぎらせ、しっかりとうなずいた。彼女は息を吸って、ケレンスが必死に切り開いた道なき道へ分け入るのだった。
「おりゃあ!」
 ケレンスは草の丈の長さに辟易しながらも、歯を食いしばって本能のまま、無理矢理に力任せに進んでゆく。彼に続くリンローナの後ろに控えるのは、永い眠りを急に覚まされて不機嫌にざわめいているような、自然に出来た森の垣根だけだった。
「踏みつけてごめんね」
 リンローナは小さく呟きながらも、足早に少年の背中を追う。

「おっと」
 突如として藪は尽き、斜め下に視界がやや広がった。日焼け止めを兼ねて常備している軍手をはめていたケレンスだったが、むきだしの顔は草に引っかかれて傷だらけになっていた。
 短い急な坂を駆け下りると、湖から離れてゆく細い獣道が現れた。今度の脇道は割と平坦で、幅もそれほど狭くはなかった。木々のアーチをくぐり抜け、道は右へ右へと曲がってゆく。
「こっちか?」
 先頭のケレンスが訊ねると、リンローナは再び瞳を閉じて立ち止まり、神経を集中させた。ぴんと張りつめた空気が辺りをつつんでいる。この付近では、鳥の声さえが厳選されているように思えた。澄んだ声と、輪唱と和音の響きが、滞りない水のように、混じりけのない風のように流れている。音楽の溢れる〈天音ヶ森〉の中の最深部――核に迫りつつあることが感じられた。

 リンローナの背中がぴくりと動いた。姉の声が届いたのだ。
『ときどき、は……』
「……」
 向き合うケレンスは、相手の邪魔をしないよう、真剣な表情のまま黙ってその場に立ち尽くしている。昔の彼ならばリンローナを質問攻めにしたところだが〈待つ〉と言うことを覚えていた。

 まるで太陽の光を集める翠の葉となったリンローナは、微かな伝言の断片を確実にかき集め、頭の中で再構成していく。
『……しくて、……だ、……』
「かなり近いよ!」
 見開かれた少女の瞳が強く輝き、ケレンスは指を鳴らした。


  7月12日− 



 ランプの焔を消したなら

 あとに残るは

 夜空を彩る星明かり


2003/09/21


 偽りのない闇こそが

 きらめきを演出し、


 その一方――


 強い光だけが

 深い影を作れる


2004/06/05


 驕りも、諦めも、

 われらには無用なのだ――

 


  7月11日− 


メラロールの都市なんて、そんなに数は多くないんだよな」
 ケレンスは胸を張り、タックに目で合図を送りながら言った。
「そうなんだ?」
「ふーん」
 リンローナは相づちを打ち、シェリアは気のない返事をする。
 ルーグは声に出さず、ゆっくりとうなずいた。

 タックの返事がないので、ケレンスは敢えて呼びかける。
「なあ?」
「まあ、そうですね。では具体名と位置を言ってみて下さい」
 古くからの相棒を試すように、タックは何の感情も籠めない口調を装って語った。ケレンスは背中と脇の下がじっとりと湿るのを感じながら、慌てず、思い出した順番に挙げていくのだった。
「北がミグリだろ、で、東がセラーヌ、中央にメラロール、近くにラブール、そんでもって……南の要がオニスニってな感じだ」
「〈ラーヌ三大候都〉ではメレーム町が抜けてますが……まあ、ケレンスにしては合格点をあげても差し支えないと思います」
 タックが淡々と評価すると、ケレンスは肩の荷を下ろす。が、改めて友の言葉を吟味し、不満そうに口を尖らせて詰め寄る。
「要するに、合ってるってことだろ?」
「さすが詳しいね」
 リンローナは場を収めるため、素直に感想を洩らした。するとケレンスの表情はぱっと明るくなり、彼は額の汗を手で拭う。
「まあ、自分の国だからな」
「別にすごくはありませんよ。一般常識です」
 頭の後ろで手を組み、飄々とつぶやいたタックを、ケレンスはさも悔しそうに、睨む訳でもなく苦々しげに見据えるのだった。

