2003年11月

 
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2003年11月の幻想断片です。

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 11月30日− 


[弔いの契り(28)]

(前回)

「何だって?」
 俺は急速に不信感が高まり、闇の中で眼を光らせた。フォルのやつは口をつぐみ、肩を小刻みに震わしている。こいつめ、何か隠してやがるな――頭の中に苛々が募ってきた俺を手で制し、切れ者のタックはあくまでも落ち着き払って相手に訊ねる。
「男爵側は、なかなか真相を言わなかったでしょう?」
 方向性を変えたタックの質問に少し気が緩んだのか、ひなびた田舎町の農家の息子は弱々しい語調ながらも喋り始めた。
「門を守る警備の兵たちが武器をちらつかせて、僕らを脅しました……哀しいことに。でも僕らの人数は屋敷に来るまでの間にかなり膨れあがっていた。真相を知りたい村人たちは多かったんです。彼らは僕らをずいぶん待たせたあげく、男爵の執事さんを連れてきてくれた。囚われるのも覚悟で、父さんはサーシャを救うために粘り強く交渉した……執事さんは僕らを馬鹿にするような嫌な顔をして、誤魔化して逃げようとしたり、逆に僕らを早く追い出そうとしていましたが、噂を聞きつけた村人が少しずつ集まっていたので、最後には認めざるを得なくなったんです」
 フォルは話すうちに興奮気味となり、一気に語った。ただ、真相を洩らしすぎたと思ったのか、再び黙り込んでしまいそうになる。頭を使うよりも身体が先に動くような性格の俺は、面倒な長話に付き合うのはもはや限界で、今すぐにでも動きたかった。

「他にも、サーシャさんと同じ症状の娘さんを抱えていたご家族もいたのでしょうね。それだけ村の方が関心を持っていたとは」
 すかさずタックが、閉じかかったフォルの心の窓をこじ開けるために合いの手を入れる。効果てきめん、やつはうなずいた。
「ええ……そうだと思います」
「執事の方は、何と言って、皆さんを納得させましたか?」
 未だに冷静さを保って詰問を続ける幼なじみの悪友に、俺は腹立たしささえ覚えていた――怒りの矛先はタックに向かう。
「おい、お前、いい加減にしねえと……」
「ここが肝心な所なんです!」
 するとやつは息の量を多くし、子音を立てる囁き声で怒鳴る。
 珍しくあいつが不快感を露わにしたので俺が一瞬ひるんでいた隙に、タックは猛烈にフォルの物語の核心へと迫ってゆく。
「フォルさん、話してください。無駄な血を流さないためにも」
 ひどく冷酷な口調でタックは事務的に言い放つ。それを肯定するかのような妖しい夜風が吹き、タキシードの襟を揺らした。
 またフォルの体が固くなっているのが感じられる。反撃の機会を狙っていた俺は、場の緊張感に飲み込まれてしまっていた。

 覚悟を決めたのか、フォルはすぐに口を開いて打ち明けた。
「代わりを見つければ、サーシャは助けてもらえるって……」
「彼らは間違いなく実行しますよ」
 重大な神託であるかのように、タックの声は重々しく響いた。
「十二人の乙女が揃った時点で。少しでも早く、亡くなった夫人を甦らせたいと願うのなら、男爵が待つことは有り得ませんよ」
「そんな……」
 呆然としたフォルをよそに、タックは毅然と訊ねる。満月の光の下、だいぶ闇にも目が慣れてきて、やつらの表情も伺える。
 この話が結局は何を意味するのか――根底を流れる理由を考えようとしたが、分からねえばかりか頭が重く痛んできた。
「残る質問は二つ」
 タックは人差し指と中指を立てて、目を逸らそうとしたフォルに突きつけた。こういう時、腐れ縁の親友は殺気さえ漂わせる。
「一つは、現在までの所、あなたが把握している〈いけにえ〉の女性の数です。サーシャさんを含む村の女性と、村の外からやって来た人を引き留めた数の合算です。知っているはずです」
 タックが言い放つと、気圧されたフォルはうめくように応えた。
「確か、僕の知っている限りでは、十一人だったと……」
「十一人」
 タックが繰り返した。涼しいはずの秋の夜風さえ、俺の火照った身体を冷ますことはできねえ。嫌な胸騒ぎが高まってゆく。

 俺は今すぐ両耳をふさぎたい気持ちだった。これ以上、聞きたくねえ――心の芯まで凍りつかせる冒涜と不吉の入り混じった恐ろしい結論が、まもなくタックによって暴かれようとしている。
「最後の質問です。お姉さんが〈いけにえ〉になったきっかけ、そして村の外から来た若い女性を引き留めるため……男爵と接触させるために、あなた方が実行してきた手段とは何ですか」
 緊張感が極限に達する。辺りの闇や目に見えない時間の流れさえ、俺の筋肉質の両肩を押さえつけているように思えた。
 打ちひしがれたフォルは乾いてひび割れだらけの唇をのろのろと開き――その回答は俺の脳に巣くった霧を晴らしてゆく。
「満月の、夜の、ダンスパーティーで……男爵と……ウワッ!」

 やつには最後まで話をさせなかった。とっさに伸びた俺の腕が瞬時にやつの胸ぐらをつかむ。怒りが爆発し、俺は吠えた。
「リンに何をしやがる! リンの居場所を教えろ!」
「く、苦しい……」
「ケレンス、やめるんです! 手を離して、落ち着いて!」
 フォルの息づかいが速まった。タックは慌てて俺の手を振り解こうとするが、無我夢中の俺は相手を力づくではじき飛ばす。
「くっ……」
「この野郎、村ぐるみで騙しやがったな! リンをどうする?」
「離し……て」
 フォルの声が小さく掠れてゆく。起き上がったタックは訓練された諜報員の技術で敏捷に動き、俺につかみかかろうとした。

 まさにその時だ。
「居たぞ、あそこだ!」
「あの壁際だぞ」
「取り囲め!」
 衛兵らしき声と足音が響き、俺は腕の力を緩めるのだった。


 11月29日○ 


[秋の味覚(10)]

(前回)

 高級な冷酒を想起させる、濃密でしかもさっぱりした液体が口に注いできて粘膜を潤し、僕は心地よさに目を閉じた。これまで生きてきた中で、見落としていた幾つもの秋が魂の底辺で走馬燈のごとくよぎる。再生の暖色で華麗に充たされた春や、光が満ちたかと思うと強い雨の叩きつける熱情と移り気の燃え盛る夏、何もかもが色を失って収束に向かい、永い眠りにつく冬とも根本的に異なる――静謐で思慮深く、落ち着いたこの季節を。
 喉を通り過ぎて胃に達すれば、僕の頬が、身体が、最終的には心までもが丸みを帯びてくる。僕は広い空に何もかもを委ねた一粒の砂糖となってとろけ、透き通り、日常的な悩みは浄化され、世界の隅々に繋がる感覚が驚異的に湧き上がってくる。
 一口目は爽快さに始まり、波間に置き忘れた追憶、実りの豊穣に変化を遂げたのち、舌先に残る後味には儚さを漂わせる。

「ふぅ……」
 長い溜め息の後、僕は瞳を開いた。腕組みをして微笑みを隠せずにいる店主と目を合わせ、それから老婦人に向き直った。
 本当に良質だと思える出来事に立ち会った時、人はしばし言葉を失くす。いくら単語や言い回しを選んでも、それは電話口の向こうから流れてくる音楽に過ぎない。結局、つぎはぎだらけのデフォルマシオンされた低次元の感想しか伝えきれないから。
 そう言う時は、満ち足りた時間をもたらしてくれた相手と、貴重な機会に感謝するのが最も理に適ったやり方だと、僕は思う。
「ありがとう、マスター、奥さん。今日という日に旅に出て、この街に立ち寄って、この店に来て良かったですよ、本当に……」
「固くなりなさんな。手品も大概にしろと怒り出すお客さんもいるから、喜んでもらえて私らも安心したよ。とにかくまあ、この出会いに感謝ってとこかな。偶然か必然かは分からんけどさぁー」
「そうですね」
 僕は力強くうなずき、それから興奮を抑えるために〈秋〉を口に含んだ。グラスの中身はいつしか優しい黄色みを帯びている。
「たまにはいいこと言うのねぇ」
「何だい、馬鹿言え……」
 奥さんが感心して洩らした言葉に、口ひげの店主は大いに恥ずかしがって耳まで赤面し、蜘蛛の巣を激しく振り払うように右手を動かした。婦人は僕の顔を覗き見て肩をすくめ、困惑気味の表情を浮かべる。僕も久々に心の底から気持ちよく笑った。
 そして一段落した僕らは〈秋のミックスジュース〉を肴に、次のお客さんが来るまで、しばしの世間話を繰り広げたのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 店を出る頃、グラスの底の方に溜まっていた残りは、色づいた楓のように赤く染まっていた。たぶん味も変わっているだろう。
 それを思い起こさせる夕晴れの空の下、僕は駅を目指し、軽い足取りで歩き始める。高校生の制服姿や買い物の主婦の姿が目につき、商店街は華やいでいた。影はしだいに長くなる。

 駅員の笛が鳴った。ドアが閉まり、電車が動きだす。暗くなる車窓の彼方に遠ざかる街並みを見ながら、僕は考えていた。
 この町にまた来るかも知れないし、もう来ないかも知れない。
 二度と会えないかも知れないし、また会えるかも知れない。
 全てを紅葉させるまぶしい夕陽を浴びて、ただ一つだけ分かるのは――僕はまた旅に出て、知らない何かと出会うことだ。

 別れはやがて想い出へと昇華してゆく。口の奥には、絞りたての〈秋〉が残した深い味わいが、まだ微かに息づいていた。

(おわり)
 


 11月28日○ 


[秋の味覚(9)]

(前回) (初回)

「絞りたての秋ですか……」
 僕は恐る恐る右手を差し出し、グラスを近づける。僕の手の中に掌におさまってしまう空の水面が、微かに揺れ動いている。
「そう、このミックスジュースはなぁ、その名も〈秋〉と呼ぶのさ」
 店主はちょっと大げさに抑揚をつけ、往年の俳優気取りで語った。僕が多かれ少なかれ気に入られたのは間違いないが、あの口ひげのマスター、毅然とした外観とは裏腹に陽気でどこか飄々とした人物らしいことが分かってきた。喫茶店を切り盛りするくらいだから、人と話したり楽しませることが好きなのだろう。
 そういえば――この店の名前は『カフェ 四季彩』だった。改めて考えてみると、実に相応しく思える。特製のジュースは全て季節限定、その日の空の具合により、味も違えば色も異なる。

