2003年 7月

 
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2003年 7月の幻想断片です。

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  7月31日− 


[お姫さま談義(12)]

(前回)

「お店はルヴィルとウピにお任せします」
 あまり広くない坂道に三人並ぶのは窮屈だ。二人の後を追うように歩いていたレイナは、相変わらず淡々とした口調で言う。
「どうする?」
 ウピは隣のルヴィルを見上げ、相談を持ちかけた。おしゃれなルヴィルは学生時代から商店に詳しい。たとえば飲食店一つ取っても、巷で人気の魚料理屋から、大陸南西部のウエスタリア料理を出すお店、軽食に都合の良い賑やかな喫茶店、さっぱりして驚くほど安い冷麺の食堂など――幅広い知識があり、参加者や目的や気分に応じて選ぶことが出来る。彼女の頭の中には、他人に見えぬ〈ごちそう地図〉が出来上がっているのだ。
 仕事を持ってからは、さすがに遠い界隈の最新事情には疎くなったけれど、それでもまだまだ情報通ぶりは健在であった。

「じゃあ〈テラ・コッサ〉でいっか。パン屋さんだけど、食後のケーキもあるし。魔法の氷菓子を入れた冷たいカカオ茶がお奨め」
 コーヒーに似た飲み物を、この国ではカカオ茶と呼んでいる。
 レイナはすぐに了承したが、ウピは心配顔だ。色褪せた金色の髪を微風になびかせ、薄い財布を取り出し、小声で訊ねる。
「ちょっと……高いんじゃないの? 魔法の氷菓子なんてさぁ」
「大きめのを注文して、三人で割り勘すればいいっしょ?」
 散財した友だちの不安を払拭すべく、ルヴィルは即答する。
「美味しそうですね」
 後ろから声をかけたのはレイナだ。彼女のうなじには汗の粒が浮かんでいる。春とはいえ、晴れればぐんぐん気温が上昇するのがミザリア国の常である。時々すれ違う女性たちには、老いも若きも関係なく、帽子をかぶったり扇を手にした人がちらほらと混じっている。からっと乾燥しているが、暑いものは暑い。

 坂道の左側に、瀟洒な造りの小さな建物が見えてきた。やはり付近の建物と同じく石造りではあるが、屋根が三角だったり、柱にちょっとした彫刻があったりと特徴的で、文化の香りを感じさせる。それがパン屋の〈テラ・コッサ〉だ。建物の後ろは緩やかな崖で、窓際の席は眺めが良い。海が見えるため、夕暮れ時には恋人にも人気のある、地元でも知る人ぞ知る店である。
 近くに来ただけで、あの食欲をそそる〈ふっくらして柔らかそうで、湯気を上げていてホカホカで、口の中でとろける〉独特の匂いが漂っている。ウピは目を輝かせ、思わず唾を飲み込んだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ウエイトレスに注文を終え、三人は一息ついた。中は意外と狭く、十席ほどしかないのだが、一つ一つの木のテーブルは広めに作ってある。窓際の二つのテーブルのうち運良く一つが空いていたので、ルヴィルとウピが向かい合わせで腰掛け、レイナは丸椅子を借りてきて横に座る。座席もあるが、普通のパン屋のように持ち帰りの販売もしており、鼻の下に金色のちょび髭を生やした厳しい顔の壮年の店主と、おかみさん、二十代半ばの息子はひっきりなしにパンをこね、焼いて、手際よく飾り付けしている。二十歳過ぎのウエイトレスは、どうやら娘らしい。

「でも、予想外に、お姫様の話題で盛り上がりましたね」
 優等生のレイナはあくまでも冷静に分析することを好む。さっきの話をまとめるような口調で、料理待ちの間に切り出した。
「そういえばミラス町のルーユ嬢もいたね。エスティア家の」
 ウピは真面目に反応した。ティルミナ嬢が没落を嘆くクルズベルク家と並び、南ウエスタル地方の由緒正しい貴族がエスティア伯爵家だ。富裕な避暑地であるミラス町とその周辺を領有し、穏やかな保守的統治を継続して民の信頼も非常に厚い。
「なんか、品のある姫様みたいねぇ」
 ルヴィルは苦笑しつつも、とりあえず相づちを打つ。ミラス町へはミザリア市から定期船が行き来しており、いわゆる〈東回り航路〉の貿易船も通る重要な経路なので情報も入ってきやすい。

 博識なレイナは、ついつい話題を蒸し返そうとしてしまう。
「ラット連合の連合長テアズ氏の長女、フレイド族の姫は?」
「もういいわよォ……」
 ルヴィルはさすがに呆れ果て、手を組んで顔を落とした。微妙に悪化した雰囲気を取り持つのは、やはり友達思いのウピだ。
「でもさ、ララシャ王女が言ってたけど、こういうあったかい料理が食べられるのって庶民の得だよ。地位の高い人になればなるほど、毒味とかで大変なんだって。スープもぬるいんだって」

 ウピの気の利いた挿話が功を奏し、とたんに興味を示すのはルヴィルだった。再び上半身を起こして思いきり首をすくめる。
「お姫さまも大変なんだね。あたしはぜったいイヤだけど」
「あたしは一日くらいならやってみたいな」
 したたかな打算も含みつつ、夢見るようにウピはつぶやく。
 その発言を聞いたレイナとルヴィルは珍しく意見が一致した。
「意外と、ウピが一番早く飽きるかも知れませんね」
「うんうん。有り得る有り得る」

 ウピは顔をほころばせ、頭に手を当てて素直にはにかんだ。
「そうかなぁ……そうかもね。あははっ」
「ぷぷっ。ウピみたいな王女様がいたら、やだな!」
「うふふ」
 ルヴィルは吹き出し、レイナも表情をほころばせる。ウピの笑顔はいつも三人の空気を和らげ、絆を深め、幸せをもたらす。

 いよいよ出来たての料理のジュウジュウ燃える匂いの先導で、ウエイトレスが厨房からやってきた。まずは鶏肉とキャベツ入りのパンだ。三人の娘たちは熱いパンと冷えたカカオ茶を肴に、とりとめのないお喋りをいつ果てるともなく続けるのだった。

(おわり)
 


  7月30日△ 


[メロウ修行場(10)]

(前回)

「じゃあ、お嬢。ユイの通訳についてってやんな。もちろん、あんたも大会に出場すんだ。ミザリアの連中に一泡吹かせといで」
「ひぇ?」
 メイザは耳を疑い、思わず妙な声を発した。まだ予想の範囲内、本気だとは受け取っていない余裕を示し、彼女は応える。
「弟子が二人も欠けちゃっても、よろしいんですか? お師匠」

 他方、ユイランは標的が移動して一安心だが、落ち着いてばかりはいられぬ。遠征の参加を免除されたのではないからだ。
(どうせ行くなら、道連れは多いに越したことはないけど――)
 この闘いの行く末を見越し、あらゆる事態に備えるべく、ユイランは独自の考えを導き出した。備えあれば憂いなし、である。
「もし、どーしても師匠が許してくれないなら……逃れられないなら、一緒に行きましょうよ、お嬢さん。話し相手になるっすよ」
「え?」

 可哀想なメイザは事態の推移に違和感を覚え、ついで激しく動揺し、顔から血の気が引いて見る見るうちに青ざめた。ユイランとセリュイーナ、二人の顔を交互に見つめながら瞳を不安げに動かし、両手を組んで力を入れ、震える声で問いかける。
「ユイちゃん、貴女、まさか本気? お師匠様は? ええっ?」
「本気も本気、大本気よ」
 セリュイーナは面白そうに筋肉質の肩を左右に揺らし、胸を張って飄々と応えた。そして今度は唇をとがらせ、逆に訊ねる。
「貴重な修行になると思ってるから、こっちは誘ってるのに。そんな機会が来たら、お嬢だったら喜んで行くと思ってたんだが」
「はい、あの……でも、いえ……その」
 滅多にしない真剣な顔で、メイザはしどろもどろに言った。傍らのキナは一人、全く動じぬ無表情のまま、あぐらをかいて座っている。時折、話し手の方へ僅かに首を動かしたり、鋭い瞳を瞬きしているので、人形ではなく人間なのだと分かる程度だ。

「へー、あんた、よほどこの修行場が気に入ってるんだ」
 セリュイーナは顔をほころばせたが、少しずつ興ざめの表情になり、最後には気の毒そうな視線で普段は穏和な弟子を見つめた。それでもなお、からかい甲斐があるメイザの態度に好奇心をくすぐられたかのように、考えた末、最後の一撃を発した。
「じゃあ、お嬢。ユイの代わりに行ってきな。言葉も通じるし」
「お師匠様! どうか考え直してください」
 メイザは珍しく甲高い声をあげ、師匠を見上げて哀願する。
「そんな辺境の国まで、危険な長旅は、ほんとに困りますっ」
 彼女は勢いに任せてミザリア国を〈辺境〉と呼んだが、世間一般的に辺境と思われているのは、むしろこの国の方だろう。

 ユイランは飛び上がって喜び、あからさまに元気を取り戻す。
「そうっすね、それはいい! 危険だからこその修行ですよね」
「ユイちゃ〜ん」
 彼女に出来る精一杯の恨みがましい目で、メイザは後輩のユイランを見つめた。だが本気で仲間には怒れない、お人好しの〈お嬢さん〉である。がっくりと肩を落とし、哀しげに頭を下げる。

 パン、パン、パン――。
 その時、食堂には乾いた現実感のある音が鳴り響いた。
 セリュイーナが両手を叩いたのである。

 二十七歳の師匠は満足げに口元を緩めて種明かしをする。
「ハハッ、あんたたち、ほんと面白いねぇ。そんなんじゃ卑怯な作戦を思いつく闘技場の敵に勝てないわね。冗談よ、冗談!」
「もぉ〜お。お師匠も人が悪いんだからぁ〜」
 メイザは胸をなで下ろし、その場にへたりこむ。ユイランはさっきまでの焦りをきれいサッパリ忘れ、師匠に調子を合わせた。
「そんなことだろうと思いましたよー。へっへ」

「ん? そろそろ時間か。午後の特訓を始めるかい」
 その一方で、師匠が立ち上がろうとして右手をつくと――。
「師匠。船の準備は? どの船を用意すれば?」
 突然、口を開いたのはキナだった。先ほどユイランの出航のため船を出すように頼んだことを、セリュイーナはようやく思い出す。どうやら〈疾風のキナ〉には、シャレが通じなかったらしい。
「ああ、キナ、悪かったね。船は取りやめだ」
 セリュイーナは困惑気味に告げる。キナはしばらく石のように黙ったまま静止していたが、おもむろに腕を交叉して構える。
「おす」
 すると鋭利な緊張を孕んでいた空気が再び動き始める。

「よぉし、お前ら、みんな集めてこい。行くぞ」
 師匠が立ち上がるのに遅れず、メイザも起立する。
「はいっ」
 彼女は済んだことをいつまでもクヨクヨ考えない性格である。

「ユイランは?」
「お、おーすぅ」
 食後の倦怠感を残していたユイランが急に指名されて中途半端に応えると、師匠はすかさずドスの効いた声色で注意する。
「何だい、その返事は。もう一度!」
「オスっ!」
 ユイランは緊張感をみなぎらせ、威勢良く呼応した。

 こうして昼休みは終焉を迎え、午後の長く厳しい修行が始まる。入り込んでくる風は驚くほど涼しい、春のメロウ島である。

(おわり)
 


  7月29日− 


[夜半過ぎ(18)]

(前回)

 その時、木が寒さに震えるのとは少し違う響きで、どこか遠くの床がミシッと鳴った。しっかりした造りの〈すずらん亭〉では静寂に紛れてほんのかすかに聞こえる程度だ。シチューに夢中のファルナは気付かなかったが、母は小声で背中の夫に訊く。
「シルキア、起きたのかしら?」
「そうかも知れないね……」
 少し遅れて、相手のいらえがあった。しんしんと冴え渡る星の瞬きのように、父の声は静かな威厳と慈しみとに充ちていた。
 看板娘のファルナは一瞬だけ不思議そうに顔を上げ、スプーンを持ったまま瞳を見開き、小首をかしげた。しばらく同じ姿勢で静止していたが、匂いにつられてシチューへの興味を取り戻し、再び取りかかる。両親は頬を緩め、白い吐息を軽く洩らす。