 ケレンスに助け船を出したのは、リーダーのルーグだった。
「そういえば、シェリアとリンローナは、町中には詳しいのだが、地理はあまり得意ではなかったような記憶があるのだが……」
「そうねぇ」
 今度はシェリアがすぐにうなずいた。その姉の言葉を聞き終わってから、リンローナは首を傾げつつ、思い起こすのだった。
「うーん。細かいところ……料理とか町の様子は良く覚えてるんだけど、地図上でどこかっていうのは弱いかも知れないなぁ」
「一般的に、そういう傾向は存在しているのかも知れませんね。僕らだって、おおまかな計画は僕らが立てて、細かな肉付けをシェリアさんとリンローナさんにやってもらっている気がします」
「そうそう、それは言えてるぜ」
 ケレンスは元来の調子の良さを取り戻して、タックの発言に便乗した。リンローナは指折り数えながら、明るい口調で言った。
「泊まるところの雰囲気とか、お料理とか、大事だよね〜」
 そして姉の方に向かい、同意を求めるべく訊ねるのだった。
「ね、お姉ちゃん?」
「まあね。特に料理は大事よね」
 うなずくシェリアを見て、ベッドに腰掛けている他の四人は思わず吹き出した。シェリアは顔を赤らめて、取り繕うのだった。
「な、何よ。一番大事なことじゃない、ごはんが」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その時、部屋のドアにノックの音があり、話は中断される。
「どうぞ」
 シェリアが言うと、ドアが開いて宿のおかみさんが顔を出す。
「お食事ができましたので、冷めないうちに下にいらして下さいね。こちら、男性のお部屋はどうです? 良いお部屋でしょう」
「ええ」
 ルーグが応えた。ケレンスは立ち上がりながら、つぶやく。
「さあ、お待ちかねのごはんだぜ!」
 部屋の雰囲気はさらにもう一歩、和らいだ。他の仲間たちもベッドに手をついて勢いをつけ、立ち上がる。シェリアは思いきり顔をしかめた風を装い、口元だけに笑みを浮かべて拳を堅く握り、ケレンスを殴るふりをして宙を素早く空振りするのだった。
 


  7月10日△ 


「しばらくは、ここを寝床に出来そうですな」

「おお、これはこれは。いい場所ではないですか」

「なにせ、次から次へと、咲きますからな」

「花のつぼみの、順番待ちでございますな」

「ごもっとも」

「ところで、この近くに、他に何かありますかな?」

「そういえば、向こうにも、同じような花がありましたぞ」

「なるほど。では失礼して、寝床を探してきますかな」

「それが良いでしょうな。お気を付けて」

「では、のちほど。ごきげんよう」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 白髪白ひげの老いた精霊たちが、池のほとりで喋っていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

2004/06/26
 


  7月 9日− 


[黄昏浪漫]

「よっと」
 石で固められた古い水路をひらりと飛び越えて、ユイランはきれいに着地した。後ろで束ねた黒い髪が遅れて飛び跳ねる。
 一瞬だけ足が滑りかけたが、膝を素早く水平に広げて膝を軽く曲げ、得意の運動神経を発揮して即座にバランスを整えた。
「〈お嬢〉さぁん、早くー。間に合わないっすよ!」
 ユイランは振り返りざま、手を口に当てて先輩のメイザに呼びかける。緩く曲がりつつ、階段状の段差を過ぎて勢いをつけ、マツケ町へと下ってゆく流れは、水があるのかないのか分からないほど、色のない微風のように透き通っていた。町を潤す水量は豊かで、その水路の幅は飛び越えられるギリギリの線だ。
 メイザは駆けながら声を張り上げる。三つ年上で二十二歳の彼女も、ユイランと同じような動きやすい薄い黄土色のズボンと、汗を吸い取りやすい綿で編まれた白いシャツを着ていた。
「ユイちゃーん、もっとゆっくり!」
「待てませんよォ。お先、行ってます!」
 水路には、近づいてくる夏の夕暮れを知らせる紅の光が映っている。この辺りでは一般的な木造の平屋の家々は、町外れになると減って、その代わりに畑が増え、空が拡がってくる。
 この辺りの人々の気質に合っているかのように、無骨で頑丈で実質的な家屋が多い。使い込まれた感はあるが、彼らが〈もの〉を大切にしていると言うことが充分に伝わってくるようだ。