 そして僕の目の前には今日だけの〈秋〉がたたずんでいる。
 特段の匂いはないが、顔をそばに寄せると頬に僅かな空気の流れを感じ、睫毛が微細になびいた。透明なガラスの容器の内側を涼しく爽やかな風が吹き、突き抜け、廻っているようだ。
「それじゃあ……頂きます」
 天が持つ独特の不思議さ――吸い込まれてしまいそうな蒼に見とれつつも、僕は神妙な表情でグラスに再び手を触れる。
「どーぞ」
「季節を召し上がれ」
 店主とその妻はこの期に及んで一切無駄なことを喋らず、こうした客と語る時に用いるのだろう、カウンターの中にある椅子に腰掛けて、僕の様子を一握りの緊張感とともに見守っている。

 横から右手で抑えたまま左手を添え、指先に力を込めて徐々に持ち上げる。思ったよりも軽いことが僕の期待を高めた。やはり普通の液体ではない――頭の奥が震えるような歓びが生まれ、実際にはほんの刹那の刻をとても待ち遠しく感じさせる。
 口を見下ろす位置まで吊り上げた天の絞り汁が充たされた容器を、今度は傾けてゆく。こめかみの鼓動が速まり、もはや何も聞こえない。あらゆる心の窓が、口元の〈秋〉に向かっている。

 ついに空の第一陣が僕の乾いた唇の先端に触れた。それを合図に、ほんの少しだけ顎を下げて、相手を受け容れる――。


 11月27日− 


[花のかんざし(中編)]

(前回)

「アミレシア、かぁ……素敵なお花だね」
 小柄なリンローナは中腰になってお目当ての鉢植えに顔を近づけ、見る角度を少しずつ変えながら花を覗き込む。広い野原を思わせる草色の瞳に映っているのは、薄桃色の地に白い線が走っており、八枚の花びらからなる可愛いアミレシアだった。
 北国が原産であるこの植物は、大きすぎることも小さすぎることもないバランスの取れた花を咲かせる。くきは短いが、大地にしっかりと根を張る種類のようで、戯れに息を吹きかけると身体を揺らしながらも堪え忍び、自分を信じて踏ん張っている。あまり特徴のない緑の葉は丸みを帯び、先はやや細くなっていた。
 控えめな物腰で、あまり華麗な自己主張はしないけれども、それでいて存在感がある。清らかで気高く、優美で、内に秘めた想いの強さ、信じた道を頑ななまでに貫き通す意志の堅さのようなものを感じる。知的で落ち着いた姫を思わせるたたずまいには、自然と信頼や尊敬、あこがれの気持ちさえ湧いてくる。

 店の老婆はまるで孫の自慢をするかのように目尻を下げた。
シルリナ王女様の象徴となってから、大人気になったのよ」
 古くからメラロール王国では、王室の者が十歳になると、一人一人を表す内々の紋章に花の模様が使われる習慣があるようだ。南ルデリア共和国からやって来たリンローナは、そのような文化があること自体は学院の講義で聞いたことがあったが、シルリナ王女がアミレシアの模様を使っていること、そして目の前の花がまさにそれであることは今になって知ったのだった。アミレシアがさらに北方の原産で、温暖な他国にほとんど輸出されていないことも、博識な彼女との接触を遠ざけていた要因だ。

「お嬢ちゃん、遠くから来たんだろう?」
 全部お見通しとばかり、溶け始めた白雪のような髪を持つ生花店の老婆は訊ねた。十五歳の冒険者、聖術師のリンローナは膝に手を置いたまま顔をもたげ、不思議そうに首をひねる。
「うん。そうだけど……おばあちゃん、どうして分かったの?」
 きょとんとした表情で鷹揚に質問を返した背の低い少女に対し、腰の曲がりかかった花屋の女主人は大きな声で応えた。
「この辺りではあまり聴かない訛りだったからねえ。髪の色も、あたしらノーン族とは違って、薄い緑の色でしょう。それに、たいていの人間はアミレシアを知ってるもんよ……あんた方は?」

 最後の〈あんた方〉は、リンローナの後ろで話をしていた彼女と同世代の少年たち二人に向けられた。一人は金の髪を短く刈った剣術士のケレンスで、十七歳の青い双眸はまだ大人になりきれない幼さを残しているが、まっすぐな視線で相手を見据える情熱的な好人物だった。身体は中肉中背で、肩や腕の筋肉はだいぶ鍛えられており、片側の頬には古い傷が走っている。
 もう一人は茶色の髪の上につばのない帽子をかぶり、レンズの抜け落ちた伊達眼鏡をこよなく愛用している、諜報ギルド所属のタックである。十七歳の少年にしては幾分背が低めで、一見すると真面目な学者の卵のような風貌だ。普段は穏やかで知的な光を湛える茶色の瞳は、まれに鋭く細められ、酷薄にゆがむ時があり――ただ者ではないという印象を相手に与える。
 そのタックがゆっくりと口を開き、理路整然と説明を始める。
「僕らはミグリ町の出身です。当然ながら、アミレシアの花もシルリナ王女の逸話も存じています。そうでしょう、ケレンス?」
「ああ」
 急に同意を求められた剣術士は、ぶっきらぼうにうなずいた。

(続く)
 


 11月26日− 


[雲の戯れ(2/3)]

(前回)

「いい天気だね」
「うん!」
 見下ろして相好(そうごう)を崩す老人の言葉に、ジーナはうなずきました。歩きながら、リュアは斜め後ろに手を振ります。
「行ってきまーす」
「あれっ?」
 その時、ジーナは驚いて瞳をまばたきしました。見覚えのある大通りですが、どこかしら違和感があります。街路樹の葉っぱが減ったからなのか、光の角度が変わったからなのか、掃除をしている老人と会った場所がいつもと違うからでしょうか――。
「……やばい、リュア急ごう!」
「え?」
 声をかけられたリュアはきょとんとしていましたが、急にジーナが小走りに駆けだしたので、あわてて背中を追うのでした。
「ジーナちゃん、待ってよぉ〜!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 冬の始まりを示す風を浴びていると、頭が浄化され、考えが冴え渡ってきます。彼らに混じって路面を蹴り、速度を上げれば、両足が大地を離れるかのような清らかでみずみずしい快感を味わえるのです。コートの中が汗で蒸しても、気にしません。
「ふぅーっ」
 ジーナがようやく止まったのは、大きな四つ辻の交差点の少し手前でした。それほど長い距離ではなかったのでリュアも何とか追いつき、息を弾ませながら友に真相を訊ねるのでした。
「はぁはぁ……どうしたの?」
「だって、急がないと間に合わないから」
 ジーナは胸を手で押さえつつ、冷静に応えました。木の葉の色や落ち具合を観察したり、霜柱や水たまりに張った今年初めての薄い氷など、色々なことに興味を奪われながら歩いていたので、いつの間にか他の同級生よりも遅くなってしまったようです。思いきり走ったことで、またみんなの姿が見えていました。
 二人は呼吸を整えながら、やや早足に広い通りを進んでゆきます。ジーナが半歩前を行き、後ろからリュアがついていきました。葉を落とした街路樹の枝先に輝く朝露と、その間で青く光っている空をあおぎ、ゆるいカーブを曲がります。丘に続く上り坂にさしかかれば、二人が通っている学舎はもうすぐそこです。
 家々の立ち並ぶ坂の向こうに、鐘のついた白い塔が見えてきました。学舎というのは、個人が教えている私塾形式のものが多いのですが、二人が通っているところはデリシ町で最も多くの児童が通っている本格的な学舎で、建物も大きいのです。
 白い吐息を漏らしながら坂の上の方を見上げると、視界の中で空の占める領域がぐんと広がっていることに気づきました。
「あぁ、あの雲……」
 焦げ茶色の手袋に守られた人差し指を伸ばして、真っ青な空を示したのは、銀の髪を肩の辺りで切りそろえたリュアでした。


 11月25日− 


[秋の味覚(8)]

(前回)

「何だって」
 僕は愕然として聞き返した。野菜や果物ではなく空気を搾り取るミキサーなんて、生まれてこの方、耳にしたことさえない。機械のモーターは回転を続け、稀代な液体を作り出している。
 何も入っていないのに水が出てくるなんて、僕の目がおかしくなったのか、あるいは頭がおかしくなったのか、白昼夢でも見ているのか。それとも驚くべき手品のタネが仕込まれているのだろうか――あの口ひげの店主が、実は無類の手品好きで。
 どの仮説も有り得なくはない。だが、どれもがしっくり来ない。
 見当違いだと結論づけてしまうならば、やはり〈空気を絞る〉という可能性がにわかに現実味を帯びてくる。万が一そうなのだとしたら大変なことだ。僕は思わず唾(つばき)を飲み込んだ。
 最初はほとんど透明に近かったジュースは、かなり蒼みを増していた。クリームに似た白いものを浮かべている奇妙な液体には、何となく見覚えがある――そう、今日の秋晴れの空だ。

 その時、僕は感性の領域で、目の前に展開されている事象が嘘でも偽りでもない、言うなれば〈しごく普通の出来事〉であるのだと理解した。旅とは、いわば非日常を味わうためのステージだと思う。だったら、こんな不思議な非日常があってもいいのではないだろうか。十二時であるべき針が十二時五分を指している、ブラウスのボタンの掛け間違え、天気雨――そんな類の、日常と隣接したささいな異空間の一種なのかも知れない。
 僕は自分の感覚を信じたいと願い、さらなる裏付けを得るために老婦人へ向き直り、胸に緊張を走らせつつ訊ねるのだった。
「さっきの、カゼって……」
「ええ。お察しの通り、空の風の具合ですよ」
 店主の妻は首をわずかにかしげ、はにかんだ微笑みで応える。僕はほっと一息つき、今度は老紳士の眼差しを見つめた。
「驚きました。こんなことって、あるんですね」
 僕の声は隠しきれない興奮で僅かに裏返っていた。店主は黒い瞳をほころばせ、その横でうなずいたのは初老の婦人だ。
「そうよぉ、あるのよー」
「だからあれほど強調したのに。秋の味覚、ってさ」
 唇や顎とともに、灰色を帯びた口ひげまでくつろがせて、店主は穏やかな瞳でおどけたように語った。言い終わる前に腕を伸ばし、ミキサーのスイッチに指を載せる。カチッ、という大きな音がしてから、しだいにモーター音が収縮してゆき、羽が止まる。
「まあ気にすることはないですよ、お客さんは心が柔軟な方ですから。世間には頑としてこれを認めない人たちもいるからね」
「心も柔軟体操をしないと凝り固まるから、たまに解さないと」
 夫の言葉に妻が同調し、僕は軽く縦に首を動かすのだった。
「ええ」