 まもなくカッ、カッという硬い音が厨房の壁に響き始めた。早くもシチューの池は底を現したのである。量が減ると、玲瓏な空気は四方八方から襲いかかり、表面の温かさを剥いでしまう。
 急がないと冷めそうなのにファルナの動作は反比例して鈍っていた。スプーンの動きが落ち着き、口も緩慢になる。何よりもまぶたが、満腹と眠気と満足感でとろんと垂れ下がっている。

「おかわりは?」
 父が訊ねる。強制するわけでも、逆に相手を急かすのでもなく、ごく自然な言い方で。母もゆっくりと娘の方に眼差しを注ぐ。
 ファルナはスプーンを置き、唇を軽く舌なめずりしてから、両親に向かって座ったまま礼をした。少し寝癖のついた茶色の髪がこぼれ、父が持ち替えたランプの光を受けて鈍い光を宿した。
「ごちそうさまでした」
 その口調は安らぎにあふれた眠りの世界を彷徨うがごとく、いつもに増して穏和であった。温かなシチューは両親の愛――ファルナにとっては、まさに〈夢の続き〉と感じられたのだった。

 彼女は続ける。
「本当はもっと欲しいけど……朝まで我慢しますよん。ほっぺがとろけそうで、ファルナはまだまだ食べられる気がするけど、これ以上食べると寝る前に胃がもたれるのだっ。たぶん、きっと」
「それもそうね。ふふっ」
 母親のスザーヌは、夜更けにふさわしく秘やかに微笑んだ。

「他にも理由がありますよん……」
 最後の方のシチューの冷たさが、少しずつ現実を呼び覚ましてゆくのだろう。ファルナは食欲と温かさに充たされた優しい顔で、半分瞳を閉じ、明瞭な話し方で今の願いを語るのだった。
「早くシルキアに元気になって欲しいから、大好きなシチューをひと皿で我慢して、お空のユニラーダ様にお祈りするのだっ」
 辺境のサミス村では、ラニモス教は深くは浸透しておらず、土着の信仰と混じり合っている。それでもラニモス教の女神、聖守護神ユニラーダが恢復を司るのは、都会と何ら変わらない。

 微細に流れ落ちる銀色の月の粉は、根雪の上に奇跡の模様を映し出していることだろう。だが、それを見る者はごくわずかに過ぎない。真夜中に活動するキツネや鹿や山ウサギ――自らも白い帽子をかぶった背の高い針葉樹の木々たちくらいだ。


  7月28日△ 


[マツケ町]

 メラロール連合王国に属するトズピアン公国の都がマツケ町である。大海峡に面した北辺の港町で、マツケ河の河口にあるという地の利、もともとの天然の良港を利用して、漁業を中心に発展してきた。公国の都といっても政治的な判断で設置された中規模の田舎町で、せいぜいが地域の旗振り役程度である。
 マツケ平野の東側に位置し、町を抜ければ人の手の入っていない広大な原野で、遙か向こうには針葉樹林地帯が広がる。

 トズピアン公国は、先に述べたようにメラロール王国の政治的な思惑と野心で誕生した弱小国家である。トズピアンとは、もともと〈未開の地〉を意味する言葉だ。過酷な自然を切り開き、大柄で頑丈な獣人族が太古より自給自足の生業を営んできた。
 そこへ南から流入してきた黒髪族は、マツケ町を北辺と定め、しばしば獣人族と揉め事を起こしつつも、いつしかお互いの勢力範囲を決めて交易関係を保つなど、割合と良好な関係が保たれていた。マツケ町は黒髪族の支配するガルア帝国に属し、最も北に位置する国境の町として常設軍も駐留し、あまり深い交流を望まぬ獣人族の唯一の表玄関としての地位を築いた。

 転機が訪れたのはガルア帝国の崩壊の時である。跡継ぎをめぐる内戦に乗じてまんまと国を錯乱され、傀儡政権を経てメラロール王国に乗っ取られる形となってしまった。マツケ町もやむを得ず軍門に下る道を選ぶ。メラロール王国のノーン族と、マツケ町の黒髪族とは言語体系も文化も大きく異なるが、メラロール側が上手く妥協して地域の人間を取り入れ、税金も安くして善政を敷いたため、平和と安定を望む人々はしだいに馴れた。
 その後、針葉樹林地帯の良好な木々に目をつけたメラロール王国は〈トズピアン公国〉を設置し、王族の公爵を派遣した。マツケ町以北の領有を宣言しているが、実際の施政は全く及んでいない。トズピアン公国はマツケ町を中心とした狭い範囲にしか影響力が無く、街道と集落を結ぶ点と線の支配にすぎぬ。
 干渉を嫌い、縄張り意識の強い獣人族には緊張が走った。一方、メラロール側はマツケ町の砦としての機能を高めようとしたが、荒れ果てた土地のため多くの兵を養えなかった。トズピアン公国はマツケ町以外にこれといって大きな集落もなく、メラロール連合王国を構成する四公国の中では明らかに弱い。現国王クライク・メラロール氏の従兄弟にあたるリーブル公爵も自らの境遇を嘆いているようだ。前代の国王は獣人族と和解すべく、大地の神者の印を獣人の代表者に贈った。これにより獣人族にもラニモス教が伝播したが、緊張関係の解消には至らぬ。
 獣人族の反発と、お膝元の黒髪族の反乱の可能性に備えて、マツケ町から船便を出しているメロウ島の所有者・豪族のメロウ氏と結託し、リーブル公爵は立場を強化しようとしている。
 


  7月27日− 


[弔いの契り(19)]

(前回)

 俺より三つくらい下だと思える、今回の参加者の中では一番若く見えるガキだ。たぶん十四歳くらいだろう――ひどく臆病そうで、ダンスホールの入口でリンとシェリアを待っていた時、あからさまに目を逸らされたから良く覚えている。まるでこの村の象徴のような色褪せた金髪、そして日焼けした顔には農作業の疲れが漂っていた。明日だって早いんじゃないだろうかと思うと、少し気の毒になる。名目上は〈俺たちの歓迎会〉だからな。
 精一杯の正装なんだろうが、父親からのお下がりだと思える古びた皺だらけの服を着ている。別にタキシードって訳でもない普通の白いシャツと黒いズボン、そして手製と思われる蝶ネクタイを襟元につけている。物は悪くないのに、見すぼらしく思えるのが不思議だ。まぁ――それはこの村全体に言えることだけどな。数年前から寂れ出したことと繋がりの糸を感じてしまう。

「おい、おめえ」
 俺が声をかけると、やつはハッと身を固くしてうつむいた。肩でも叩いて言葉をかけようとした俺を、タックが手で制する。俺が先導すれば相手が警戒し、事態がこじれると考えたんだな。
「済みませんが、御手洗いの場所をご存じですか?」
 いつもの八方美人的な笑みを浮かべ、得意の好青年を装い、タックはご丁寧にほざく。聞いた相手は息を飲み、しばらく下を向いたままだったが――おもむろに視線の隅を動かし、やがて少しずつ顔をもたげ、年の頃でいれば三つほどしか違わねえはずのタックを怖々と覗き込んだ。繊細な睫毛は不安におののいて微かに震え、蒼に澄んだ瞳は深い諦めをあらわにしている。
「大丈夫ですよ、僕らは何もしませんから」
 タックは小さな声で、相手の誤解をほどくように穏やかな口調で語った。寂れたダンスホールには、例の三人組が奏でる僅かな楽の調べと、あまり揃わない足音、それから残った村人たちが交わす低いささやきだけが忘れられたように居座っている。
「こちらのお屋敷に不慣れでして。教えて頂けませんか?」
 やつの心がほんのちょっとだけ緩んだのを察知したのだろう。タックはすかさず攻勢をかける。俺も何か言おうとしたが、唇を動かしたとたんにタックが睨みつけたので、やむなく口をつぐんだ。普段なら文句の一つも言い返す俺だが、グッと堪え、眉をひそめるだけで我慢しとく。あのガキは貴重な情報源なんだ。

 そいつはのろのろと人指し指を上げ、方向を示し、つぶやく。
「あっち……です」
「あの、ご一緒に来て頂くわけには行きませ……?」

 説得に当たっていたタックの様子が変わった。頬に、一気に緊張が走る。ポーカーフェイスの上手いタックが思いを垣間見せるなんて滅多にないことだ。俺は反射的に、剣術で鍛えた視線を走らせる。嫌な予感が膨らんできて、一瞬すら、もどかしい。

 あいつめ、何を――。
 俺の耳はキーンと鳴り、燃え盛るように熱くなった。
 見間違えじゃねえ。あんな分かりやすい場所にいるんだ。

 男爵が、ついに腰を上げた。

 音もなく、床を滑るがごとく、華麗に歩み始める。
 その行き着く先の延長線上には――。
 ルーグ、シェリア、そして十五歳の聖術師、リンがいる。

 再び耳が聞こえてきた。曲は間もなく終わろうとしている。


  7月26日− 


[きらめきの夏]

 喉が低く鳴り、匂いのない透明な水があごを伝い、こぼれる。口が潤い、新たな活力が湧いてくる――さすが〈湧き水〉だ。
「おいしーい!」
 手の甲で唇を拭き、うっすらと日焼けした八歳のジーナは頭をもたげた。表情は明るく、いたずらっぽい微笑みが印象的だ。
 三つ編みにした金の髪が、母から借りてきた大きめの白い帽子から左右に飛び出していた。こずえを縫って届いた光の道筋が、鬱蒼と茂る森の中で彼女の存在を強く浮かび上がらせる。
 雨上がりの森は道がややぬかるみ、気を付けないと滑ってしまう。空気には目に見えない霧のような湿り気と――まれに蚊が混じっている。名も知らぬ小鳥が枝を避け、森の風に乗って器用に駆け抜けてゆく。雨をいっぱいに吸ったあと、陽の光を食べる木々の葉はいよいよ青く、たとえ同じ種類でも全く同じ色は存在しない。それらが重層的に絡み合う様を見ると、魂が解き放たれるような原初の歓びが胸にあふれ出してくるのだった。

「ねえ、リュアも早く!」
 湧き水のほとりにしゃがみ込んでいたジーナは立ち上がり、振り向いて大声をあげた。落葉樹の幹をすべるように下りてきた縞模様のリスは、驚いて戻ってゆく。少女は喉を潤し、歩みを止めたことで、額や脇の下にうっすらと汗をかいていた。涼しくて羽織っていた薄手の長袖の上着を再び脱ぎ、汚れてもいい安物の半袖長ズボンの姿になった。襟元を動かして風を送る。
 向こうの坂から、ようやく友達のリュアが姿を現した。麗しい銀の髪を肩の辺りで切り揃えた、優しい顔つきの九歳の少女である。二人は学舎の同級生、そして大の親友だ。リュアの方はやや色白で、背がジーナよりも高いぶん、身体は華奢に見えた。
「はぁ、ジーナちゃん、早すぎだよ……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「さっきね、ジーナちゃんの三つ編みが、キラキラ光ってたよ」
 短く切った丸太を置いただけの簡素な椅子に腰掛けて、リュアは言った。湿り気が多いせいか、隅の方には白くて不気味なキノコが生えているが、少女たちが座っている真ん中の辺りはきちんと刈られている。森の民――狩人が利用するのだろう。
「あたし、この髪の毛、大好き。お日様みたいで」
 ジーナは顎を突き出し、足をブラブラさせ、誇らしげに言った。
「リュアも、リュアの髪の毛、好きだなぁ……」
 夢見がちの声で呟いたのはリュアである。お似合いの麦わら帽子から、肩の近くで切り揃えた銀のおぐしが見え隠れしている。普段はスカートを好むが、ゆうべの雨をかんがみ、今日は長ズボンを履いている。彼女がほっそりした手で麦わら帽子を脱げば、汗で蒸れた頭は涼しくなった。やがて軽く前髪をなでる。

「リュアの髪は、お月様のまたたきを思い出すよね」
 隣に座る親友を見つめ、ジーナは感想を述べた。それを聞いたリュアはにわかに表情を輝かせ、嬉しさに頬を紅潮させた。
「ありがとう!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 森の空には、刻々と形を変える木漏れ日の星座が瞬く。
 湧き水は命の輝きを灯し、草には雨の名残の水滴が光る。
 何もかもが本来の美しさを露わにする、きらめきの夏だ。