 ユイランは水路沿いに、林へ分け入っていった。白樺の樹がまばらに生えたマツケ川沿いの林は、北国の町を守る防風林と防雪林を兼ねている。河の向こうは目立った集落が見られず、丈の低い木が生えた果てぬ原野が荒涼と続いているだけだ。
 ここ数日の好天に土の表面は乾き、大地に張り巡らした樹の根は力強く空を支えている――この町に梅雨は存在しない。
 起伏の多い川沿いの短い丘の頭上で、夕焼けの空は白樺の梢に散らばり、後に続く夜の星を連想させてまたたいていた。
 短い夏を謳歌しようと、思いきり伸びをしているのは、北国の町に住む人々だけではなかった。草は伸び、樹が息づき。可憐な白い花が咲く。翼を広げた渡り鳥が深い啼き声で、地上にあるどんな青玉よりも美しい蒼の舞台を背景に空を滑ってゆく。

 やがて突然、木々が途切れて視界が広がってゆき、大小の石を敷き詰めた河原に出た。男の無精ひげを思わせる不規則さで草が伸び、その向こうには蛇行するマツケ河が見渡せる。
 ユイランは足取りを休めて、西の空を遠く仰ぎ見るのだった。
 上流の果ての遠い山脈に雄大な夕陽が浮かんでいたが、今まさに、その後ろへ隠れようとしている。空は茜色から藍色の色調変化に染まり、綿のような筋雲が吹き流しになっていた。
 翻って、河が注いでゆく東の海の方には夕闇が迫っている。日が沈み、夜のとばりが降りる前、一番星が現れるのだろう。

 やがてメイザも追いつき、自然な感嘆の溜め息をつくのだ。
「ほぉ〜。これはいい天気」
 空気はほんの微かな夕靄に紛れていたが、空も川も海も、町の風景も彼女たちの頬も――熱っぽく赤々と染められていた。
「一番いい時に間に合ったみたいっすね」
 眩しさに目を細めて、夕陽の最後のきらめきが山に帰ってゆくのを一身に見つめながら、ユイランは満足そうにつぶやいた。
 辺りの彩度がしだいに消えてゆく様子を眺めながら、二人はしばらく心地よい夕風を浴び、微かな風に黒い前髪を揺らし、その場に立ち尽くしていた。胃の時計が、空腹を知らせるまで。
 


  7月 8日○ 


[雲のかなた、波のはるか(26)]

(前回) (参考)

「あなたは……」
 割れた雲の間から降り注ぎ始めた橙色の光に目を細めて、レフキルは斜め上の方を仰いだ。サンゴーンも右手を額に当て、華奢な左手の人差し指を曲げて、こうもり傘の柄を握りしめる。
『おぬしらは、間に合ったんじゃよ』
 心から安らいでいるかのような、ゆっくりと落ち着いた深い語り方で、老婆の声が語った。亡くなったサンゴーンの祖母、サンローンとは異なるが、それは確かに耳に憶えのある声だった。
『十年に一度の、大掃除にな』
 それは神殿の尖塔の頂上で、こうもり傘に乗る前に天から届けられた、不思議な嗄れた声と相違なかった。サンゴーンは何だか胸がいっぱいになり、単語を繰り返すのが精一杯だった。
「大掃除……」
 そして彼女の頭の中では、老婆の言葉が反芻されていた。
《早く、船に乗るんじゃ》
《そこにあるじゃろ。黒い、空の船じゃ》
《おぬしは行かないのか? 十年に一度の機会じゃぞ》
《お前さんの祖母も、来たことがあるぞ……》

 最後にはこの言葉に突き当たり、再び胸と瞳が熱くなった。

 頭上を覆いつくしていた雲の大地は、まるで嵐が過ぎ去った後のように、あるいは暑い陽射しの下で溶け始めた氷結魔法のアイスと同様に、もしくは祭りが終わった後の野外舞台のように、大急ぎで解体が始まっていた。灰色の地面が裂けて、白い綿のような雲が飛び出し、風に煽られて散り散りになってゆく。
 威厳のある空気が、開かれた眸を彷彿とさせて大きく広がってゆく雲の穴から怒濤のごとく流れ込み、空の河と混じり合って麓の海へ還っていく。その変化の速度は著しく速く、二人の少女たちの目の前で灰色が夕焼けに塗り替えられていった。
 まさに、空の劇場の幕が閉まろうとしていた矢先に――。