 忘れていたボサノヴァの響きが店に、僕の耳に戻ってくる。
「とりあえず、こんなもんでいいだろう」
 店主が呟くと、妻は用意した細くて洒落たグラスを軽く持ち上げ、あうんの呼吸で滑らせるように運んだ。夫は惜しげもなくミキサーを傾け、軽やかな音を響かせて、グラスを充たしてゆく。
 一見するとブルースカイ味のジュースに見える――だが全く合成着色料の感じられない天然の青空のエキスは、流れる白い雲もそのままに、僕の目の前へ優美な姿を現したのだった。
「はい、出来上がり。紅葉しないうちに、どーぞ」
 紳士が差し出したグラスを受け取ると、思わず喉が鳴った。


 11月24日△ 


[虹あそび(25)]

(前回)

 ほうきに乗って出発した野原が見えてきます。ナンナとレイベルは足を伸ばして待ち構えました。成長を続ける春の草が受け止めてくれたため、軽い衝撃とともに降り立った久しぶりの地面は、二人の十二歳の少女に深い安心感をもたらしてくれます。
「ふぁ〜あぁ、無事に着いたね。ナンナ眠いよぉ」
「ナンナちゃん、今日はお疲れさま。ゆっくり休んでね」
 思いきり真剣に遊んだ後の帰り道に特有の、充実感と眠気が緩やかに訪れます。陽はようやく西の山脈に沈もうとしていました――昼間が延びたことが実感できます。空気は冷たいのですが、北国とは言っても真冬のような厳しさはありません。雨に濡れた草はだいぶ乾いていました。やがては春の夜の妖しさが浸みてくるのでしょう、東の空から光の幕が消えてゆき、闇の晩餐会に参加する星たちがいつもの椅子に座り始めます。

 野原を突っ切って村の道に出た二人に、お別れの時が訪れます。ナンナの家は左へ、レイベルの家は右側です。先に笑顔で手を振ったのは、村長さんの娘で優等生のレイベルでした。
「ナンナちゃん。あした、学舎でね!」
 その言葉に、勉強嫌いの落ちこぼれ魔女のナンナは急速に現実へ引き戻されます。ほうきを杖代わりに地面へ置き、がっかりした声と苦り顔で、諦めきったように返事をするのでした。
「あーあ、明日は学舎なんだよねー」
「うん。今日はありがとう、楽しかったわ。じゃあね!」
 レイベルは身体をひねり、背中の方を何度か振り向きながら優雅に、しかも元気良く歩き始めました。他方、ナンナはその場に立ち止まったまま大きく手を動かし、再会の約束をしました。
「バイバぁーイ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ピロ、また遊ぼうね。おやすみ〜」
 鳥籠に布をかけながら、長袖パジャマに着替えてすっかり寝る準備の整ったナンナは言いました。ランプの光にぼんやりと浮かぶ白は、小さな魔女の使い魔でもあるインコのピロです。
「ぴゅーぃ」
 小さな甘え声が籠の中から聞こえました。愛おしそうな笑顔になったナンナはそのまま窓に向かいます。二階の部屋を通り抜けるしなやかな軽い夜風は、相当に涼しくなっていました。
 窓から覗く景色には、虹の梯子の跡を示す七色の宝石が縦に続くまばゆい天の川となり、星の舞踏会のお客さんとしてチカチカと瞬いています。弾け飛んだ〈闇だんご〉は、とっくに夜の家へ帰っていったのでしょう――もう区別することはできません。
「ふぁ〜」
 目一杯遊んだ後の生あくびをしながら、ナンナは窓を閉め、カーテンを閉じました。それから窓辺にランプを置き、炎を吹き消してからベッドに潜り込みました。静かに咲いた春の宵です。

 ピロが瞳を閉じた鳥籠の横で、ナンナはすぐに寝息を立てていました。レイベルと一緒に天と地をつなぐ虹の梯子を昇ってゆく夢を見ながら、小さな魔女は朝までぐっすりと眠るのでした。
「ほら、きれいでしょ☆ あははっ……」

(おわり)
 


 11月23日− 


[虹あそび(24)]

(前回)

 どこまでも見渡す限りに続いている天の花園は、あらゆる色の、あらゆる形をした花がそれぞれの美しさを奏で、響かせ合い、互いの良さを認め、足りない部分を補いながら一面に咲き誇っていました。必要でない花はただの一つとしてありません――それら全てが、今まさに、ほのかな茜(あかね)に染まっています。薄い朱色のお化粧のようにも見えますし、はにかんで頬を赤らめた大人と子供の境目の少女のようにも思えました。
 瞳を開いた刹那、レイベルはまず最初にそう感じました。それは胸を震わせ、魂を揺さぶり、鳥肌を立たせて首筋の後ろに稲妻を走らせまるほど、存在の源へ直に響いてくる光景でした。

 透明に近い空色をした春の夕方の風は二人の少女たちを優しく受け止め、定まった速さで地上へ――懐かしいナルダ村へと運んでくれます。上空の寒さは、赤い花びらから発せられる炎の温もりが和らげてくれました。海の青をした丸い固まりを口元に引き寄せれば、それは水と変わって喉を潤してくれます。
 明るい茶色、また橙色の細かな粒からは大地の匂いがしました。銀色と黄色の混じった神秘の光は優雅に横たわり、きたるべき夜の月の光を教えてくれます。流れる紫は人々の夢を彩り――それらはみんな形のない〈生命の木〉に育った果実です。
 辺りには、お母さんの膝枕で寝ているような限りなく心地よい優しい光がいっぱいにあふれ、絵の具のような七色の雨粒がシャボン玉のようにきらきらと舞っていました。地上には霧の子供たちが生まれていて、上空から見るとはっきり分かります。

「……」
 手をつないでナルダ村を目指し、弾けた虹の破片とともに降りてゆくナンナとレイベルには、もはやどんな言葉も必要ありません。透き通った心は夕暮れに溶けてゆきます。世界全体が、沈みゆく今日の夕陽を弔うかのような清らかさです。一軒一軒が見分けられる村の家々や、頂に雪を残す遠い山々の稜線、緑の平原に細く蛇行している河と街道、薄暗くなってきた東に拡がる大海峡――果てしない視界を遮るものは何もありません。
「風さん、ありがとね☆」
 魔法と精神集中で疲れ切ったナンナの身体を支えるのは、虹の宝石の中に詰まっていた水色の風たちです。右手をレイベルの左手に重ねて握りしめ、左手は大切な魔女のほうきをつかんでいます。やはり七色の珠から出てきた、辺りに散らばっている赤い炎のかけらが温かさをくれますから、ナンナはもう魔法を使う必要がなく、景色を心ゆくまで堪能することが出来ました。

「うわぁ、ナンナちゃん、上を見て……」
 黒い髪のレイベルは、甘くて美味しいケーキを食べた時のような幸せの表情で、夕焼け空をあおぎました。友達の言葉を聞いた小さな魔女は素直に受け容れて、ゆっくりと顔を上げます。
 するとどうでしょう。さっき二人が割った大きな虹の珠を卵だと考えれば、黄身と白身のようにあとからあとから降り続いてくる華麗で可憐な流れは、まるで縦に伸ばした虹のはしごです。
 暮れかかる空で夕陽の残照を受け、それはひときわ目立っています。強い光は放っていませんが、出会えるはずの明日、信じてゆける未来の希望を予感させて、ぼんやり輝いています。
「すっごい……ほんと、すっごいねー!」


 11月22日○ 


[安らぎの囁き(3/3)]

(前回)

「お月様って、どうして一日ごとに形が変わるんだろうね?」
 横になり、体温と布団の交錯する温かみを感じながら、シルキアは限りない安らぎを感じていた。難しいことは何一つ不要で、湧き上がる眠気に身を任せられる、とても贅沢な時間だ。
 静まり返る空間につつまれ、シルキアは自分の鼓動の安定したリズムをはっきりと感じていた。寒さのために木の床がミシッと鳴る音が、昼間では考えられないくらいに強調されている。
 知らず知らずのうちに、まぶたが重くなって閉じようとする。姉は眠ったのだろうか――そして睡魔に身を任せかけたとたん。
「たぶん、お月様にも、気分の波があるのだっ……」
 真っ暗な中からファルナのいらえがあった。波、という単語を聞くと、いつか訪れた森の湖のほとりに寄せる周期的な流れを思い出した。想い出の中の透明な波に、胸の鼓動が重なる。
 山奥のサミス村で生まれ育ったシルキアは海の波を見たことがないし、おそらく一生見ないだろう。旅人から教わるのみだ。
「気分の波……」
 今日はご機嫌斜めの三日月、元気が出てきた上弦の月、満面の笑みの満月、困ったような下弦の月、姿さえ見せたくない新月。それらの循環が、シルキアの意識の奥を駆けめぐった。
「さすが、おねえ……」
 後に続く姉の敬称は、シルキアとしては言ったつもりだったのに、実際には口に出されない言葉だった。夢と現が混濁する。
(お姉ちゃんの発想はいっつも面白いよね!)