「海の中には真珠っていう星もあるよね」
 と、ジーナ。
「町の灯りも、丘の斜面から見下ろすと星みたい……」
 と、リュア。

 二人は、何よりも心の中にきらめきを持っているようである。
 


  7月25日○ 


[雲のかなた、波のはるか(2)]

(前回)

 打ちつけたお尻を撫でながら階段を下り、居間を通り抜け、庭先に出て仰ぎ見ても、やはり濃い灰色の雲が低くたれ込めている。雨が降りそうで降らない、ひどく中途半端な空模様だった。
「お洗濯が乾きませんの」
 夕方の激しいスコールを除けば、亜熱帯のミザリア国の夏はからっと晴れた暑い日が続く。ところが昨日の夕方からは妙にぐずつていた。それだけでなく、サンゴーンは不思議な気配――生命の躍動を察した。知らず知らずのうちに鼓動は速まる。
 雨が降るのを心配し、軒下に置いた洗濯物はまだ湿っていた。握力の弱いサンゴーンでは絞り方が足りないのはいつものことだが、一晩経っても半乾きなのは珍しかった。汲んだ井戸水を入れ、洗濯をした木の桶が竿の脇にひっくり返してある。

 縁側に腰掛け、サンゴーンは青い眼をつぶる。視力を休める代わりに聴覚や嗅覚を研ぎ澄まし、本質を見極めようとする。
(海が、近くに感じますわ)
 もともと海沿いのイラッサ町だが、潮の香りは普段より明らかに強く、風は湿り気を帯びている。それでもなおまとまった雨は降らず、忘れた頃に一粒、二粒、こぼれ落ちてくるだけだった。

 サンゴーンはゆっくりと瞳を見開き、再び曇天に目を凝らす。
(いつもと違いますわ)
 彼女は微妙な変化に気づいていた。すなわち雲がどんどん低くなってきている、ということだ。庭の垣根の向こう、家々の彼方に背を伸ばす神殿の尖塔も見え隠れしているほどだ。町で唯一の高い塔、その頂が天からの灰色に霞むとは、尋常でない。
 雲が幕のようになり、何かを隠しているようにも感じられた。地上にいてさえ、流れや細かな紋様まで見分けることが出来る。

「気になりますわ」
 悪いことの起きる前触れなのか、神秘的な予兆なのか。
 真相の分からぬまま、サンゴーンは玄関に立ち、横の棚に置いてあるポーチを手にし、華奢な肩にかけた。それから、忘れずに黒いこうもり傘――世話になった祖母の遺品であり、雨避けの魔法の力を秘めている――を持ち、サンゴーンはドアを開いて外に出た。治安が良く、みなのんびりとしており、鍵はない。


  7月24日△ 


[お姫さま談義(11)]

(前回)

「リィナ公女ねぇ……」
 ルヴィルは彼女なりに気を配り、レイナを傷つけぬよう言葉を濁したが、それでも声の失望感は明白だった。そういえばそんな人もいたな、とでも言いたげな顔で金の前髪を掻き上げる。
 ほぼ並んで歩きながら、じっと眼鏡の奥から見上げているレイナの視線を感じていたルヴィルは、リィナ公女に関する僅かな噂を頭の中で再編成し、何とか人格を作り上げようと考え込んだ。残念ながら、それでもあまりつかみ所のない人物である。
「真面目そうで、淑やかそうで、お姫さんっぽい人みたいね」
 ルヴィルは当たり障りのないことを応え、軽く吐息を洩らす。
 彼女の細かな変化に気づいたウピはすかさず話を受け取る。
「公爵になったら苦労しそうだよねー」

 先代のリース公爵の急逝後、二十一歳のリィナ公女は喪に服する形を取ったまま、爵位を継ごうとしていない。継ぐと言っても、結局は宗主国であるマホジール帝国の皇帝から与えられるわけだが、双方ともに目立った動きがないまま一年近くが過ぎようとしていた。政治を執り行う能力については評判が芳しくない。重臣の言いなりだったり、動転してオロオロしたり――という類の噂だ。土地が豊かで、重要な航路上にあるリース公国は南ルデリア共和国とメラロール王国に熱い視線を注がれており、過激な論客は先代公爵の急死との関連性を指摘する。

 主に中流階級の人々で華やぎ、気取らず庶民的で、しかもそれなりに秩序の保たれている〈雲龍坂〉も中盤に差しかかった。真っ直ぐ登る石造りの階段と、反時計回りで右へ大きくカーブを描きながら高度を稼ぐ回り道に分かれ、女性三人組は迷わず右を選ぶ。こちらの方が道の両脇に店があって楽しいからだ。
 ミザリア市立図書館に始まり、芸術関係の建物が集まる〈夢見通り〉を抜け、荷馬車の行き交う〈港大通り〉を経て〈雲龍坂〉へ――さすがに結構な距離を歩いたため、足の疲れを感じる。

「そろそろ食事にしない? おなかへったなー」
 良く引き締まった腹部を押さえ、ルヴィルがあっけらかんと言った。食前の運動はもう充分だ。最近では町の若者にも人気の〈雲龍坂〉であるから、貝やワカメといった海の幸を生かしたパスタ屋や、火を通した刺身を焼きたての硬いパンの上に載せてくるんだミザリア名物のパン屋、カカオ豆の飲み物を出す南国らしい開放的な作りの茶屋など、しゃれた食事処が並んでいる。

「できれば安いところがいいな。食べ物は文句言わないから」
 ウピは少し恥ずかしそうに、小声で注文を付けた。するとルヴィルは急速に元気を取り戻して、親友の行動に探りを入れる。
「さては服でも買ったね」
「うーん、だいたい当たり。欲しい靴がね……」
 困惑、はにかみ――それでいて自分で自分に呆れるような、諦めるような。感情が複雑に錯綜した表情を浮かべ、うつむき加減にウピが返事をすれば、心配そうに訊ねるのはレイナだ。
「多少ならば余裕がありますけど。貸しましょうか?」
「いいよいいよ、まだ大丈夫だから。ちょっとならあるから」
 慌てて両手を振るウピに、ルヴィルは重い一撃を食らわす。
「そう言う時、ウピって、ホントに〈ちょっと〉しか無いさね!」

 図星だったのだろう。ウピは思わず立ち止まり、頭をかいた。
「……バレちゃった?」
「バレるも何も、そういう雰囲気を発散してるもんね。どーせ、同じお金遣うなら、安くていいもん買わなきゃ。ウピ、ゆくゆくはお店出したいんでしょ? 値段と、本質を見極める眼を養いなよ」
 買い物上手のルヴィルは腰に手を当て、豊かな胸を張り、笑顔で説教した。隣のレイナも、おかしくて華奢な肩を震わせる。

 ウピが話題の中心になると、不思議なことに三人はぴたりと息が合ってくる。頬を染め、友達思いの小柄なウピは言った。
「うう。さすがに今回は反省してるよー」
「ま、いっか。とりあえずさ、もうちょい上に登ってみる?」
 ルヴィルの提案に、ウピもレイナもすぐ賛意を示すのだった。


  7月23日− 


[メロウ修行場(9)]

(前回)

 舌戦であれ、好機をつかんで果敢に攻め込むのは実際の格闘と何ら変わりがない。黒髪を軽く束ねたユイランは、二の句の継げるスキを相手に与えず、自分の論理を打ち立てていった。
「例えば場外の決まりですけど。場外は関係ないのか、鐘を何回か叩くまでは平気なのか、はたまた場外に出た瞬間に負けなのか? 力ずくで猛烈に攻めて、ふっと避けられて場外に出た時、それが負けっていうルールなら、たまんないっすよォ!」
「そりゃあ、見ていれば、何となく分かるでしょ……」
 押され気味のセリュイーナは、やや自信なさそうに喋った。
 勢いに乗るユイランは内心、ほくそ笑みつつ攻勢をかける。
「無理っす! あの国とは言語体系がかなり違うんですよ。師匠も、大師匠から聞いてご存じですよね? ねっ? ねー?」
 ここぞとばかりユイランは身を乗り出し、わざとらしく言った。

 ララシャ王女の武術好きも知らないほど、他国の情勢にはとことん関心の薄いセリュイーナである。思わぬ弱点を攻められた師匠は不愉快そうな顔で腕組みし、さも悔しげに舌打ちする。
「チッ……なんか、むかつくね」

(この線はそろそろ危険かな)
 形成逆転した弟子のユイランは、相手の変化を鋭く察知し――気分を害して修行の時間にしごかれることを懸念した。師匠の反論がまとまらないうち、したたかに話題を逸らしてしまう。
「通訳でもいれば別ですけどね」
「……そうだ。お嬢!」
 セリュイーナはポンと手を叩き、今までのやり取りを脇でうなずきながら見守っていたメイザに声をかけた。呼ばれた本人は驚いてびくっと震え、突然の師匠の名指しに背筋を伸ばした。
「お嬢、あんた語学は堪能だったね。昔、外国で暮らしたはず」

 ルデリア世界の〈人間〉を分類するなら、四民族が基本だ。その中で、大陸西部のウエスタル族・北方系のノーン族・南方系のザーン族の三言語は割合と似通っている。せいぜい方言程度の差で、そのうえウエスタル語に近似した〈標準語〉も存在し、大きな障壁なく意志疎通を図ることが出来る。ただし南方のザーン語と北方のノーン語の直接対話は、やや厳しくなるが。
 さて、それら三つの言語体系とかなり異なっているのが東方系の〈黒髪族〉である。名の通り髪が黒く、肌も黄色みを帯び、文化も違う。彼らは魔法の力が弱いぶん、体の造りは頑丈だ。

 家の商売の都合でメイザが一時的に暮らしたデリシ町は、シャムル公国の主要港であり、ミザリア国と同じザーン族が多数居住している。彼女はザーン語の西シャムル方言、およびガルア語(黒髪族の言語)のマツケ方言の二ヶ国語を使いこなす。尚武の民である黒髪族で、外国の言葉が話せる者は珍しい。
「え、ええ、まあ……堪能ではないですけど、あの……」
 嫌な予感がして顔を引きつらせ、メイザは及び腰で応えた。


  7月22日− 


[夜半過ぎ(17)]

(前回)

 燃えはぜる暖炉の炎が滑らかに激しく姿を変えるたび、何もかも全ての影が奇妙にゆらめく宿屋の厨房には、ファルナがスプーンでシチューを掬い、傾けた時にちょっとルーを器にこぼし、唇を近づけて啜る音が淡々と響いていた。ランプの光が届く範囲を離れれば、彼女たち自身の声や存在すら失われてしまいそうに思える、それは限りなく深い冬の真ん中の闇夜だった。
「ほんとに、おいしい、のだっ」
 すっかり美味しさに魅せられたファルナは、スプーンを持ち上げたまま語った。食欲と温かさを求める本能を露わにし、彼女は具のたっぷり乗ったシチューを口に注ぎ、涙目で頬張った。

 半分溶けた柔らかい芋を口の中で転がす。芋にはまだ芯の温かさが残っているし、少し苦みのある冬野菜は山の料理らしく全体の味を引き締める。羊の肉には良く火が通っていて臭みはなく、川の小魚を乾かしたものも入っている。色々な栄養が含まれ、病気のシルキアが食べれば元気が出そうな代物だ。
 それは出来立ての温かみの名残を抱いていた。確かに見た目の湯気ほど熱くはないが、奥の方はまだまだ食べ頃である。高らかな匂いを辺りに振りまき、表面は急速に冷めていった。
「外部の寒さと、内面の温かさ……この相反する条件が冬の料理をさらに美味しくさせるのだろう。魔法の〈紫の草〉ほどにね」
 父はランプを持ったまま、ゆったりした口調で思いを伝えた。

 サミスの村から、この村の衆しか知らぬ秘密の森の小径を抜けて、かなり歩いた所にかつての採石所跡がある。丸太の橋を渡ると見渡す限りの野原の斜面で、短い夏の盛りになれば夢色の花のじゅうたんが広がる。そこでしか採れない貴重な植物が〈紫の草〉で、食べ物を美味しくする効果があり、辺境のサミスの村が避暑地として繁盛するのに一役も二役も買っている。

