[天音ヶ森の鳥籠(33)]
(前回)
それからしばらくは、峠がいよいよ終わりに近づいてきたこともあり、三人は黙って歩を進めた。坂は登りだけでなく、すでに緩やかな下りも現れていた。そよぐ空気は涼しいのに、額や背中を蒸れた汗が流れる。普段の荷物を背負っていたら余計に大変だったろうが、ルーグとタックの待つ川辺に置いてある。
三人の靴音は、いつしか似通ったリズムになっていた。シェリアは背の低い妹を気遣い、いくらか歩幅を狭くしていたからだ。
「ふう、ふう……」
小さな坂を越えたところで、それに気づいたリンローナは疲れた頬を緩めた。光の珠を巧みに操りながら進んでいく姉は何も言わなかったので、リンローナも敢えて口には出さなかった。
昼はもっと楽に感じたし、あの時は往路だったが、暗くて先が見えないと距離感が失われる。目印もなく、しかも帰り道だ。
道はしばらく平らになっていたが、今度は坂を下り始める。
「峠は越えたみたいだな!」
最後尾をゆくケレンスが声を張り上げ、女性陣を元気づけた。山下りで軽くなったのは足取りだけでなく、心の中まで――。
「祭り、明日なのよね?」
何度か唇を開いてから、ついに声を出したのは先頭をゆくシェリアだった。話しているうちにだいぶ気が楽になってきたのか、最後はほとんど普段通りのどこか醒めたような口調で訊いた。
「そっかぁ……明日は村の夏祭りだよね」
歩きながらリンローナが相づちを打つ。滑らかで速やかな夜風が汗を冷やして流れ去る。山奥の夏の夜は過ごしやすい。
「まー、今日はどっちみち、森に泊まりだな!」
後ろからケレンスが大声で話しかける。疲れてはいたが、彼は明るく言い放った。あと少しで〈別働隊のリーダーから解放される〉という感覚が、彼に元気を与えていたのかも知れない。
順調に歩いていたシェリアだったが、坂の中腹でしだいに歩みを遅めて立ち止まってしまう。彼女は後ろ髪を引かれるような仕草で、戸惑いながら振り返った。リンローナが首をかしげる。
「どうしたの?」
「一晩くらいなら、いいのかも知れないわね。終わればちゃんと帰してくれるわけだし……求められるのは、唄うことだけだし」
他方、シェリアはもう向こうの山の陰に隠れてしまった〈天音ヶ森〉を名残惜しそうに振り返って、ぽつりと独り言を洩らした。
ふくろうの低い声は、老人が笑っているかのように聞こえる。木々の梢の向こうには空があり、星のきらめきが垣間見える。
「何の話だ?」
相手の喋った内容が少し聞こえたので、ケレンスも訊ねる。
「聞いてたの?」
魔術師は指先から魔力を送って、まばゆい光の珠を戯れに回転させながら、不思議そうに問い返し、相手の質問に応えた。
「天音が森の、鳥になってもいいかな、って言ったのよ」
いくぶん弱まった白い球――シェリアの疲労によるのだろう――がゆっくり回り出すと、三人の若者の影はゆらめくのだった。
わずかの間ののちに。
「はぁ? 正気かよ」
口をゆがめ、心底あきれて叫んだのはケレンスだった。しかしシェリアはごく真面目な様子で、自らの意志を語るのだった。
「鳥の姿に変えたりするんじゃなくて、人間の歌い手として呼ばれるんなら、森の夏祭りに参加してみてもいいと思う。どこか憎めないやつらだったし。ケレンスにも会わせてあげたかったわ」
その瞳は細められ、視線は遠く、懐かしそうに緩んでいた。
「ほー。俺は御免だね、魔法は分からねえしさ」
肩をすくめた剣術士のケレンスとは対照的に、シェリアの妹のリンローナは微笑みを浮かべ、好奇心を膨らませてつぶやく。
「あたしは、ちょっとだけ会ってみたいなぁ。精霊さんたちに」
「けっこう懲らしめたわけだし。案外、怖がられたりして」
シェリアは何か悪戯を思いついた少女のように、湧き上がってくる〈楽しさの渦〉をこらえていた。リンローナも素直に応じる。
「ふふっ、そうかもね~」
「うへぇ、付き合いきれねえや……」
その言葉とは裏腹に、ケレンスは見えなくなった〈天音ヶ森〉の方にまなざしを送りつつ、闇に沈む金の前髪を掻き上げた。
~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~
天音ヶ森(あまねがもり)の精霊は
素敵な唄がとってもお好き
気に入られちゃあ かなわない
澄んだ声には気を付けな
夜風を浴びて 広場を囲み
小鳥となって夏祭り――ったら夏祭り
~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~
森が尽きて視界が晴れ、真っ暗な河の畔にルーグとタックが待っているらしい小さな焚き火が見えた。香ばしい煙が届く。
「ねえ、あれは?」
リンローナが思わず弾む声をあげると、前のシェリアが言う。
「着いたわね」
すかさずリンローナは姉の横に駆け寄り、一つ提案をした。
「歌で知らせてあげようよ、お姉ちゃん」
「そうね」
淀みない口調で、軽く胸を張り、シェリアは堂々と承諾する。
ケレンスはもはや何も言わず、軽く口元を緩めただけだった。
明るい魔法の珠が、仲間の待つ河へ続く道を照らし出す。
「知らない、街まで~」
姉妹の声が重なって響き、しだいに大きくなる河の音に混じってゆく。向こうで黒い人影が立ち上がるのがはっきりと分かる。
三人は足元に気をつけて、最後の下り坂に取りかかった。
(おわり)
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