 その時、吹き抜けていた空の波風が、ふと止まった。
 かき混ぜた紅茶の牛乳を思わせて、芸術的で繊細な渦を描いていた残り香的な雲が素早く霧散すると――逆光の中で、腰を曲げて立ち尽くす小さな人影がぼんやりと浮かび上がった。
 その影法師はとても遠い場所にいるようだったが、目を凝らせばしだいに近づき、すぐそばにいるような気もしたし、とにかく距離感がつかみにくかった。それでも、やや前のめりの姿勢で宙の一点に杖をつき、白髪を風に揺らすのみで微動だにせず老婆はたたずみ、確固たる存在の炎を決して絶やさずにいた。
 上と下が繋がったローブのような、ゆったりとして裾の長い服を着ており、その裾がそよいでいる。色は逆光のために良く分からなかったが、それはおそらくどんな色でも有り得るのだ。
 長い白髪の前髪に隠れて、目は覗けない。それを見ることが出来なくても、長い刻を経て、世の中の悲喜こもごもを黙って見守ってきたかのような〈温かさ〉と〈冷たさ〉を併せ持つ超越した雰囲気が、老婆から絶えず秘かにほとばしっているのだった。

 レフキルの方も、気圧されてしまい何も言えなかった。それでも重い腕を動かして西の陽射しのまぶしさに目をこすると、身体の呪縛が少しずつほぐれて、渇いて張りつく喉がうずき出す。
「あなたが、案内してくれた……んですか?」
 言葉には自然と尊敬の念が籠められ、丁寧になっていた。すると、やはり耳の奥から響いてくるかのような妖しき老婆の重厚な声は、単純明快とでも言いたげに、こう応えたのだった。
『どんな河でも、果ての果てを探れば、海に通ずるものじゃよ』
 終わりが近づいて幅が広がり、空の大河は数々の支流を集め始めて流れが緩やかになっていた。こうもり傘の小舟は滑るように進み、沈黙が舞い降りれば、潮水がちゃぷんと跳ねた。


  7月 7日− 


[大航海と外交界(4)]

(前回)

「何よ」
 ララシャ王女は、お気に入りの侍女であるマリージュをにらみつけることこそしなかったが、その言葉には刺を含んでいた。
「少々お待ちを……」
 するとマリージュは油断なく首を回し、辺りの様子を窺った。寝室のドアは開かれているが、部屋には誰もいないはずだ。広い居室にはララシャ王女とマリージュしかおらず、今のところ他の誰かが入ってくる様子はない。お互いに多忙を極める二人が内証の時間を共有できるのは、一日のうちでもごくわずかだ。
「誰もいないわよ」
 拍子抜けた感じで王女は答えた。まだ普段の好奇心がうずき出すこともなく、年上の侍女の行動の意味を計りかねている。
 しかし、そそくさとマリージュが近寄って、
「姫様、お耳をお貸し下さいませ」
 とつぶやくと、聞き手の十五歳の王女はすぐに待ちきれなくなり、耳を突き出そうとするのもやめて、即座に命じるのだった。
「いいわよ、そこで言いなさい、今すぐよ!」

 ここまで煽ってしまったからには、もう後戻りは出来ない。侍女の経験が長く、穏和でしっかり者と評判の良いマリージュであるが、彼女としては珍しく頬を強張らせ、唾を飲み込んだ。
「この言葉がどんな事態をもたらすのか、それがいいのか悪いのか、私には分かりかねます……期待と不安が混じります」
「何を迷ってるの? 早く続きを聞かせなさい」
 ララシャ王女は苛立ちを隠せず、両手を後ろ手に組んで、せわしなく爪先立ちを繰り返した。その言葉に後押しされたマリージュは、出来るだけ声をひそめ、ついに語り始めるのだった。
「全てが思い通りになるわけでは有りませんが、王宮を出る方法はあります。しかも、カルム国王陛下やミネアリス王妃陛下、レゼル殿下も必ずお喜びになります。国家公認のもとで……」