「紫の草……」
 父の言葉を耳にしたファルナは、思わずスプーンを動かす手を休めた。彼女の脳裏を懐かしい想い出がよぎったからである。
 幾つの頃だか正確には分からないが、紫の草のエキスを混ぜた魔法料理を初めて食べた時の感動が遙かによみがえる。
 料理も、人も、その夜も。二度と戻らぬ一期一会であろう。

 ファルナは茶色の瞳を瞬きし、無意識に手元を凝視する。
 今、目の前で食欲をそそるのは、魔法の品でも何でもない。
 贅沢でもなく高価でもなく、材料も調理法も一般的――。
 とても寒い夜に両親が心を込めて作った普通のシチューだ。

(でも、なんて素朴で……なんて温かい、深い味なのだっ)

 いつの間にか震えが止まっていることに十七歳の宿屋の看板娘はまだ気付いていないけれど、廊下で彼女を手招きしたシチューの香りが体の中に染み込んでくる感覚は分かっていた。

「白く雪化粧した森に見えるわ。そのシチューは」
 母のスザーヌがぽつりと喋った。その内側でたくさんの具が息づいているシチューは、白い森と呼ぶのにふさわしかった。


  7月21日− 


[虹あそび(10)]

(前回)

 天に架けられた大きな虹の橋は、ついに一番の盛りを過ぎていました。はっきり灯っていたはずの七色の輪郭が少しぼやけて、絵の具を薄めるかのように明るい青空へ溶けてゆきます。
 雨をもたらしていた黒い雲はものすごい速さで風に散らされ、切れ切れになって飛ばされました。草原の緑はいよいよ鮮やかさを増して内に秘めた生命の息吹を誇らしく燃やし、木の葉に座っていた水滴の真珠は強い光に射られて、再び母なる空への旅路につきました。霧のようにうっすらと地上から草いきれが沸き立ち、独特の匂いで鼻を刺激すると、少女たちの心臓は鼓動を速めました。自然と一緒になれた、大いなる歓びとともに。

「何とか間に合って、本当に良かったわ」
 目に入って滲みる汗を真っ黒に汚れた手で拭うわけにもいかず、レイベルは首を曲げて服の袖にこすりつけました。うなじや背中、太ももから膝の辺りまでも汗の河が伝いますが、逆に喉は渇いています。完成した三十個ほどの〈闇だんご〉は、海の波を思わせてそよ吹く風のまにまに浮き沈みしつつ漂います。

 ナンナは右手の中に第一球を握りしめ、腕を高く掲げました。
「さー、レイっち、いくよぉ〜。ナンナの見ててね☆」
 半分振り向き、小さな魔女のナンナは素直で背伸びのしない十二歳の微笑みを友達に贈ります。この国では珍しい金色の髪がまばゆい輝きのしずくとなり、肩にこぼれ落ちていました。
「うん、しっかり見てるわ。ピロは私の肩においで」
 レイベルがうなずいて自分の肩を指さすと、賢いピロは軽やかに白い翼を羽ばたかせて、指示通りの場所に舞い降りました。
「来てくれたのね!」
「ぴろりろ……」
 感動するレイベルをよそに、ピロは至って平然とお喋りです。

 ナンナは思いきりのけぞって、華奢な腕を振りかぶります。森の方では、雨上がりの華やかな鳥の合唱曲が始まりました。
「よーし」
 そして勢いをつけ、ナンナは前に押し出すように、出来る限りの勢いをつけて狙いを定め、最初の〈闇だんご〉を投げました。
 ナンナの指先を離れ、魔法の黒い球はいま旅立ったのです。
「行けぇー!」
「頑張って!」
 二人はそれぞれのやり方で応援します。ナンナは身を乗り出して口に手を当て、レイベルは指を組み合わせて祈るように。

 たいして筋力のない少女が投げるのですから、飛距離はたかが知れています。きれいな弧を描いて出発した〈闇だんご〉はあっという間に速度をゆるめて、草原の中に落ちそうになります。
「ああー」
 レイベルは残念そうに溜め息を洩らしたのですが――。
 その顔が、みるみるうちに最高の驚きに彩られてゆきます。
「ええっ?」


  7月20日△ 


[弔いの契り(18)]

(前回)

 俺はタックと並んで、胸を張り、大股でダンス会場の脇を歩いた。本来は華やかなはずのダンス会場なのに、相変わらず雰囲気は暗くて野暮ったい。まあ、俺らの実家があるミグリ町だって自然が多いだけで大したこたぁねえが、文化の都メラロールも近いし――少なくとも、この妙な村よりは百万倍もマシだぜ。
 タキシードが板についている幼なじみのタックの野郎は俺の方をちらりと見上げ、そっと目で合図してから、いつも通りの様子を装いつつ憎まれ口を叩く。他意がないことを示すためだ。
「ケレンスも踊れば良かったのに。ぜひ見たかったですよ!」
「何だと、このやろ」
 これから何が起こるんだろう。湧き起こる危険な期待と軽い武者震いとを抑えられないまま相手の頭をこづくが――空振りしてしまった。冒険者の中では盗賊という役職につき、剣術士の俺と同じくらい素早いタックは、頭を引いて俺の攻撃を避けた。

 それにしても、タックもルーグも、なんで正装が似合うんだか不思議だぜ。衣装部屋で鏡を覗いてみた時、俺だけが一人、高級でいかがわしい宿屋の客引きのように見えた。商人の次男のぼっちゃんで育ちのいいルーグはともかく、本来は大して教養のないはずのタックが学舎風を気取るのは頭に来るぜ。
「そもそも、なんで踊れるんだよ。見よう見まねだろ?」
 と俺が指摘すると、やつは大仰に両手を広げ、首をすくめた。
「失敬な。僕はケレンスとは違って、文化人ですからね」
 そう言って、タックはレンズのない丸い眼鏡に手を伸ばし、上下に動かした。呆れる冗談に、俺はしかめっ面で吹き出した。
「フハッ。何が文化人だ、バカバカしくて物も言えねえぜ」
 俺らは適当にちょっかいを出し合いながら、どこかから妙な視線が来ていないか抜かりなく神経を研ぎ澄ませつつ、ホールの入口付近に移動した。実際にはあっという間のことだけどな。
 こういう情報収集の場合、昔からの相棒のタックと組むのは、すげえ楽だ。交渉事はあいつに任せればいいし、相手を脅すのは俺の出番だ。押して引いて、の駆け引きを分担するわけだ。

 ところで入口付近には村人用の窮屈で粗末な席がある。リンたちが踊り終わった後、一時的に沸き立って相当数がホールに飛び出し、次の曲に参加したので、今ここはガラガラになっている。そしてそこには――俺が目星をつけておいたガキがいた。


  7月19日− 


[噂の的]

 さて、この話はサンゴーンが曇りの朝にクシャミをした日から三ヶ月ほど遡る――それはうららかな春の昼下がりであった。

「くしゅん!」
 口を押さえて前のめりになったのは、ミザリア国第一王女のララシャ嬢である。可愛らしいクシャミは、普段のわがままで傲慢な態度との落差を感じさせ、肩肘を張らない本来の素直な十五歳の少女の一面が現れていた。彼女は再び大股で歩き出す。
 ザーン族(南方民族)の特徴を示し、太陽の金糸で織ったかのような恵まれた麗しい髪は、今日は後ろできちんと結い上げている。うっすら青く染められた高級な絹のドレスを羽織り、額には王族にふさわしい紫水晶のティアラをつけている。少し踵の高い洒落た靴を履き、腕輪やら首飾りをした彼女は春の野山を思い出させた。花の香水をわずかに使っていたからである。

 めかし込んだララシャ王女は、しかしながら浮かぬ顔であった――それどころか不機嫌そのもので、触れると爆発しそうな重い炎を秘めていた。手入れの行き届いた頬の筋肉は硬く、青い眼はやや吊り上がり、眉を寄せ、薄紅色の唇をきつく噛んで屈辱に耐えているように見えた。せっかく新調した靴なのに、踵が折れそうなほどの勢いで、ドシンドシンと大股に闊歩している。
 謁見の間では、遙か海向こうのエルヴィール町からやって来たラット連合国の貴族とお茶会をすることになっている。その間の、城内の石造りの回廊での出来事だった。武道を極めたい彼女にとり、このような女々しい格好をした茶番は耐え難い最低最悪の出来事である。最初の挨拶だけ居てくれればよいとか、好物のお菓子が出るとか、参加して頂けないと兄のレゼル王子に嫌われますよとか、何とかなだめすかしたお側付きの侍女たちの血の滲むような説得工作は推して知るべしであろう。

 ララシャ王女の嵐の前に、屋根付きの廊下で城仕えの者たちは道を空けて頭を下げる。わざわざ膝をついたり、平伏したりしないのは、さっぱりとして質素なミザリア王室の良き伝統である。今日のララシャの服装にしたところで、もっとゴテゴテと飾り立てる文化を持つ国に比べれば、シンプルで洗練されている。

「ふぇっくん!」
 突如、ララシャ王女は急停止して、またクシャミをする。後ろから早足で追い、苦しそうに肩で息をしている三人の侍女が何とか王女に追いつき、その中の一人がすぐさま布を差し出した。
「ララシャ様、お風邪を召されたのでは……」
 何か余計なことを言うと癇癪持ちのララシャの稲妻が落ちるかも知れない――という懸念は捨てることが出来なかったが、侍女は主人の身体のことを気遣って声をかけずにはいられない。

 最近、なんだか鼻がむず痒い王女は布を受け取ると丁寧に鼻をかみ、それを丁寧に折り畳んでから、控える侍女に突きつけた。次の刹那には前触れもなく歩き出し、捨て台詞を残した。
「違うわよ。ただのよ!」
「噂、ですか……お待ち下さいっ」
 侍女たちが返事を理解する頃、肩を怒らせて石の床を叩きつけるように歩く薄い瑠璃色のドレスの背中は遠ざかっていた。

 慌てて三人の侍女は追いかけるが、結局は身を乗り出しただけで即座に止まる羽目に陥った。当然ながら、元凶は王女だ。
「っしゅん! くしゅん……しゅん!」
 立て続けに鋭い息を放った姫君は、悔しげに地団駄を踏む。
「あーもう。誰よ、何度もあたしをするのは!」
 言い終えるや否や、ララシャに新たなる発作が襲いかかる。
「んーっ、んーっ、ふーっ。くっ……ずしゅん!」
 顔を上げてこらえようとするが、結局は耐えられなかった。負けず嫌いで有名なララシャ王女の心は大いに煮えくりかえる。
「今度はすっごく遠いだった! 何なの、これ、ほんと頭に来るったらないわね。このクシャミ、ぶっ飛ばしてやりたいわ!」

「噂だと、どうしてお分かりになるのですか、ララシャ様?」
 素朴な疑問を洩らした侍女の一人は若い主人にギロリと睨まれ、すくみ上がってしまう。当人のララシャは視線の力を弱めたが、侍女は完全に怖じ気づき、手を組んで微かに震えていた。
 にわかに姫の表情が変化する。結局は同世代の誰とも分かり合えないのだろうか、とでも言いたげな、ひどく憂いを帯びた顔だ。それから天井を仰ぎ、小さな溜め息をついたのだった。
「ふぅ……」

 侍女の視線を受けて、はっと現実に戻ったララシャは――顎をしゃくって返事をし、今まで通りの不愉快さを装って歩き出す。
「あたしの直感よ。さあ、行くわよ」
 だがその足取りが重くなっていることに、侍女は気づかない。
 ララシャの機嫌はますます悪くなる一方と信じ、侍女たちは互いに顔を見合わせて波乱含みのお茶会を予感するのだった。
 


  7月18日− 


[雲のかなた、波のはるか(1)]