『おやすみ』
 その囁きはどこかしらファルナの声色にも似ていたし、はたまたシルキアらしくもあり、またどちらでもないとも思えた。姉妹はほとんど無意識の領域で、まどろみの挨拶を交わすのだった。
「お、や……」
「お……み……」

 二人の寝息が微かに響き始め、あとは闇だけが残された。

(おわり)
 


 11月21日− 


[ルデリア世界 - 北シャムル地方とラス教]

 世界最大の島・シャムル島の北西部、黒髪族の多く居住する北シャムル地方で、近年妙な光景が目撃されている。仕事の後の夕食の頃、農家が家族単位で移動し、広い家に集まり、暗い中で何やら小規模な集会が開かれている――とのこと。
「その時、幼き日のラス先生は確かにご覧になりました。白い装束を着た五人の天使が空の国から降臨し、道を示したのを」
 使い古されて黄ばんだ簡素な紙芝居で、文字を知らない農家にも子供にも分かるよう奇蹟を教え諭し、教祖を神聖化する。

 シャムル島は、現在ではザーン族の治めるシャムル公国に統一されているが、かつては南シャムル地方だけが〈魔の国〉マホジール帝国領のシャムル公国で、北半分は〈武の国〉ガルア帝国の治める、黒髪族のガルア領北シャムルであった。ガルア帝国の崩壊後、北シャムルはポシミア連邦の北シャムル州に移行し、トケラセス町を州都としてほそぼそと生き延びていた。
 ところがポシミア連邦は、のちにラット連合となる地域の独立戦争に敗れてしまう。本国の弱体化につけ込んだシャムル公国に侵攻され、北シャムル州は孤立無援のまま併合される。
 両者は同じ島に住む者同士であるが、古くからソルディス山脈によって交流が阻害されてきた。併合の結果、当然のごとくシャムル公国とポシミア連邦は一触即発の険悪な状態に陥ったが、貿易などでつながりの深かった両国は民間レベルでの交流は黙認するに至った。が、国交は未だに樹立していない。
 なお今でも北シャムル地方は、大海峡を挟んでのポシミア連邦や、メラロール王国傘下のガルア公国とのつながりが深い。

 北シャムル地方は南シャムルより地形も気候も険しく、面積も狭い上に土地もやせている。人口も少ない。その上にザーン族の統治を受け、黒髪族の住民の間には非常な閉塞感が強い。
 そこに登場したのが、元ラニモス教の聖職者だったラス・ド・バーハ氏である。彼は天使や神と接触したと公言し、ポシミア町のラニモス教の神殿から破門の憂き目に遭った。その後、氏は海を渡ってトケラセス町に至り、市井で熱心に教えを説いて回り、少しずつ熱烈な協力者を獲得していく。特に、北シャムルでは数の多い貧民層に信者が増えていることが特徴である。

 ラス教の裏の顔は政治権力志向であることだ。教祖のラス氏は公式の場では表明していないが、町政に強い興味があるというのが専らの評判である。教義を盲目に受け容れる信者たちは、冒頭で触れた夜な夜なの会合の議題として、どうすれば神者をもっと獲得し、じわりじわりとトケラセス町のあらゆる権力基盤を握ることが出来るのだろうかと、熱い論議を交わしている。
 ラス教の信者はかなり増え、無視できない数になってきたものの、強硬に反発する者や無関心の住民も多く、増加数は近年は頭打ちになっているようだ。トケラセス町の行政をラス氏が裏側から支配し、財政基盤を握ることによってのみ、現在の貧困は解決されうる、そしてラニモス教を廃し、ラス教が人々の魂を導いていく――ラス氏の思想は伏流水のように伝わり、信者たちの願いはますます静かに加熱し、解放の時を待っている。

 ルデリア世界では、フレイド族の土俗信仰を除き、人間族・妖精族・リィメル族にはラニモス教が幅広く伝播し、信仰を集めてきた。聖王領などの特殊な場所を除けば、政治界と宗教界は緊張することなく穏やかな協力関係を築いてきたのが普通であったし、互いの権益を尊重しつつ古くからの制度を守ってきた。
 当然、通常の国家間の戦争は勃発しても、皆がラニモス教を信じているため、宗教的目的の違いから来る戦いはほとんど皆無であった。だが歴史の表舞台から長らく遠ざかっていた辺境の北シャムル地方で、政治的目的と宗教的目的を同じくする宗教国家が今まさに登場しようとしている。禁煙はポシミア連邦のポシミア町やセンティリーバ市から学者も集まり、当初の貧民層のための思想を越え、富裕層にまで浸透し始めている。

 興味のない住民達からは異様と思われているが、団結して行動すればトケラセス町を大恐慌に陥れるだけの人数に達している。果たしてラス氏の思惑通り進み、トケラセス町は宗教国家として無血解放されるのか。多くの血が流れるのか。シャムル公国に対する信者たちの積年の鬱憤は高まり、そう遠くないうちにかなり際どい局面を迎えるのは確かであると予想される。

 シャムル公国側は〈危険思想〉とみなしており、駐留軍の武器や装備を強化しているが、事が起こる前にラス氏を捕らえるのはむしろ危険であり、あまり兵力は割いていない。過去に蔑視していた少数民族〈夕闇族〉の反乱で国の根底が揺さぶられ、世界中から非難を浴び、夕闇族に完全な自治権を与えた事件が記憶に新しいシャムル公国の支配者層は、異民族である北シャムル地方の動向を今のところ静観する構えのようだ。

 今夜も各地で開かれる集会に顔を出し、ラス氏は力説する。
「どんな教えも最初は異端だったのです。私を信じなさい……」
 


 11月20日− 


[雲の戯れ(1/3)]

 だいぶ冷やされた北風が、明るい朝の町を駆け抜けていきます。山の向こうから降り注いでくる光はまぶしく、額に手を当ててもしばらくは残像が残っていました。通りの蔭の面積が広がるので、夏とは反対に細い日なたを選んで歩くようになります。
 シャムル公国の主要な港であり、魅惑の島の玄関口として栄えるデリシ町はとても裕福で、商人たちは競って息子や娘を学舎に通わせています。近くの村から獲れたての旬の野菜を運んできた荷馬車や、修行中の若い職人さん、朝市の帰りの漁師さんに交じり、学舎へ向かう子供らの姿が見受けられます。
 空気の中をかすかに漂う潮の香りは海が近い証拠です。鼻の感覚を鋭くしていると、どこかの広場で落ち葉やゴミを焼いているのでしょう、妙な焦げ臭さが漂ってきたのを捉えます。目も少し痛くなりましたが――風向きが変わればへっちゃらです。
 角度のきつくない屋根屋根が立ち並び、いろいろなお店の名前や、分かりやすい看板が出ています。喫茶店はカップが目印ですし、宿屋や雑貨屋、八百屋や、酒場や花屋など、こぎれいなお店がひっきりなしに立ち並んでいて、見ているだけでも飽きません。さすがに朝からやっているお店は少なく、せいぜいパン屋や薬屋くらいでした。新鮮な魚は市場で売られています。

 金色か銀色の髪を持つザーン族の子供たちは、実に様々な服装をしていましたが、誰もが薄い上着を羽織っていました。港町のため大陸の流行にも敏感で、高い文化を誇っています。
「望月の光射し、空翔る軍馬ぞ、高らかにいななける……」
 有名な古代の詩を呪文のように暗唱し、誇っている少年や、
「寝てるの? 朝なんだよね。寝てるの?」
 足下に積もる葉をずっと蹴りながら歩いている男の子、
「さん、にー、いちっ、それっ!」
 四人の女の子たちは新しい遊びを考え、そのうちの一人、ツインテールの子が後ろ向きに歩いている姿も見受けられます。

 広すぎもせず、かといって狭すぎることもない通りの左右には街路樹が等間隔に背を伸ばしています。落葉樹はひらひらと舞い、煉瓦の路面を埋め尽くして茶色の絨毯に変えました。雨が降ると滑りやすくなり、馬車が走りづらくなるので、ほうきを手に掃除をしている近所のおじいさんがいます。白髪のおじいさんは、顔見知りになった通学の子供らと朝の交流を楽しみます。
「おはよう、おはよう」
「おはよー!」
 元気に挨拶したのは、背が低めで長い金の髪の活発な女の子、八歳のジーナです。その隣にいる同級生、銀の髪の夢見がちな少女、九歳のリュアも笑顔で丁寧に会釈するのでした。
「おはようございます」


 11月19日△ 



僕は現れた。

目の前には、だだっ広いコンクリートの壁があった。


壁は草原の上に造られ、青空の彼方まで続いていた。

その先は霞み、終わっているのかさえ分からなかった。


僕の後ろには何もなかった。

黄緑の絵の具を塗りたくったような単色の野原だった。


壁には無数の窓が、それこそ至る所に開いていた。

壁は壁であり――と同時に、窓の集合体でもあった。


それぞれの窓には、深緑の扉がついていた。

その扉は大きく開かれ、向こう側の世界を映していた。


そして僕は壁に向き合い、黒い梯子をかけた。

伸ばそうと思えば幾らでも伸ばせる、鉄の梯子だ。


その朝、僕は一つの窓を選んだ。

開いた窓の向こうの景色を、この目で、ずっと眺めていた。


夜が来ると、僕は窓を閉めた。

僕は梯子を短くし、草原に横たわって眠った。


明くる朝、僕は新鮮な気分で、別の窓を選んだ。

微妙に異なる景色が、壁の向こうに展開されていた。


僕は日がな一日、その風景に釘付けになっていた。

精一杯、見つめ、奔走した。くたくたになって眠るまで。


一度閉めた窓は、もう二度と開かなかった。

その景色は思い出すことしかできない。


開いている窓は少しずつ減っていたはずだが、

目の前の壁は余りにも大きく、僕に実感はなかった。


でも、間違いなく限りはある、とふと思った。

気づいたら、窓が全部閉まっている朝が来るのだろうか。


それとも、梯子から足を滑らせるかも知れない。

壁に、猛スピードのトラックが突っこんでくるかも知れない。


二度と見られない景色を、胸に刻もう。

今からでも遅くはない、改めて誓おう。


そうして僕は今夜も、一つの扉を閉めるのだ――。

 


 11月18日− 


[秋の味覚(7)]

(前回)

 ミキサーのモーターは軽い音を立て、羽は快く回転を続けていた。それだけならば単純な試運転なのだが、気のせいだろうか、僕の聴覚は僅かに水分を含んだ爽やかな響きを捉えた。
 静かな空間にいたので耳が慣れていなかったのかも知れないと思い、僕は店主の顔を見上げたが、彼は口ひげの似合う顔に勝ち誇ったかのような悪戯っぽい微笑みを浮かべるのみだ。
 困ったように婦人へ視線を送っても、相手は人差し指でミキサーを示し、古風な少女のごとく清楚に首をすくめるだけだった。