「え、何? 本当に?」
 その瞬間、ララシャ王女の二つの澄んだ蒼い眸は、ご馳走を目の前にした空腹のオオカミを思わせ、一挙に見開かれた。あまりにも夢のようで、その意味をつかみ切れていない様子だ。
「侍女の私が言って良いのかは分かりませんが……」
 マリージュは、ララシャ王女が嫌がると分かっていてさえ、遠慮せざるを得なかった。王女が、この話に飛びついて来るというのがあまりに明白だったので、彼女と周りの人々の運命を変えてしまうのではないかと、両肩に重い責任感を背負っていた。

「今すぐ教えなさい!」
 希望に狂おしく燃えているララシャ王女は、牙をむいた獣のように見えた。マリージュは恐れずに条件を示し、それを王女に飲んでもらうべく、必死に声を振り絞って呼びかけるのだった。
「ですが、最低限、勉強はやって頂けますか? 旅先でも、きちんとやって頂けると約束してもらえるならば、お教えしますわ」
 ララシャは一瞬考えて、力を抜いたが、決断は迅速だった。
「やるわよ、もちろんでしょ! だから早く」
「それと、私が提案したということは秘密にして頂けますか?」
「もちろん!」
 意欲的すぎる姫の反応を見て、侍女はいささか不安を覚えていたが、もはや、なるようにしかならない。彼女は心を決めた。
「では……」


  7月 6日− 


 あの蒸し暑い夜に
 窓から入り込んできた、かすかな風が
〈眠り〉ってやつの正体なんだとさ。
 


  7月 5日− 


[天音ヶ森の鳥籠(24)]

(前回)

「ちょっと休んで、もう一曲披露するわ」
 一方的に言い放つと、シェリアはその場に横座りをした。肩や腰は重く、頭はやや血の気が引いていて、胸の辺りは少し息苦しかった。こめかみが不安定な強い鼓動を打ち続けている。
 普段なら思いきり唄えば気が晴れるものだが、さっきは極限まで心が張りつめていたのだった。正確な広さも分からぬ薄暗い〈鳥籠〉の中で、ひんやりと涼しい微風を受け、見えない観衆に向かって唄っていれば、だんだん感覚がおかしくなってくる。
 シェリアは出来るだけ何も考えないようにして肩を上げ下げし、思いきり首を振り、それから口をすぼめて開いて、歯の隙間から長い時間をかけて息を吐き出した。それとともに身体の力みが抜けてゆき、自分の領域がほんのわずかながら拡がったような感じがし――緊張の糸がほぐれて、彼女の頬は緩む。

 一方、鳥籠のはるか上の雰囲気はすっかり和らいでいた。
「無理しすぎて喉を潰されたら、困るからね」
「休んだら、また唄ってくれるんだね?」
 天音ヶ森の精霊たちは、まるで子守歌や物語をねだる幼子たちのようだ。赤いズボンの両足を折り曲げて上半身を起こした姿勢のまま、シェリアは脱力感を覚えつつ、呆れたように言う。
「あんたら、よほど唄が好きなのね……」

 やがて彼女は強い意志の光を瞳に輝かせ、斜め上を眺めた。その顔には、最近では滅多に見られることはなくなってしまった悪戯っぽい微笑みが浮かんでいたが、鳥籠は相変わらず薄明かりに沈み、話に夢中だった精霊たちは気づいていなかった。
「今度の鳥は、なかなか声がいいみたいだよ」
「明日の夏祭りが楽しみになるね」
 シェリアは今や囚われの身でありながら、鳥籠という小さな世界を席巻し、話題の中心へと登りつめていたのだった。もはや敵対的な行動を受けたり、みだりに虐げられることはない――ここでは〈唄〉が全ての上位にある。シェリアが唄うことを拒否しない限り、彼女は森の精霊たちにとって可愛らしい〈鳥〉であり、守られるべき存在だ。話の種になるのも無理はなかった。

「そろそろかしらねぇ」
 彼女が一言喋ると、とたんに甲高い声が雨霰と降ってくる。
「そろそろ始まるのかい?」
「今度はどんな唄なんだい?」

 シェリアは両手で身体を支えて立ち上がりかけていたが、急に考えを変えて腰を落とした。精霊たちの言う通りにするのが何となく癪だったのと、時期を〈待ってみよう〉と思ったからだ。
「……いや、もうちょっと、準備が整うまで」
「準備?」
 怪訝そうに問う精霊に、シェリアは立ち上がりながら応える。
「そう。次の唄は、準備が必要なのよ」
 言い終わるのと時を同じくして、鳥籠の隙間から外の夕風がそっと吹き込んでくる。他愛ないことだが幸先良く感じられた。草や葉の揺れて擦れ合う音が、故郷の港町の波音と重なる。