 小さな両開きの窓が放たれ、竹に似た硬い植物で作られた涼しげな簾が持ち上がり、ほっそりとした女性の手が現れる。
 やがてガタガタと何かが不安定に揺れる音がし――白い石造りの家の窓から艶やかな蒼みがかった銀の髪がこぼれた。
 そして幾分突然に、少女がひょっこりと顔を出す。その澄んだ青玉の瞳は、いまだ夢の名残を帯びて眠たげに細められる。
「また曇りですの〜」
 彼女は丸い窓から天を仰ぎ、くぐもったような声で独りごちた。出来物などは皆無で、十代後半にしては珍しいほどすべすべの肌はうっすらと日焼けしているが、薄黄色のネグリジェの襟元から垣間見える首は細く、健康的な印象はあまり受けない。どちらかというと丸顔よりも面長で、胸の上にはネックレスの先に緑色の宝石がきらめいていた。それほど大きな石ではないが、金銭で買えないほどの価値を内面から発散させている。透明度と色と、傷一つ無い状態もさることながら、妖精を想起させる不思議な魔力を秘め、まるで生きているかのような翠玉だ。

 庭の椰子の木がそよぐ。南国の夏の朝とはいえ、曇り空で思ったほど気温も上がらず、風が部屋を過ぎゆくと鳥肌が立つ。
「はっくしん!」

 クシャミした次の瞬間、彼女の顔は窓から消え失せていた。
「きゃ!」
 背伸び用の木の足場が倒れ、少女が尻餅をつくドォーンという音が短い間に順序良く響いた。力無い悲鳴が聞こえてくる。
「ひーっ……痛いですわ〜」

 彼女の名はサンゴーン・グラニアザーン族の十六歳の少女である。傍目には単にのんびりした性格の、やや鈍くさい女性に映るが、実は〈草木の神者〉という世界的に重要な役割を継承している。イラッサ町の名目上の町長を務めて収入を得ているが、実際上の政治は摂政に任されており、彼女自身は庭の鉢植えを手入れしたり、海辺を散歩したり、前代の〈草木の神者〉であった祖母のサンローンの墓を参拝する日々であった。
 彼女が整えた庭を、白い蝶がひらひら軽やかに舞っていた。


  7月17日− 


[お姫さま談義(10)]

(前回)

「でも、話が戻っちゃうけどさー」
 再び歩き出したとき、話の端緒を開いたのはルヴィルだった。昔から大きかった両手を後ろで組み合わせ、首だけを半分曲げて振り返る。さらりとこぼれた黄金色の長い髪は雲間からあふれる陽の光の糸を絡めつつ、朝の海原のように明るく輝いた。
 ところが彼女はその場でつま先立ちを繰り返し、次を話し出そうとしないので、ウピとレイナは歩みを休めて相づちを打った。
「うん」
「はい」

 二人が追いついたのを確かめてから、一番大人びたルヴィルは前を向いた。海での仕事のため、肌はうっすらと日焼けして健康そうだ。彼女は飄々とした顔つきのまま、学院魔術科時代から特徴的だった歯に衣着せぬ物言いで、けろりと洩らした。
「姫君の件だけどさ、リリア皇女が出てきて、これで国のお姫さま級の人は全部出揃っちゃったわね。あとは小物ばっかり?」

 いつしか三人は〈港大通り〉が貫く港湾地区を離れ、道幅は細いけれども趣味の良い、華やいだ商店が両側に並ぶ小ぎれいな坂道に差しかかっていた。要所要所に椰子の木が植えられて夏の日陰には事欠かず、貴族の寄付金によるベンチまで据えられている。白を基調に、黄や橙の模様の入った石畳は歳月に磨かれ、たまに子供たちがはしゃぎながら駆け下りて行った。坂道を登る途中で振り向けば、港や砂浜、そして深い碧に澄みきった透明度の高いミザリア海が広がる。くねくねと曲がりながら続いてゆく、この庶民の道は〈雲龍坂〉と呼ばれている。

 ミザリア市であれば、どこでも見受けられる海鮮ものの店も建ち並んでおり、潮の香りは相変わらず強い。だが、その中にはちらほらと若者向けの飲食店や洋品店、装飾屋の姿も増え始める。安くて良いものが売っていて、暮らしには適した地区だ。

 ウピはしばらく考えていたが、ひらめいて、ぽんと手を打つ。
「そうだ。向こう岸の、ティルミナ・クルズベルク嬢は?」

 ミザリア市の対岸にあり、ルデリア大陸の玄関として栄えるモニモニ町に上陸し――さらに街道を半島の付け根へ進めば、内陸のメポール町がある。かつてメポールを中心とし、マホジール帝国傘下のリンドライズ侯国が小さいながらも農漁業の豊かな版図を誇っていたが、数年前、南ルデリア共和国の発足に関わるズィートスン氏の暗躍と陰謀により、併合の憂き目を見た。旧支配層のクルズベルク家は南ルデリア共和国の評議会のメンバーに列せられたが、地元を追われた斜陽感は否めない。
 そのクルズベルク家の次女が十七歳のティルミナ嬢である。

「あんなの、国を失くした没落貴族じゃない」
 ルヴィルの回答は素っ気なく、一刀両断であった。元はと言えば自分から蒸し返したとはいえ、今となっては同じ話題に飽きていることが明らかだった。指でせわしなく裾の狭い長ズボン――彼女の脚の長さが際だつ――の腿の辺りを弾いている。
「まあね……」
 ウピは珍しく曖昧に応えた。さすがに歩きすぎた疲労感を覚え始めていた上、結構きつい登り坂で足はどんどん重くなる。
リース公国のリィナ公女は、どうでしょうか?」
 銀の前髪の間にきらりと汗の雫を光らせ、レイナが言った。


  7月16日△ 


[メロウ修行場(8)]

(前回)

「冗談でしょ、師匠?」
 ユイランは黒の瞳を見開いて大声をあげ、慌ててキナとセリュイーナの間に腕を伸ばし、割って入る。周りで身体をほぐしながら休んでいた何人かの武術仲間たちが、何事かと振り返った。
 一方、師匠は動じず、右手の人差し指を相手に突きつける。
「なんか、あんたにも言い分があんの? ……まずは座りな」
 その指先をゆっくりと下ろし、硬い草で編まれた床を示した。

 メイザはきょとんとした顔で師弟の様子を眺めており、キナはうつむき加減のまま微動だにしない。負けず嫌いの性格を全面に顕して悔しげに唇を噛み、ユイランはどっかりと腰を下ろす。
 自分の気持ちを抑える修行を何とか思い出し、彼女は喋る。早口になって自分の焦りを悟られぬよう、出来るだけ落ち着いて話そうとするのだが、言葉は心を映し、無情にもうわずった。
「あたし、暑いところ苦手なんで」
「でも、暑いところに行ってみたいんでしょ? うまいもん食いたいんでしょ? ミザリアなら年中暑いし、うまいもんもあるわよ」
 セリュイーナは余裕の態度で、ちっとも引き下がらなかった。傍目から見ると、口論という〈闘い〉を楽しんでいるようだった。

 メロウ島の厳しい冬の間、ユイランは夏になればいいと愚痴っていた。思い当たるフシがあるため、一瞬、たじろいでしまう。
「まあ、ちょっとは……」
 ここで素直に認めるのが彼女の長所でもあり弱点でもあろう。若い弟子は苦し紛れに別の理由をでっち上げ、即座に放った。
「ずっと船だと、せっかく鍛えた身体がなまっちゃいますよ」
「さっきもあんた、そんなこと言ってたけどさァ。身体の筋力を保つなら甲板の上でも出来るからね。やる気と根性さえあれば」
 二十七歳の師匠はうなずき、満足そうに微笑みを浮かべる。

(このままじゃ、やばい)
 勝ち誇った師匠を見てユイランは肩の力を抜き、気持ちを切り替えた。次の刹那、ふっと彼女の頭の中を稲妻が駆け抜ける。対戦相手が不得手とする論理的な攻撃法を思いついたのだ。
 それを武器に、機会を逃さずユイランは果敢に挑みかかる。
「ここと向こうだと言語も結構違うはずですよ。言葉が通じなきゃ南国流のルールも分かんないですし、試合になっても本来の力が発揮できないっすよ。あたしがノコノコ出ていって、伝統ある北方流の拳法がララシャ王女に馬鹿にされてもいいんすか?」
「うーん……そうねぇ。どうにか力任せで行けないわけ?」
 いつしかセリュイーナは、少しだけ守りの態勢に入っていた。


  7月15日− 


[夜半過ぎ(16)]

(前回)

 スプーンの先を、とろりと深いシチューのお皿へ沈めてゆく。
 柔らかいお芋の岩をかき分け、冬野菜の翠の草原を抜けて。
 やがて手応えがあり――スプーンの櫂は器の底にぶつかって、静寂(しじま)にたゆたう真夜中に無機質な音を鳴らした。
 
 ファルナは指先に力を込めて、そっとルーを掬い上げる。お芋の切れ端が乗っていたので思ったよりも重みが伝わってきた。手がかじかんでおり、さじは少し傾いて、お芋は滑り落ちた。

 とぽん――。
 それが何かの合図であったかのように、娘の後ろでじっと立っていた中肉中背の父はランプを左手に持ち替えた。その間も二つ年下の妻が風邪をひかぬ様に気遣い、身体を寄せている。
 父が手を動かした時、一瞬だけ望月が雲隠れしたかのように部屋は闇のヴェールに覆われたが、次の刹那には冴え渡る銀の月にも似ているシチューの乳白色が、小さくて丸い、この料理に適した深い器にぼんやりと朝靄のごとく浮かび上がった。
 外に降り積もった根雪、つららの雫。それと対照的に温もりの残る大好きな料理。高原の真冬は本物の白が映える世界だ。

 樹の幹を思い出させる茶色の瞳を軽くつぶって心を落ち着ける。こめかみの辺りで、期待の鼓動が生命の刻を奏でている。
 睫毛を繊細に揺らす冷たい空気の流れを感じつつ、ファルナは目覚め、瑞々しい十七歳の唇を器の真上に運んでいった。
 震えながら待っているスプーンとの距離が縮まって――。
 満を持して口を開き、指先を気持ちだけ傾け、滑り込ませる。

「んっ!」
 待ちに待ったシチューの第一陣が、ゆったりとやって来た。ファルナの両眼は驚きと喜びで大きく広がり、表情は輝くようだ。
 しんしんと更ける夜の心細さを忘れさせてくれる、待ちに待った温かみが頬を内側から暖める。少し遅れて、心までがとろけてしまうような独特の甘みが舌に伝わり、あまりの気持ちよさに目頭が熱くなって頭の奥がじぃんと痙攣した。部屋の隅で燃えはぜる暖炉の薪よりも、直接的に熱のかけらを届けてくれる。
 飲み込めば、喉を和ませ、胃に安らぎをもたらし――それからおなかの果てまでも緩やかに染み込んだ。下品にならない程度にシチューの膜を舐めながら、スプーンを口から引き出す。

「ほんと、おいしいのだっ……」
 ファルナは恍惚とした表情で、ため息のような感想を洩らす。
 そしてすぐさま衝動に駆られ、手を伸ばして二口目に取りかかるのだった。今度は唾液が邪魔しないので、煮込んだ味わいがより鮮明になる。しばらくの間、ファルナは唇の周りが汚れるのも気にせずに、夢中で目の前の手料理をむさぼるのだった。

「身体があったまるだろう。お前も食べるかい?」
 父のソルディは隣のスザーヌに提案した。妻は首を振った。
「大丈夫。このままで充分、身体は温まってきたわ……」
 母の頬は、確かに一時よりもだいぶ赤みがさしている。
 厨房の空気はしんと冷えても、家族の心は春のようだった。


  7月14日− 


[虹あそび(9)]

(前回)

「ふぅー」「ほーぅ」
 疲れて重くなった華奢(きゃしゃ)な肩を軽く上下に動かしてから、ついにナンナとレイベルは思いきり腕を伸ばし、柔らかくこねた温かみの残る〈闇のもと〉を指先で細かくちぎり始めました。
「ぴろチャン、オイデ!」
 レイベルの肩に二本の足をかけて立っていたナンナの使い魔のピロは、いよいよ食べ物が出来上がるのを察知し、にわかに激しく羽をばたつかせます。それが快い風となり、雨上がりの空に浮かぶ夜の予感――不思議な〈闇のもと〉を冷まします。
「ピロ、あとで美味しいものをあげるから、我慢してね」
 困り顔のレイベルは、翼をはためかせて斜め上を飛び回る小さな純白のインコに辛抱強く語りかけました。その間も指の関節を器用に動かして〈闇だんご〉を細かく分けては真っ黒に汚れた手で丸くまとめてゆきます。謎めいた指紋が世界でただ一つのスタンプとなり、少女の名を天の聖守護神様に伝えました。