 そして僕は再び機械に焦点を戻す。普段は野菜や果物を磨りつぶし、果汁百パーセント、天然のジュースを作る目的で使用される旧型のミキサーにじっと目を凝らし、耳を澄ませていた。
「え?」
 僕の瞳は見開かれ、顔は硬直した。思わず身を乗り出す。
「だんだんと、絞れてきたようですね」
 婦人の言葉も頭まで届かず、僕はミキサー内の変化に引き込まれていた。さっきのささやかな水音――あれは空耳ではなかったのだと確信する。僕の様子を眺めていた初老の夫婦は互いに軽く目配せする。ミキサー越しに見た二人の表情と、醸し出す穏和な雰囲気は、深い安堵と歓びとに彩られていた。

 僕が微妙に位置を変えると、光の加減か、ほとんど透明と変わらないほど薄い青の液体がちらちらと光り輝く。薄めたブルースカイのジュースに見えないこともないが、伝わってくるものが決定的に違う。僕が見とれている間、それは少しずつではあるが量を増し、今は小指の第一関節ほどの水嵩になっていた。
 何も入っていないミキサーから、蒼天色の水が湧いてくる。
 こんなことがあるものだろうか。手品ではあるまい――僕は背中に鳥肌が立った。遠い町の人と束の間の出逢いを楽しみ、普段は味わえないものを体験する。まさしく旅の醍醐味である。
「動く宝石のような……中に何も入っていないのに!」
 僕は感嘆して顔をもたげ、やや早口で言った。他方、店主は僕を見下ろし、呆れたように手を振りながら質問を投げかける。
「いや、いっぱい入ってるじゃないのさ。分かる?」
「え? だって、ミキサーには空気しか……」
 訳が分からない、常識では考えつかない。しどろもどろになり、どう返そうかと言葉を飲み込んでしまった。そんな僕を店主は真っ直ぐに指さし、とても軽い声で――だが明瞭に応えた。
「当ったりぃ」


 11月17日△ 


[安らぎの囁き(2/3)]

(前回)

 両腕を水平に伸ばし、壁にぶつからないようバランスを取りながら、シルキアは部屋を横断する。小さい頃から馴れているので闇の海を泳ぐのは得意だ。やがて爪先がベッドの脚にぶつかると、彼女はその場にロングコートを脱ぎ、布団に潜り込む。
「ふぅー」
 姉のファルナの、思いきり息を吐き出す音が微かに聞こえる。どうやら、うつぶせの姿勢のまま布団に吹きかけているようだ。温かさが口の周りから顔まで拡がって、気持ちいいのだろう。

「さむーい」
 パジャマの暖かさは冷え切った毛布に負けてしまい、シルキアも最初は姉と同じく背中を海老のように丸めて震えていた。
 それでも身体が触れている布地から、しだいに体温の領域が膨らんでゆく。足先が温まってきたら、その春を伝えるべく慎重に膝を伸ばす。最初は〈未開拓の〉氷のごとき毛布に驚くが――冬は確実に塗り変わる。さらに腕を広げ、腰の力を抜いた。

 仰向けのシルキアはおもむろに瞳を開く。閉じても開いても全く見分けがつかないほどの漆黒の闇ではあるが、眼球が冷え込むことでまぶたが上がっているのだと改めて気づかされる。
 顔を斜めに倒し、隣のベッドに視線を送っても、やはり何も見えない。ほてってくる身体と足が少しずつ眠りの国へいざなう。
「お姉ちゃん……?」
 シルキアは何となく話がしたくて、姉の睡眠の邪魔にならないくらいの小さな声で呼びかけた。湖の底にいるかのような暗い夜、しじまの谷では表情も身振り手振りも意味を失う。声だけが残された交流手段で、気持ちを映す水鏡として運ばれてゆく。

 やがて寝付きのいいファルナの半ばまどろんだ返事がした。
「んー?」
「さっき、お月様が出てたんだよ。冴えた光だった」
 シルキアはすかさず囁く。その瞬間、彼女の頭を閃きがよぎった――もしもあたしが話しかけてるのが、本当のお姉ちゃんじゃなくて、お姉ちゃんの声を真似している〈闇〉だったとしたら?
 山奥の村で育ったシルキアの出した答えは素朴で単純だ。
(見えないから結局は分からないけど……どっちでも嬉しいな)


 11月16日× 


[安らぎの囁き(1/3)]

「ねえ、お姉ちゃん」
 窓辺に立ち、ランプの明かりを右手に掲げた十四歳のシルキアは、すでにベッドの中へ頭まで潜り込んでいる姉のファルナに声をかけた。さっきまで誰もいなかった姉妹の部屋は冷え切っていたが、シルキアの目の前の窓ガラスには細かな水滴が付着していた――朝になれば結露してカーテンを湿らすのだろう。獣の遠吠えが、雪化粧した深い森の彼方から響いていた。
 厚手の長袖のパジャマの上に毛皮のロングコートを羽織ったシルキアは、ランプを消そうと絶え間なく闇が染み込んでくる部屋の中でいかにも寒そうに肩をすくめ、栗色の瞳で窓の向こう側を見つめていた。数えきれない星たちの瞬き――銀や薔薇色、瑠璃色――は、まるで親密な内緒話を小声で囁いているかのように思える。シルキアの鼻と唇からはぬくい吐息が洩れて、近づきすぎると質の悪いガラス窓の表面をいっぺんに白く染めてしまった。その曇ったガラスの遙かな高みに、ひときわ目立つ向日葵色の光が夢の扉を思わせて朧にかすんでいる。
 それは南の空を斜めに昇ってゆく途中の十六夜の月だった。

 シルキアは速やかにカーテンを引いた。夜空と星と月が協演する晴れた初冬の舞台の幕は下ろされ、内外が断絶される。
「お姉ちゃん、もう寝ちゃったのぉ?」
 振り向いた妹のシルキアが探るように訊ねると、
「フワッ!」
 冷たい布団に抱かれて身体中が冷やされ、息を止めていたのだろう――ファルナは急に顔を出し、苦しそうに呼吸をした。
「ふわぁ、ふわぁ、ふわぁ……」

「なんだ、起きてたんだ」
 敢えて相手の反応を引き出そうとつまらなそうに呟いた言葉とは裏腹に、しっかり者の妹はほっと口元を緩めた。窓際にある背の高い樫の木の台にランプを置いて、質問を投げかける。
「消しても平気?」
「いいよん」
 姉のファルナは身体を丸め、ベッドの中で縮こまっていた。顔が寒かったのだろう、返事が終わるとうつぶせの姿勢になる。
 美しい彫刻の施された金属製のランプには横に取っ手がついていて、下側が円柱状の油入れになっている。温かみのある淡い光は火屋(ほや)の内側で優しく花開いていたが、芯の上にあるネジをシルキアが左へ回すと、急速にしぼんでいった。
 こうして姉妹の部屋は漆黒の夜の粒に充たされたのだった。


 11月15日△ 


その時、彼の頭の中に、不思議な声が注がれてきた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「心の眼を開いて!」

「物事の裏側にある、真実を見極めなきゃ」

「眼も耳も口も手も、結局は道具に過ぎないんだ」

「見ようと思わなければ、それは本当は見えていない」

「聞こうと思わなければ、それは本当は聞いていない」

「味わおうと思わなければ、それは本当は味わっていない」

「些細なことも、意識すること」

「うつろう季節、空の色、光の角度、他人の感情」

「そこから幾らでも、真実の断片を汲み出せるはずだよ」

「僕らの声を」

「私たちの姿を」

「生けとし生きるものの想いを」

「どこにも存在しなかった、物語を」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

忘れかけていたこと――彼はふと気づいたのであった。
 


 11月14日− 


[天音ヶ森の鳥籠(12)]

(前回)

「誰よ、出てきなさいってば!」
 身を乗り出し、シェリアは再び姿の見えない相手に向かって挑戦的に叫んだ。ただでさえ暗く狭いところにいたので少しずつ心細さが生まれ始めていたが、何が起こり、どういう状況なのかを早く知りたかったし、分からないなりに情報は集めておきたかった――正直な所、敵でさえ話し相手になって欲しかった。
 シェリアの甲高い声は籠もったように響き、やがて霧散して消えてゆく。絶えず〈何者〉かの気配はしているのだが、視界に映らないと不安はつのる。紫の瞳の魔術師はいつしか胸の辺りに妙な圧迫感を覚えていた。呼吸は重苦しくて上手く出来ない。
 怒りを装うことで不安や孤独感をごまかしていたが、それも限界に近い。暗い中、しだいにうつむきがちになり、低く呻いた。
「卑怯じゃない……」
 シェリアの声の調子は明らかに下がっていた。言い終わると唇をかみ、森の中にあるらしい謎の部屋の全体に再び注意を払っていたが、やはり相手の反応はなかった。シェリアはまだ決して諦めてはいなかったが、珍しくも急速に絶望的な気分が拡がってきていた――ここには最も信頼できるルーグもいないし、口は悪くても剣の腕は確かなケレンスもいない。賢明な作戦を提示してくれるタックもいなければ、優しく力強く励ましてくれる妹のリンローナもいない。文字通りの〈独りぼっち〉に陥り、自分の無力感が際だってくる――私に出来る事って何なの?