「え?」
「もちろん、準備に決まってるじゃないの」
 シェリアは軽く言い放ったが、その表情はむしろ真剣だった。薄暗い中にも地面があることを靴の裏で確かめながら、彼女は再び灯りのない舞台に立ち、孤独な鳥を演じ始めるのだった。
「じゃあ、しっかり聞いてて頂戴。私の『森のハーモニー』を」


  7月 4日○ 


[弔いの契り(32)]

(前回)

「何だ?」
 あっけにとられた俺が低い声で思わず呟くと、横にいるタックは鋭い目つきで向こうの様子を注視しながら指を口に当てる。
「シッ……静かに」
 その刹那、タックの頬は再び赤々と染まった。男どもの大きなどよめきが沸き起こり、赤い輝きは音もなく収束していった。何人かが駆け出し、四散するのが分かった。歪んだ満月の月明かりに浮かび上がる影たちが、そういう動きをしたからだった。
「水を持ってこい! 早くしやがれ!」
「屋敷に火がかけられたぞ!」
「水をかけろってんだ、のろまの馬鹿野郎!」
 意外なことに、あまり方言の混じっていない男たちの声が聞こえた。きっと町で雇われた、男爵の息のかかった〈ごろつき〉どもだろう。志気は低いはずだし、その上、消火のために分散させられた。おそらく統率だって滅茶苦茶な素人集団に思える。
 そして、さっきの炎についての俺と相棒の考えは、きっと一致している。あの輝き方と色みを、何度か見たことがあるからだ。

 俺とタックは目で合図し、おもむろに立ち上がる。真剣な眼差しで仰ぎ見るフォルの肩を二度叩き、俺はそっと呼びかけた。
「時間が来たぜ。じゃあな」
「気を付けて……」
 フォルは無駄なことは言わなかったし、聞かなかった。屋敷内で一緒に〈短い冒険〉をした弟分のこいつのためにも、相手が何であれ決して負けないと思いを新たにし、神聖な天に誓った。
 今は澱んで穢れた闇につつまれた空にも、夜風や夜露にも、本来の夜の澄みきった感覚を取り戻させてやる。待ってろよ。

 俺とタックは、また走り始めた。今度は堂々と声をあげて。
「大変ですだー、お屋敷のあっちにも火がかけられましたぞ!」
 これはタックがとっさに考えた作戦だった。普通に突っこむよりも、状況にさらなる混乱をもたらすことが出来ると思ったからだ。どちらにせよ、見つからずに近づくのは難しいんだから、俺らは村人のふりをし、やつら警備兵に助けを求めることにしたんだ。
「お願いしますだー、男爵様のお屋敷が燃えちまいますぜ!」
 俺は適当に田舎風の言葉を発しながら、ナイフをしまい、大げさに手を左右に振りつつ駆けていった。やつらに面が割れてればすぐに戦闘の可能性もあるが、例え知られていたとしてもこの暗さだし大丈夫だろう。しかも俺らはタキシードを着ている。
 騙しがお得意な相棒はともかく、俺は馴れない必死の演技をしながら、屋敷に沿った裏庭の道を勢い良く飛ばすのだった。
 その間にも、どんどん例の建物は近づいてくる。ごつい体格の男どもが、武器を持ったまま立ち尽くし、あるいは武器を置いて何やら慌ただしく動き回っているのが、はっきり見分けられる。