「レイっち、さすがだね☆」
 少し目の覚めてきたナンナは友だちの慣れた手つきを見て、心からほめました。最初、レイベルは隣に立っているナンナのやり方を見よう見まねで、こわごわと〈魔法料理〉していましたが、結局はいつものお団子作りと変わらないことに気付くと、一気に本領を発揮したのです。田舎の子供らしく、都会っ子よりも指は少し太くて短いけれど、素晴らしい器用さを発揮して次々と夜色の玉を完成させます。人差し指と親指で丸を描いたくらいの大きさしかない、可愛らしい〈闇だんご〉の出来上がりです。
 そう――村長さんの娘のレイベルは料理が得意なのでした。
「ナンナちゃんのだって、なかなかだと思うよ」
 こぼれ落ちる額の汗が目に入る前に右手で拭い、レイベルは大きさの偏っている親友の作品の、良い部分を見つけました。
「個性的な形で、すてきだと思うわ。これでイタズラしたら、色とりどりの虹の橋さんも、光の子たちも、きっとびっくりするね!」

 言いながら、レイベルは本来の目的を思い返していました。金の髪の小柄な魔女の説明が、はっきりと心によみがえります。

『雪合戦みたいに、闇団子を思いっきり投げるわけ。そしたら、光の子たちは闇が嫌いだから、避けて曲がっちゃうの。上手く光を集めれば、かなり見やすい虹の橋が出来やすくなるよ!』

「痛っ!」
 豆粒ほどの硬い虫がナンナの頬にぶつかり、あわてて方向を変えて逃げ去ります。さっそく出来たての〈闇だんご〉を握りしめたまま振りかぶり、投げる真似をして、ナンナは注意しました。
「こらー! 痛いなぁ。空を駈ける時は気を付けてよー」
 けれども言葉とは裏腹に、都会からの転校生は笑顔でした。

 一方、飛び回って疲れた小鳥のピロは、久しぶりに本来の主人であるナンナの肩に止まり、ふいごのように息をしながら目を見開いていました。魔女はピロの白い頭をちょこんとなでます。
「ピロもあんまり無理しちゃだめだよ。ね?」
「ぴゅーぃ」
 ピロは不思議そうに首をかしげ、甘えた声で鳴きました。


  7月13日− 


[弔いの契り(17)]

(前回)

「お疲れ。モゴッ……なかなか良かったぜ」
 思い出したように肉の切れ端を頬張った俺は一瞬だけルーグと目線を合わせ、全く言葉に気持ちを込めずに言った。苛立たしげな低い声がまるで他人の声のように自分の耳元で鳴り、それがさらに俺の癪に障り、頬が強ばってくる。村人たちじゃねえけど、俺も俺で心を偽るのはあまり得意じゃねえってことだな。
 その時、ルーグの顔はかなりの緊張感を孕んでいて、俺は息を飲んだ。下手くそなダンスは自分から断ったんだし、この妙な夜会が何を意味するのか、どう対応するか、五年前に何があったのか相談しなきゃいけねえってことは分かってたつもりの俺だけど、やっぱり一人あぶれて疎外感を抱いてたんだろうな。
 俺の子供じみた捻くれを、ルーグは一言も喋らず、表情と一瞥だけで正してくれた。さすがは俺らの大将、憎い野郎だぜ。

「ケレンス。タックと一緒に、ちょっと行ってきてくれないか」
 タキシードの良く似合う長身のルーグは席に戻るや否や、椅子に座ることなく、周囲に聞こえないくらいの声でささやいた。ホールでは新しい曲が始まってるし、ここは村人たちの席から少し離れてるから、あいつらにはバレる心配はないはずだ。しかもルーグたちが踊りを終えてから、かなりの数の村人が勢いに乗ってなだれ込んだため、座席の者はまばらになっている。
「全員で一気に動くのはまずい。頼む」
 何事もなかったかのように通り過ぎがてら、ルーグは鋭い語調で喋った。俺は噛み砕いた肉を一気に飲み、この場にそぐわぬ不作法な動作――右手の甲で口を拭く――をした。次に振り向き、ちょいと腰を浮かせて椅子の背を持ち、可能な限り音を立てないよう後ろへずらしつつ横に身体を出し、立ち上がった。
 まあそうでなくとも、三人の演奏者から発せられる深みのない音楽やら、村人たちの踏むステップなどで、俺らの注目は浴びにくい状況のはずだ。活気がないから、ひっそりしてるけどな。
 もしも〈敵〉にじっと見張られてれば妙な動きだと勘ぐられるだろうが、それならそれで避けようがないから、考えても無駄だ。
「おう」
 まだ足りてねえが、とりあえずの腹ごしらえは終わりだぜ。

「ケレンス、もしよければ、一緒にトイレに行きませんか?」
 その時、やって来たタックが俺に軽く目配せした。なるほど、これも作戦ってわけだな。誰に聞かれても不自然のないよう、念には念を入れてるんだろう。参謀タックの考えそうなこった。
 俺はわざとリンの方に向き、何食わぬ顔で声高に宣言した。
「ちょいと便所行って来るぜ〜!」
 すると、やつは驚いたように顔をもたげ、緑色の瞳を見開き、やがて恥ずかしそうにうつむいた。もともとダンスを終えたばかりで顔は火照っていたが、さらに耳まで赤くし、文句を垂れる。
「そんなの、いちいちあたしに報告しなくてもいいのに……」
 ケレンスって、本当に品がないんだから――とでも言わんばかりだ。俺は久しぶりに反応してくれたリンにほっとしたが、それが裏目に出るとは、その時の俺は予想だにしていなかった。


  7月12日○ 


[水路に沿って]

 ささやかな水路が〈春の女神アルミス〉の神殿に寄り添うように引かれ、その流れは透き通っていて、底の砂の動きまで見通すことが出来た。水路の傍には、華やかではないが力強さを感じさせる色褪せた紫の花が、ひっそり人知れず咲いている。

(おはよう)
 口には出さなかったが、十六歳のリュナン・ユネールは立ち止まり、水路の中を泳ぐ小魚の群れに眠たそうな視線を注ぎ、目で挨拶した。金の髪を後ろで結んだ色白で病弱の少女だ。
 前を歩いている子供が同じように歩みを止めて水の中を覗いているのも気にしない。そんなつまらぬ誇りはとうの昔に捨ててきた。いつでも新鮮な喜びを忘れずにいたい――彼女は思う。
 水路には魚が放し飼いになり、金や銀の鱗を輝かせている。

 もみじの樹は細い道の両脇に立ち並び、緑の複雑なアーチを描いていた。ここではズィートオーブ市の強く乾いた陽の光は拡散され、風までもが濾過されて涼しくように感じる。人々の表情も何となく安らいで見える――リュナンはこの道が好きだった。
 空に枝を張るもみじは、きたるべき秋に驚くほどの衣替えをすべく、今は目に眩しい濃緑の絹を身にまとっている。向こうの通りの着た切り雀の針葉樹が愚痴を零すのが聞こえてきそうだ。

 風の流れと、水の流れと、呼吸の流れ。
 それらのリズムは皆、驚くほど似通っている。
 だからリュナンは、ここでくつろげるのかも知れなかった。

(今日も暑いけど……ここだけは過ごしやすいね)
 いつの日か、陽のあたる坂道を歩くのを夢見て。熱射病にならぬよう、なるべく日陰を選んで家路をたどるリュナンだった。
 
水路に沿って
 


  7月11日− 


[名実ともに]

 数十年の昔に独立国家として歩み始めたシャムル公国であるが、それ以前はマホジール帝国の属国であり、皇帝から領土を授けられた公爵家が治めていた。マホジールの弱体化に伴って主君に反旗を翻し、追放し、最も望ましい形で無血の下克上を果たしたのが現在のシャムル公爵家だ。俗称としては〈アルレアン朝シャムル公国〉と呼ばれている。公爵家の実家がシャムル島南東部の小都市アルレアンに存在するからだ。

 さてアルレアン家が奪った形となったシャムル公国だったが、名ばかりはマホジールに朝貢する形を取り続けた。当然ながらマホジール側はシャムル公国の政変を許さなかったし、認めなかった。だからと言って、島国のシャムルを攻めるには至らぬ。
 マホジール側の弱腰で放任主義的な外交政策に助けられた感もあるが、それはある意味では帝国の黙認とも受け取れた。謎の沈黙の中で、アルレアン家は〈公爵〉位を名乗り続ける。

 その政策に近年、揺らぎが見え始めた。かつてはまだ、それなりにマホジール帝国の国力は恐れられていたため、アルレアン家はあくまでも公爵という地位にこだわっていたのだが、帝国の命運が風前の灯火となり、やはり島国で帝国傘下のオレオニア辺境国がフォーニア国として独立した件は刺激を与えた。

 今までの踏襲という形でここまで来てしまったが、名実ともに独立国家となるため、公爵よりも上の位を名乗るべきだ――とする意見が貴族・平民を問わず、少しずつ浸透し始めている。現状のままでは、名目上はマホジール帝国内の公爵――つまりリース公国と同列位なのだ。中には納得できない者もいる。

 一気に国王を名乗って〈シャムル王国〉にしなくとも、まずは穏便に大公宣言を行ってはどうか、という意見もある。大公は公爵のさらに上に位置する。メラロール王国の実質的な属領であるノーザリアン、ガルア、トズピアン公国でも過去に大公国への昇格が検討されたが、結局見送られているという経緯もある。

 シャムル島を出て大陸に侵略するという大それた野望は持っていないが、世界での地位をいっそう高め、国内統治をも盤石にするため、現在のシャムル公爵はそれなりの考えを持った政治家である。北シャムル地方の反乱など足元の問題を抱えつつも、公爵が今後、どのような判断をしてゆくのか注目される。
 


  7月10日△ 


[お姫さま談義(9)]

(前回)

 せっかくのウピの取りなしにも関わらず、完全に気分を害してしまったレイナは不満そうに唇をとがらせ、顔を半分だけ上げ、良く聞き取れない声でぶつぶつと、ひねくれた解釈を述べた。
「それは、私が暗い性格という意味でしょうか」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
 ウピは困り果てて右手を振った。背中や首筋、額の辺りに冷たい汗をかきながら、何とか場の雰囲気を好転させるべく、夢中で考えを搾り出そうとする。人の好い彼女は、まずは自分よりも周りの友達が楽しんでいるか、常に気を配る性格である。

 その時だ。
「え?」
 見えない重圧のかかるその肩に、誰かがポンと手を置いた。

「悪かった。私が謝るわよ」
 ウピを斜め上から見下ろし、ルヴィルがあっさりとした口調で言った。はっと立ち止まったウピは、最初に興ざめた白け顔で黄金の髪を無造作に掻き上げるルヴィルを仰ぎ、翻ってその反対側で沈んでいる真面目で神経質な優等生に視線を送った。
 どのような言葉をかけるべきか、ウピが迷っているうち――。
「レイナ。ごめんなさい」
 ルヴィルは両手を前で組み、膝をちょっと曲げ、彼女なりの礼を尽くして謝った。早口で、あまり心のこもっていない軽い謝罪である。もともと勝ち気なルヴィルとして、納得が行っていないのは明らかだった。ぺろりと見せた舌が、その論を裏付ける。
 ウピはレイナがどんな風に感じたのか気が気ではなく、ルヴィルの悪態に目を白黒させていたが、健気にも何とか自分を奮い立たせた。この件をきれいさっぱり水に流すべく、うつむいて立ち止まっているレイナに向かい、出来るだけ明るく頼んでみる。
「さ、意地の張り合いは終わりにしよ。二人とも、握手ね!」

 彼女たちを避けて、三頭立ての中型の無蓋貨車が緩やかに曲がっていった。しばらくの間、車輪の擦れる音が辺りに響く。

 最も今の状況を気にしていたのは、間違いなく仲間思いのウピだった。その瞳は不安と哀しみに彩られ、胸は押しつぶされそうになり、呼吸までも苦しくなっている。商人見習い中の彼女にとり、相手の喜びはすなわち自分の喜びにつながってくる。
 逆に、円滑に行っていない人間関係は見るに耐えないし、何を置いても優先して打開すべき重要事項の筆頭に来るのだ。