 弱まっていた紫苑色のまなざしが、にわかに強まる。シェリアは手をついて足の裏と膝に力を入れた。女性にしては背の高い彼女の全身が神殿の塔のように起き上がってゆく。さっきの夢幻の霧の名残か、一瞬だけ立ちくらみの症状が起きたものの、両足を軽く開いてバランスを取る。光が僅かのため天井は見分けられないが、とりあえず上をにらみ、それから両手を掲げる。
「いいわ、そっちがその気なら考えがある」
「魔法を唱えるの?」
 しめた、とシェリアは思った。ようやく、待ち望んでいた相手の反応を引き出すことが出来たからだ。やはり子供じみた喋り方で、つかみ所のない柔らかな響きが閉鎖的な空間を充たす。
 何か言い返そうと思ったが、シェリアはこめかみに周期的な痛みを覚え、立ちすくんだまま手の甲で押さえた。顔を苦痛にゆがめ、額にうっすらと冷たい汗が浮かぶ。地の利がない、敵の本拠地に捕らえられた虜囚なのだと改めて思い知らされる。
「逃げ場もないのに籠を燃やしちゃったら、火だるまになるのは貴方なのにね。堅い木で編んだ壁はよく燃えるよ。ふふふっ」

 シェリアはこめかみの痛みも忘れるほど、学院魔術科で鍛えた持ち前の集中力を高めて、一言も洩らすまいと聞いていた。
 重要な単語を頭の中で繰り返し、瞬時に焼き付ける。逃げ場がない、籠、堅い木で編んだ壁、籠、良く燃える、籠、――。


 11月13日− 


[雲のかなた、波のはるか(16)]

(前回)

 改めて見つめると、吸い込まれてしまいそうな迫力がある。
「飛び込む……んですの?」
 尖塔の展望台から顔を出して、十六歳の草木の神者はしばらくの間、ぼう然としていた。窓から彼女の身長ほど低い辺りをかすめ、潮の香りのする海の水らしき激流がすさまじい轟音を響かせて飛んでいる――青空から降り注ぐ細切れの明るい夏の光を返して無数の宝石のようにきらめき、魚たちの翼となって。
 強い風が見晴台を吹き抜けると石造りの塔は高く鳴り、叫び声を思わせる。神秘の海水の龍がおぼろに吹き出している方を眺め、その厚みを調べる限り、大した深さはない。おぼれて沈む、あるいは流れから外れてしまえば、そこは単なるイラッサ町の上空だ。灰色の雲を突き抜けて真っ逆様、とても助からないだろう。その危険性がサンゴーンを躊躇させていたのだった。

「さすがに無謀な感じがしますわ」
 軽く腕組みし、緊張した顔で若き神者は溜め息混じりに付け加えた。ただ、それは今後の行動を否定する言葉ではなく、もはや半ば覚悟を決めた上での懸念だった。祖母が生前に体験したことから、より善く生きるための手がかりを得たい――まだ正確に自覚してはいなかったが、無意識のうちにサンゴーンはそう考えていたのだった。今さら帰るという選択肢は存在しないが、いざ出航しようとするとためらってしまう、錯綜した心境だ。

「でも、やるっきゃないよね」
 開きっぱなしの状態で固まってしまったかのような黒いこうもり傘をしなやかな両腕でかかえたレフキルは、落ち着いた表情で決然と語った。お気に入りの青いスパッツから出ている艶やかな腿は細く筋肉質で、躍動する刻を待っている。森に住む妖精族の血筋を伝える緑がかった瞳は生命力にあふれ、とことん楽しもう――成し遂げよう、という前向きの気概に充ちていた。
「言わなくても、サンゴーンなら分かってるよね」
 相手に傘を渡しながらレフキルは少女らしい素直な笑みを口元に浮かべたが、視線の放つ力は圧倒的に真剣そのものだ。
 ガラスや扉がはめ込まれていない吹きさらしの見晴台の石の窓枠に手をつき、身軽な商人の卵は勢いをつけて飛び乗った。そのまま座り込み、左手を壁に預けて支え、後ろを振り返る。
「たぶん……ハイですの」
 湧き水のように止めどなく強まる期待と希望の中に、いくばくかの心細さを残したまま、サンゴーンは重々しくうなずいた。親友に傘を戻し、スカートに気をつけながら、ゆっくり這い上がる。

 改めて間近に見下ろすと、空を走る海の流れはさっきよりも増幅したように感じた。潮の香りが直接的に鼻を突き、口の中に水っぽい唾液を呼ぶ。レフキルは傘の柄を持って前に伸ばし、辺りの轟音に負けぬ大きな声で隣の親友に告げるのだった。
「傘を投げ込むと同時に、飛び降りるよ! 準備はいい?」


 11月12日○ 


夢素描]

 雨上がりの朝だった。野原の草も木も花もしっとりと艶やかに濡れて、くきや葉に涙の宝石のような雫を浮かべ、雲間から降り注ぐ眩いばかりの光に優しくきらめいている。気温はかなり下がり、唇の隙間から洩れる吐息は白く、地面に近い場所をもやが漂っていた。不純物のない澄み切った風は冷たいけれども清々しく、身体を撫でて吹き抜け、心の中までも透明にする。

 濡れた草を踏みしめて、一匹の雄の野ウサギが現れた。脚の毛が湿るのも気にせず、彼は疾駆する。しなやかで引き締まった全身の筋肉が機敏に動き、大地を蹴り、草の波を掻き分け、走り、走り――突如、長い耳を立てて停まる。大きいつぶらな瞳で野原の様子を注意深く観察し、硬い髭をピンと伸ばす。
 再び動き出した彼の姿は見る見るうちに遠ざかり、後ろ姿は枯れ草の絨毯に覆われた森の果てへと消えてゆくのだった。

 天を仰げば雲間に蒲公英色の空が拡がっている。翻って視線を落とせば、足元の浅葱色の花がゆうべの雨にしおれている。

 薄い霧がかかる中を、背の低い細身の誰かがやってきて、野原に影を落とす――草で編んだ籠を持って幻のごとく歩き始めたのは苺狩りの少年だ。彼の金の髪は朝陽に照り輝き、くたびれた服装とは裏腹に、頭だけは黄金の彫像のように見える。世界が飼っている小鳥の唄が朝の誉れを頌え、高く響いている。

 かつては世界の中心として栄えたマホル高原であるが、帝都マホジールから街道を南西に下り、ルドン伯爵領まで来ると多くの自然がありのままに残されている。東、南、北の峻険な山並みを背景に、遠くまで見渡せる高原のなだらかな土地が続いている。西側は町となっており、伯爵の居城である古びた砦と尖塔がそびえ立ち、屋上に掲げられた国旗が風にはためく。

 雨が降るごとに、空に貼り付けられた限りなく薄いガラスの氷は一枚ずつ溶けていって――木々の落葉のように――そしていよいよ厳しくも気高い孤高の乙女、冬の空が見え隠れする。

 それらの全てが、秋の終わりの切なくも美しい情緒である。
 


 11月11日− 


秋の長雨が……(未完)

【dia0311.mid】
 


 11月10日△ 


[虹あそび(23)]

(前回)

「レイ、っち、力を、貸し……て!」
 ナンナは歯を食いしばって言いました。あまりに必死なので、視界に映るものはメチャクチャです。虹の赤や黄色が雷のようにはじけました。激しい風の音も今となっては耳に届きません。ひたすら〈壁を破りたい〉と願い、全身全霊を傾けて押します。
「う……う」
 あまりの抵抗感に目をつぶっていたレイベルですが、それでも懸命に虹の内側へ腕を伸ばそうとしました。力が抜けてくると、繰り返し自分にむち打って重心をずらし、もう一踏ん張りです。

 心臓の鼓動は駆けずり回るように速まり、息はいくら吸っても追いつかないほど苦しく、したたる汗は額からこぼれ落ち、ほおを伝って流れ、目に入ってしみました。耳鳴りまで始まります。
 それでも変化は確かに起こり始めました。さっきまではびくともしなかった七色の珠をつつむ薄い闇色の膜が、ほんの少しだけへこんだように思えたのです。重みはさらに増してきました。
「う、あっ……」
 ナンナもレイベルもうめき声になりました。服は湿って、このままでは風邪を引きそうです。ナンナが作り上げた寒さから守る夜の膜も限界が近づいていました。もう後戻りはできません。
 柔らかくて弾力性を持ち、しかも鉛のような抵抗力がある、巨大なクラゲを思わせる虹の壁を突き破るのは――ナンナが考えていたよりもずっと大変でした。もともと同じ〈闇だんご〉同士なので簡単に溶け合ってくれると信じて疑わなかったのですが、勢い良く跳ね返されたり重かったりと、大変なことばかりです。

「ナンナ、ちゃんっ」
 レイベルはかすむ意識の中、友達の左肩をつかんでいたのをやめました。ほうきに乗ったまま虹に沈み込んでいるので、二人をつつむ〈闇だんご〉は楕円にひしゃげています。何とか呼吸は出来ますが、やはり目は開けられません。手探りのレイベルは右腕を高く掲げつつ前かがみになり、左腕をナンナの腰の脇から思いきり伸ばして、ついには友の手の平を握りしめます。
 温もりを通して、確かな友情の証が高まります。二人の心は合わさり、虹のくぼみに最後の力を結集して切り込みました。

「あっ!」「ああ!」
 突如、少女たちは叫びました。急激に腕の抵抗感がなくなって、身体が眠りの中へ深く沈んでいくような感覚がありました。
 そして強い光が輝き、二人は目がくらんだのです――。


 11月 9日△ 


[議会と選挙 〜ルデリアの場合〜]

 現在、ルデリア世界に存在する国家の体制は、そのほとんどが君主制である。共和制の国家も現れてはいるが民主的にはほど遠く、一部の特権階級の者によって議会が構成される。

【ポシミア連邦共和国】
 先進的な自治都市を除き、国家として最初に共和制を採用したのはポシミア連邦である。爵位を持つ貴族を中央議会に集め、互選で国家の代表者を選び、重要な方針を議会で決めるという斬新な制度を取り入れた。ただし爵位や州の数に、旧ガルア帝国領南ガルアを優遇する問題があり、共同して国家を起こした旧マホジール帝国領フレイド公国、およびシャワラット侯国には不満が募り、結果的には内戦を引き起こす原因となった。

【ラット連合国】
 内戦で勝利した旧マホジール帝国領フレイド公国、およびシャワラット侯国はポシミア連邦から独立を果たす。制度は基本的にポシミア連邦時代のものを踏襲、若干の改良を加えている。

【南ルデリア共和国】
 大商人で、マホジール帝国の大臣を務めたズィートスン氏が強力な政治力で成立させた新興国家である。議会を持ち、商人ギルドの代表者で構成されている。各出身地による派閥があるとされるが、議員はズィートスン氏に有利なように選ばれており、国家運営における同氏のワンマンな面が目立っている。

【自由都市リズリー】
 例外的な一国二制度として落ち着いたのが、メラロール王国の自由都市リズリーである。各種ギルドの代表者によって構成された議会が、予算案や規制などを決定する。ギルドの参加者の男性であれば、誰でも選挙権を持つのが特徴で、平民であってもギルドで出世すれば町の運営に関われる可能性がある。
 


 11月 8日△ 


[青空を仕入れちゃう?(番外編)(2/3)]

(前回)