 そこは背の高い木々が生い茂っている場所で、石造りらしき平屋の建物が、今にも牙をむいて飛びかかろうとしている小さな肉食の獣さながらに身を潜めていた。窓が無く、ただ一つの入口のドアは閉じられている。四角く、煙突もなく、不気味だ。
 俺たちが駆けつけて見渡すと、門を守っている屈強な男たちの影がこちらを振り向き、睨みつけた。今、ここに残っているのは五人だろうか。肩幅が妙に広かったり、太っていたりする柄の悪い連中は、皮の鎧に身をつつみ、長剣を腰に吊していた。
「今度は何だってんだ?」
 一人の男が悠然と前に進み出て、不満そうに問いかける。
「大変でごぜえやす、お屋敷のあっちで火の手が出ましただ」
 と応えたのは、もちろん村人を装っている諜報員タックだ。やや冷静すぎる気がしないでもないが、身振り手振りで訴える。
 しかし、ごろつきどもは面倒くさそうに応え、邪険に手を振る。
「こっちは忙しいんだ。お前たちで何とかしやがれ!」
「こっちの火事に、既に半分を割いてるんだ。これ以上、ここの警備を減らすわけにはいかねえんだぜ。分かってんだろ?」
「……ったく、今夜はどうなってやがるんだ」
 やつらは愚痴を言い出す。俺は辺りを落ち着き無く見渡し、どうしようか迷っていたが、そこは相棒が機転を利かせてくれた。
「では男爵様に直接に頼みますだ。どうか鍵をお貸し下せえ」

 タックの迫真の演技が効いたのか、それとも用心棒たちに緊迫感が欠けているからか。今のところ、俺たちの素性についての疑念は抱かれていないらしい。俺のうなじを冷や汗が伝う。
 相手はしだいに不機嫌となって、低い声で脅しをかけてくる。
「うるっせえ、駄目だ駄目だ。いいって言うまで開けるなって、雇い主に言われてるんだ。そもそも、ここに近寄るんじゃねえ!」
「おめえらだって、噂で知ってるんだろ? 今は儀式中だぜ」
「何の儀式かは知らねえけどな。ゲハハハ」
 俺たちを取り囲むように集まってきた五人の下品な笑いを無視し、親友はなおも食い下がる。俺はしだいに息苦しいほどの緊張感を覚えながらズボンのポケットに右手を忍ばせていた。
「鍵はお持ちで? どの鍵で?」
 しつこくまとわりついた小柄なタックを大きな手で振り払い、ごろつきは複雑な形をした一本の鍵を取り出し、見せびらかす。
「お前には貸せねえんだよ。早く行って、火を消してきやがれ」

 月が雲に隠れるかのように、タックの口元が歪む。
 次の瞬間、建物の鍵は相棒の手の中に収まっていた。

「な……こ、こいつ!」
「なめやがって。死にてえのか!」
 驚き、怒りを増幅させる目の前の警備兵たちは眼中に入らず、タックは別の方向を見ながら、明るく呼びかけるのだった。
「シェリアさーん、リーダー、出番ですよ!」
「何だと?」
 唖然とするごろつきどもをよそに、向こうの茂みで二つの影が立ち上がる。背が低い方は、頭に大きなリボンをつけている。
「行くわよ!」
 それは間違いなく、魔術師シェリアの甲高い声だった。


  7月 3日○ 


[想(4)]

 季節の花を見ながら

 季節の香りを嗅いで

 季節とともに歩んできました


 季節の風を吸い込んで

 肌で、全身で、全霊をもって

 ほとんど無意識に

 時には意識的に

 季節を感じてきました


 何はなくとも

 それが私の年輪です

 ――テッテ

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

2004/07/03
 


  7月 2日− 


 月が唄っているよ
 その輝きで
 星たちがささやいているよ
 そのまたたきで

 夜風がかけぬけてゆくよ
 睡りの入口からさまよい出して
 誰かの夢との架け橋となって...

 あの瞬間は
 遠い時間の彼方を計り
 この心深く刻みつけて...

 月が唄っているよ
 その輝きで
 星たちがささやいているよ
 そのまたたきで

 静かにおやすみ、と...
 


  7月 1日△ 


[夏模様]

 軒先の風鈴が揺れて

 涼しさの素の、白銀色の音色を奏でている

 直情的な光が描く陽炎は

 遠ざかる日々の影を映し出す



 歩いてゆけば、逃げ水は彼方へ――

 眠気は天に交わり、いっそう魂が朦朧とする

 喉が渇く



 意識は木々の葉のトンネルを抜けて

 山道を一団飛ばしに駈け上る

 入道雲が拡がり、空は眩しかった



 翻って、公園の噴水は高らかだ

 ソフトクリームが溶けないうちに

 水玉のパラソルの下で食べよう

 ――むろん、私自身が溶けないうちに
 




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