 春の波音が再び微かに、夢の調べのように聞こえてくる。
 ルヴィルは黙って、日に焼けた長い右手を差し伸べる。

 次の瞬間、眼鏡の奥の双眸を決意に充ちて輝かせつつ、レイナがいよいよ顔をもたげ、あまり血色の良くない手を差し出す。
「はい、分かりました」
「や……った」
 それを見ていたウピは天にも昇る心地で、うっかりと冷静さを捨てて子供のように飛び跳ねたい衝動にかられた――が、辛くも現在の状態を思い返して自分をなだめる。それでも足の爪先を嬉しそうに上下させることまでは止めることが出来なかった。

 ルヴィルとレイナは歩み寄り、柔らかな風を受けて、そっと手を重ねた。白砂が再び舞い、波には模様が刻まれるのだった。


  7月 9日− 


[メロウ修行場(7)]

(前回)

「そうよ、そうだよ。あんた、一旗揚げてきな!」
 ようやく長い会議の末にたどり着いた名案を改めて吟味するかのように、セリュイーナは大きく瞳を見開いて語った。それはこの若くして修行場を任された師匠の姉御が冗談を言う時の癖だったが、口調は真剣そのものだ。彼女は追い打ちをかける。
「北方流拳法の最高峰、メロウ島の格闘家の力とスピードで、やつらを翻弄させ、ララシャ王女とやらに目にもの見せてきな」
「ちょ、ちょっと、師匠。何言ってるんすか?」
 ユイランはうわずった声で応じ、腰を浮かせかけた。さすがにまだ本気で信じてはいないが、セリュイーナの神出鬼没な判断や指示はこれまでにもあっただけに、一抹の不安を隠せない。

 助けを乞うように、強気の彼女にしては珍しくおろおろと視線を彷徨わせると、斜め前にいた小柄なメイザ嬢と目が合った。
 しかし師匠のセリュイーナは、そのような事態を見越し、ユイランに気づかれることなく手を打っていた。抜け目のない、貫禄の先制攻撃――お嬢にあらかじめそっと目配せしておいたのだ。
 セリュイーナとユイランの両者から秋波を受けることになったメイザは穏やかでとぼけた性格であるが、決して鈍いわけではなく、むしろ直感や理解力、とっさの判断力は人より鋭い。作戦立案力も豊かで、機転が利く。格闘家としては筋力や技量がずば抜けて高いわけでもないメイザが、セリュイーナのお眼鏡に適(かな)ったのは、まさにそういう点を見込まれてのことだった。

 頬に可愛らしいえくぼを浮かべ、メイザはさも嬉しそうに言う。
「お弁当作らなきゃいけないねー。おみやげは何を頼もうかな」
「お嬢さんまで、なに、なにを言ってるんすか!」
 つばを飛ばして、ユイランは早口で叫ぶ。いつの間にか焦る気持ちが強まり、食事の台に手をついて立て膝になっている。
「船じゃ運動不足になるし、行って帰ったら何ヶ月かかると思ってるんすか? そもそも、船のお金はかなりの金額に……」
 まくしたてる黒髪の娘を厳しく手で制したのは、むろん師匠に決まっている。ざっくばらんなセリュイーナは快活に返答した。
「おやっさんが出してくれるよ。修行の一環だって伝えれば」
「ユイちゃん大変なチャンスだね。ララシャ王女と戦えるなんて」
 メイザは少し調子に乗って、場を煽った。ユイランは余計に目を白黒させる。セリュイーナは微笑みながら、こういう状況に直面した時のユイラン、メイザ、キナの三人の弟子たちの対応を冷静に頭の中で記録していた。欠点を長所に変え、元から良い所はさらに伸ばし、実際の武術大会で花開かせるには日頃からそれぞれの人間をより深く理解することが必須条件なのだ。

「キナ、船を用意しな。ユイランの栄えある出航だよ」
 冗談の通じないキナに敢えてセリュイーナは命じた。それを耳にしたユイランは驚愕し、軽い身のこなしで素早く立ち上がる。
「はぁ? ちょっと待って!」
「……どの船を用意すれば?」
 相変わらずの鋭い目つきを崩さず、キナは訊ねるのだった。


  7月 8日− 


[夜半過ぎ(15)]

(前回)

 夜にむしばまれる痩せた光の尾びれのように、微かな湯気が細い糸になって立ちのぼっている。それを凝視していたファルナは、本能的な食欲に惹かれて無意識に右足を踏み出した。軽く椅子を引く音さえ、雪降る真夜中の奥底では増幅して響いた。
 キィ――トゥ。
 余韻は鋭い空気の刃に切り刻まれ、木造の宿屋の壁に、天井に、床に、そして厨房の洗い場へ、窓へと染み渡ってゆく。

 母が腕組みした右手の先に握りしめているランプの角度を、震えながらほんの少しだけずらした時――今はほとんど色を失い、暗く沈んでいたファルナの明るい茶の髪も刹那の輝きを取り戻す。彼女の瞳がまばたきするたび、妖精の絵筆のように繊細で長い睫毛が小さな風を起こし、僅かな冷気をふりまいた。
 凍えるほどの寒さに、厨房のどこかの木材がミシッと鳴った。

 宿屋の娘は固く縮こまった膝や腿の筋肉に出来るだけの力を込めて、背丈の低い丸椅子へ静かに腰を下ろしてゆく。服とコートを着ているので、椅子の死んだような冷ややかさは直接には伝わってこない。やや着膨れ気味で、普段よりも椅子とテーブルの間は広かったが、彼女はそんなことなど気にも留めぬ。

 父は無言のうちに手を出して母からランプを受け取り、やがて二人は互いを暖め合うように軽く背中を寄せ合った。揺れ動くランプの光と、優しい眼差しは十七になった愛娘に絶えず注がれている。部屋の隅の暖炉では薪の燃える香ばしい匂いがして、忘れた頃に火の粉がはぜ、飛び跳ねる音が響き、ランプの油は絶えず嗅覚に刺激を与える。それら冬の匂いの遙か上を滑らかに行き交うのは、シチューが発している深みのある香りだ。

 ついに手の届くところまで辿り着いた温かな器を、ファルナはまじまじと見つめた。触れると消えてしまう山の老婆の魔法料理、それでいて長い間に渡って一番探していた宝物――最初は廊下に流れてきた〈ほんの微かな匂い〉という偶然に誘われたファルナにとって、いつしかシチューとの出会いは大きな意味を持っていた。冬の夜半過ぎに、対照的な生命の象徴である。
 闇は食欲を増幅させ、期待を煽っていた。とろけそうな芋、味わい深い山の幸のキノコ、雪道を越えて行商人が運んでくれた冬野菜――目で見るよりも鼻で想像したシチューが、いよいよ食べる段階まで至るという喜びは、素朴な村娘に感銘を与えるのに充分だった。にわかに鼓動が速まり、息苦しさを覚える。
 まして雪に閉ざされた辺境の村で、子供ならば食べること、大人ならば酒を飲むことは、厳しい自然と共に生き、春を待ち侘びつつ日々の暮らしを営む上では必要不可欠の気晴らしだった。

「……」
 まぶたを再び開けた時、ファルナは珍しくも厳粛そうな顔つきをしていた。真冬だからこそ膨らむシチューの味わいに、今では冬の神シオネスへ逆に感謝でもしているかのような、不思議に聖者めいた、真面目で大人っぽく、少し眠たげな表情だった。

 ファルナは噛みしめるように、ゆっくりとうなずいた。
 そして半分だけ振り向き、心からの感謝を込めて挨拶する。
「お父さん、お母さん。いただきます」

 火の粉がパチッと弾けて。

「召し上がれ」
 父のソルディは、温かみのある声で薦めるように言った。
「召し上がれ……」
 娘を安心させる穏やかな口調で、母のスザーヌが呟いた。

 ファルナは口の中に湧き出した水分の多い唾液を一気に飲み干し、まるで遠い異国で作られたガラス細工を扱うように、恐る恐る、利き手を器の脇のスプーンへ差し伸べてゆくのだった。


  7月 7日− 


[虹あそび(8)]

(前回)

 風が運ぶ水によって冷やされた〈闇のもと〉は熱さの盛りを過ぎ、ちょうど良い温かさでしたす。言うなれば、お湯加減のちょうどいい温泉――触れているだけで睡魔に眠気を誘われます。
「こねこねこ〜ね、こねこ〜ね、こねたら、こ・ね・て〜♪」
 ナンナはまぶたが下がってくるのをこらえつつ、妙な節をつけて夢見心地に唄いながら作業を続けます。両手で抱え込めるほど小さな泥の固まりになった、虫の羽のように黒くテラテラと輝く闇だんごの材料を何度も混ぜ合わせ、ひっくり返しました。

 ナンナの祖母のカサラおばあさんなら、こう説明したでしょう。
『もともと〈闇のもと〉は真夜中の空気にたっぷり含まれているものじゃから、お前が眠気を感じたのも当然かも知れんよ……』

「こね、こね、こね、こね……」
 レイベルの方はナンナよりもちょっとだけ背が高いので、宙に浮かぶ〈闇のもと〉をこねるのは、いくぶんやりやすそうです。時折、瞳にかかる黒い前髪をかき上げながら、あくまでも自分に合った速さで、ひたむきに、出来るだけ力を込めて押し込みます。二つに切り離し、くっつけ、ぎゅっと手を組んで固めました。
「ぴろ、ぴろ、ぴろ……」
 レイベルのリズムに合わせるかのように、肩の上では小鳥のピロが首をかしげて何やら早口に喋っています。二人の作っているものが食べられるどうか、やはり気になっているようです。

 それほど時間が経たぬうち、レイベルはこめかみや額にうっすら汗をかいていました。魔法の黒い泥からさかんに昇っていた湯気もおさまり、不思議な材料は少しずつ水分を蒸発させ、柔らかさも失われてゆきます。まさに今この時間――雨上がりの湿った土が、照りつける強い光を浴びて乾くのに似ています。

 村長の娘は腕に力を込めたまま、苦しげな声で訊ねました。
「ナンナちゃん、まだー?」
 手はいつの間にか真っ黒に汚れていましたが、そんなことはちっとも気になりませんでした。普通の水遊びや泥遊び、それに料理のまねごとなら慣れっこです。魔法の闇にしたところで、結局のところ一つの遊びですし、何の違いもなかったのです。
「あ……もういいみたい」
 無意識に手だけを動かしていたナンナは、友の呼びかけで夢幻の淵から立ち直りました。その青く澄んだ、いたずらっぽい眼(まなこ)はまだ半分しか開いていませんでしたが、じょじょに、ゆるやかに意識が戻ってきます。視線の焦点が合ってきます。
 そして彼女は少しよろけながらも、腕を天に突きさしました。
「細かくちぎって、丸めて、夜の色のお団子にしよっ☆」

 ナンナが手を挙げても〈闇のもと〉はふわふわと浮き沈みしながら、その場で微かに漂っていました。空の虹の橋はいよいよ最高潮を迎えて色濃く、素晴らしい弓を張っています。風に吹かれて、足元の草は快い音をあげ、水しぶきを散らします。その中ではあまたの小さな虹が、生まれては消えてゆきました。


  7月 6日△ 


[月の子]

「よし、今じゃ!」
 壮齢のカーダ博士は低い声で語気に力を込め、横の助手に向かって呟いた。白髪の中に潜む双眸が一挙に鋭さを増す。
 野原に掘られた人工的な池は、その直径が大人の半歩ほどしかない小さなものである。そこには妖しの黄色い水が充たされ、カーダ氏の掲げ持つランプの光を受けて朧に輝いている。
「テッテ、参ります」
 気難しいカーダ博士の四千人目の助手になったテッテは、眼鏡をかけた二十四歳の冴えない男である。テッテは皺だらけの白衣をまとい、腕にはこれまた原色の黄の手袋をはめていた。

 彼の足元の池の中央には、南東の空に浮かぶ望月が映っていた。満天の星空の舞踏会は無邪気に発散される月光に翻弄され、暗い星はその明るさに霞んでいる。ただ、空全体としての華やかさは普段よりも増しており、地上に居並ぶ野原の草は黒く照らし出されていた。宵の口は過ぎたが、深更にはほど遠く、緩やかな斜面には虫たちの音楽と生命を感じることができる。