「ねー、おやっさん。最近、なんかいい商品、入ってない?」
 のんびりした、あまり興味のなさそうな口調とは裏腹に――サホの眼光は鋭く細められ、あまたの商品の上を素早く走っていた。いきなり本題に迫るのではなく、少しずつ互いに手の内を明かしてゆくのがウエスタリア地域流の交渉の楽しさである。
「いい商品って、例えばどういうのだよ?」
 ガイレフの方も、頭の中で色々と作戦を練りながら若いサホに探りを入れる。ただ、その表情は相変わらず穏やかであった。
「そうねぇ……例えば、装飾品とか」
 サホは鏡だけを求めて買いに来たわけではない。天井の高いところから吊してある鞘入りの剣から、壁に掛けられた古い油絵、重ねられた埃っぽい辞書、東洋エルヴィール風の陶器ややけに大きなグラスなど、およそ役に立たないガラクタで、しかも〈骨董品〉として扱えそうな部類の品に視線を這わせていた。
「自分のために買ってるんじゃないだろうなァ?」
 返す雑貨屋の店主はまだまだ余裕の表情で軽口を叩いた。
 出来るだけ高く売りたいガイレフが守りだとすれば、サホは果敢に切り込む攻め手だ。得意の話術と愛嬌を最大限に活かし、冗談にも気前良く乗って、相手方の気分をほぐそうと試みる。
「まぁー、いいのが有れば、自分で使っちゃうつもりだけどね」
「そうだなぁ……」
 ガイレフの声はやや真剣みを帯びてきた。挨拶代わりの応酬が一段落して、いよいよ本題に移ってゆく。彼は店の奥を離れると、小太りの身体を器用に動かし、狭い通路を歩き始めた。
 サホはサホで独自の選定眼を発揮し、骨董屋に置けそうな商品を物色していたが、しばらくほったらかしだったリュナンの様子が気になって一度表に出る。降り注ぐ夕陽の粉がまぶしい。
「どう、ねむ。なんか収穫はあった?」

「サホっち」
 ほっそりした膝に手を置き、何かに魅せられたように覗き込んでいたリュナンはおもむろに顔を上げた。普段は白っぽい頬に紅が差していたのは、赤い光を浴びたせいだけではあるまい。
「それ、欲しいの?」
 何気なくサホが訊ねると、親友はしっかりとうなずくのだった。

(続く?)
 


 11月 7日− 


[雲のかなた、波のはるか(15)]

(前回)

 二人が登ってきた尖塔の階段の出口付近に、サンゴーンの落とした黒いこうもり傘が逆さまになって転がり、強い風の切れ端を受けて微かに動いていた。逆さまになって烏(からす)のように膨らむ傘は、まさに〈空の船〉という異名に相応しかった。
 行動派のレフキルはただちに、傘を拾いに小走りする。他方、草木の神者を務めるサンゴーンはしばしの感慨に浸っていた。天から降り注ぐ雨を避けるための傘が雲の上で宙返りし、空翔る海の河に浮かぶ帆船となる――その新鮮さに魅せられて。

「さあ、追いついた!」
 レフキルは得意の素早い動きで体勢を低くし、腕を伸ばして傘の柄を取り、しっかりと握りしめた。木の感触が心地良く、触れた先から優しく偉大な力が速やかに流れ込んでくるようだ。
 塔を巻く河の轟音は続き、潮の香りは嗅覚を刺激する。雲がほとんど無いので気温は高く、暑いけれどもカラっとしている。湿気と雨雲に覆われていた下界のイラッサ町とは正反対だ。

「あれ、これ閉まらないよ?」
 妖精の血を引く耳の長い少女は試しにこうもり傘を閉じようと試行錯誤していたが、膨らんだまま鉄のように固まっていた。
 夢から醒めきらず、その様子をおぼろげな眼差しで眺めていたサンゴーンは、不意に頭の中へ響いてくる声を再び聞いた。
『おぬしは行かないのか? 十年に一度の機会じゃぞ』
「十年?」
 遠くから届けられた老婆の言葉を聞いたとたん、サンゴーンは敏感に反応し、一瞬のうちに意識は高まっていた。どこまでも続く澄んだ蒼天を仰ぎながら、渇望の瞳を瞬きさせて訊ねる。
 草木の神者の脳裏をよぎるのは、亡くなった祖母の声――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

『……今は無理じゃろが、大きくなったら、行ってみるといい』
『ああ。サンゴーンなら、きっと行けるじゃろう』
『行けるさ。あと十年経てば、な……』

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 彼女は今や、手がかりを得るための細い糸に必死でしがみついていた。期待と不安が交錯する中、祈るように問いかける。
「十年、ですの?」

 結果として、焦ることも回りくどく訊ねる必要も全くなかった。
 声だけしか消えない謎の老婆は、サンゴーンが久しぶりに聞く、最も尊敬する人の消息を気軽な口調で教えてくれたのだ。
『お前さんの祖母も、来たことがあるぞ』
「え、あの、サンローンおばあさま……が?」
 喋り終える前に、若き神者の瞳は潤み、言葉は震えていた。十年前の祖母の予言は現実のものになろうとしている。ただ、それはサンゴーンがまっすぐに育ってきたという証でもあった。
 相手の返事はなかったが、彼女は気づいていた。風を通して伝えられた雰囲気に否定の翳りは微塵も感じられないことを。

「サンゴーン! どうしたの?」
 どうやらレフキルに老婆の発言は届かなかったらしい。空気を孕んだ黒い傘を重たそうにかかえ、サンゴーンの方を心配そうに見ている。尖塔の見晴台――空の湊には緊張感が充ちた。
『傘の皮は破れない。またのちほど会おう』
 老婆の声が頭を掠めつつ、意識の果てに遠ざかってゆく。サンゴーンは手の甲で頬の涙と青い瞳をこすり、顔をもたげた。
「ありがとう、大丈夫ですの。さあ、レフキル、出航ですわ!」


 11月 6日× 


オーヴェル嬢の手記より]

◎無限なるもの
 時間、世界、(雨と雪?)、歴史→時間

◎限りがあるもの
 食料、服、お金、国家、森の木々、鳥、花、生き物の命、
 人間関係、一日に出来ること、私に出来ること

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

【無限】
・時間の流れは長い。限りなく永遠に近いのではないか?
・世界は広い(と思う)。涯てはあるのだろうか。

【有限】
・限りのあるものはとても多く、挙げればきりがない。
・その中でも極めつけに有限なのは、この『私』だろう。
・私に出来ること。私の行ける場所。私に与えられた時間。


 ……私は、ものさし?
 ナイフとフォークとお皿?→ケーキを切り取って……


 無限と同義である時間の流れ、あるいは世界の広さも、私という有限のものさしで測ると、とたんに無限性・永続性を失う。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 食料やお金は数えられる。木々の数だって、花や人だって。

 でも――「私に出来ること」は、限りがあるのに、測れない。
 限界はあるはず。でも、可能性ならば無限にある。
 選ぶのは私。

 私は一人。みんな一人ずつ。
 けれども、決して私の心は測れない。

 私の小さな身体の中にあるのに、身体よりも膨らんでいる。
 とても不思議なことだと、改めて考える。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 私は色々なものを測る《ものさし》。
 だけど私の心を測れる《ものさし》はない。

 私は有限、だけど私は世界の向こうや時間の彼方を思う。
 無限のものを凌駕して、私は無限よりも無限になれる。

 私が生きている限りにおいて、その可能性に限りはない。

【結論】
 だから私は、最後まで諦めず、前に進んでいこう。
 


 11月 5日− 


[秋の味覚(6)]

(前回)

 段ボールを開き、店主が中身を持ち上げる。少しずつ半透明の姿を現したのは、長年使っていると思われる古びた形式のミキサーだった。ケースに野菜や果物を入れ、ふたを閉めて電源を入れると、磨り潰してミックスジュースを作る、例の機械だ。
 その簡素な細長い商売道具を丁寧な動作でカウンターの内側にある棚に下ろし、ひげの男は誇らしげに笑みを浮かべる。
「これだよ、これです」

 僕は多少の興味をそそられ、頬杖をついた。長い間、大切に使われてきたのだろう、何の変哲もないミキサーを見下ろす。
 薄いベージュの台の上部に、ジョッキに似た容器が座っている。電源と、磨り潰す強さを示すボタンが三つほど並んでいる。
「秋の新鮮な味覚ですか。楽しみだな」
 どんな品物をどれだけ使うのだろう。この地方で穫れたばかりのフルーツが出てくるのか、どこにも売っていない独自の健康的な飲み物を味わわせてくれるのだろうか。材料が用意されていないので、僕は想像力を逞しくし、考えるしか術がなかった。

 そういう訳で、しばらく僕は両眼をしばたたき、徹底的にミキサーを検分していた。しかしながらフライパンや鍋を見て出来上がる料理を当てるのが困難なのと同じように、トマトやニンジン、ピーマンなどが頭を掠めたけれど、そのどれも確証がなかった。
 男はコードを伸ばしてコンセントに繋いだり、段ボールを部屋の脇に片づけたりしている。他方、妻はゆっくりと歩き出した。
「奥からグラスを取ってきます」
 そして彼女は去り際に一つの不可解な言葉を残していった。
「……今日は、カゼの具合も良いようですし」

「え、風邪を引かれてるんですか?」
 厨房に消えた初老の女性の後ろ姿を目で追い、それから僕はそばにいる店長に訊ねた。彼が感冒にかかっているのか、もしくは婦人の方が体調を崩しているのか。咳や鼻づまりは皆無で、顔色も声も普通――二人とも元気そうなので意外だった。
 ところが相手の返事はひどく漠然として、妙な印象を受けた。
「んー、まあね。そのうち分かるよ」
「はあ。そうですか」
 僕はキツネにつままれたような気分になる。親切に種明かしを先送りしてくれたのかも知れないが、しょせん余所から来た旅人なのだと、彼らとの乖離に今さらながら気づく瞬間でもある。

 僅かに雰囲気がしらけかかったが、足音と食器が触れる響きが聞こえ、婦人が帰ってくる。透明なグラスを三点、丸い盆に載せて、にこやかに登場した。いよいよ次は材料のお披露目に違いない。僕は、婦人か店主が厨房に向かうのを期待していた。
 しかし彼らは動くどころか、スイッチを入れてミキサーの試運転を始める。店の中に、機械のモーター音が快く流れ出した。

 やがて僕は半信半疑で眉を寄せ、息を飲み、目を見張る。そうせずにはいられない神秘的な現象が展開されていたのだ。


 11月 4日× 


[晩秋]