 黄色の池に映っていた丸い月影がにわかに揺らいで原型を失い、水がちゃぷんと跳ねた。テッテが手袋をしたままの右腕を突っこんだのだ。狭い池の表に立ったさざ波が落ち着くのを、彼らはしばらく息をひそめて待ち続けた。夜風が通り抜ける。

 再び、満月が池に元の姿を形作る頃――カーダ博士は用意しておいたフライパンを持ち上げ、大きな期待に頬をゆるめた。
「月の子、月の子……これが上手く取れれば、成分の三分の一に銀が含まれておる。研究の資金源じゃ、金づるじゃ……」
 変わり者のカーダ氏は〈七力研究所〉の代表を務めている。
「師匠、そろそろでしょうか?」
 控えめに切り出したのはテッテだ。放っておけば、カーダがどんどん自分の世界に入り込んでゆくのは火を見るよりも明らかだった。それを食い止め、自らの職務をも成就せねばならぬ。
「そうじゃったな、まずは実験じゃ。ゆけ!」
「はい、只今」

 テッテは事前の段取りを思い返し、素早く池の中に漂う銀色の月を掬うように腕を持ち上げた。猛烈な蒸気が湧き上がる。
「あちちっ!」
 慌てるテッテに、カーダはフライパンを差し出して絶叫する。
「急げ、こっちじゃ! はよ入れるんじゃ、馬鹿もん!」
「ヒャあ!」
 投げ捨てるかのように〈月の子〉をフライパンに落としたテッテは、無我夢中で腕を再び池に浸す。いつしか、あの妖しげな黄色はなりを潜め、池を充たしていたのはごく普通の水だった。
「でかしたぞ!」
 カーダ博士は喜びの声を発する。彼の持つフライパンの中で〈月の子〉はジュウジュウと音を立てている。その横で、テッテは先ほどの危険な作業を思い返し、ぶつくさと文句を言った。
「やけどする所でしたよ……本当に」

 突如、不満をかき消したのは、カーダ氏の絶望的な悲鳴だ。
「くあぁ! 何ということじゃ……」
 煙の消えたフライパンに乗っていたのは、目玉焼きとしか思えぬ、黄色の丸く盛り上がった小山であった。池の水の調合が悪かったのだろう、残念ながら〈月の子〉は燃え尽きてしまった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 テッテは気を利かせ、研究所から二人分の皿とフォークを持ってきた。男たちはその熱い目玉焼きを半分に分けて、頬張る。少しほろ苦い、失敗の味のする〈月の子〉の魔法料理だった。
 天には本物の月が、無関心を装い、澄まして浮かんでいた。
 


  7月 5日△ 


[おいしさの秘訣]

「なんかなんか、いつも出来上がりが水っぽくなっちゃってたんですよ。だから今回、思い切って水を減らしてみたら、今度は水分が足りなくて、焼き上がりがカサカサで、すっごいマズいんですよ〜。リナせんぱーい、秘伝のこつを伝授してくださいよ〜」
 元気で、やや落ち着きに欠ける十三歳の新入生に迫られた上級生のリナは、表情を緩めぬまま、ぽつりと言葉を発した。
「……最初は、みんな、そう」
「じゃあ、えっと、最初はリナ先輩も苦労したんですか〜?」
 後輩の矢継ぎ早の質問に、寡黙なリナは軽くうなずいた。
「ええ。だんだん上手くなるから」

 続きは、リナの頭の中で響いた。
『やってるうちに、分量とか、少しずつ分かってきますよね!』
『あたしも最初は失敗ばっかりの繰り返しだったんですよ』
『でも、いつも作ってるうちに、馴れちゃいました。えへっ』
『失敗した方が、きっと早く上達しますよね。ね、リナ先輩?』

 いつまでも色褪せぬ、好奇心旺盛で知的で人なつっこい薄緑の瞳が記憶の中で笑った。その懐かしい顔を思い出すと、いつものリナの無表情にも少しだけ血の気が通うように思われた。

「失敗した方が、きっと早く上達するわ。がんばって」
 あの子の受け売りだけど――その台詞は胸にしまっておく。
「ありがとうございます、リナ先輩。色々やってみますね〜!」
 新入生の言葉に、昔なじみの後輩の声が重なり、告げる。

『ありがとう、リナ先輩。あたし、また試行錯誤してみますね』

「ええ。試してみて……」
 まぶしい午後の光に目を細め、リナは助言をするのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ここはモニモニ町の学院内、放課後の料理研究部である。
 


  7月 4日− 


[奥サミス原生林より]

 湿り気を帯びた空気には土の匂いが混じっている。
 ほっそりと背の高い女性は水色の長袖のワンピース姿で、その上に藍色の外套を羽織っている。彼女の服は、夜と朝に架けた〈あかつきの橋〉――この時間――から切り出したかのような彩りの組みあわせで、森の妖精を思わせるがごとく涼やかだ。
 こぼれる陽の光の続きめいた金の髪を後ろで結わえ、足取りも軽く目を細めて歩く森の朝の散歩道では、高らかな鳥の声が重層的に響いている。羊の乳の色をした白い霧が微かに漂っているが、視界を邪魔されるほどに濃くはない。露に濡れた草の子は雫を落として顔をもたげる。早起きの白い蝶は彼女を招くように舞っていた。心が洗われるほど清々しい曙の刻限だ。

 足下を這うように進む剛毅な木の根を跨ぎ、短くて狭い急な坂道を登ると、身体は火照って鼓動は速まる。ただし、白いうなじや頬をかすめて風が行き過ぎると、秋の日中と同じくらいに淑やかで麗しく――彼女は思わず首をすくめ、身を縮めるのだ。
 それらは皆、避暑地の夏、高原の林の朝の一風景である。

 小川のせせらぎがして、彼女は立ち止まり、耳を澄ます。
 手にしていたスケッチブックを右の脇に挟み、薄緑の下草を掻き分けると、そこには河とは言えないほどのささやかな湧き水の流れがあった。土の色までがはっきり見分けられるほど透き通った水――角度によっては銀色にきらめいて見える泉から、とめどない生命の象徴のごとく、森の恵みが溢れ出している。

 彼女は身をかがめ、ほっそりとした右手を差し伸べる。
 思い切って湧き水の中につけるが、すぐに引っ込める。
「はっ!」
 右手を振り、彼女は雫を払った。湧き水の冷たさは予想を遙かに越えていたからだ。手の神経の感覚が失われ、痺れる。

 だが、次の瞬間――。
 彼女はスケッチブックを脇に挟んだまま、今度は両手を伸ばし、滾々(こんこん)と出ずる水の口に浸した。風よりも透き通った神秘の泉が少しだけ濁り、そこに現実の水があることを教えてくれる。ここでは言葉は要らない、生の五感があればいい。

 彼女は水の冷たさに唇を噛んだが、さっと掬い上げて口元に近づけた。匂いもなく色もない純粋な真水が、たっぷりとそこにある。それは指の間を伝って雨の模型のようにこぼれ落ち、掌とさして変わらぬ大きさの泉に同心円状の波紋を投げかけた。
 両手を傾いで注げば、軟口蓋の粘膜が潤いを取り戻して、舌は凍える。飲み干せばゴクッと喉が鳴る。味はない、だけれど、なぜか美味しい。それもそのはず、原生林がくれた純粋なエキスなのだから。胃の辺りを朝の水が通り過ぎる頃、右手で口を一拭きすれば、この森とめぐり逢えた幸せが心の中を暖める。

 彼女は立ち上がり、いつしか朝の光の中を縫って歩き出す。その首元には賢者の身分を示す宝石が、消えかかる星の名残のようにきらめいていた。スケッチブックには使い古しのチャコールが挟んである。何もかも露に濡れ、瑞々しく新鮮に生まれ変わるこの時間、花や草や木の芽などを観察して記録するのは彼女にとって何にも代え難い喜びであり、森の独り暮らしの気休めだった。大きな自然も小さな所から見えてくるものがある。
 栄養を吸って、新しいものを生み、吐き出す。みんな同じだ。

「私も、この森に息づく一人なのだわ」
 そして、私の中の一部でもある、この森――。

 サミス村から林の小径を延々とたどった先にある〈奥サミス〉と呼ばれる場所の尽き果てぬ原生林の中で、二十一歳の賢者、オーヴェル・ナルセンはささやかな自給自足の暮らしを営んでいる。厳しい冬が近づくまで、森の研究生活は続いてゆく。
 


  7月 3日○ 


[お姫さま談義(8)]

(前回)

「えー? リリア皇女ぉ? あの暗そうな?」
 甲高い驚き声を発し、レイナを見下ろしたのは三人の中で一番背の高いルヴィルだった。それを聞いたレイナは刹那、不満そうに相手を仰いだが、すぐに諦めたように瞳を伏せてしまう。
 日が陰ったかのように場の雰囲気が重くなり、乾いた潮風さえ身体にまとわりつく感じがした。ルヴィルは素早く瞬きし、両手を広げて呆れたように首をすくめる。レイナは依然として黙ったままだ。港の方から流れてきた船出の笛の音が微かに聞こえ、荷馬車の車輪のきしみは急に大きくなったように感じた。

 こういう時、心の港から助け船を出すのはウピの役目だ。
「あのさ、きっとリリア皇女なら、レイナと仲良くできると思うよ」

 瀕死のマホジール帝国を立て直すために腐心しているリリア皇女は、十五歳にして憂いを秘めた深窓の姫君である――と噂されている。若くして聡明な点ではメラロール王国のシルリナ王女と並び称されるが、リリア皇女の方はどちらかというと控えめで、やや華やかさに欠けるように思われている。頽廃のマホジール帝国を改革しなければ滅びる――という彼女に染みついた悩みの奥行きが、その気高い魂を老いさせているのだろう。

 ルヴィルは知らんぷりを決め込み、首の後ろで腕組みして口を尖らせた。ウピは左右に素早く視線を走らせ、二人の友達の様子を見比べつつ、気難し屋のレイナに優しく言葉をかけた。
「リリア皇女とレイナなら、絶対性格も合うし、親友になれるよ」


  7月 2日− 


[メロウ修行場(6)]

(前回)

「へぇー。ララシャ王女って変わり者だとは聞いてたけど、そこまで本腰入れてるとは知らなかったね。そうなのかい、お嬢?」
「ハイ、そうですよー」
 訊ねられたメイザは黒く澄んだ瞳を見開き、師匠の言葉に応じた。普段の柔らかな物腰と平穏さ、それと格闘家としての実力が上手く反比例しているのはメイザの長所であり、さらには真面目な性格なのでセリュイーナ師匠にも可愛がられている。

 パシン。
 どろり……。
 飛んできた蚊を正確に一発でしとめ、叩きつぶし、死体を指で弾いて体液を無造作にズボンで拭き取り、ユイランが言った。
「町に飛び出して、道場破りをしちゃった話は有名ですよ」

 この〈メロウ修行場〉では、夏の森に半袖短パンで出て、出来るだけ蚊に刺されないで帰ってくるという修行があるくらいだ。
 ルデリア大陸の東側には蚊が多く潜んでいる。まだこの辺りは大陸の北東で涼しいので数は少ないが、気温が高くなると草や木の多い場所は蚊の宝庫になる。相手の気配を察知して素早く回避し、機会を逃さず拳を繰り出し、狙った範囲へ適切に命中させる……格闘家の実力が分かる、厳しい難行なのだ。

「ユイさん」
 その時、身を乗り出してユイランに問いかけたのはキナだ。
「ユイさんとララシャ王女、どっちが強いの?」
「そんなの、闘ってみないと……」
 言葉を濁したユイランは、彼女としては珍しく、はっと口をつぐむ。上手く説明できないが何かしらの悪い予感がしたからだ。

「あんた、行ってきなよ。メロウ島の代表として闘ってきな!」
 あっけらかんと言ったのは、セリュイーナ師匠その人だった。


  7月 1日○ 


[盛夏]

 駆けよ、あの風とともに

 森を貫き、池を飲み干し、陽炎をあげて

 七つ目の月は髭面の若武者

 乾いた潮(うしお)を、頬伝う汗と――涙と代える

 十六夜、砂浜は足元でくずれ

 天の河原に星の雫こぼれた
 






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