 季節そのものが、あかあかと燃える十一番目の月

 夕陽を浴びて、あらゆるものが頬を染める

 光は和らぎ、人は服を重ね、木々は衣を落とし

 朽ちた葉は風に乗って、茶色の絨毯を敷き詰める

 吐息とぬくもりの交錯――闇夜の星は高く冴え渡り

 燃え尽きた目に見えぬ灰が、遠からぬ粉雪になる
 


 11月 3日− 


[また逢える日まで(後編)]

(前回)

「はい。分かるんですけど、頭では分かるんですけど……」
 ナミリアは悔しそうに言った。突然、親友の優等生のリンローナが学院を休学し、彼女の父親の船長が統べる昨日の貿易船で、姉とともに北国のメラロールに旅立ったこと。本人さえも〈ぜんぜん考えてなかったけど、今はそうしたいと思っている〉と語ったように、楽しい日々の終止符があまりにも急に終わってしまったこと。それはナミリアにとって哀しくはあったけれど、むしろ〈一番の友が不在である〉という淋しさや、一緒にいた時間をもっと大切すれば良かったという悔しさの方が断然大きかった。

「また逢える日は、来ます」
 だからこそリナが言った単純な言葉は、複雑に錯綜していたナミリアの胸を雷のように打ち、心の奥を震わせたのだった。
 彼女は思わず足を止めて、相手の顔を見る。栗色の瞳が見る見るうちに湿り、膨らみ、頬を伝った。昨日、友を明るく送り出した時にも流れなかった熱い涙が、健康的な肌を濡らしてゆく。
「そうですよね、先輩。先輩の言う通りだと、あたし思います」
 涙混じりの震える声で、精一杯、ナミリアは応えた。彼女という人格の深い場所で、今まさに、何かのつぼみが出来上がろうとしていた。長い間、大切にしてゆくことになる願いや目標――と言い換えられるかも知れない。涙の河は既に止まっている。
「そうだよ、あんなに元気に送り出したんだもん。これから大変なのはリンローナの方ですもんね、あたしがヘコんでちゃ……」

 リナも立ち止まっていた。寡黙な先輩の無表情だった瞳は強い光を放ち、言葉も湧き水のごとく、不思議なほど溢れてくる。
「時々懐かしむのは、いいと思う。私で良ければ……いつでも話をしに来て下さい。でも、決して後ろ向きにはならないでね」
「ありがとうございます、リナ先輩!」
 町行く人々の好奇の視線を気にせず、ナミリアは制服の袖で両眼を大雑把に拭き、励ましてくれた相手に礼を言って頭を下げる。そして彼女は小さな鞄を力いっぱい持ち上げると、反対の手をリナに振りながら、通りを思いきり駆け出すのだった。
「また話に行きます。私の家、こっちなんで。さよなら、先輩!」
「さよなら」
 リナが胸の前で軽く右手を振った時、ちょうどナミリアの白い制服が曲がり角の向こうに消えるところだった。嵐は去った。

 先輩は自分のペースで歩き出しながら、聞こえぬ声で呟く。
「わたしの家も、そっちだったのだけれど……」
 角を曲がると午後の西日がまぶしい。石畳の道を革靴の裏で鳴らし、明日の部活動のことを考えながら、リナはふと考える。
(リンローナという魔法は、いなくなっても、まだ私たちに効果が残っているみたい。きっと、この魔法は、まだまだ続いていく)
 家々の向こうに海が見えてきた。たくさんの帆船が浮かんでいる。あの海は隔てるものではない、北国とここを繋ぐものだ。

「また逢える日まで」
 リナは声に出して言った。彼女の中にも新しい何かが生まれようとしている。蒼い瞳はまぶしそうに、空と海とを映していた。

(おわり)
 


 11月 2日○ 


[弔いの契り(27)]

(前回) (初回)

「何だ、そりゃ」
 無意味な発言と気づいていても何か言わずにいられねえ。そうしないと魂の根底まで揺さぶられそうな望月の夜、不気味な物語の蟻地獄を掻き分けて現実と繋がる唯一の綱が、俺にとっては〈喋る〉、そしてその声を自分の耳で確かめる事だった。
「十二人の純潔な乙女が揃い、月満ち、闇の命が誕生すると」
 タックはフォルの言葉を繰り返し、得意の〈論理的思考〉とやらを駆使して吟味する。これで真相が分かれば大したもんだぜ。
「怖くて、最初、僕はその出来事を忘れてしまおうとした。でも黙っていると頭が割れそうで、サーシャが心配で……ある日、姉が出かけている時、お父さんとお母さんに相談したんです」
 強い憤りと怖れの意志をほとばしらせ、小さく首を振りながら途切れ途切れに呟くことしかできなかったのは、言うまでもなく農家の息子、十三歳のフォルだ。まあ俺でも、同じ出来事に立ち会ったら信頼できて口の堅い誰か――おおむねタックに相談するだろうな。そのことで命を付け狙われることになってさえ。

「僕らは話し合いを繰り返しました。最初は僕の話を〈夢じゃないか〉と半信半疑だった両親や兄たちも、次の満月の晩、サーシャの赤い眼を見て訳の分からない説明を聞くと覚悟を決めました。みんなで途中まで跡をつけると、姉は男爵の屋敷のある坂道を登っていきました。次の朝、僕らは正装して、姉を置いて、家族総出で男爵のお屋敷に真相を訊ねに行ったんです」
 フォルはとつとつと、出来るだけ時系列に並べながら、可能な限り分かりやすく簡潔に語った。思いは言葉よりも速く溢れだしてくるようで、勢いのついたやつの話はしばらく休まず続いた。
 唾を飲み込み、一呼吸してから、フォルはさらに言葉を継ぐ。
「僕らはこの村の領主の男爵をまだ信じていましたから、問いつめるというよりも本当のことが知りたかった。その時には近所の農家の人たちにも話して、何人か一緒に来てもらいました」
 そこまで喋ると、影法師のフォルは肩を落とした。その日の出来事がよほど堪えたのだろう、思い出したくもない様子だった。

「ん?」
 にわかに辺りの様子が変わった。ぼんやり浮かぶ草の影が暗く沈み、俺は素早く辺りの様子を伺う。注意して屋敷の壁際を確認しても特に人の気配があるわけでもなく、何気なく空を見上げ――そして納得し、俺は神経質になっていた自分自身を反省する。雲隠れした妖しの満月が再び顔を出すところだった。
 肌寒い秋の夜長は峠さえ跨いでいない。頭や肩にのしかかって押しつける闇は重量を持ち、粉雪のように音なく降り積もる。

「男爵側は正直に応えてくれたのですか?」
 農家の息子の話が一段落したと判断した悪友は、俺も気になっていた当然の疑問を呟き、先を促す。時は常に経過する――この間、ダンスホールに残されたリンやルーグ、シェリアに良くないことが起こっているかも知れねえ。仲間を心配して焦り始めると、不気味な事件に対するさっきまでの恐怖も薄らいでくる。
「あの……」
 フォルは何故か口調を弱めて、うつむきがちに言う。その態度が、最初の頃みたいに後ろめたい感じだったのが気になった。
 違和感はすぐに現実となる。やつは突然、言い訳したんだ。
「どうか許して下さい。僕たちは、こうするしか仕方がなかった」


 11月 1日○ 


[また逢える日まで(前編)]

「はぁ……」
 少女は立ち止まり、通りの磨り減った石畳を見ながら溜め息をつく。それからやや顔を上げて歩き出すが、表情は冴えなかった。視線は定まらず、もうここには存在しないものを見ているかのように茫然とし、誰から見ても明白に意識が飛んでいた。
 彼女の背景には、石造りの円柱で支えられた世界に冠たるモニモニ町の学院が誇らしげにそびえ立っている。十代半ばくらいの少女は白を基調とした聖術科の清楚な制服を着ていたが、胸元のリボンの結び方まで、どこかしら荒んでいるようだ。
「ほんとに、行っちゃったんだよね」
 晴れた青空の放課後、西に傾いた陽の光を浴びながら学院を後にして帰宅する生徒の姿は多いが、彼女はその光景を見たくないかのように目を逸らした。わずかに潮の薫りを含んだ風が洗練されたデザインのロングスカートの裾を揺らしたが、それさえも懐かしい想い出をほじくり返し、喪失感は深まる。栗色の髪は辛うじて整えられていたが、同じ彩りの瞳はうつろで、眼の周りにはうっすらと隈ができていた。緩やかな下り坂なのに足取りは重く、本来は元気に動いていたはずの腕も上がらない。
 ふと横を見ても懐かしい笑顔はなく、淋しさはつのるばかり。
(女に友情はないって言われるけどね、あたしたちは男と同じ、変な意味のないれっきとした友情を築いたと思えるのに……)

 そのような状態であったため、
「ナミリア、さん」
 と後ろから女性に呼ばれた時、当のナミリア・エレフィンが気づく可能性は皆無に近かった。しかも呼びかけた側の女性の声が小さく、聞き取りにくかったため、二重の意味で困難だった。

「きゃっ!」
 ナミリアはつまづいて、前のめりに派手に倒れる。あのように気が散っていては、残念ながら時間の問題だったといえよう。
「痛ーっ」
 左膝と右手を少しすりむき、本来の意識を少し取り戻す――手をついて立ち上がった彼女の前に、同じ制服を着た少女がいた。長い金髪をなびかせ、相手はほっそりした腕を差し出す。
「つかまって」
「あ、ありがとう……ございます、リナ先輩
 相手が目上であり、しかも顔見知りであることを思い出したナミリアは、ぎくしゃくしつつも出来るだけ丁寧な言葉遣いで応じた。すぐにリナの手を借りようとしたが、逆に相手がよろけて倒れそうになったため、慌てて自分の力で身を起こし起立する。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「……」
 二人の周りでは革靴の足音だけが響き、商店の威勢のいい掛け声や子供たちのざわめきからナミリアとリナだけが浮いているようだった。普段から極端に口数が少なく、話が不得手なリナは上手く切り出すことが出来ず、ナミリアも自分の世界に閉じこもってしまう。しばらく二人は黙ったまま通りを歩いていた。

 たった一言を囁き声で呟くだけでも多大なる勇気を振り絞り、十七歳のリナ・シグリアは、優しく後輩に語りかけるのだった。
「昨日の今日だから、仕方ない……かも知れないけれど」
 ナミリアは足元を見ながら、沈んだ表情のまま聞いている。
 他方、リナは少しためらってから、冷静に言い切るのだった。
「リンローナは、そんな貴女を望んでいないと思います」






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